毒餌として捨てられた妖狐は、鬼神様の初恋でした

古い蔵の奥、土壁に囲まれた蔵の中は湿った冷気が肌にまとわりつく。
 煤と古木の匂いが混じり合い、時の流れから取り残されたような静けさが支配していた。

「少し、待ってみたら?」
直の声は諭すでも、縋るでもなく意外なほど穏やかだった。

 ただ、静かな提案として闇の中に落とされる。

「⋯⋯えっ?」

 影一郎は顔を上げる。
 ベール越しに見る直の輪郭は、月の淡い光を受けてぼんやりと霞んでいた。

「今日死んだら、明日やって来るかもしれない幸せに会えないでしょう?」

 その言葉は刃のように鋭くもなく慰めのように甘くもない。
けれど確かに影一郎の胸の奥に、小さな棘として刺さった。



「君だって、こんな酷い生活をして、死にたいとは思わないのか?」
影一郎は思わず、声が零れる。
 蔵に満ちる沈黙。

 外から聞こえるのは、風に揺れる木々のざわめきと静かに降る雪の音だけだった。

「別に思わないわ。ただ冷蔵庫が欲しいとは思うけどね」

 直は、拍子抜けするほど軽く迷いなく言った。

 一瞬、影一郎は言葉を失った。
 次いで、堪えきれないように喉の奥から小さな笑いがこぼれる。

 それは長い間、忘れていた感覚だった。

 影一郎は蔵の隅に置かれた、古い引き出しの前へ歩み寄る。

 木目は黒ずみ、何度も時代を越えて使われてきた痕跡が残っている。

 影一郎がそっと手をかざし霊力を流し込むと、ひやりと空気が震えた。

 目に見えぬ水分が一斉に凝結し、淡い光を孕みながら透明な氷が静かに形を成していく。

 ひび割れひとつない、澄み切った氷は溶けることのない雪女の氷だ。
 直は息を呑み、思わず一歩近づいた。

 そのまま、無意識に影一郎のベールへと手を伸ばす。

「わっ!」

 布がわずかにずれ、そこから現れたのは冬の湖面のように透き通る青い瞳だった。
 人のものとは思えぬ冷たさと、底知れぬ静けさを湛えている。

 影一郎の瞳は普段は紫色をしているが、鬼の力を使うと赤くなり、雪女の力を使うと青くなった。
「貴方、雪女なのね。鬼の屋敷に囚われているの?」



 直の声がかすかに震える。


 影一郎は否定も肯定もせず、ただ静かに息を吐いた。

「そうかもしれない」

 蔵の中の冷気が、さらに深まる。

「この氷は、霊力で作ったものだから溶けないよ」