毒餌として捨てられた妖狐は、鬼神様の初恋でした

障子越しに射し込む月明かりが、磨き上げられた床板に淡く反射し、静まり返った空気の中で二人の吐息だけが微かに揺れている。
 虐げられて生きてきた人生の果てに、これほどまでに深く、重く、甘美な愛を受ける日が来るなど、かつて想像したこともない。
 鬼神影一郎(きしんえいいちろう)ーー鬼の名門・鬼神家の次期当主。

 本来ならば、直子は彼に喰われ、毒となって命を奪う存在だった。

 妖狐一族が仕込んだ「毒餌」――それが、彼女に与えられた役目だったのだから。
 直子は、ゆっくりと顔を上げた。

「影一郎様。もう、私は逃げませんわ。

 影一郎は驚いたように、そっと彼女の顔を覗き込む。
 そこにあったのは、嫁いできた当初、怯えと自己否定に支配されていた直子の面影ではない。


 静かな覚悟と揺るぎない意志を宿した瞳。
 次の瞬間、日本人形のように黒く艶やかだったその瞳がまばゆく輝く琥珀色へと変わった。

「⋯⋯っ」

 影一郎は思わず息を呑む。
(直子! ついに)

 彼女の長い黒髪は、月光を受けるように一気に色を変え、冷たい銀の光を帯びて床へと流れ落ちる。
 銀髪と琥珀色の瞳。

 それは妖狐の一族であることを示す、逃れようのない証だった。

 妖狐は鬼と敵対する存在。

 鬼神家の邸宅でその姿を晒すことは、死を意味する。
 ましてや、花嫁として潜伏していたとなれば、裏切り者として八つ裂きにされても不思議ではない。


 しかし、影一郎は叫ばなかった。
 斬りかかることも、突き放すこともしなかった。

 静まり返った部屋の中で、彼はただ直子を庇うように抱き寄せた。


「お気付きになっていたのでしょう? 私が妖狐だと⋯⋯」
直子は小さく微笑み、囁く。



 影一郎は一瞬だけ目を伏せ、それから苦笑した。

「気付いてたよ、最初から。でも、心を奪われてしまった。君に騙され、喰われて、殺されても構わないと――そう思うほどにな。

 その言葉に、直子の胸がきゅっと締め付けられる。
 涙が込み上げてきて視界が滲んだ。

 どれほど自信を得ても、彼ほどの男に、ここまで想われる価値が自分にあるとはどうしても信じきれなかった。



「影一郎様、私も、貴方を愛しています。だから、逃げません」
 影一郎の指が、彼女の背に回る。

「だが、鬼の一族は君の存在を許さない」