俺は観測者であって、主人公じゃない。

廊下の角を曲がった瞬間、俺は足を止めた。

 いた。

 いたいたいたいた。

 いたんですけど!?

 窓際に立つ金髪の少年。

 その隣には、少し気だるげな表情を浮かべた赤茶色の髪の少年がいる。

 金髪の少年が笑いかけると、赤茶色の髪の少年は一瞬だけ目をそらした。

 ……は?

 今の何?

 照れた?

 いや、照れたよね?

 ちょっと待って、まだ出会って間もない時期だよね!? 原作だと、ここでこんな表情してたっけ!?

 俺の脳内に、前世で何度も読み返した原作のページが浮かぶ。

 金髪の少年、アレン・エヴァレット

 そして、アレンの恋人になる騎士科の生徒、カイル・グランツ

 この二人は、物語の後半でさまざまな困難を乗り越え、最後には結ばれる。

 つまり。

 俺の推しCPである。

 しかも今、目の前で会話している。

 生で。

 実物が。

 同じ空気を吸っている。

「………………」

 やばい。

 語彙力が死んだ。

 いや、待て。落ち着け、朝比奈湊。

 俺は今、モブとしてこの世界に存在している。

 ここで騒いで推しに変な印象を与えるわけにはいかない。

 俺はそっと壁の陰に隠れた。

 そして、聞き耳を立てる。

「カイル、今日の実技試験、一緒に練習しない?」

「……お前、昨日もそう言っていただろ」

「いいじゃないか。君と練習したいんだ」

 …………。

 ………………。

 ………………は???

 俺は両手で口を押さえた。

 待って。

 待って待って待って。

 その台詞、原作にあったっけ!?

 いや、あった気がする。いや、でも、こんな序盤じゃなかったはずだ。

 ということは、俺が転生したことで何かが変わっている?

 いやいやいや。俺、まだ何もしてないぞ!?

 ただのモブだぞ!?

 推しCPの邪魔なんて、絶対にしたくない。

 俺は心に誓った。

 原作の流れを変えない。

 余計なことをしない。

 そして、可能な限り近くで推しを見守る。

 ……最後の一つは、ちょっと欲張りかもしれない。

「何をしている?」

「ひゃっ!?」

 突然、背後から声がした。

 俺は飛び上がった。

 振り返ると、そこには黒髪の少年が立っていた。

 整った顔立ち。涼しげな青灰色の瞳。隙のない制服の着こなし。

 そして、周囲の空気まで冷たくなりそうな無表情。

 ……え。

 …………ええ?

 レオン・ヴァイス。

 王立魔法学院でも有名な、魔法の天才。

 そして、俺が読んでいた原作でも屈指の人気キャラクター。

 まさかの推しその二が、目の前にいる。

「お前、さっきから何をしている?」

「な、何も!?」

「壁に隠れていたように見えたが」

「これは、その……壁の状態を確認していて!」

「壁?」

「はい! 壁です! 非常に立派な壁ですね!」

 何を言っているんだ俺は。

 レオンは数秒、無言で俺を見つめた。

 そして、小さく息を吐く。

「……変な奴」

 知ってる。

 俺が一番よく知ってる。

 自分でもそう思う。

 けれど、レオンがそのまま立ち去ろうとした瞬間、俺は思わず口を開いていた。

「あ、あの!」

 レオンが振り返る。

「……何だ?」

「握手してください!!」

 …………。

 ………………。

 終わった。

 俺の学院生活、初日で終わった。

 レオンは無表情のまま、俺を見ていた。

 俺は心の中で泣いた。

 違うんです。

 推しが目の前にいたら、握手くらいしたくなるじゃないですか。

 いや、そもそも握手を求める相手じゃないんだけど。

 数秒後。

「……握手?」

「すみませんでした」

「別に、謝れとは言っていない」

 そう言って、レオンは右手を差し出した。

 …………え?

 いいの?

 本当に?

