後宮の冷徹陰陽師と朱き花嫁

 後宮の深い闇は、昼間の華やかさが嘘のように冷ややかな空気を孕んでいる。
 豪華な朱塗りの柱や美しく磨かれた漆の渡り廊下、気高く咲き誇る牡丹の花壇。昼間は帝の寵愛を競う妃たちの華やかさに満ち溢れているが、丑の刻を回ればその表情は一変する。
 静寂が落ちる夜の後宮の裏手にある古びた石造りの井戸の周囲に、黒い霧が立ち込め始めた。
「……今夜も、また出てきたわね」
 陽和(ひより)の前に広がる闇の中で、どろりとした黒い霧が渦を巻いている。それは日中に後宮の女性たちが吐き出した鬱屈(うっくつ)した嫉妬や怨嗟(えんさ)、陰湿な念などが凝集し形を成した怪異『影憑き』だった。
 無数の歪んだ人間の顔が泥のように動き、宮中の清らかな霊脈を内側から蝕もうと、不快な水音を立てながら長廊下のほうへ這い出ようとしている。
 このまま野放しにすれば、帝や妃たちの身に病をもたらすだろう。
(誰かが気づく前に払わなければ。私の、この手で……)
 気配を消し物陰からその光景を見つめていた陽和はそっと胸元に手を当て、開かずの庭の闇を見据えた。
 没落した実家を助ける術もなく、生きるために身分を隠して後宮の下女となって半年。この広大な敷地の隅々に張り巡らされた異様な空気に、陽和は最初から気づいていた。
 陽和は、ただの下女ではない。
 かつて神聖なる古代の術を司り、歴史の渦に巻き込まれて没落していった浄化の一族──『鳳凰の巫女』の血を引く最後の生き残り。
 そんな陽和には、淀んだ霊気がはっきりと見えてしまうのだ。
 身分を隠し後宮の最下層で生きる道を選んだ陽和だったが、己の内に流れる血の宿命までは捨てることができなかった。
 闇の奥からドロリとした黒い影が這い出して来る。夜の静けさを突いて、またしても低く不快な水音が響いた。
 人をも喰らう、低級の妖だ。
「ここで騒がれたら、他の下女たちに被害が及ぶわ……」
 陽和は足音を殺して井戸の近くまで歩み寄ると、小さく息を吐いてから素早く指先をすっと交差させ印を結んだ。
「朱き炎よ。清浄の風となり、穢れを打ち払い、あるべき姿へ還せ──」
 唇からこぼれ落ちたのは、古代より口伝で受け継がれてきた神聖なる清めの言葉。同時に指先から放たれたひと筋の黄金の輝く朱色の炎が、うねりを上げて燃え広がった。
 それは熱を持たない、ただ穢れだけを焼き尽くす鳳凰の浄化の光。
 朱色の炎が影憑きを包み込むと、怪異は金切り声を上げながら苦悶に身をよじらせ、ジュワジュワと音を立てて黒い霧が消滅していく。
 陽和の髪が激しい神気で舞い上がり、その瞳が鳳凰の輝きを宿して朱く煌めいた。
「ふう……なんとか退治できた」
 安堵して胸をなでおろした、その刹那。