名代見立ての儀から一週間。
結局あの晩、花姫ではないと訴える千代の歎願は聞き入れられなかった。
しかし、華枝が実家に帰された一方、千代は花姫として狭間の地に留められ、厚く遇されていた。これまで千代を軽んじていた、茅野家の侍女仲間たちでさえ、へつらうように千代の世話をなにくれとなく焼いた。
全ては千代を傷つけることはまかりならぬという、若宮である瑞貴の意向だった。
瑞貴本人は、あの夜から一日と開けず、日々贈り物を携えて千代のもとを訪ねてくる。
着心地のいい、絹の襦袢や着物。仕立てのよい着物。髪を飾る香油に金細工。
けれども突然様変わりした環境に、千代はただ恐縮するばかりだった。
朝から霧雨の降りしきるその日、瑞貴が顔を出した時も、恐縮してぬかずいて迎えようとして止められた。
「何か不便はないか? 食事も、好物や苦手なものがあれば言ってくれ。食事をほとんど取らないと聞いたが、体調はどうだ」
案じるように尋ねられ、千代はおずおずと理由を話した。
「体調は、問題ありません。ただ、あまり食欲が……わからなくて。好きなものも、苦手なものも、特には……」
一日一食でも、残り物を恵んでもらえたらいい生活をしてきた千代にとって上げ膳据え膳というものはどうにも居心地が悪く、申し訳の無い気持ちでいっぱいだった。
本当に箸をつけてもよいものか、躊躇してしまう。今は頼み込んで品数を減らしてもらったことが、瑞貴の耳に入ってしまったらしい。
だが、瑞貴は気を悪くした様子もなく、そうか、と頷いた。
「では、試そう」
なんてことのないように瑞貴は言って、手にしていた豆皿を千代に差し出す。皿の上には干菓子とキャラメルがつくねんと乗っていた。
「今日は俺の好きな茶菓子を持ってきた。君の口にも合えばいいが」
反論する前に、ころりと口の中に干菓子が放り込まれる。
さらりと舌の上で溶ける甘さに、千代は唇を引き結んだ。
「次だ」
今度はキャラメルだった。華枝はよく好んでいたけれど、千代は口にしたことがない。
はじめてのキャラメルは、濃厚で舌が痺れるような甘さだった。
再び目をしばたかせると、瑞貴が楽しそうに笑う。
「どちらが好きだ」
「ど、どちらも、おいしいです」
千代は口元を抑え、もごもごと答えた。そうか、と瑞貴は嬉しそうに頷く。
「これからも共に探そう。もっと君の好きなものをもっと知りたい。花も、香も、甘味も」
そうして、先々の約束をする。
これまでその日一日を生きるのに精いっぱいだった千代は、目まぐるしく変わる日々において行かれないようにするだけで精一杯で、頷くことができなかった。
さて、花姫に選ばれた千代のもっぱらの仕事は、日々の花神への奉仕が主たるものだった。
毎朝、身を清めて神饌を捧げ、奉職する。
今後は花守たちと共に、年次の儀式を執り行うことになるらしい。
目下の問題は、来たる鎮花祭での奉納舞を花姫に選ばれた千代が担わなければならないということだった。
先代の花姫を亡くした花神の心を慰撫し、今代の花姫として礼を尽くすことで正式に千代は花姫として認められる。
だが、奉納舞の重責に千代は早くも押しつぶされそうになっていた。
(絶対にわたしなどが花姫のはずがないのに……)
瑞貴は千代を花姫と呼んだ日から、これから先の日々を共に歩んでいくものだと信じているようだったし、彼の厚意はありがたいと思う。
でも、だからこそ千代は居心地の悪さを覚えて、わずかに後ずさる。
「殿下……今一度お考え直しください。無能のわたしが、花姫のはずがありません」
異能を持たないだけでなく、日舞、長唄、琴、雅楽をたしなんでいた華枝と異なり、千代は無芸無才だった。
名代見立ての儀の後、四貴人が御機嫌伺いに千代のもとを訪れた。
「春の姫さまは穏やかでお優しく、夏の姫さまは快活で人の心を明るく照らせるお方。秋の姫さまはおしとやかで芸事に秀でており、冬の姫様は物静かで、あらゆる知識をお持ちです。どの花守さまも、わたしよりずっと素晴らしい方たちでした」
美貌も、才覚も、千代よりはるかに優れた花顔の乙女たち。
花姫は通例では就任後、その力が発現すると同時に、四貴人に神力を貸し与える。
与えらえる神力は、春夏秋冬の花姫ごとに様々。
春の花守は眠りについていた全てを目覚めさせ、芽吹かせる。
夏の花守はあらゆる生命を奮い立たせ、繁茂させる力を持つ。
秋の花守は実りを得る力を持ち、豊穣を約束する。
冬の花守は全てを静謐のうちに眠らせる。