 俺は恐る恐る、その手を握った。

 大きくて、温かい手だった。

「……これでいいか?」

「…………はい」

 やばい。

 推しと握手した。

 推しと。

 握手。

 した。

 俺は今すぐ墓を建ててもいいと思った。

 そんな俺を見て、レオンはほんの少しだけ眉をひそめた。

「……お前、本当に変な奴だな」

 その声が、なぜか少しだけ柔らかかったことに。

 このときの俺は、まったく気づいていなかった。

れる〜

「……お前、変な奴だな」

 レオン・ヴァイスは、俺の手を離すと、心底不思議そうな顔でそう言った。

 黒髪に、青灰色の瞳。整った顔立ちに、近寄りがたい雰囲気。

 そう。彼こそが、俺が前世で何度も読み返したBL小説『月影の魔法学院』の重要キャラクターである。

 しかも、黒髪クール系。

 属性が強い。顔面が強い。存在が強い。

 なのに、今の俺はそんな彼を前にして、握手をしてもらっただけで感極まっている変人と化していた。

「いやぁ……今日も世界は美しい……」

「……気持ち悪いことを言うな」

「すみません!!」

 反射で謝った。

 レオンは小さくため息をつくと、俺を置いて歩き出した。

 うん。これでいい。

 原作のレオンは、基本的に他人に興味がない。そんな彼が俺に構う理由なんてないのだ。

 俺はモブ。彼は重要キャラ。

 関わりすぎず、原作を守り、推しカプの幸せを見届ける。

 それが俺の使命である。

「よし。まずはアレンとカイルの進展を見守って……」

「何を見守るんだ?」

「ひゃあっ!?」

 振り返ると、さっき去ったはずのレオンが立っていた。

「な、なんでもありません!」

「独り言が多いな、お前」

「趣味です!」

「……変な趣味だな」

 ですよね!!

 俺もそう思います!!

 レオンは今度こそ歩いていった。

 俺はその背中を見送り、胸に手を当てた。

「危ない危ない……。推しに不審者認定されるところだった」

 いや、もうされている気もする。

 まあいい。俺には本命の観測対象がいるのだから。

 そう、アレンとカイル。

 金髪の主人公アレンと、騎士科のカイル。

 この二人が少しずつ距離を縮め、やがて互いにかけがえのない存在になっていく。それこそが『月影の魔法学院』の最大の魅力なのだ。

 俺が恋愛する必要なんてない。

 恋愛は画面の向こうで起きているから尊いのである。

 ……いや、今は画面の向こうじゃないけど。

 とにかく!

 俺は恋愛しない。

 絶対に。

 そう決意して歩き出した、その瞬間だった。

「おっと。危ないよ?」

「へ?」

 目の前に、ひょいっと人影が現れた。

 俺が避けようとした方向と、相手が避けようとした方向が見事に一致する。

 右。

 右。

 左。

 左。

 右。

「「あっ」」

 ごつん。

「いったぁ……!」

「ごめんごめん! 大丈夫?」

 俺の目の前に、柔らかな栗色の髪が揺れた。

 琥珀色の瞳。

 人懐っこい笑顔。

 そして、誰にでも気軽に話しかけるような、明るい雰囲気。

 ……。

 …………。

 ………………。

 待て。

 待ってくれ。

 その顔、その髪、その笑顔。

 俺は知っている。

 知りすぎている。

「……ノ、ノア……?」

「ん? そうだけど。俺のこと知ってるの?」

 ノア・フェルゼン。

 魔法学院の人気者であり、貴族の家柄でありながら気さくで、男女問わず友人が多い人物。

 そして、原作では主人公アレンとも仲がいい、あのノア・フェルゼン!!

 実物だ。

 本物だ。

 公式イラストより顔がいいんですけど!?

 いや、公式イラストも最高だった。

 でも実物は、まつ毛の一本一本まで存在している。

 当たり前だ。実物だからな!!

「……っ」

「え、どうしたの? 頭ぶつけた?」

「ノア・フェルゼン……!」

「うん、そうだけど?」

「実在してる……!」

「え?」

「本当に実在してる……!!」

「えっ、俺、実在してるよ?」

 そうだね!!

 ごめんね!!

 お前が実在していることに感動しているんだ!!

