君を見つめて、六年経った。

1、隣にいる人

 都心へ向かう電車の車内。

 朝の通勤通学ラッシュを僅かに過ぎた時間帯であっても、車内は依然として吊り革や手すりを奪い合う人々の熱気に包まれていた。

 その隙間に、頭ひとつ抜けたすらりとした高い背丈の持ち主がいた。健康的で大柄な体格に明るく人懐っこい印象の整った顔立ち——高(たか)橋(はし)遥(はる)陽(ひ)は、身を屈めるとすぐ隣にいる小柄な人影の顔を覗き込んだ。

 視線の先にいるのは、透き通るようなプラチナブロンドのショートヘアに、淡いアイスブルーの瞳を持ち、細いフレームの眼鏡をかけた一(いち)ノ(の)瀬(せ)蒼(あお)。

 男性であるにもかかわらず、イギリス人の母親譲りの美貌とキメの細かい白い肌を持ち、その華奢な体格もあって、蒼は昔から何処にいても目立っていた。

 実際、先程から向かい側の若い男性がちらちらと蒼に視線を寄越し、その隣の女性も一度蒼を見たあと、もう一度確かめるように目を向けている。

 しかし当の本人は視線にまるで気付いていない。いや、気にしていない。いつものことだ。高校でも、大学でも、蒼は昔からこうだった。

 何処にいても目を引くくせに、自分が見られていることには驚くほど鈍感で無頓着なのだ。

 遥陽は小さく息を吐くと、周囲の視線から蒼を隠すように、ほんの少しだけ身体の位置をずらした。



「蒼、眠そうじゃん」
「……ん……。別に、そんなことないし……」

 蒼はそう言いながら、眠たげにとろんと長いまつ毛を瞬かせた。どうせ昨日も遅くまで課題か趣味の読書に没頭していたのだろう。

 その無防備で可憐な蒼の表情に遥陽の胸がぐっと締め付けられる。誰に対しても明るく軽く振る舞える遥陽が、蒼の前でだけは自分を保つので精一杯になってしまう。

 高校の入学式で蒼に一目惚れしてから、今年で六年目。高校二年で同じクラスになり、親友になって同じ大学に入学し、別学部の三回生になった今でも、こうして時間さえ合えば毎日のように一緒に登校している。

 遥陽は蒼を覗き込んだまま、いつものチャラい調子で『お前、朝弱いくせに夜更かししすぎ』などと笑って見せるものの、蒼を見つめる熱い視線はどうしても隠し切れない。


 その時、ガタッと激しい音を立てて電車が大きく揺れた。線路のカーブに差し掛かり、立っていた乗客たちが一斉に体勢を崩す。

「わっ……!」

 足元をすくわれかけた蒼の小柄な身体が、ふわりと宙に浮くように傾く。

「……っと」

 遥陽は考えるよりも先に蒼の細い腰に手を伸ばすと、自分の身体へと力強く引き寄せた。

 トン、と軽い衝撃と共に、蒼の華奢な身体が遥陽の身体にぴったりと収まる。

「…………」

 遥陽の耳元から、車内の雑音が一瞬で遠のいた。

 抱き寄せた身体からダイレクトに伝わってくる、蒼の体温と細い腰のライン。そしてシャンプーの香り。

 遥陽の心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち始める。

 蒼が驚いたようにアイスブルーの瞳を見開いて遥陽を見上げ、硬直していた遥陽はハッと正気に戻った。

「ごめん、ありがと」

 蒼が遥陽を見上げたまま呟くと、遥陽は動揺を必死で押し殺し、いつもの飄々とした笑みを浮かべて見せた。

「っ……危な。ちゃんと掴まっとけって」
「うん」

 蒼は素直に頷き、遥陽から視線を外してまた眠そうに瞬きをする。

 遥陽は顔に上った熱を隠すように目線を窓の外へと逸らし、流れる景色を目で追いながら、呼吸を整えた。

 まったく、朝から心臓に悪すぎる。

 想いを寄せ続けている相手を突然抱き留めて平然としていられるほど、遥陽は器用ではなかった。


 次の停車駅を告げる車内アナウンスが流れる。次の駅はいつも大量に乗客が乗ってくる駅だった。

 駅が近付き、講義に向かう大学生やスーツ姿の会社員たちが分厚い列を作るホームを目にした遥陽は、元々混雑している電車内をぐるりと見渡す。長身の遥陽ならではの芸当だった。