龍脈の根源である狭間の地で、花姫が花神を慰撫し、季節の巡りを祈念し、神力を宿した花守たちと共に滞りなく神事を執り行うことで、四季を正しく巡らせ、豊穣を約束する。
けれど、未だ千代には花姫の力が発現しない。
瑞貴の宣言だけが、千代を花姫の座に押しとどめているのだ。
この上、彼女たちの上に千代が立てる道理がなかった。
「やっぱりわたしは花姫ではないと思います。花姫の力だって、今もまだ何も使えないのですから」
瑞貴はしばらく黙っていた。
「どうやら君はまず、自分を信じなければならないようだ」
やがて、温かな声音で千代を包み込む。
「君の不安は正しい自己評価ではない。家族の言葉をただ受け入れているだけだ」
それでは駄目なのだと、瑞貴は言う。
「自分を疑っていては、神力は使えない」
瑞貴は差し出した手のひらに、異能で水晶玉のような水の珠を作り上げた。
水を操る力が、彼の異能だった。
「異能は自然の摂理に反している。信心から生み出される力だ。己を信じることで、我々は新たな道を踏み出す勇気と気力を得るんだ」
まっすぐに千代に注がれるまなざしは真情に溢れて見えた。
「今日も一緒に過ごしたかったが、すまない、まだ政務がたまっていてな。次来るまでに考えていてくれ。君が、心からしてみたいこと、見てみたいもの、食べてみたいもの、経験したいこと」
瑞貴が女官に急き立てられるようにして立ち去ったので、千代は尋ねることができなかった。
わからなかった。瑞貴の言葉の意図するものが。
なぜ、あんなにも――甘い目を向けるのかも。
手のひらが、ぴりりと痛む。
心を揺さぶられた時に、手を握りしめるのは、千代の悪癖だった。
そっと手のひらに刻まれた爪のあとを見下ろして、もう一度手を握って隠す。
(信じては駄目、わたしはきっとまた、彼を裏切ってしまう……)
千代は路傍の石でなければならない。異能を持たない、無価値の無能なのだから、期待をされても裏切るだけ。瑞貴が期待を寄せるような存在ではない。
さはさりながら、彼が千代を選んだというのなら、なにがしかの理由はあるのだろう。
ただ、千代はその理由が善意に基づくものとは思えなかった。
だって若宮――瑞貴は、千代を憎んでいるはずなのだ。
かつて彼の安息の地を、千代が奪ったから。
結局あの晩、花姫ではないと訴える千代の歎願は聞き入れられなかった。
しかし、華枝が実家に帰された一方、千代は花姫として狭間の地に留められ、厚く遇されていた。これまで千代を軽んじていた、茅野家の侍女仲間たちでさえ、へつらうように千代の世話をなにくれとなく焼いた。
全ては千代を傷つけることはまかりならぬという、若宮である瑞貴の意向だった。
瑞貴本人は、あの夜から一日と開けず、日々贈り物を携えて千代のもとを訪ねてくる。
着心地のいい、絹の襦袢や着物。仕立てのよい着物。髪を飾る香油に金細工。
けれども突然様変わりした環境に、千代はただ恐縮するばかりだった。
朝から霧雨の降りしきるその日、瑞貴が顔を出した時も、恐縮してぬかずいて迎えようとして止められた。
「何か不便はないか? 食事も、好物や苦手なものがあれば言ってくれ。食事をほとんど取らないと聞いたが、体調はどうだ」
案じるように尋ねられ、千代はおずおずと理由を話した。
「体調は、問題ありません。ただ、あまり食欲が……わからなくて。好きなものも、苦手なものも、特には……」
一日一食でも、残り物を恵んでもらえたらいい生活をしてきた千代にとって上げ膳据え膳というものはどうにも居心地が悪く、申し訳の無い気持ちでいっぱいだった。
本当に箸をつけてもよいものか、躊躇してしまう。今は頼み込んで品数を減らしてもらったことが、瑞貴の耳に入ってしまったらしい。
だが、瑞貴は気を悪くした様子もなく、そうか、と頷いた。
「では、試そう」
なんてことのないように瑞貴は言って、手にしていた豆皿を千代に差し出す。皿の上には干菓子とキャラメルがつくねんと乗っていた。
「今日は俺の好きな茶菓子を持ってきた。君の口にも合えばいいが」
反論する前に、ころりと口の中に干菓子が放り込まれる。
さらりと舌の上で溶ける甘さに、千代は唇を引き結んだ。
「次だ」
今度はキャラメルだった。華枝はよく好んでいたけれど、千代は口にしたことがない。
はじめてのキャラメルは、濃厚で舌が痺れるような甘さだった。
再び目をしばたかせると、瑞貴が楽しそうに笑う。
「どちらが好きだ」
「ど、どちらも、おいしいです」
