毒餌として捨てられた妖狐は、鬼神様の初恋でした

 直は恐る恐る氷に触れた。



 指先に伝わるのは、刺すような冷たさと不思議な安定感。
 時間に抗うような確かな存在感がそこにあった。



「私のために冷蔵庫を作ってくれたの? 優しいのね」

 直はゆっくりと顔を上げ微笑む。
 ベール越しに見たその笑みは、影一郎がこれまで見てきたどんな妖のものとも違っていた。

 恐れも、欲も、計算もない。ただ、人として誰かを見つめる温度を持った微笑み。

「私のために、こんな素敵なことをしてくれたのは貴方が初めてよ」



 蔵の中にありえないはずの温もりが満ちていく。
 氷が溶けないまま心だけがゆっくりと解けていった。

 影一郎はその瞬間、自分の胸の奥で長い間凍りついていた何かが確かに息を吹き返したのを感じていた。

 雪は、いつの間にか本降りになっていた。

 蔵の小さな窓を叩くように、白い結晶が静かに絶え間なく降り積もっていく。

 外界の祝宴のざわめきは、もう遠い。

 ここには、燻製の香りと、木の古い匂い、そして二人分の呼吸だけがあった。

 影一郎と直は向かい合って腰を下ろし、静かな雪の音を聞きながら食事をした。



「名前は名乗りたくないみたいだから、貴方のことは、“雪”と呼ぶわね」

 直が、箸を持ったまま、ふと思い出したように言った。
 卓上には質素な煮物と白い飯。湯気はもうほとんど立たず、蔵の冷えた空気の中でゆっくりと消えていく。

 影一郎は、わずかに肩を揺らした。



「ああ、好きなように呼んでくれて構わない」

 影一郎が拒む理由はなかった。

 むしろ、直が付けてくれた名前で呼ばれる事が心の奥に静かに染み込んでくる。

 人に名を与えられるという行為が、これほどまでに温度を持つものだとは知らなかった。

「さっき直は妖はいずれ淘汰されるみたいなことを言ってたけどどういうことだ?」

 影一郎は箸先を見つめたまま、しばらく逡巡してから口を開く。



 氷のように澄んだ指先が微かに震えている。
 直は箸を止め、少し身を乗り出して彼の顔を覗き込んだ。

 蔵の梁の隙間から差し込む月明かりが彼女の瞳を琥珀色を輝かせているのだろうか。
 ベール越しに見える彼女の瞳に影一郎は胸が高鳴っていた。



「興味ありそうね。さては、妖なんて全滅してしまえって思いながら生きてきたんでしょう?」