毒餌として捨てられた妖狐は、鬼神様の初恋でした

遡ること一年前。

 妖狐の屋敷で、狐の一族で執り行われる次期当主・凛介のお披露目会があった。
 招かれた客は、鬼の一族を束ねる当主・源三と、その正妻である緑子、そして嫡男の光一であった。


霧が石畳を白く曇らせる朝、緑子は鏡の前で長く息を吐いた。
艶やかな黒髪を低く結い、深緑の着物に身を包むその横顔は凛としていながらもどこか翳りを帯びている。


 本来ならば、当主夫妻そろって参列すべき祝いの席。
しかし、当主の源三を人前に立たせることはもはや叶わなかった。

 かつて剛毅と冷静をもって知られた鬼の当主は、今や正気を失っている。
笑うべきでないところで笑い、怒るべきでないところで怒り、時折、誰もいない空間に向かって愛おしげに語りかける。

 その姿を他の妖に晒すことは、鬼の一族の威信を地に落とすに等しい。
  ゆえに緑子は愛する息子の光一だけを連れ、狐の屋敷へ向かうことになっていた。

ーーそもそも、すべての歯車が狂い始めたのは、源三が鬼の花嫁制度で嫁いできた人間の女に欲情したあの日からだ。

 妖である鬼は人間に恋などしない。
人を前にして胸に湧くのは、ただ喰らうべき獲物としての衝動のみ。


 それが鬼という種の理であった。
それなのに源三は、人間の花嫁である冬子を抱いた。

 白無垢の奥に隠された柔らかな体温に溺れ、禁を破ったのだ。
 その果てに生まれたのが、影一郎である。
 生まれ落ちた赤子の顔を覗き込んだ瞬間、居並ぶ鬼たちは息を呑んだ。
 あるべきは、鬼の証である燃えるような赤い瞳ではない。



 影一郎の瞳は、夜更けの藤を思わせる紫色をしていた。
 その色を見て誰もが悟った。
冬子はただの人間ではない。人と雪女の混血ーー人心を惑わし、妖すら魅了する忌まわしき雪女の血を引く女だったのだと。



 雪女は冷たい美貌と甘い声で心を縛り理を狂わせる。

『鬼の当主ともあろう方が、人間ごときに子を産ませるなど恥辱』

『この事実が知れ渡れば、鬼は雪女の一族に謀られたと嗤われる』


 重苦しい沈黙の中、結論はすぐに出た。
影一郎は始末するーーそれが鬼の一族の総意であった。

 だが源三は当主の権限を振りかざし、その決定を退けた。