 前世の俺に教えてやりたい。

 お前が大好きだった小説の世界に転生したぞ、と。

 しかもノアと直接会話しているぞ、と。

 なんなら今、ノアが俺のことを心配してくれているぞ、と。

 前世の俺、成仏してくれ。

 いや、俺が成仏しそうだわ。

「……あの、もしかして俺のファン?」

 ノアが首をかしげた。

 俺は勢いよく顔を上げた。

「はいっ!!」

「即答!?」

 しまった。

 違う。

 俺はノアのファンというより、原作のファンだ。

 いや、ノアも好きだ。

 でも俺の最推しはアレンとカイルのカップリングであって、ノア単体を推しているというよりは……。

 いや、何を考えているんだ俺は。

 本人を前にして、推しの分類を考えるな。

「えっと……ノアくんって、アレンくんと仲いいよね!?」

「うん。アレンとはよく話すよ」

「そうなんだ!!」

 来た。

 来たぞ。

 原作情報を本人の口から聞けるという、夢のような瞬間が。

 俺は思わずノアの両手を握りしめた。

「アレンくんって、最近カイルくんと一緒にいること多い!?」

「えっ? ああ、そうかも。最近よく一緒に練習してるよね」

「練習!! なるほど、練習ね!!」

 素晴らしい。

 原作通りだ。

 アレンがカイルを練習に誘い、カイルは口では面倒そうにしながらも付き合う。

 そして、気づけば二人の時間が増えていく。

 いいぞ。

 その調子だ。

 もっとやれ。

 もっと一緒にいてくれ。

 俺は二人の幸せを全力で応援するからな!!

「……ミナト・アステルくん、だっけ?」

「えっ!?」

 しまった。

 自己紹介していないのに、なぜ名前を!?

「あ、ごめん。制服の名札に書いてあったから」

「ああ、なるほど……!」

 俺の名前は朝比奈湊。

今世はミナト・アステル。

 前世では十八歳の腐男子。

 今世でも十八歳の腐男子。

 そして現在、原作キャラに原作の話を聞き出そうとしている不審者である。

「ミナトくんって、アレンのことが好きなの?」

「えっ!?」

 ノアがにこにこしながら聞いてきた。

 俺は一瞬、思考が停止した。

 好き。

 好きか、アレン。

 もちろん好きだ。

 主人公として魅力的だし、健気だし、頑張り屋だし。

 でも、そういう意味じゃない。

 俺はアレンと恋愛したいわけではない。

 アレンとカイルが恋愛するところを見たいのである。

 ここ、テストに出ます。

「好きだけど、そういう好きじゃない!!」

「そういう好き?」

「いや、えっと……応援してるっていうか!」

「へえ?」

 ノアの笑顔が深くなった。

「じゃあ、アレンとカイルが一緒にいるところを見るのが好き?」

「…………」

 え?

 なんで?

 なんで知ってるの?

 お前、原作ではそんなに鋭いキャラじゃなかったよな!?

 いや、明るくて人のことをよく見ている設定はあったけど!!

「……な、なんでそう思うの?」

「だって、さっきから二人の話をするとき、すっごく楽しそうだから」

「…………っ!」

 観察眼が鋭い!!

 ノア・フェルゼン、恐るべし!!

 俺は慌てて両手を振った。

「ち、違うよ! 俺はただ、友達同士が仲良くしているのを見るのが好きなだけで!」

「ふーん?」

「本当だよ!?」

「そっか。じゃあ、今度二人が一緒にいるところを見かけたら教えてあげようか?」

「ぜひお願いします!!」

 即答だった。

 またしても即答だった。

 ノアは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。

「ははっ! ミナトくん、面白いね!」

 面白い。

 その言葉は、腐男子にとって褒め言葉なのだろうか。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。

 ノアが笑っている。

 目の前で。

 俺に向かって。

 尊い。

 この世界、最高では?

