久闊を叙すならばと瑞貴が気遣って退室したので、千代は瑠璃と釣殿に残された。
温かい午下、池にせり出した釣殿の下を泳ぐ錦鯉が二人の水影に餌を求めて口をぱくぱくさせている。
瑠璃は千代の前に膝をつき、これまでの出来事を語って聞かせた。
「華枝様にお叱りを受け、お暇を頂戴しました後……、この顔でございますから、輿入れもできず、実家の農作業を手伝っておりましたところを、殿下にお声がけをいただいたのです」
かつて政争に巻き込まれ、国内を旅していた折の瑞貴に出会い、拾われたのだという。
「それもこれも、私が千代さまのねえやであったため、殿下はお心を配ってくださったのです。殿下はそれはもう、ずぅっと千代さまのことを想っておられましたわ」
おかしそうに、瑠璃は笑う。
「逃亡生活のさなかにも、夏になれば暑さで体調を崩していないか、冬になれば寒さで凍えていないかと、年がら年中、口をひらけば千代さまのことばかり。私をお雇いくださったのも、千代さまのお心を慰める御為でしょうね」
信頼するねえやの語る言葉に、千代は胸を揺さぶられた。
だって、瑞貴に憎まれているはずなのに、瑠璃の語る瑞貴は真心から千代を案じて慈しんでいる。
「……どうして」
「あなたがあの方をお助けしたからです」
確信を持った口ぶりに、ああそうかと合点がいき、千代は罪悪感を覚えた。
瑠璃は、知らないのだ。瑞貴と千代の間に何があったのか。
「いいえ、瑠璃、わたしは殿下をお助けなんてしていません」
知ればきっと、軽蔑される。そう思いながらももう黙っていることはできなかった。
瑠璃は千代のせいで顔を焼かれた。彼女に嘘をつくことはどうしてもできない。
「それどころか……わたしは、殿下を苦境に追いやってしまったんです」
まだ千代が幼かったころ、瑞貴が茅野の家に逗留していたことがあった。
――元をただせば宮中での、権力争いがあったのだと聞く。
帝の子であり、女官の出とはいえ寵愛を一身に受けていた公爵家出身の母を持つ瑞貴は当時から有力な皇子だった。母を早くに儚くしてなお、父帝に将来を嘱望され、正室の子である異母兄を追い落として皇太子に選ばれるのではとさえ囁かれていた。
しかし、それを妬んだ異母兄の姦計によって母君の死後、命からがら宮中から落ち延びることとなったという。
茅野当主であった伊三郎は将来の皇太子候補として有力視されていた瑞貴にすかさず手を差し伸ばし、彼の隠遁に協力した。
千代は伊三郎から、茅野本邸にかくまわれた瑞貴の面倒を見るよう、言いつけられていた。
茅野の娘が直々に瑞貴の世話をして、気に入られでもすれば、追々無能の千代にも価値が生まれると考えた父の“先行投資”だった。自分のような人間が見初められるはずがないとわかっていたものの、瑞貴の立場が哀れに思えて――同じ、母を亡くした者として、千代はまめまめしく瑞貴に仕えた。
幼い日の瑞貴は、今とは違う、いつも張り詰めた雰囲気を纏った少年だった。
母の死後、異母兄によって宮中を追われた生い立ちも影響していたのだろう。
「お前も哀れな女だな。俺のような男の面倒を見させられるとは」
千代は、手負いの獣のように警戒心が強く、とげとげしい口ぶりで声をかけてきた瑞貴の真意がわからなかった。
「なぜでしょう? わたしのような無能が皇子さまのお世話をできることは、とても名誉なことだと父は言いました」
「位を追われた皇子の世話を押し付けられて、何が名誉だ」
「そう仰られても……、瑞貴さまはわたしを叩きませんし、意地悪をなさいません。わたしは瑞貴さまのお世話ができて、とても嬉しいです」
正直に本心を打ち明けたのに、瑞貴は呆れたようにちくちくと千代を舌鋒でさし続けた。
