後宮の冷徹陰陽師と朱き花嫁

 玄宵は長い脚で距離を詰めると、陽和の肩を強引に引き寄せた。
「きゃっ……!」
 視界がぐらりと揺れ、気づけば陽和の身体は玄宵の胸の中に強く抱きすくめられていた。耳元で響く、彼の荒い息遣い。狩衣越しに伝わってくる、ドクドクと狂ったように波打つ激しい鼓動。
「玄宵さま、苦しい……っ、離して……」
「うるさい、黙れ! 離すものか! 離すわけがないだろう!」
 陽和の背中に回された彼の腕に、痛いほどの力が込められる。まるで少しでも力を緩めれば、陽和がそのまま消えてしまうのではと恐れているかのように。
「私情を挟むなと言ったのは……お前を守るために、お前を遠ざけたかったからだ! なのに、なぜお前はいつも自分を犠牲にしようとする! なぜひとりで、毒を飲もうとするのだ!」
 感情をむき出しにした玄宵の声が、悲痛に揺れている。
 絶対零度の陰陽頭という冷たい仮面の裏側に隠されていたのは、狂おしいほどの情愛と、陽和を再び失うことへの絶望的な恐怖だった。
「一歩間違えれば、お前はあの場で霊力を破壊され、命を落としていたのだぞ。お前が傷つくくらいなら……お前を失うくらいなら、こんな後宮、俺の手で今すぐ焼き払ったほうがマシだ!」
 玄宵の震える口から吐き出された言葉は、あまりにも不器用で激しすぎる本音。冷徹な仮面は完全に砕け散り、そこにいたのは陽和を失うことをずっと恐れていた幼いころの桐壷──その人だった。
「……桐壷さま」
 幼い頃の名で呼ばれ、玄宵の身体がピクリと跳ねた。
 陽和は玄宵の胸元にそっと顔を埋め、彼の背中に回し入れた両腕にぎゅっと力を込めた。陽和の目から溢れ出た涙が、彼の狩衣を濡らしていく。
「逃げようとしたわけでも、自分を粗末にしたわけでもありません。私は、あなたのお役に立ちたかったのです。あなたがひとりで後宮の闇を背負い、ボロボロになりながら戦っているのを知っていたから……」
「バカ者! 誰のために、お前を囮にしたと思っている! お前を一番安全な俺の手元に置き、同時に後宮の毒を炙り出すためだ! そこでお前が傷ついてしまっては、なんの意味もないだろう……」
 玄宵は陽和の肩を少しだけ押し戻すと、その頬を両手で包み込んだ。覗き込んできた黒磁の瞳には、うっすら涙の膜が張っている。
 かつて怪我をした小鳥を抱きしめて泣いていた幼い少年の面影が、今の玄宵に強く重なった。
「二度と俺の前から消えないと誓え。俺の指示なしに、危ない真似はしないと約束しろ」
 突き放されていたのではない。彼は最初から、命かけで陽和を守ろうとしていたのだ。
「はい……約束いたします。どこにも行きません。ずっと、あなたのお傍にいます、玄宵さま」
 陽和が真っすぐに瞳を見つめ返し微笑むと、玄宵は安堵と抑えきれない情動が混ざり合ったような切ない吐息を漏らした。そのまま吸い寄せられるように彼の顔が近づき、お互いの温かい吐息が重なり合うような至近距離で、玄宵は陽和を再び強く抱きしめた。
「もう誰にも、お前を渡さない。冷血漢のフリをするのも、今日で終わりだ」
 ふたりは互いを見つめ合い、極上の笑顔を交わす。
 冷たい地下牢や離れでのすれ違いを経て、ふたりの間に立ち塞がっていた氷の壁が完全に溶け去った瞬間だった。