あんたなんて、捨ててやる。


 夫の小宮拓実( こみやたくみ)とは、同じ高校の新任教師として出会った。初めて見た時、こんなに爽やかな笑顔ができて、容姿も整っていて、誠実そうで、こんな人が目の前に普通にいるなんて驚いた。私の理想そのものだった。こういう人と結婚できたら幸せだろうなと思った。
 お互い新任教師ということもあり、話しかけやすかった。少しでも親しくなりたくて、ちょっとした仕事の悩みを彼に相談するようになった。本当はさほど悩んでいたわけではなかったけれど、彼は私の話に親身になって耳を傾けてくれた。
「小宮先生って、優しいですよね。モテるんじゃないんですか?」
「そんなことないですよ」
「またまたー。私、小宮先生みたいに完璧な人、出会ったことないですよ」
「そんなふうに言ってもらえるなんて、光栄だなあ」
 小宮先生はそう言うと、まるで少女漫画に出てくる王子様みたいな笑顔を私に向けた。
 ――うっ。素敵すぎる。
「小宮先生って、怒ることないんですか?」
「いや、もちろんありますよ。でも、人に怒っても仕方ないじゃないですか。相手は変えられませんから」
「じゃあ、怒りたい時どうするんですか?」
「お経を唱えます。心の中で」
 小宮先生はふざけたようにして、自分の胸の前で手を合わせた。私はくすくすと笑った。
「先生って冗談まで言えるんですね」
「ユーモアは大事ですよ。一応教師なので」
「そうですね。本当尊敬します」
 小宮先生はいつだって完璧だった。
 そして私は、少なくとも嫌われてはいなさそうだった。私はじわじわと探りを入れていった。どうやら付き合っている人はいなさそうだった。だから職場に慣れてきた頃、私は小宮先生に告白をした。

「先生って彼女とか作らないんですか?」
「作りたくても、こればかりは相手がいりますから」
「じゃあ、私、立候補してもいいですか?」
「……私のこと好きなんですか?」
「はい。実はずっと前から」
 彼がニコッと笑った。
「そうですか」
 そして、一瞬何かを考えたようにしてから、口を開いた。
「私は決めていることがあるんですよ」
「何ですか?」
「付き合う人は結婚を前提とすること」
「え?」
 ――いやいやいや、結婚? むしろありがたすぎる。
「それでも大丈夫ですか?」
「いや、そんな。全然、大丈夫です」
「そうですか。良かった。では、結婚前提ということで、付き合いましょう」
「……はい」
 嘘みたいだった。まさか、こんな素敵な人が私と結婚なんて。私は浮かれた。そこからはあっという間だった。結婚式を迎え、そして、子供ができた――。
 
 私は娘たちの寝室に入り、扉に体を預けた。あの時の拓実の顔を思い出す。拓実は初めから、結婚相手を探していただけだったんだろう。可笑しくなって、ふっとため息が漏れた。静かな寝室に娘たちの寝息が聞こえた。私は娘たちのそばへ向かった。
 ベビーベッドの上ですやすやと眠っている沙耶(さや)と、シングルベッドの上で眠っている葵。
 生まれた時から娘たちは、親とは別の寝室で寝かせるようにしていた。海外では自立を養うために別々で寝かせるらしい。私も育児書を何冊か読んで、夫と話し合って、そうすることに決めた。
 ――でも、一緒に寝ていた方が良かったかも。
 そうすれば、夫ももっと娘たちに愛着が生まれて、離婚したいだなんて、馬鹿なこと考えなかったかもしれない。
 ――今更そんなこと思っても遅いか。
 考えたら、私たちは、とんとん拍子にうまく行き過ぎていた。どうしてあの時、このおかしさに気づけなかったのだろう。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。

 ――そうだった。初めから、結婚前提でないと付き合わないって言ってたわ。
 私は可笑しくなって、声を殺して笑った。みぞおちあたりがプルプルと揺れて、全身が震える。自分の鼻息が短く聞こえたかと思うと、涙が溢れた。私は両手で顔を押さえて、静かに泣いた。頭の中に、今までの生活がフラッシュバックのように思い出される。拓実の優しい笑顔。初めてのデート。初めてのキス。ご両親との挨拶。結婚式。子供ができた時の拓実の嬉しそうな顔。どれもが嘘だったのだろうか。どれもが偽りだったと言うのだろうか。
 ――あー、私もバカだな。
 けれど、幸い相手は男だ。結婚できるわけでもない。私の方が断然有利なのだ。子供だっている。そう思うのに、なぜか胸騒ぎが落ち着かなかった。
 ――どうして今更そんなこと言い出したのだろう。沙耶が生まれてまだ半年しか経っていないと言うのに。なぜ今なんだろう?
 彼が男しか愛せないなら、まだ諦めもつく。でも少なくとも、今まで結婚生活を共にして、子供まで作っているわけだから、そういうことでもないのだろう。
 ――つまり彼はその相手を本当に愛していて、私と娘たちを捨てようとしている。私も、娘たちも、彼の中で一番ではなかったらしい。
 そう思った瞬間、何故だか笑えてきた。
 ――一番か……。
 そもそも、私も夫をそこまで愛していたのだろうか? 全てを捨ててでもその人と一緒にいたいだなんて、私には理解できない。夫もそういうタイプだと思っていた。
 理想的な生活。理想的な夫。理想的な家族。こんなにも幸せな生活を壊してまで誰かを選ぼうと思うなんて、私ならできない。
 しかも、彼は教師なのだ。
 そんな人が、ずっと不倫をしていたなんて、それだけでも大問題だ。しかも、相手は男だという。本当に私と離婚してまで、その男を選ぶというのだろうか。どう考えてもリスクの方がありすぎる。
 ――そうだ。きっと冷静になれば、夫だって考え直すはず。
 相手に何か言われたのかもしれない。だから、後先考えずに口にしてしまっただけなんだろう。彼は誠実な人だから、嘘をつき続けることが辛くなっただけなのかもしれない。
 ――あー! もう!
 同じことばかり考えている自分に腹が立った。
 ――きっとなんとかなる。大丈夫。