「蒼、こっち」

 電車が駅へ滑り込む前に、遥陽は蒼の細い腕を掴んで比較的空いている区画へ移動する。

 遥陽は自分の身体と電車の壁の間に蒼の身体を挟み、自分は吊り革を握りしめた。

 電車がホームに着くと案の定人波がドッと押し寄せ、車内へ雪崩れ込んだ。元々詰まっていた車内の密度が一気に跳ね上がる。

 遥陽の背中が押され、遥陽は蒼を守るように壁に手をつく。

「これなら潰されねえだろ」

 得意気に呟くと不意に胸元から声がした。

「うん。ありがと」

 そこで遥陽は気付いた。

 ——待て。

 遥陽がほんの少し顔を下げれば、眼鏡越しの瞳がすぐそこにある。

 蒼が何気なく遥陽を見上げた。

 ——距離が。

「……遥陽?」

 ——近い近い近い近い。

「…………」

 ようやく取り戻しかけたチャラく余裕のある態度など、一瞬で吹き飛んだ。

 いつもならどれだけ可愛い女子に距離を詰められようが、軽口を叩いて適当にいなすことが出来る。

 だが、蒼だけは完全に例外だった。高校の入学式で一目惚れしてから六年間、ずっと想い続けている世界でたった一人の相手なのだ。

 遥陽は恐らく真っ赤になっているであろう顔を思い切り逸らしてボソッと呟いた。

「……あんま見んな」
「え?」
「近すぎて、なんか恥ずい」
「……なにそれ」

 胸元の蒼が不思議そうに首を傾げる。

 蒼のシャンプーの香りがふわりと漂い、遥陽は必死で理性を保とうと電車の天井を睨み付けていた。

 遥陽は沈黙を誤魔化すように、平然とした声を装って蒼に声をかける。

「蒼……今日、一限終わったら暇か?」
「うん。なにもないよ」

 鼓動は依然として激しいものの、ふっと嬉しさが胸に込み上げる。

「じゃ、一緒に飯食おーぜ」
「いいよ」


 やがて電車が駅へ到着し、扉が開く。遥陽は深い息をつくと、ようやく蒼を囲っていた腕を解いた。

「っはー……、朝から疲れた……」
「今日はいつもより人が多かったね」

 遥陽の隣で呑気に蒼が呟く。

 押し寄せる人波を抜け出し、駅の改札をくぐると、遥陽はいつもの気さくな表情を取り戻した。

 初夏の爽やかな風が吹き抜ける通学路を、二人は肩を並べて歩く。

 講義の話をして、教授の愚痴を言って、どうでもいいことで笑う。

 親友になってから五年間、何度も繰り返してきた、ごく普通の朝。

 少なくとも、蒼にとっては。


 キャンパスの分かれ道で遥陽がポケットからスマホを取り出し、時間と教室を確認した。

「あ、俺こっちだ。蒼、一限あっちだろ?」
「うん。国際教養の方」
「俺は経営。じゃ、昼いつもの学食な。席取っとく」
「ありがと」

 小さく蒼が手を振り、遥陽も手を振った。

 蒼が背を向け、人の流れへ溶けていくその姿を、遥陽は暫く目で追っていた。

 ——また、見てる。

 自覚して、遥陽は苦笑する。

 一目惚れしたあの日から、何も変わっていない。

 六年経った今でも、遥陽はまだ蒼を目で追ってしまう。

 あの頃とただひとつ違うとすれば……今では、蒼は当然のように自分の隣へ来る。

 その事実を大事に心に抱え、遥陽は自分の講義棟へ向かった。

 * * *

 二時間後。

 一限の講義が終わると同時に、遥陽は混み合う前の学食へ早足で向かった。

 奥まった場所に無事に二人分の席を確保し、椅子に深々と腰掛ける。スマホの画面をタップしてSNSを流し読みしながら蒼の到着を待っていると、がやがやと騒がしくなって来た入口付近に、一際目を引く綺麗なプラチナブロンドの髪が見えた。