千代は口元を抑え、もごもごと答えた。そうか、と瑞貴は嬉しそうに頷く。
「これからも共に探そう。もっと君の好きなものをもっと知りたい。花も、香も、甘味も」
そうして、先々の約束をする。
これまでその日一日を生きるのに精いっぱいだった千代は、目まぐるしく変わる日々において行かれないようにするだけで精一杯で、頷くことができなかった。
さて、花姫に選ばれた千代のもっぱらの仕事は、日々の花神への奉仕が主たるものだった。
毎朝、身を清めて神饌を捧げ、奉職する。
今後は花守たちと共に、年次の儀式を執り行うことになるらしい。
目下の問題は、来たる鎮花祭での奉納舞を花姫に選ばれた千代が担わなければならないということだった。
先代の花姫を亡くした花神の心を慰撫し、今代の花姫として礼を尽くすことで正式に千代は花姫として認められる。
だが、奉納舞の重責に千代は早くも押しつぶされそうになっていた。
(絶対にわたしなどが花姫のはずがないのに……)
瑞貴は千代を花姫と呼んだ日から、これから先の日々を共に歩んでいくものだと信じているようだったし、彼の厚意はありがたいと思う。
でも、だからこそ千代は居心地の悪さを覚えて、わずかに後ずさる。
「殿下……今一度お考え直しください。無能のわたしが、花姫のはずがありません」
異能を持たないだけでなく、日舞、長唄、琴、雅楽をたしなんでいた華枝と異なり、千代は無芸無才だった。
名代見立ての儀の後、四貴人が御機嫌伺いに千代のもとを訪れた。
「春の姫さまは穏やかでお優しく、夏の姫さまは快活で人の心を明るく照らせるお方。秋の姫さまはおしとやかで芸事に秀でており、冬の姫様は物静かで、あらゆる知識をお持ちです。どの花守さまも、わたしよりずっと素晴らしい方たちでした」
美貌も、才覚も、千代よりはるかに優れた花顔の乙女たち。
花姫は通例では就任後、その力が発現すると同時に、四貴人に神力を貸し与える。
与えらえる神力は、春夏秋冬の花姫ごとに様々。
春の花守は眠りについていた全てを目覚めさせ、芽吹かせる。
夏の花守はあらゆる生命を奮い立たせ、繁茂させる力を持つ。
秋の花守は実りを得る力を持ち、豊穣を約束する。
冬の花守は全てを静謐のうちに眠らせる。
龍脈の根源である狭間の地で、花姫が花神を慰撫し、季節の巡りを祈念し、神力を宿した花守たちと共に滞りなく神事を執り行うことで、四季を正しく巡らせ、豊穣を約束する。
けれど、未だ千代には花姫の力が発現しない。
瑞貴の宣言だけが、千代を花姫の座に押しとどめているのだ。
この上、彼女たちの上に千代が立てる道理がなかった。
「やっぱりわたしは花姫ではないと思います。花姫の力だって、今もまだ何も使えないのですから」
瑞貴はしばらく黙っていた。
「どうやら君はまず、自分を信じなければならないようだ」
やがて、温かな声音で千代を包み込む。
「君の不安は正しい自己評価ではない。家族の言葉をただ受け入れているだけだ」
それでは駄目なのだと、瑞貴は言う。
「自分を疑っていては、神力は使えない」
瑞貴は差し出した手のひらに、異能で水晶玉のような水の珠を作り上げた。
水を操る力が、彼の異能だった。
「異能は自然の摂理に反している。信心から生み出される力だ。己を信じることで、我々は新たな道を踏み出す勇気と気力を得るんだ」
まっすぐに千代に注がれるまなざしは真情に溢れて見えた。
「今日も一緒に過ごしたかったが、すまない、まだ政務がたまっていてな。次来るまでに考えていてくれ。君が、心からしてみたいこと、見てみたいもの、食べてみたいもの、経験したいこと」
瑞貴が女官に急き立てられるようにして立ち去ったので、千代は尋ねることができなかった。
わからなかった。瑞貴の言葉の意図するものが。
なぜ、あんなにも――甘い目を向けるのかも。
手のひらが、ぴりりと痛む。
心を揺さぶられた時に、手を握りしめるのは、千代の悪癖だった。
そっと手のひらに刻まれた爪のあとを見下ろして、もう一度手を握って隠す。
(信じては駄目、わたしはきっとまた、彼を裏切ってしまう……)
千代は路傍の石でなければならない。異能を持たない、無価値の無能なのだから、期待をされても裏切るだけ。瑞貴が期待を寄せるような存在ではない。
さはさりながら、彼が千代を選んだというのなら、なにがしかの理由はあるのだろう。
ただ、千代はその理由が善意に基づくものとは思えなかった。
だって若宮――瑞貴は、千代を憎んでいるはずなのだ。
かつて彼の安息の地を、千代が奪ったから。
