【短編】若宮殿下の花姫さま~虐げられた乙女は運命に愛されて花開く~

 時は少しさかのぼり、大正三年、睦月。吐く息も白く染まる、日曜の朝方。

 千代がささくれた指先で、日めくりカレンダーをめくるのと同時に、客間の古時計が朝の八時を告げる。
 横濱の街を見下ろす山手に建つ洋館では、屋敷の主人である茅野一家が朝餉のひと時を迎えようとしていた。

 茅野家は貿易商として現当主伊三郎が育て上げた、いわゆる成金一家である。
 常時、五人の女中が忙しなく働く屋敷の厨房には、すでに早朝から仕込んだ朝餉の膳が用意されている。
 今朝の献立は焼きたての甘い香りのパンとオムレツにカリッと焼き上げたベーコン、サラダと玉ねぎのスープ。どれも当主の愛娘、華枝が好む洋食だ。

「おはようございます。伊三郎さま、絢子さま、華枝お嬢さま」

 千代は配膳車を押して当主がこだわりぬいた洋間の食堂に入る。
 赤いカーペットを踏みしめ、朝のお決まりの挨拶を述べた後、まずは当主伊三郎、ついで当主夫人の絢子とその愛娘である華枝の前に朝餉を並べていく。

「あら、嫌だわ。今日の給仕はお前なの?」

 華枝は千代を見るなり、不快そうに眉をひそめた。
 頬に手を添えてため息をついた華枝は、芳紀十五の花盛りの乙女である。艶のない髪をひとつに結っただけの、お仕着せの古びたセルの着物姿の千代とは似ても似つかない、今をときめく女学生でもある。
 級友に春薔薇と称される花顔を誇る華枝は、つややかな黒髪をマガレイトに結って、紅唇と合わせた深紅のシルクのリボンで飾っている。
 愛用しているレースのシャツにリボンと同じ生地のスカートを合わせた姿は、名家の令嬢に勝るとも劣らない気品を漂わせていた。
 華枝は千代が膳を供するのと同時に、意地の悪い笑みを浮かべた口元を繊手で隠す。

「だって、ねえ、お母さま。見て、あのもの欲しそうな目……」
「本当に意地汚いこと。見ているだけでも嫌な気持ちになる子ねぇ」

 呆れたようにくすくすと笑う母娘の隣で、当主は東京日日新聞の朝刊を眺めている。
 千代は、冷え切った手をぎゅっと握りしめて俯いた。

「本当、お母さまの仰るとおりだわ。この子、本当に茅野の血を引いているのかしら? お父さまに全然似ていないのに?」

 華枝にあざけられてはいるが、千代は、たしかに茅野当主である伊三郎の娘である。
 しかし、母は千代を生んですぐに産褥で儚くなったと聞いている。
 さらに千代には重大な欠陥があった。

「いつまでも居座って本当図々しい……。無能のくせに」

 ――無能。それが千代の瑕疵である。

 黒船の来航後、閉ざされていた皇国は広く外国に開かれた。
 目覚ましい文明開化の波によってハイカラに国が染まるにつれ、長くこの国の根幹をなしてきた神秘は急速に失われていった。
 有史以来、日ノ本には巫、陰陽師、験者……多く、異能と呼ばれる神秘を扱う人が生まれてきた。

 最たるものが最高神を始祖に持つ、皇家の人々である。
 祭祀王である帝のもと、斎宮、斎院、伯王ら、彼らの尽力により、かねてから祈りの力で異形のものを祓い、奇跡を呼び、豊かな恵みを享受してきた史実は、開国以降、諸外国をはじめ、庶民には固く秘されることとなった。

 千代は、詳しいいきさつを知らない。
 ただ、文明国として列強と渡り合うための国策だったのだと聞いている。
 とはいえ、異能持ちが日ノ本の中枢から排除されたわけではない。
 一般の目の届かない場所では今なお尊重され、重く用いられているそうだ。

 そのうちのひとつが花姫と彼女に仕える花守たちの存在である。
 花姫とは、花神に選ばれた愛し子であり、古来からこの国の四季を守り、恙なく巡らせてきた現人神だ。
 花姫は皇后に次ぐ影響力を持ち、皇家の若い皇子によって現世と幽世の狭間の地で守られているという。
 花姫に従うのは、四人の花守。四季を司ることから、四貴人とも呼ばれる彼女たちは皆、卜占によって選ばれる。

 選ばれた娘の生家は国から名誉と褒章を約束されるために――明治期に成金として財を成した茅野伊三郎は異能を持つ女に子を孕ませた。
 そうして伊三郎は、異能を持たない“無能”である千代と、姿なき異形をその目に映し、自在に炎を操る異能を持つ華枝を得た。
 父の偏愛が華枝に傾き、家人が千代に見向きもしないのは当然の成り行きだった。
 卜占によって選ばれるのは、異能を持つ娘ばかりだという。
 並々ならぬ期待をかけられた華枝とは違い、千代は茅野の穀潰しだった。

「お父さまの期待に応える見込みのないお荷物が、いつまでも家に居座って……」

 心底、無能の異母姉を蔑んでいる華枝は、手元のスープの皿を引き寄せた。

「本っ当……みぃんなから邪見にされて、可哀想だから――」

 直後、頭から被せられたのは、まだ熱いスープだった。

「あたしが朝餉の仕度のお駄賃をあげちゃう」

 きゃらきゃらと笑う声を聞きながら、千代はもつれる足で後ずさった。

「あっ……!」

 すかさず前髪を掴まれ、強引に引き寄せられる。

「お義姉さま? 餌をもらったのに、お礼もせずどちらへ?」
「……ありがとう、ございます、華枝、さま。不躾をお詫び申し上げます」

 生まれて十七年、教え込まれた礼を口は自然に吐き出す。

 反論しては、だめ。怒らせるだけだから。
 泣いては、だめ。喜ばせるだけだから。

 どんなに悔しくても、どんなに悲しくても、痛くても、耐え難くても、震えを止められなくても、ただ、心を押し殺して、やり過ごさなければならない。
 そうしないと、もっともっと、ひどい目にあうだけだから。
 それが十七年で千代が学んだ生きる術だった。

「どういたしまして、お義姉さま?」

 前髪を押しやるように手を離した華枝によって、千代は食堂の床に倒れこむ。
 テーブルの下で、父の白い靴下が見えた。
 床から起き上がりながら、千代は父をそっと見上げる。
 いつものとおり、感情のないまなざしを注がれていると知りながら、期待していたのだ。
 もしかしたら、今日は――優しいお言葉を貰えるかもと。
 けれど。

「おい、珈琲」
「……申し訳ございません。すぐに」

 そして、あえかな願いはあえなく打ち砕かれる。
 痛んだ気のする胸から意識をそらして、千代は食堂を後にした。
 珈琲を準備して、布巾を取りにいって、床を片づけて、一家の食事が済んだらお皿を下げて――いつもの一日を繰り返すだけ。
 それだけで、今日も息の緒を繋ぐことを許されるのだから。

 ――わたしにも、異能があったら、父は愛してくれただろうか。
 ――継母とも、異母妹とも、親しく家族のように付き合えたのだろうか。

 そんなことは全て、考えたところで詮無き事だった。

(大丈夫、いつものことだもの、だから、大丈夫)

 従ってさえいれば、今日と同じ明日が待っている。千代を産んで儚くなった母の分も、生きていける。
 でも、時折疑問がきざすのだ。

(わたし……、どうして、生きていたのだっけ……)

 いっそ、消えてしまえたら、楽になれるのだろうか。
 そんな度胸もないくせに、思わずにはいられない。