「まさかお前は家族に軽んじられて、受け入れているのか? だいたい、自分を無能と貶めるところも気に食わない。お前の握り飯は美味いし、掃除も洗濯もしているじゃないか。そういうのは働き者というんだ。何故、いたずらに自分を卑下する? お前はこんなにも立派なのに?」
瑞貴の言葉を一気に浴びせられて、やっぱり千代はきょとんとした。
これまで、そんなふうに言ってくれる人はいなかった。
家族は冷たかったし、唯一優しいねえやも千代を憐れむことしかできなかった。
無能に生まれついた千代は“可哀想”で“哀れ”な子供。ただそれだけだったのに。
「おい、なんで笑うんだ」
「瑞貴さまのお言葉が、なんだか嬉しくて」
彼は自分を認めてくれているのだとわかった。一人の人間として。
「俺はお前を叱ったんだ。わかっているのか」
「はい、ありがとうございます」
その日、千代は久々に笑った。
瑞貴は呆れたようだったが。
それでも、いつからだろう。瑞貴が千代に心を許してくれたようになったのは。
千代は瑞貴のおかげで束の間の、人間らしい少女時代を謳歌した。
けれど、茅野家は彼にとっての安心できる終の棲家になりえなかった。
伊三郎は常日頃から、どうにか瑞貴に取り入ろうとした。全ては皇家との繋がりを得て、また、瑞貴に恩を売ることで後の後ろ盾として権力を得るために。
けれど、幼いころから英邁だった瑞貴は伊三郎の思惑をのらくらと交わし続けた。
もとより瑞貴自身が宮中に返り咲く意欲が薄かった。彼は、自分が無理に戻れば政争によって多くの命が失われる可能性を憂慮していた。
そうと知った伊三郎は、瑞貴の足取りをたどった異母兄からの接触を受けて、若宮の居場所を売ろうとした。
千代にはそれが、どうしても許せなかった。
瑞貴はただ、巻き込まれる臣民のために苦境を耐えることを選んだだけだったのに。
だから千代は、父の姦計を瑞貴に告げて逃がした。彼が他に羽を休める場所などないと知りながら、屋敷を追い出したのだ。
その先で瑞貴がどのように生き延びて、再び宮中に返り咲き、狭間の地を任されるに至ったのか、千代は知らない。
「わたしは……殿下の助けにはなれなかったの」
ぽつりぽつりと吐露した千代の言葉を、瑠璃は静かに聞いていた。
ついには顔を上げていられなくなり、俯いた千代の前にひざまずいて、顔を覗き込んでくる。刺すような鋭いまなざしには、嫌悪はなく、ただ千代を案じているようだった。
「殿下は、千代さまをお恨みしてなどおりませんよ。ずっと、おそばにいたからわかります。だからこそ私もこのとおり、お役目を頂戴することができました。お助けするのが遅くなり、申し訳ございません」
なぜ、瑠璃が謝るのか千代にはわからなかった。
「あなたがひどい目にあったのも、わたしのせいなのに……」
千代は瑞貴と袂をわかった後、一度だけ華枝に歯向かった。瑠璃を含む女中たちをいたずらに虐げ、真冬だというのにバケツの水を浴びせかけたことを咎めたのだ。
千代に歯向かわれた華枝は激怒して、怒りの矛先を千代と親しい瑠璃に向けた。
そうすることで、より効果的に千代を苦しめられると華枝は知っていたから。
「あなたは私たちを守ろうとしてくださっただけでしょう」
「守れなかったじゃない……!」
立派だと言ってくれた瑞貴の言葉に報いたかった。
彼を救えなかった分、他の人たちを救いたかった。
そうすることで、いつかまた瑞貴と出会えた時に、前を向いていられると思った。
結果として、千代の手出しで瑠璃は取り返しのつかない怪我を負ってしまった。
「わたしが、駄目な人間だったから……!」
「私は救われたのです。恐らく、殿下も。あなたの優しさに。前を向こうとする強さに。千代さまはこれまで苦境にいらっしゃった分、信じることは恐ろしいでしょうが」
釣殿に、木の葉が落ちた。水面が揺らぐ。