 その姿を捉えただけで、遥陽の頬は無意識のうちに緩んでいた。長い腕を伸ばし、周囲の視線も気にせず大きく手を振る。

「蒼ー! こっち!」

 しかし、その手を上げたまま、遥陽の動きがピタリと止まった。

 蒼のすぐ後ろに、遥陽の知らない男子学生が親しげにぴったりとついている。それだけならまだしも、その男は蒼の顔を覗き込むようにして、妙に楽しそうに蒼へ話しかけていた。

 更に、蒼も拒む様子もなくいつもの優しい笑顔で頷きながら言葉を返している。

 ピキッと、遥陽のこめかみが痙攣した。上げていた手をゆっくりと下ろす。

「……誰だよ、あれ」

 親友に友だちがいる。学食に向かう途中、一緒に話しながら歩く。ごく普通の光景だ。それはわかっている。わかっているのだが——

 遥陽は頬杖をつき、不機嫌そうに二人の姿をじっと見つめた。

「……距離近くね?」

 男女問わず人を惹きつけてしまう蒼の無自覚な魅力に、遥陽の気持ちは穏やかではいられなかった。


 蒼が人混みを縫うようにして、遥陽の方へと歩いてくる。

 しかし、先程から蒼の後ろにぴったりと張り付いている男子学生もまた、全く離れる気配を見せない。

「一ノ瀬って、このあと時間ある?」

 馴れ馴れしく、人懐っこそうな笑みを浮かべた男が、蒼のすぐ隣へと距離を詰めて並んだ。遥陽は頬杖をついたまま静かにその様子を見つめる。

「俺、次休講なんだよね。よかったら一緒に飯——」

 そこまで口にして、ようやく男はテーブル席に座る遥陽の存在に気が付いたらしい。

「あ、友だち待ってた?」
「そ。俺(・)待ってた」

 遥陽は笑って見せた。しかし出てきた声は自分でも驚くほど硬い。

 男は鈍感なのか意図的なのか、特に気にする様子もなく『じゃあ今度でもいいか』と言うと蒼の方へ向き直った。

「一ノ瀬、LINE教えてよ。今日の講義のことで聞きたいこともあるから」

 男がポケットからスマートフォンを取り出し、操作しながら差し出してくる。その瞬間、遥陽の貼り付けた笑顔がぴきりと音を立てた。

(講義のことねぇ……それだけなら、大学のポータルサイトか連絡ツールで十分だろが)

 もちろん、それを口に出して咎めることはしない。

 自分と蒼はただの親友であり、恋人でも何でもない。蒼の交友関係を制限する権利なんてない。

 わかっている。そんなこと、理屈としては嫌になるほどわかっているのだ。

「……蒼」

 気付けば、低く掠れた声でその名を呼んでいた。

 その声に遥陽自身がハッと気付き、慌てていつもの軽薄なトーンへと声を張り直した。

「俺、腹減って死にそう。早く飯買いに行こーぜ」

 遥陽がわざとらしく腹を擦って見せると、蒼にLINE交換を迫っていた男子学生が『お前も一緒に食う?』と何気ない風を装って尋ねてきた。

「いや、今日は蒼と二人で食う約束してっから」

 食い気味の即答。

 男は今度こそ察したのか、『あ、そっか』と気まずそうに苦笑いを浮かべ、もう一度蒼へと視線を向ける。

「じゃ、一ノ瀬。LINEだけ交換しよ」

 遥陽は黙って二人を見つめていた。遥陽にはLINE交換を止める権利はない。

(……俺、何年『親友』なんてポジションやってんだろ)

