そんなある日、夫の帰りが遅く、私が葵に絵本を読んであげていた。読み終えると、葵がベビーベッドで眠っている沙耶を起こさないように囁いた。
「パパ嘘つくんだよ」
「え?」
私は一瞬固まった。
「どんな嘘?」
「この前公園行った時、パパにボールが飛んできて当たって、痛そうだったのに痛くないって言うんだよ」
「そっか」
私はふふっと笑った。
「どうして嘘だと思ったの?」
「だって、当たった時、パパ、うって、こうやって痛そうにしてたから」
そう言うと葵は胸に手を当てて、体を丸めて眉間に皺を寄せた。
「そっか。でもそれはいい嘘なんじゃないかな」
「いい嘘?」
「そう。ボールを当てた人に大丈夫ですよっていう」
「ふーん。でもそれだとヨシヨシしてあげられない」
「え?」
「だって、本当は痛いんだよ。パパ」
その言葉がなぜか私の胸に響いた。
葵はムッとした顔をして続けた。
「痛いの痛いの飛んでけもできないもん」
「そうだね。でも、大人になると、我慢しなきゃいけないこともあるんだよ。みんなが気持ちよく過ごすためにね」
「ふーん。葵は痛かったら痛いって言っちゃうな」
「そうだね。まだ子供だからいいんだよ。さあ、早く寝なきゃ。明日も保育園だよ」
「保育園やだな」
「でも、行ったら楽しいでしょ?」
「うーん。楽しい日もあるけど……」
「さあ、寝るよ。おやすみ」
「うん。……おやすみ」
私は立ち上がって、部屋の電気を消した。それから、静かに部屋から出た。
葵は何かを感じているのかもしれない。最近の拓実は確かに笑顔が少なくなった。娘たちの前でさえ、時々上の空に見える。
私は自分がしていることが、本当に正しいのかが分からなくなった。最近私たちの会話は必要な連絡事項だけになっていた。こんな姿をいつまでも娘たちの前に晒す方が良くないのかもしれない。
私はダイニングテーブルに置いてあった、保育園の連絡帳を開いた。
『最近元気がないです。お家ではどうですか?』
鼻の辺りがツーンとした。母親失格の判を押された気持ちになった。
――もう、限界なんだ。
これ以上、繋ぎ止めていたって、誰も幸せにはなれない。拓実との関係にこだわることもできる。でも、本当にそれが私のしたいことなのだろうか?
拓実は私とやり直そうと一度は頑張ってくれたのだろう。
――私はどうだったんだろう。そもそも私も、拓実を愛していたのだろうか?
理想的な拓実にただ惹かれていただけなのかもしれない。
私はダイニングテーブルに両腕を重ね、そこに頭を預けた。
静まり返った部屋に、暖房の送風音だけが微かに響いていた。
――私が大切にしたいことってなんだろう。
私は保育園の連絡帳をパラパラとめくった。そこには懐かしい園の様子が書かれていた。
『葵ちゃんは今日も元気に運動場を走り回ってました』
『昨日はママとクッキーを作ったと嬉しそうに話していました』
『昨日は家族みんなでおばあちゃんのお家に行って、楽しかったと話してくれましたよ』
みんなと笑い合う拓実の姿が頭の中に浮かんだ。
――あの笑顔は偽りだったのか……。
でもそれだけだとはやっぱり思えない。葵の出産に立ち会った時、拓実は感動して泣いていた。あの時の笑顔や涙が嘘だったとは思えない。
拓実はずっと悩んでいたのだろうか? もし、同性同士で結婚できていたなら、その人とすんなり結婚していたのだろうか?
娘と笑い合っている拓実の姿が目に浮かんだ。
――それともやっぱり子供が欲しかった?
だとしたら、やっぱり私と結婚していたのかもしれない。私も拓実と結婚したから、娘たちと出会えたのだ。
もう、それで十分なのかもしれない。
私が何よりも大事なもの。
――それはやっぱり、娘たちの笑顔だ。
もう、手放そう。
夫が帰ってきたら、上から目線で伝えよう。
「あんたなんて捨ててやる。誰にも言わないから好きにしろ」――と。