「殿下のことだけは今一度、どうか、信じてみてくださいまし」
温かい午下、池にせり出した釣殿の下を泳ぐ錦鯉が二人の水影に餌を求めて口をぱくぱくさせている。
瑠璃は千代の前に膝をつき、これまでの出来事を語って聞かせた。
「華枝様にお叱りを受け、お暇を頂戴しました後……、この顔でございますから、輿入れもできず、実家の農作業を手伝っておりましたところを、殿下にお声がけをいただいたのです」
かつて政争に巻き込まれ、国内を旅していた折の瑞貴に出会い、拾われたのだという。
「それもこれも、私が千代さまのねえやであったため、殿下はお心を配ってくださったのです。殿下はそれはもう、ずぅっと千代さまのことを想っておられましたわ」
おかしそうに、瑠璃は笑う。
「逃亡生活のさなかにも、夏になれば暑さで体調を崩していないか、冬になれば寒さで凍えていないかと、年がら年中、口をひらけば千代さまのことばかり。私をお雇いくださったのも、千代さまのお心を慰める御為でしょうね」
信頼するねえやの語る言葉に、千代は胸を揺さぶられた。
だって、瑞貴に憎まれているはずなのに、瑠璃の語る瑞貴は真心から千代を案じて慈しんでいる。
「……どうして」
「あなたがあの方をお助けしたからです」
確信を持った口ぶりに、ああそうかと合点がいき、千代は罪悪感を覚えた。
瑠璃は、知らないのだ。瑞貴と千代の間に何があったのか。
「いいえ、瑠璃、わたしは殿下をお助けなんてしていません」
知ればきっと、軽蔑される。そう思いながらももう黙っていることはできなかった。
瑠璃は千代のせいで顔を焼かれた。彼女に嘘をつくことはどうしてもできない。
「それどころか……わたしは、殿下を苦境に追いやってしまったんです」
まだ千代が幼かったころ、瑞貴が茅野の家に逗留していたことがあった。
――元をただせば宮中での、権力争いがあったのだと聞く。
帝の子であり、女官の出とはいえ寵愛を一身に受けていた公爵家出身の母を持つ瑞貴は当時から有力な皇子だった。母を早くに儚くしてなお、父帝に将来を嘱望され、正室の子である異母兄を追い落として皇太子に選ばれるのではとさえ囁かれていた。
しかし、それを妬んだ異母兄の姦計によって母君の死後、命からがら宮中から落ち延びることとなったという。
茅野当主であった伊三郎は将来の皇太子候補として有力視されていた瑞貴にすかさず手を差し伸ばし、彼の隠遁に協力した。
千代は伊三郎から、茅野本邸にかくまわれた瑞貴の面倒を見るよう、言いつけられていた。
茅野の娘が直々に瑞貴の世話をして、気に入られでもすれば、追々無能の千代にも価値が生まれると考えた父の“先行投資”だった。自分のような人間が見初められるはずがないとわかっていたものの、瑞貴の立場が哀れに思えて――同じ、母を亡くした者として、千代はまめまめしく瑞貴に仕えた。
幼い日の瑞貴は、今とは違う、いつも張り詰めた雰囲気を纏った少年だった。
母の死後、異母兄によって宮中を追われた生い立ちも影響していたのだろう。
「お前も哀れな女だな。俺のような男の面倒を見させられるとは」
千代は、手負いの獣のように警戒心が強く、とげとげしい口ぶりで声をかけてきた瑞貴の真意がわからなかった。
「なぜでしょう? わたしのような無能が皇子さまのお世話をできることは、とても名誉なことだと父は言いました」
「位を追われた皇子の世話を押し付けられて、何が名誉だ」
「そう仰られても……、瑞貴さまはわたしを叩きませんし、意地悪をなさいません。わたしは瑞貴さまのお世話ができて、とても嬉しいです」
正直に本心を打ち明けたのに、瑞貴は呆れたようにちくちくと千代を舌鋒でさし続けた。