 親友でいれば蒼の隣に居続けられる。それを失ってしまうのが怖くて、ずっと気持ちを隠して親友で居続けた。

 なのに、こうして誰かが蒼へ気安く近付くたび、何の権利もない親友という立場に苛立ち、嫉妬する自分が惨めに思えてくる。

 遥陽は視線を逸らすと、胸の奥に溜まった感情を吐き出すように、深く溜め息をついた。

「…………好きにすりゃいいけどよ」

 低い呟きには、露骨な嫉妬の色が滲み出ていた。


 蒼は男子学生からのLINE交換に困ったように眉を下げ、戸惑う仕草を見せたものの、結局断り切れずにスマートフォンを取り出してLINEを交換した。

「ありがと。一ノ瀬って普段返信早いタイプ?」
「……うん、まあ……気づけば返すと思うけど……」
「まじ? じゃあまた連絡するわ!」

 やがて『じゃあな!』と手を振る男の背中が学食の喧騒の中へ消えていくと、蒼は小さく息を吐き出しながら遥陽の向かいの椅子に腰を下ろした。

「……遥陽?」

 不機嫌さを隠そうともしない遥陽の顔を、蒼が覗き込む。

「ん」
「どうしたの? なんか怖い顔してるけど……」
「別に」

 子どものようにわかりやすい不機嫌な即答。

 遥陽は手元のスマホに視線を落とし、不機嫌を誤魔化すように画面をスクロールしているフリをしているが、その画面はさっきから同じページのまま全然動いていない。

 気まずい沈黙が数秒間、テーブルの上に落ちる。

 結局、その重苦しい空気に耐え切れなくなったのは遥陽の方だった。

「……なあ、蒼」

 カタン、と音を立ててスマホをテーブルに伏せる。

「お前、さっきの奴と仲いいの?」
「ううん、今日たまたま講義で隣に座って、ちょっと話しただけだよ?」
「ふーん……」
「……なに? 僕なんか変なことした?」

 不思議そうに首を傾げる蒼。眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐに遥陽を映している。

 蒼のあまりの無警戒さに、遥陽は苛立ちと焦燥感を抑え切れず、片手で自分の黒髪を乱雑に掻き上げた。

「……あー、もう」

 頭を抱えてから、意を決したように蒼へと強い視線を向ける。

「蒼。たぶんあいつ、お前のこと狙ってるぞ」
「え……? 狙ってるって?」
「『講義のことで聞きたい』とかもっともらしい理由つけてLINE聞いて、次の空き時間まで確認して、飯誘ってんじゃん。典型的なナンパの手口だろ」

 遥陽の中ではもう蒼に対するナンパで確定していた。

「お前、昔からそういうの鈍すぎるんだよ。男女問わず距離詰められても全然気付かねえし」

 そこまで一気に捲し立てたところで、ほんの少しの静寂が落ちた。


「……俺以外には、もうちょい警戒しろよ」

 口をついて出た言葉。

 言った直後——遥陽自身がハッと息を呑み、身体を硬直させた。

(——俺以外……?)

 しまった、と冷や汗が背中を伝う。一線を踏み越えかけた自覚に青ざめ、慌てていつものチャラいおちゃらけ顔を作って誤魔化そうとした。

「いや、違うっ、今のナシ! だから——」

 けれど、目の前で『え……?』と戸惑っている蒼の瞳と正面から視線がぶつかった瞬間、貼り付けかけた顔が消え、言葉が喉の奥でつっかえて出てこなくなった。

 ずっと親友という安全な殻の中に閉じ込め、必死に押し殺し続けてきた感情が、勝手に溢れ出していく。

「……普通に、嫌なんだよ」

 低く、沈んだ声。

「知らねえ奴が、お前にああやって気安く近付いてくんのが」

 耐え切れなくなった遥陽は、ぎこちなく蒼から目を逸らした。

「俺、嫉妬してる。……たぶん」

 『ただの親友』という関係性においては異質な言葉が、二人の間に重くのしかかる。

「……いや、『たぶん』じゃねえな。めちゃくちゃ嫉妬してる」

 それ以上は言わなかった。言えなかった。

 カッと自分の顔が熱くなっていくのを感じた遥陽は、勢いよく椅子を引いて立ち上がった。

「……飯、買ってくる」

 返事も待たずに蒼に背を向け、逃げるように学食の券売機へと足早に去っていく。

 残された蒼は、遠ざかって行く遥陽の広く大きな背中をただ呆然と見送っていた。


(……ありえねえ……最悪だ、俺……っ)

 遥陽は自分の口から飛び出した重すぎる言葉を反芻し、猛烈な恥ずかしさと後悔に押し潰されそうになっていた。

(めちゃくちゃ嫉妬してる、とか何言ってんだ……ただの親友相手に言う台詞じゃねえだろ)

