【短編】若宮殿下の花姫さま~虐げられた乙女は運命に愛されて花開く~

「千代! 話は済んだのか?」

 瑠璃が下がった際に、瑞貴に声をかけたのだろう。
 ややあって、釣殿に戻ってきた瑞貴がとろけそうな甘い笑みを浮かべて駆け寄ってくる。

「待っている間に茶を点てたんだ。一服どうだろう」

 ……期待なんて、したくないのに。
 けれど、それはもしかしたら千代の我儘なのかもしれない。瑞貴も、瑠璃も、優しく正しい人たちだ。彼らの善意を疑うのが、千代の弱さなのだとしたら――。
 知りたいと、知らねばならないと、思った。
 正しく状況を理解するためにも。
 だから千代は瑞貴に深く頭を下げた。

「瑠璃を救い出してくださり、ありがとうございます」
「君の喜ぶ顔を見るためだ」
「何故ですか」

 尋ねてすぐに、怖くなった。
 千代には瑞貴の言葉を受け止める責務があると思うのに、彼に詰られるには心の準備が足りない気がして。

「殿下は、……わたしをお恨みではございませんか」
「まさか」

 震える手を握りしめる。

「でも、わたしは茅野の家から、あなたを追い出しました」
「逃がした、の間違いだな」
「……父は、あなたが捕まれば命の保証はないと言いました。お知らせをしないのは、見殺しにすることと変わりがありません。お知らせするのは、人として当然のことです」

 父は、ひどいことをしたと思う。

「……でも、わたしだって卑怯者です。父に、逆らう勇気もなくて、あなたに密告して追い出しただけです。父にも、わたしが密告したのだと、打ち明けられないまま今日まで逃げてきました」

 逃げた先で、瑞貴はどんな苦難に見舞われただろう。
 正しい人間だったなら、父を諫め、瑞貴を守ることができただろうか。
 後悔は今も、千代の胸中に根を張っていた。

「齢七つの、それも家族から虐げられた娘にそれは重すぎる。そんなことは俺も重々承知だった。だから俺は、君に共に来いと誘ったんだ」

 あの日のことを、千代はまだ覚えている。

「君は、足手まといになるからと断ったな。だから俺は、ただ、言葉を残した。君は正しいと。誇ってくれ。いつか必ず、俺は君に報いに行くと」

 瑞貴の言う、正しい人間として、自分を誇って生きようとした。
 その結果、瑠璃は千代のかわりに顔を焼かれた。身の程を知れと、華枝から叱責を受けた。誰も、華枝を咎めなかった。

「お義姉さまのせいで、瑠璃はこれから先、大変でしょうねえ!」

 華枝の笑い声が、今も耳にこびりついている。
 結局のところ、千代は茅野の家から大切な人を追い出すことしかできなかった。瑞貴と瑠璃が苦労すると知りながら、救い上げることもできず、窮地に追いやった。
 だから――、だから。余計なことをしないように息を殺すようになった。すでに犯した罪は、償う日が来ると思っていた。

「千代、君にとって失敗でも、俺は確かに救われたんだよ」

 瑞貴に肩を掴まれ、千代は恐る恐る顔をあげた。

「俺はあの頃、世界の何もかもが信じられなかった。母の死後、誰もが俺の地位に群がってきた。だからこそ、君の損得も何もない、まっすぐなだけの言葉に救われたんだ。君が遠ざけてくれたおかげで、俺は生きて宮中に帰ることができた。結果が全てだと言うなら、今の俺と、瑠璃を見てくれ」

 瑠璃も、瑞貴も、その瞳に一片の憎しみすら感じさせなかった。
 どこからか、藤の花びらが飛んできて、風と一緒に瑞貴の結い髪で遊ぶ。

「俺達は救われた。……だが、君は今も苦しみの中にある。君は苦しみを誰にも言わずにその胸の内に閉まってしまうから。まずは君がこの土地に慣れてから話そうと思っていた。しかし、それは間違いだったな。本当はこの地で再会したあの夜に、俺は君に謝罪したかったんだ」

 救うのが遅くなってすまない、と、瑞貴は千代を見据えて言った。
 それから、瑞貴は自嘲する。

「ずっと君に恩を返さなければと思っていた。だが――、俺が朝廷に返り咲いて、この狭間の地を任されるまでに多くの年月が過ぎ去ってしまった。ようやく君を迎えに行けると思った時、君が花姫に選ばれたことを知って……」

 瑞貴の背後で木漏れ日が水面で揺れる。きらきらと、まばゆい日差しを弾きながら。

「……正直に言えば、君が花姫に選ばれて残念だと思ったよ」

 愛おしそうに髪に触れた手に、鼓動が跳ねた。

「もし君が花姫でないとしたら」

 手をとられた。宝物でも包むように、優しい指先の熱がじわりと手のひらに溶けていく。

「君はただ、俺の花嫁になってほしかったから」

 千代は言葉を失くした。

「無論、君の意思が優先だが」

 午下の光が、瑞貴の漆黒の髪を美しくきらめかせていた。
 青みを帯びた澄んだ瞳に、千代だけが映り込んでいた。
 涙が溢れ出てくる。胸がつまって、声がでない。喉が締め付けられたようで、苦しい。

 千代こそ、心を揺さぶられていた。嬉しいと、思った。瑞貴も、瑠璃も、千代を信じてくれていた。
 ずっと、自分は臆病で矮小で、無能な人間だと思っていた。
 わかってはいるのだ。期待に応えたいのに、裏切ってしまうことが恐ろしくて、裏切られたくなくて、最初から諦めてしまっている。それが一番悪影響なのだと。

 けれどもどうしたって恐ろしい。これほど期待され、手をかけられておきながら、花姫でなかったら。
 それでも、今は応えたいと思った。

「君は少なくとも、俺の特別な人だ」

 彼の、真心に。

「いつだって俺を笑顔にしてくれる。元気づけてくれる。奮い立たせてくれる。愛おしいと、思える。そんな人は、この世に君だけだ」

 優しい声で名前を呼ばれて、千代は瑞貴を見つめ返した。

「今、君は自分を信じていない。自分を無能だと思い込んでいる。でも、それはいけない。他者にいわれたとおりに自らを卑下するばかりでは、人は歩めない。誤りがあれば認め、時に罰を受け入れることが必要なように、己を正しく見つめることができなければ、自らの人生を歩んでいるとはいえない。誰かの決めた物差しではなく、君は君自身で自分をはからなければ」

 喉のつかえがとれたようなのに、胸が詰まって苦しい。声が、形にならない。

「君が自分を信じられないなら、まずは俺を信じてほしい」

 抑え込んでいた感情が堰をきったように溢れ出てくる。

「俺がずっと、君を信じていたように」

 この冷たい世界にも、千代を想っていてくれる人がいたのだ。
 それが何より嬉しくて、千代はややあって頷いた。

「……信じたいと、思います」

 溢れ出た涙と一緒に零した言葉が、きらめく春風に溶けていった。