「まさかお前は家族に軽んじられて、受け入れているのか? だいたい、自分を無能と貶めるところも気に食わない。お前の握り飯は美味いし、掃除も洗濯もしているじゃないか。そういうのは働き者というんだ。何故、いたずらに自分を卑下する? お前はこんなにも立派なのに?」
瑞貴の言葉を一気に浴びせられて、やっぱり千代はきょとんとした。
これまで、そんなふうに言ってくれる人はいなかった。
家族は冷たかったし、唯一優しいねえやも千代を憐れむことしかできなかった。
無能に生まれついた千代は“可哀想”で“哀れ”な子供。ただそれだけだったのに。
「おい、なんで笑うんだ」
「瑞貴さまのお言葉が、なんだか嬉しくて」
彼は自分を認めてくれているのだとわかった。一人の人間として。
「俺はお前を叱ったんだ。わかっているのか」
「はい、ありがとうございます」
その日、千代は久々に笑った。
瑞貴は呆れたようだったが。
それでも、いつからだろう。瑞貴が千代に心を許してくれたようになったのは。
千代は瑞貴のおかげで束の間の、人間らしい少女時代を謳歌した。
けれど、茅野家は彼にとっての安心できる終の棲家になりえなかった。
伊三郎は常日頃から、どうにか瑞貴に取り入ろうとした。全ては皇家との繋がりを得て、また、瑞貴に恩を売ることで後の後ろ盾として権力を得るために。
けれど、幼いころから英邁だった瑞貴は伊三郎の思惑をのらくらと交わし続けた。
もとより瑞貴自身が宮中に返り咲く意欲が薄かった。彼は、自分が無理に戻れば政争によって多くの命が失われる可能性を憂慮していた。
そうと知った伊三郎は、瑞貴の足取りをたどった異母兄からの接触を受けて、若宮の居場所を売ろうとした。
千代にはそれが、どうしても許せなかった。
瑞貴はただ、巻き込まれる臣民のために苦境を耐えることを選んだだけだったのに。
だから千代は、父の姦計を瑞貴に告げて逃がした。彼が他に羽を休める場所などないと知りながら、屋敷を追い出したのだ。
その先で瑞貴がどのように生き延びて、再び宮中に返り咲き、狭間の地を任されるに至ったのか、千代は知らない。
「わたしは……殿下の助けにはなれなかったの」
ぽつりぽつりと吐露した千代の言葉を、瑠璃は静かに聞いていた。
ついには顔を上げていられなくなり、俯いた千代の前にひざまずいて、顔を覗き込んでくる。刺すような鋭いまなざしには、嫌悪はなく、ただ千代を案じているようだった。
「殿下は、千代さまをお恨みしてなどおりませんよ。ずっと、おそばにいたからわかります。だからこそ私もこのとおり、お役目を頂戴することができました。お助けするのが遅くなり、申し訳ございません」
なぜ、瑠璃が謝るのか千代にはわからなかった。
「あなたがひどい目にあったのも、わたしのせいなのに……」
千代は瑞貴と袂をわかった後、一度だけ華枝に歯向かった。瑠璃を含む女中たちをいたずらに虐げ、真冬だというのにバケツの水を浴びせかけたことを咎めたのだ。
千代に歯向かわれた華枝は激怒して、怒りの矛先を千代と親しい瑠璃に向けた。
そうすることで、より効果的に千代を苦しめられると華枝は知っていたから。
「あなたは私たちを守ろうとしてくださっただけでしょう」
「守れなかったじゃない……!」
立派だと言ってくれた瑞貴の言葉に報いたかった。
彼を救えなかった分、他の人たちを救いたかった。
そうすることで、いつかまた瑞貴と出会えた時に、前を向いていられると思った。
結果として、千代の手出しで瑠璃は取り返しのつかない怪我を負ってしまった。
「わたしが、駄目な人間だったから……!」
「私は救われたのです。恐らく、殿下も。あなたの優しさに。前を向こうとする強さに。千代さまはこれまで苦境にいらっしゃった分、信じることは恐ろしいでしょうが」
釣殿に、木の葉が落ちた。水面が揺らぐ。
「殿下のことだけは今一度、どうか、信じてみてくださいまし」