 私は床の上に寝転がり、ベッド上に眠る長女の寝顔を眺めた。葵の額あたりの産毛が汗で濡れていた。冷房で部屋の中は冷えているというのに、子供は体温が高いからか、いつも汗でびっしょりになっている。そんな子供らしい姿に、ほっとするのと同時に、また涙が溢れてきた。
 ――私は拓実の何を見てきたのだろう。
 葵の寝息が大きくなって、笑い声が聞こえた。私はびっくりして、顔を少し上げ、娘の顔を見た。どうやら楽しい夢でも見ているようだ。私は、ふっと笑って、また床に頭を下ろした。
 ――全て偽りだった。
 私はしばらく涙が止まらなかった。


 翌日、目が覚めると、夫はすでに出勤していた。私と顔を合わせたくなかったのだろう。いつもなら、まだ出勤前の時間だった。私が急いで朝の支度をしようとすると、寝室から次女の泣き声が聞こえた。私は慌てて寝室に向かった。扉を開け、ベビーベッドの方へ急いだ。ベッドの上で沙耶が、顔を赤くして力一杯に泣いていた。
「さーやちゃん。起きたの? おはよう」
 そう言いながら、私は沙耶をそっと抱え、しばらくトントンと背中を叩きながら優しく揺らした。ようやく沙耶が泣き止み、それと同時に手のひらから、オムツが重く湿っているのが伝わってきた。
「おむつ変えようか〜」
 私は沙耶を左手で抱きかかえ、右手でベッド側に置いてある紙オムツを手に取って、ベビーベッドの上に置いた。それから沙耶をもう一度ベッドに戻すと、また泣き始めた。
「はいはい。おむつ変えましょうねー」
 そう言いながら、娘の服のスナップボタンを外した。
「わー! あー!」
 思いっきり体を捻(ねじ)って抵抗しながら、沙耶が声をあげる。
「んー、沙耶、うるさい!」
 やっと葵が起きて眠そうに目を擦っている。
「葵ちゃん、おはよう」
「……おはよう」
「さあ、保育園に行く準備しなきゃねぇ」
 私はおむつを替え終えて、沙耶を抱きかかえた。
「えー、やだあ。保育園行きたくない」
「そんなこと言わないで、ね。ほら、おいで」
 そう言って、私は膝をついて、片手を広げた。
 葵がゆっくりと近づいてきて、私に抱きついた。
「ほら、沙耶が『お姉ちゃんおはようっ』て言ってるよ」
 私は沙耶を葵の方に向けた。
「あー、あー」と沙耶は葵の頬を触ろうとしている。
 葵は沙耶に抱きついてから、よしよしと頬を撫でた。
「おはよう。お姉ちゃん、今日も保育園だから、いい子にしてるんだよ」
 そう言うと、葵は誇らしげに、着替えの準備を始めた。
「葵がいいお姉ちゃんで、ママも助かるなあ」
 そう言うと葵は胸を張るようにして「でしょ」と言って、Tシャツの袖に腕を入れた。
 いつもの風景。
 いつもの会話。
 いつもの可愛い娘たち。
 ただ違うのは、夫が別れたがっているということだけだった。

 沙耶をベビーカーに乗せて、葵を保育園まで送って行った。家に戻る頃には、沙耶はベビーカーの上でぐっすりと眠っていた。私はベビーカーを玄関に置き、冷房の風が玄関まで届くようにサーキュレーターを回した。沙耶が起きるまでそこで寝かしたまま、朝食の後片付けを始めた。お皿を洗いながら、ぼーっと手元を見ていた。
 ――夫とちゃんと話をしなくては。
 食器を洗い終え、玄関のベビーカーで眠っている沙耶を一度確認した。まだ、気持ちよさそうに眠っていた。私はスマホを取って、夫にメッセージを送った。
[昨日のこと、少し冷静になって考えたい。まだ、娘たちも小さいし、別れるにしてもいろんな問題があると思う。娘たちの前では今まで通り普通でいて、また週末に話しましょう。娘たちを母に預かってもらうから]
 お昼過ぎに返信が来た。
[分かった。すまない]
 ――すまない。
 私の胸に痛みが走った。
 ――すまないと思うくらいなら言ってくるなよ!
 それから、私は母に連絡をして預ける約束をした。