玻璃の籠、残り香の熱

 豪奢な朱塗りの柱と、贅を尽くした色鮮やかな壁画そして、どこか気怠げに薫る沈香の煙が漂う一室。
 ここは、かつて栄華を誇った東方の大国・瑞穂(みずほ)の後宮。そこは、帝の寵愛を競う百花繚乱の淫らな庭であり、身寄りのない私――小夜(さよ)にとっては、己の過去を忘れてしまった身を隠すための、静かな檻だった。
「小夜、準備は良いか? 今宵、新たな総帥たる『天狼将軍』がこの後宮を巡察されるのだ。粗相のないようにな」
 女官長の厳しい声に、私は「はい」と小さく頭を下げた。
 三年前、私は頭に深い傷を負い、行き倒れていたところを後宮の下人たちに救われた。それ以前の記憶は一切ない。自分が誰なのか、どこから来たのかも分からぬまま、ただ手先の器用さを買われて下級女官として働いていた。
 夜、絹の擦れる音と、重々しい具足の音が廊下に響く。
 私を含めた女官たちは、床に額をこするように平伏していた。
 やがて、私の目の前でぴたりと足音が止まる。見上げずとも分かる。圧倒的な威圧感と、夜の風を纏ったような冷徹な気配。彼こそが、若くして軍の頂点に登り詰めた冷徹無比の将軍――漣(れん)だった。
「……顔を上げよ」
 低く、深く、どこか脳髄を痺れさせるような、酷く甘やかな声。
 促されるままに顔を上げた瞬間、私の心臓は跳ね上がった。
 鋭く切れ上がった精悍な目元。高い鼻梁。二十代半ばとおぼしきその男は、息を呑むほどに美しく、そして――ひたすらに危険な大人の色香を放っていた。
 しかし、その漆黒の瞳が私を捉えた瞬間、わずかに揺れたのが分かった。彼の喉仏が小さく上下動する。その口が開かれる。
「お前が……『小夜』か」
「は、はい……」
「そうか。下がって良い」
 それだけの短い邂逅。だが、私の胸の奥で、経験したことのない激しい鼓動が鳴り響いていた。その激しい律動が耳の奥、脳髄の内部まで震わせる。なぜだろう? 初めて会ったはずなのに、彼の声が、その視線が、私の無くした記憶の底を狂おしいほどにかき乱すのだ。
 その数日後の夜。私は人目を忍び、後宮の片隅にある「望月楼」の庭園で、薬草の仕分けをしていた。夜風が心地よく、一人きりの時間が心を落ち着かせてくれる。池の水面に映る月影を見て、心を和ませていた、その時――人の気配を感じた。
「夜更かしは肌に障るぞ、お姉さん」
 突然、背後から降ってきた声に心臓が止まるかと思った。
 振り返ると、そこには軍服を少し崩し、信じられないほど不敵な笑みを浮かべた漣将軍が立っていた。
「将、軍……!? なぜこのような下女の憩う場所に……」
「お前に会いに来た。それ以外に理由があるか?」
 大股に距離を詰められ、私は思わず後ろの白壁に背を打った。逃げ道を塞ぐように、彼の大きな手が壁に突かれる。――いわゆる、壁ドンという体勢だった。
 昼間の冷徹な将軍とは違う。今の彼は、獲物を追い詰める肉食獣のような、強烈な男のフェロモンを放っていた。
「あの、お戯れを……私はただの記憶なき女官にすぎません」
「記憶なき、か。本当に俺のことも、あの約束も忘れてしまったんだな」
 漣の顔が、睫毛が触れ合うほどに近づく。彼の吐息が私の唇をかすめ、全身が熱くなる。
 彼は私の顎を長い指先でくいと持ち上げ、妖しく微笑んだ。
「昔は『漣、今日も可愛いね』って、俺の頭を撫でていたくせに。……今じゃ怯えるばかりか。立場が逆転したな、小夜」
「え……?」
 漣。その名が、私の頭の中で火花を散らした。
 途端に、断片的な情景がフラッシュバックする。
 ――私の衣服の裾を掴んで、泣きべそをかきながらついてくる、一回り小さな男の子。
 ――『僕、大きくなったら絶対にお姉ちゃんを守る強い男になるから!』と、生意気に胸を張っていた可愛い弟のような存在。
「まさか……あの、泣き虫だった、漣……?」
「やっと呼んでくれた。そうだよ、お前の漣だ」
 漣は満足そうに目を細めると、私の首筋にそっと顔を埋めた。
 ゾクリとした刺激的な快感が背筋を駆け抜ける。かつての「可愛い弟」の面影など微塵もない。私を包み込む腕は驚くほど硬く、逞しく、男らしくて――抗えない力に満ちていた。
「十年前、お前が賊に襲われて行方不明になってから、俺は狂う寸前だった。お前を探し出すためだけに、死線を潜り抜け、この地位を手に入れたんだ。……もう、絶対に離さない」
 彼の独占欲の塊のような強い視線に、私は息を呑む。
 記憶は完全には戻っていない。それでも、彼が私にとって特別な存在だったことだけは、身体が、心が覚えている。あまりのスパダリっぷりに気圧されながらも、私の顔は真っ赤に染まっていった。
「あの、漣、さん……近すぎ、ます……」
 真っ直ぐに迫り来る彼の熱に耐えかねて、私は両手で彼の胸を押し返そうとした。
 その時、漣が「くすっ」と、小さく吹き出した。
「あはは、何それ。さん、なんて付けなくていいのに。お姉ちゃん、照れるとすぐそうやって耳まで赤くする。昔から全然変わらないね」
 悪戯が成功した子供のように、目を細めて無邪気に笑う漣。
 その笑顔は、まさに私の記憶の片隅にあった、あの頃の「可愛い漣」そのものだった。
「……あ」
 張り詰めていた緊張が、その一瞬でふっと解ける。
 どんなに強くて、刺激的で、完璧な将軍になっても、私の前で見せるこの笑顔だけは、あの優しかった少年のままなのだ。その事実に、私の胸の奥に、じわじわと温かい愛おしさが広がっていくのを感じた。
 とても爽やか、それなのに熱い夜風が水面の蓮を揺らし、幾つもの漣を立てた。
「……意地悪。本当に、生意気になったね」
「生意気で結構。これからは弟としてじゃなく、一人の男として、たっぷり可愛がってあげるから覚悟して」
 漣は私の手をとり、その手の甲に深く、熱いキスを落とした。
 記憶を失った私と、全てを捧げて迎えに来た彼。
 帝のために造られた後宮の深い夜の中、私たちの「二度目の初恋」が、静かに幕を開けたのだった。