山手はその晩、ぬるい春風に包まれていた。
厚い雲に覆われて、月明かりは届かず、ただ瓦斯灯が静かに往来を照らしている。
茅野の屋敷はその晩、ランプの灯る居間を除いた全ての部屋で灯りが落とされていた。
そして――居間では父、伊三郎が激高していた。たたきつけた杯が壁に当たって砕け落ちる音が響き渡り、ついで母の甲高い悲鳴が春の夜陰を裂く。
「なぜ華枝が神域から追い返され、あまつさえ謹慎を命じられるのだ!? 帝は激しくお怒りだったぞ! 花姫は千代だと! 偽の花姫を送り込んできた理由は簒奪か、と! あの……無能の娘が! 茅野のただ一人の娘だと仰せだった!」
激高した父が、母を怒鳴りつける声を華枝は自室の扉に背中を預けて聞かされていた。
花柄のカーペットを踏みしめ、耳をふさいでいるのに、怒声はなおも鼓膜を貫く。
「華枝は本当に、俺の娘なのか?」
「何を仰るの!? 私をお疑いになるなんてひどい方!」
母は言い訳ばかりで話し合いは堂々巡り。女中たちも主人の勘気を恐れて様子も見に来ない。父の興奮は収まらず、どんどんと推測を続けていく。
「思えば、卜占が花姫だと告げたのは茅野の娘という言葉のみ……。だからこそ異能を持つ華枝が選ばれたと早合点したが、……千代も俺の娘だ。それは帝も、卜占もお認めになっている。ならば、茅野の娘は一人というのはどういう意味か!」
「ひどいわ! あなたはわたくしが不義を働いたと疑っているのね!?」
いがみ合う両親の言い争いはどんどん悪化していく。
――どうしてこうなるのよ⁉
名代見立ての儀まで、華枝は幸せの絶頂にいたはずだった。
約束された将来。与えられた名誉。まっすぐに華枝に向けて歩を進めてきた若宮。
あの時、若宮が、異母姉を選んだ瞬間に全てがもろく崩れ去った。
(あたしが花姫じゃない? しかも、お父様の子供じゃなかったなんて……)
嘘だ。そんなことがあるはずがない。華枝は両親に望まれて生まれ、愛されて、未来を嘱望された娘でなければならない。そのために知識も、美貌も、技能を磨いてきた。幸せになる権利のある人間なのだ。
――異母姉とは違って。
だってもし、あの女と同列になってしまったら、今度は華枝が蔑まれる。ぼろぼろの服しか持ちえず、身体の手入れもできず、髪も肌も荒れ放題で、醜く生き永らえるだけの小物になり下がるなんて、耐えられない。許されない。絶対に。
「だって……、そもそも全部、お義姉さまのせいじゃない……」
爪を噛んで、怨嗟の声をもらす。
異母姉の千代は無能だ。栄誉ある花姫の座など到底こなせるはずがない。
それなのに、華枝から花姫の座をかすめ取った。
若宮はきっと勘違いをしたのだ。彼は神がかりの美しさを持っていたとはいえ、人間だもの。間違えることはあるだろう。
だが、華枝は寛大だ。若宮が詫びるのなら、許してやらないでもない。
(お義姉さまだってそう……)
きっと今頃宮中で困っているのではないかしら?
無能がいったいどのように日ノ本の四季を守る神事を執り行えるのか。神々に認められるのか。人々に尊崇されるのか。
千代には務まらない。絶対に!
(全部全部、あたしの役目なんだから……!)