 ……いや、待て。

 俺はここで浮かれてはいけない。

 原作キャラと仲良くなるのはいい。情報収集もできる。

 でも、あまり目立つと原作に影響が出る可能性がある。

 俺はあくまでモブ。

 背景に溶け込み、原作を見守る存在。

 よし。これからは慎重に行動しよう。

「ところでミナトくん」

「はいっ!」

「さっきから俺の顔、ずっと見てるけど」

「…………」

「俺の顔に何かついてる?」

「いえ。顔面が国宝だなと思いまして」

「こくほう?」

「忘れてください!!」

 初対面で何を言っているんだ俺は!!

 ノアはまた笑った。

「やっぱり面白いなあ、ミナトくん。俺、君のこと気に入ったかも」

「…………え?」

 気に入った?

 俺を?

 原作キャラが?

 モブの俺を?

 ……。

 いやいやいや。

 落ち着け、朝比奈湊。

 これは単に、変な奴として興味を持たれただけだ。

 恋愛フラグではない。

 絶対にない。

 俺に恋愛ルートなんて存在しないのだから。

「は、ははは! ありがとうございます! では俺はこれで!」

「えっ、もう行くの?」

「はい! 推しカプの平和を守るために!」

「……推しカプ?」

「何でもありません!!」

 俺は逃げた。

 全力で逃げた。

 背後からノアの楽しそうな笑い声が聞こえた気がしたけれど、振り返らなかった。

 振り返ったら、また何かやらかす気がしたからだ。

 そして俺は、校舎の角を曲がったところで壁に手をついた。

「……危なかった」

 原作キャラと会話するだけで、こんなに心臓に悪いとは。

 でも、ノアと知り合えたのは大きい。

 これからアレンとカイルの進展を教えてもらえるかもしれない。

 最高だ。

 最高すぎる。

 俺の転生生活、始まったばかりなのに充実度がすごい。

 ……ただし。

 俺が恋愛する予定は、ない。

 推しの恋愛を見届ける。

 それだけで十分だ。

 そう、俺は決して――

「アステル」

「ぎゃあああああっ!?」

 突然、背後から低い声がした。

 振り返ると、そこには黒髪の美形が立っていた。

 レオン・ヴァイス。

 どうしてお前は、いつも気配なく現れるんだ!?

「……お前、さっきのフェルゼンと何を話していた?」

「えっ? えっと、世間話?」

「世間話であんなに騒ぐのか」

「俺、声が大きいタイプなんで!」

「そうは見えないが」

「見た目で人を判断してはいけません!」

「……やっぱり変な奴だな」

 レオンは心底不思議そうに俺を見た。

 その視線には、恋愛感情なんて当然ない。

 あるのはただ、「こいつは何なんだ」という純粋な疑問だけ。

 よし。

 それでいい。

 そのままでいてくれ。

 俺はモブとして平和に生きたいんだ。

「ところで、アステル」

「はい?」

「フェルゼンに何を言ったら、あんなに笑うんだ?」

「……え?」

「さっき、廊下の向こうまで聞こえていた。あいつがあんなふうに笑っているのは珍しい」

 ……なるほど。

 レオンは、ノアが笑っていた理由を知りたいらしい。

 そりゃそうだ。

 ノアは誰とでも話せるけれど、あそこまで大笑いするのは珍しい。

 原作でも、ノアの笑顔は周囲を明るくする一方で、本心を隠すためのものとして描かれる場面があった。

 そんなノアが、俺の言動で笑っていた。

 ……いや、俺の言動が変だっただけだけど。

「……特に何も?」

「嘘が下手だな」

「うっ」

「まあいい。お前に聞いても無駄そうだ」

 レオンはそう言って、さっさと歩き出した。

 俺はその背中を見ながら、ふうっと息を吐く。

 危なかった。

 レオンにまで変な奴認定されている。

 いや、もう手遅れかもしれない。

 でも、いい。

 アレンとカイルが原作通りに結ばれるなら、それでいいのだ。

 俺は恋愛の当事者にはならない。

 俺は観測者。

 モブA。

 壁のシミ。

 背景の一部。

 ……よし、明日からはもっと目立たないようにしよう。

 そう心に誓った俺は、まだ知らなかった。

 この日から、ノアが俺を見つけるたびに話しかけてくるようになることも。

 レオンが俺を見るたびに「また変なことをしている」と眉をひそめるようになることも。