毒餌として捨てられた妖狐は、鬼神様の初恋でした

――話がある。


 応接間に入ると、香炉から立ち上る沈香の匂いが薄紫の煙となって天井に溶けていた。
 障子越しに差し込む西日が、影一郎の輪郭を金色に縁取っている。

「来週のことだが、実は、妖狐の屋敷で次期当主、狐神凛介の誕生祭がある」

 影一郎は直子の反応を測るように見つめていた。


「あっ」

 思わず、息が零れた。


 凛介の誕生祭。

 それは直子にとって特別な日だった。
 五十年以上前、彼に恋をしてから、その日を忘れたことは一度もなかった。
 凛介の誕生日が近づくと、自然と指を折り、今年はどんな言葉を贈ろうか胸を高鳴らせてきた。

(すっかり忘れてたわ)



 自分でも信じられず直子は小さく唇を噛んだ。

「君が、気が進まないのなら無理に参加する必要はない」

 影一郎はそう言って真っ直ぐに直子を見つめた。

 紫水晶のようなその瞳。

 影一郎はいつだって、直子の選択を尊重し守ろうとしてくれるのは彼女に伝わっていた。
 直子は一瞬、視線を伏せ、それからゆっくりと顔を上げる。



「もちろん、参加しますわ。それも鬼の花嫁としての勤めだと思いますから」

 直子はかつてのような切なさも、縋るような恋心も自分の中になくなっている事に気がついていた。


 凛介の誕生日を迎える。
(私の心を、五十年以上も弄び続けた狐)

 胸の奥で、鈍く黒い感情が蠢いた。


 かつては一言の笑み、一瞬の視線にすら胸を焦がした。

 その深い恋心は、確実に別の色へと変わりつつある。

 ーー憎しみ。

 それは激しく燃え上がる炎ではない。

 消えぬ余熱のように、静かに、冷たく心を侵食していく感情だった。


 ♢♢♢



 誕生祭の夜、直子は煌びやかなドレスに身を包んでいた。
 西洋仕立ての絹は淡い月光色で、歩くたびに柔らかな光を返す。

 大正の流行を取り入れつつも、どこか妖の集いに相応しい現世離れした気配を纏っていた。
 正装した影一郎が静かに腕を差し出す。

 銀の装飾を施した洋装は、鬼の次期当主としての威厳を隠しもせず放っていた。



 狐の屋敷へ向かう馬車は夜の街を滑るように進む。
 瓦斯灯の光が硝子越しに流れ、直子の横顔を一瞬ずつ照らしては消えていった。

 屋敷の門前に着くと馬車の扉が開かれる。