毒餌として捨てられた妖狐は、鬼神様の初恋でした

 それは、鬼の当主としての選択であり、同時に、初恋を裏切らないための、たった一つの選択でもあった。

♢♢♢

 初恋の女を妻とした影一郎は彼女に自信を取り戻してほしいと、デートに誘った。


 都は、冬の名残を抱えた春先だった。

 路面電車が軋む音を立て、洋装の紳士淑女と和装の人々が行き交う。
 硝子越しに並ぶ舶来菓子、珈琲の香り。
 妖の世界とは違う、人間の営みが息づく場所。

「こういう所、初めてです」
 直子は、少し距離を空けて歩きながら言った。

 控えめに視線を巡らせるその仕草は、かつての直とは似ても似つかないもの。

 華やかな街灯と硝子窓に映る洋装の人々。そのどれもが眩しすぎるかのように直子は視線を落とし肩をすくめる。

「ここに来るのは嫌だったか?」

 影一郎の問いは静かだったが不安を孕んでいた。


 直子は首を振りすぐには答えず、まるで言葉を探すように指先を絡める。

「いえ、ただ⋯⋯夢のような場所で私なんかが、ここにいて良いのかと⋯⋯」

 指が白くなるほどに組まれ、やがて、絞り出すように続けた。
 その声は街の喧騒にかき消されそうなほど小さい。

 影一郎は胸の奥がちくりと痛んだ。
「いいに決まってる。今日は鬼の花嫁に選ばれてしまったこととか、未来の不安とか忘れて楽しんでくれると嬉しい」

 反射的に言葉がこぼれる。
 それでも足りないと思い、彼は一度息を吸い意を決して続けた。

 ガス灯の淡い光が影一郎の横顔を照らす。

「ただ、俺の隣で楽しく笑ってくれれば、俺はこれ以上ないくらい幸せだ」

 直子は、驚いたように目を瞬かせた。

 その瞳に映る自分がどこか怯えた顔をしていることに影一郎は気づいていない。

「それが影一郎様の願いですか?」

 一瞬の沈黙の後、直子は静かに問う。

 あまりにも率直な問いだった。