後宮を揺るがした大事件から数か月。
玄宵の正式な妻として迎えられた陽和の日常は、下女のときとは比べものにならないほど甘く、過保護な愛に満ち溢れていた。
「玄宵さま、さすがにこれはやりすぎでは……」
かつては“囮の檻”と呼ばれていた離れの一室で、陽和は頭を抱えていた。
今彼女の目の前には、宮中随一の料理人たちが腕を振るった豪勢な料理がずらりと並んでいる。それだけでも恐れ多いというのに、私服の黒装束を纏った玄宵が自ら箸を手にして陽和の口元へ料理を運ぼうとしているからだ。
「なにがやりすぎだというのだ。お前は下女として苛まれ、やせ細っていた。囮として冷たく接していたときの分も含め、俺の目の前でたっぷりと栄養を摂ってもらう」
「そんな……。もうとっくに元通りどころか、着物がきつくなりそうなくらいです。それに陰陽頭さまご自ら私の口に料理を運ぶなんて、待女たち見られでもしたらどうするのですか」
陽和は慌てて顔を背けようとしたが、玄宵は逃がさないと言わんばかりに彼女の顎を軽く指で捉えた。間近に迫る黒磁の瞳には、愛おしさと底知れない独占欲がゆらゆらと揺れている。
「問題ない。今夜この離れには、俺以外の人間が一切近づけないよう、三重の結界を張ってある」
玄宵はそう言って意地悪く微笑むと、逃げようとする陽和の腰を空いた手で抱き寄せ、彼女の唇へと箸を寄せた。
「さあ、口を開けろ。それとも、俺の唇で直接食べさせてほしいか?」
「な、なんてことを!? 食べます! 食べますから……」
観念した陽和は顔を真っ赤にして口を開けた。すると出汁の効いた優しい味が口いっぱいに広がり、その顔をほころばせた。それを見届けた玄宵は満足そうに目を細め、陽和の頬を柔らかく包み込んだ。
「良い子だ。お前が美味しそうに食べる姿を見るのが、今の俺の一番の癒しだからな」
冷徹無比で誰からも恐れられていたあの玄宵が、妻の前だけ見せる甘い素顔。宮中の者が目撃すれば気絶しかねない光景だったが、今のふたりにとってはこれが愛おしい日常となっていた。
昼間、陽和が久しぶりに宮中の渡り廊下を散策していると、すれ違うお妃や待女たちが丁寧におじぎをして道を譲ってきた。囮だったころ汚水をぶちまけたり陰口を叩いていた者たちは処分されるか、玄宵の冷酷な一瞥に怯え姿を消していたからだ。
「陽和さま、本日も本当にお美しくあられますこと」
「陰陽頭さまが妻に冷たい風を当てるなと、廊下の羽目板まで新調なさったようですわ」
待女たちのそんな噂話が耳に入り、陽和は気恥ずかしさに顔を覆い隠す。
玄宵の溺愛ぶりは、すでに宮中全体に知れ渡っていたのだ。
執務中であっても陽和の体調や様子を案じ、頻繁に式神を飛ばして様子を確認。彼女が少しでも咳き込めば、すぐさま帰ってくるという徹底ぶり。
(玄宵さまったら……。子どものころから一度決めると真っすぐな人だったけれど、まさかここまで過保護になるなんて……)
陽和は呆れつつも彼の深い愛情が伝わってきて、胸の奥に甘い痺れが走るのを感じていた。
そして夜になり──。
離れでの食事も終わり静まり返ったふたりだけの部屋で、玄宵は陽和を後ろからすっぽりと抱きしめていた。耳元に触れる玄宵の髪と、懐かしい白檀の香り。背中越しに伝わってくる彼の体温が、陽和を心地よく包み込んでいく。
「……陽和」
「はい……?」
「明日から数日の間、帝の御前での清め式のため宮を空ける。だが、お前をひとりにしていくのが、たまらなく嫌なのだ」
玄宵は陽和の首筋に顔をうずめ、子どもように甘えた声を漏らした。あの冷徹な陰陽頭が、妻と離れることすら惜しみ焦れている。
「たった数日のことではありませんか。私はこの離れで玄宵さまのお帰りを、お行儀よく待っていますよ」
陽和はなだめるようにその袖を引くが、玄宵は納得がいかない様子で彼女の腰をさらに強く引き寄せた。少しでも目を離した隙にどこかに消えてしまいかねないと、本気で危惧しているかのような必死さだ。
「だめだ。離れている間に、また変な奴らがお前に近づいたらどうする。やはり式神を十体ほどお前の護衛に残し、離れの周りにもう一段強力な結界を……」
大真面目に過剰な防衛を重ねようとする玄宵に、陽和は呆れ半分、嬉しさ半分。思わず彼の胸をポンと叩いた。
「玄宵さま、過保護がすぎます」
陽和がくすくす笑うと玄宵は少し不機嫌そうにし、彼女の身体をくるりと自分のほうへと向けた。至近距離で覗き込んできた瞳には、隠し切れない情熱の炎が揺らめいている。
「過保護で構わん。俺は一生をかけてお前を甘やかすと誓った。それに……離れている間、俺がどれだけお前に飢えるかわかっているのか?」
「それは、あっ……」
陽和の反論を遮るように、玄宵の唇が重なった。先ほどまでの甘やかな空気が一転するような、奪い去るような深く熱い口づけ。陽和が胸元を掴むと玄宵はそれを解いて指を絡ませ、まるで朱い糸で結ぶかのように固く握りしめた。
「何度でも言う。もう二度とお前を離さない。どんな災厄がお前を狙ってきても、俺がすべて焼き払う。だからずっと、俺の腕の中にいろ」
「はい、玄宵さま。私もずっと、あなたと一緒にいます……」
息を弾ませながら陽和が微笑むと、玄宵の瞳に絶大な愛おしさが溢れ出る。玄宵はまるで壊れ物を扱うかのように陽和そっと抱き上げると、静かに帳の奥へと運んでいく。
幼い頃に離れ離れになったふたりの朱い糸は、もう誰にも切ることはできない──。
(完)