 次にどんな顔をして蒼と会えばいいのかわからない。半ば自暴自棄になりながら食券の券売機の前に辿り着いた、その時。

「遥陽」

 すぐ後ろから、澄んだ声が響いた。

「……え?」

 驚いて振り返ると、いつの間に追ってきていたのか、蒼がすぐ目の前に立っていた。

 蒼はすっと手を伸ばすと、遥陽が着ているシャツの裾を、細い指先できゅっと引っ張る。

 遥陽の視線が、自分の服を掴んでいる細く小さな手元へ落ちる。キメの細かい白い肌に華奢な指先。

 蒼は少し困ったように眉を下げ、上目遣いに遥陽を見上げた。

「遥陽が嫌なら、僕、もうあの人と連絡取らないよ」
「……は?」

 蒼の口から零れ出た思いもよらない言葉に、遥陽の目が見開かれる。

「何で……」
「だって、遥陽は嫌なんでしょ?」

 首を少し傾げながら、あまりにも素直に、当然のように言い切る蒼。

 遥陽は返す言葉を失い、二人の間にしばし沈黙がおりる。

「いや……待て待て」

 沈黙に耐えられずに焦る遥陽を前に、蒼は首を傾げたまま遥陽を見つめている。

(そういうこと、お前……っ、何でそんな平気な顔で言うんだよ!)

 遥陽は片手で覆うように自分の顔を隠した。あまりの無防備な言葉に、目眩がしそうだった。

(無理……っ、マジで耐えらんねぇ……!)

 六年間ずっと片思いをしている相手。その相手が、この醜い嫉妬をウザがるどころか、遥陽の感情を最優先にして『連絡を取らない』と当然のように言い切っているのだ。

 親友という枠組みを軽々と飛び越えてくる蒼の無自覚な甘さに、遥陽は喉の奥がカッと灼けるように熱くなるのを感じた。

「……蒼」

 遥陽は顔を赤らめ、覆った指の隙間から蒼の瞳を見つめる。

「……俺が『嫌だ』って言ったら、お前ほんとにあいつと連絡しねえのか?」
「うん」

 間髪入れずに返ってくる迷いのない返事。

「何で……っ!」

 絞り出すような声で遥陽は問いかけた。

 蒼はアイスブルーの瞳を少し泳がせ、一瞬の間を置いてから、心底不思議そうな顔をしながら遥陽を見て言った。

「だって……あの人より遥陽の方が大事だから」
「……」

 遥陽の顔から、完全に感情が消え失せた。

 あまりの衝撃に膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で踏みとどまる。

「……お前さぁ……」

 遥陽は天井を仰ぎ、情けない声を漏らした。

「そういうところだぞ……ほんと……」
「え? 僕、変なこと言った?」
「何でもねえよ……っ」

 遥陽は真っ赤に染まった顔を誤魔化すように、乱雑に自分の黒髪を掻きむしった。

 そして——未だに自分のシャツの裾をぎゅっと掴み続けている蒼の手に視線を落とす。

 大きな手を下ろし、蒼の華奢な手首に自分の指先をそっと添えた。

「……連絡すんな、とは言わねえよ」

 低く、少しだけ落ち着いた真面目なトーンに声が変わる。

「蒼の人間関係に俺が口出すのは違うし……お前にも友だちを作る自由はあるしな」

 一息ついて、遥陽は蒼の顔をじっと見つめた。

 そこには、いつも見せるような軽い遥陽の顔はなく、一途で純粋な一人の男としての熱い眼差しがあった。

「でも」
「……ん?」
「俺の方が大事って言葉……絶対に忘れねえから」

 遥陽の真面目な口元が、徐々に嬉しそうに緩んでいく。

「めちゃくちゃ嬉しい、まじで」
「っ……な、なにそれ……」

 真っ直ぐで熱い声で言われ、今度は蒼の頬が瞬く間に赤く染まっていく。慌てたように眼鏡に手を当て、目を逸らそうとする蒼の額を、遥陽は指先で軽く小突いた。

「ほら、飯買いに行くぞ」

 一瞬でいつもの気さくで爽やかな笑顔へと切り替える。

「今日は俺が奢ってやる」
「え、なんで急に? さっきまであんなに機嫌悪かったのに」
「機嫌が直ったからだよ」
「……やっぱり機嫌悪かったんじゃないか」
「るせーな、奢ってもらえるんだから黙って甘えとけ」
「な、なにそれ……?」

 券売機に向かう遥陽の心には、蒼の指先の感触と、『遥陽の方が大事』という言葉の余韻が漂っていた。

(……これ以上、好きにさせんなよ……)