今、華枝が会いに行けば、千代は泣いて喜んで、はいつくばって助けを求めるに違いない。
そうすれば、また全てが好転する。
そう、今はほんの少し歯車が狂ってしまっただけだと皆理解するはず。
だから早く、元に戻さなければならない。
「お義姉さまに会わなきゃ……」
ふらりと立ち上がった華枝は、固く閉ざされた窓辺に向かった。
厚い雲に覆われて、月明かりは届かず、ただ瓦斯灯が静かに往来を照らしている。
茅野の屋敷はその晩、ランプの灯る居間を除いた全ての部屋で灯りが落とされていた。
そして――居間では父、伊三郎が激高していた。たたきつけた杯が壁に当たって砕け落ちる音が響き渡り、ついで母の甲高い悲鳴が春の夜陰を裂く。
「なぜ華枝が神域から追い返され、あまつさえ謹慎を命じられるのだ!? 帝は激しくお怒りだったぞ! 花姫は千代だと! 偽の花姫を送り込んできた理由は簒奪か、と! あの……無能の娘が! 茅野のただ一人の娘だと仰せだった!」
激高した父が、母を怒鳴りつける声を華枝は自室の扉に背中を預けて聞かされていた。
花柄のカーペットを踏みしめ、耳をふさいでいるのに、怒声はなおも鼓膜を貫く。
「華枝は本当に、俺の娘なのか?」
「何を仰るの!? 私をお疑いになるなんてひどい方!」
母は言い訳ばかりで話し合いは堂々巡り。女中たちも主人の勘気を恐れて様子も見に来ない。父の興奮は収まらず、どんどんと推測を続けていく。
「思えば、卜占が花姫だと告げたのは茅野の娘という言葉のみ……。だからこそ異能を持つ華枝が選ばれたと早合点したが、……千代も俺の娘だ。それは帝も、卜占もお認めになっている。ならば、茅野の娘は一人というのはどういう意味か!」
「ひどいわ! あなたはわたくしが不義を働いたと疑っているのね!?」
いがみ合う両親の言い争いはどんどん悪化していく。
――どうしてこうなるのよ⁉
名代見立ての儀まで、華枝は幸せの絶頂にいたはずだった。
約束された将来。与えられた名誉。まっすぐに華枝に向けて歩を進めてきた若宮。
あの時、若宮が、異母姉を選んだ瞬間に全てがもろく崩れ去った。
(あたしが花姫じゃない? しかも、お父様の子供じゃなかったなんて……)
嘘だ。そんなことがあるはずがない。華枝は両親に望まれて生まれ、愛されて、未来を嘱望された娘でなければならない。そのために知識も、美貌も、技能を磨いてきた。幸せになる権利のある人間なのだ。
――異母姉とは違って。
だってもし、あの女と同列になってしまったら、今度は華枝が蔑まれる。ぼろぼろの服しか持ちえず、身体の手入れもできず、髪も肌も荒れ放題で、醜く生き永らえるだけの小物になり下がるなんて、耐えられない。許されない。絶対に。
「だって……、そもそも全部、お義姉さまのせいじゃない……」
爪を噛んで、怨嗟の声をもらす。
異母姉の千代は無能だ。栄誉ある花姫の座など到底こなせるはずがない。
それなのに、華枝から花姫の座をかすめ取った。
若宮はきっと勘違いをしたのだ。彼は神がかりの美しさを持っていたとはいえ、人間だもの。間違えることはあるだろう。
だが、華枝は寛大だ。若宮が詫びるのなら、許してやらないでもない。
(お義姉さまだってそう……)
きっと今頃宮中で困っているのではないかしら?
無能がいったいどのように日ノ本の四季を守る神事を執り行えるのか。神々に認められるのか。人々に尊崇されるのか。
千代には務まらない。絶対に!
(全部全部、あたしの役目なんだから……!)
今、華枝が会いに行けば、千代は泣いて喜んで、はいつくばって助けを求めるに違いない。
そうすれば、また全てが好転する。
そう、今はほんの少し歯車が狂ってしまっただけだと皆理解するはず。
だから早く、元に戻さなければならない。
「お義姉さまに会わなきゃ……」
ふらりと立ち上がった華枝は、固く閉ざされた窓辺に向かった。