 もうとっくに引き返せないところまで惚れ抜いているというのに、これ以上愛おしさを募らせてどうしろというのか。

 遥陽は胸の奥の甘い疼きをいつまでも噛み締めていた。

 * * *

 昼食を終えた二人は学食を後にし、初夏の心地よい風が吹き抜ける敷地内を並んで歩きながら、午後の講義が行われる講義棟へと向かった。

「蒼、次どこだっけ」

 遥陽がポケットに手を突っ込み、蒼の歩調に合わせてゆっくり歩きながら尋ねる。

「三号館の302」
「あー、俺も同じだ」
「知ってる。先週も一緒だったでしょ」
「……そうだっけ?」

 蒼が遥陽を見上げて呆れたように小さく息を吐いた。

「遥陽、先週も僕のノート見せてって言ったよね?」
「あ、思い出した。そうだそうだ、今日もよろしくな」
「最初から自分で取ってよ……」
「だって蒼の字、めちゃくちゃ綺麗で見やすいんだもん」

 悪びれる様子もなく、白い歯を覗かせて笑う遥陽。そんなやり取りを交わしながらドアを開けると、講義開始前ということもあってまだ席には十分な余裕があった。

 蒼が後方の席へ向かおうとすると、長身の遥陽がひょいと蒼の横を追い越した。

「ここな」

 当然のように二人分の席を確保する。窓側が蒼で、通路側が遥陽。高校二年生で同じクラスになって以来、二人で並ぶ時の変わらない定位置だった。

 * * *

 講義が始まって十五分ほどが経過した。

 壇上で教授がマイクを通して講義を続ける中、蒼は真面目な眼差しでノートにペンを走らせている。

 対する遥陽はといえば——。

 さらさら、と静かな教室に軽快な音が響く。

 ノートの端に何やら真剣な表情でペンを動かしていた遥陽は、やがてそのページを蒼の机の端へと滑らせてきた。

 蒼がノートに視線を落とすと、そこに描かれていたのは——細いフレームの眼鏡をかけた小ぶりな猫の落書き。

 その横には、乱雑な字で『いちのせ あお(講義中)』と添えられていた。

 蒼が無言のまま、静かにアイスブルーの瞳を遥陽へ向ける。

 遥陽は教授の方を向いて真面目に講義を聞いているフリをしている。しかしその口元はひくひくと歪み、必死に笑いを堪えていた。

 蒼は小さく溜め息をつき、静かにペンを手に取った。

 猫の真横に、もう一匹。どこかチャラつき、妙に軽薄そうな表情をした犬の絵を迷いなく描き足す。

『たかはし はるひ(講義を聞け)』

 ペンを置き、ツッとノートを押し返す。

「……っ、ふ」

 返されたノートを確認した瞬間、遥陽の肩が激しく震えた。笑うな、と圧をかけるように蒼がジト目で睨み付ける。

 遥陽は手で口元を覆って必死に笑いを殺しながら、その下へ文字を書き足した。

『蒼、やっぱ絵うま』

 スッと返ってくる。蒼も間髪入れずにペンを走らせた。

『遥陽が下手すぎ』
『ひど』
『事実』
『じゃあ俺描いて』

 そこで、蒼のペンの動きがピタリと止まった。

『やだ』
『何で』
『今講義中』

 暫く、遥陽のペンが止まる。ややあってノートが押される。

『このページ蒼が持ってて』

 犬と猫の下に、少し小さく乱れた文字が追記されている。

『俺と蒼が一緒にいるページだから』

 文字を目にした蒼が、ハッと顔を上げた。

 しかし遥陽は、既に前方の黒板へと視線を戻していた。さっきまでおどけてふざけ倒していたくせに、横から見てもわかるくらい顔が赤く染まっている。

 そして数秒後。

 耐え切れなくなったのか、ノートがもう一度、バタバタと蒼の方へ押し戻されてきた。

『今のクサかったから忘れて』
「……ふっ」

 あまりの慌て様に、蒼は思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を手で押さえた。

 それを見た遥陽が、横から顔を近付けて消え入りそうな小声で囁いてくる。

「っ……笑うなって、マジで」
「遥陽が変なこと書くからでしょ……」

 いつもの笑顔。高校時代から何百回と繰り返してきた、他愛もなくて、くだらないやり取り。

 けれど遥陽にとっては——蒼の隣で笑い合えるこの何でもない日常こそが、何よりも愛おしく、ずっと終わってほしくないと願う大切な宝物だった。