「別れたいんだ」
突然夫にそう言われた。ついさっきまで、娘たちの寝室で、長女の葵に絵本を読んであげていた。それが、リビングに戻ってくるなり、夫は私にそう言ったのだ。
ソファーの上で洗濯物を畳んでいた私は、手を止めて、夫を見た。夫はリビングに入ってすぐのキッチンカウンターの横に突っ立ったままだった。
今まで、ずっと上手くやっていた。私にとって申し分ない夫で、娘たちの面倒もよく見てくれるいい父親だった。特に喧嘩をしたことも、何か思い当たることも全くなかった。
「え? どうして?」
「離婚して欲しいんだ。本当に申し訳ないと思っている。でも、もう自分を偽って生きるのをやめたいんだ」
夫が深く頭を下げた。
「偽り?」
夫が頭を上げて私を見た。
「俺、本当はこんな優しい奴でも、いつも笑顔でいる奴でもないんだよ」
夫の顔が引き攣っている。うまく笑顔が作れていない夫に、ふと怒りが湧きそうになった。
「そんなの誰だって、あるわよ。だからって別れなくてもいいじゃない」
「すまない」
夫が項垂れた。そこにいる人は私の知っている夫とは別人のようだった。私は急いで何が起こっているのかを把握しようとした。
「……もしかして、他に誰かいるの?」
「……すまない」
私は目を見開いた。
「嘘でしょ。今までそんな……。誰? 職場の人?」
「……」
「そうなの?」
「すまない」
「すまないじゃなくて、誰? 私の知っている人?」
「……詩織の知らない人だよ」
「誰?」
「……学生時代からの……」
「え? ちょっと待って、どういうこと? 学生時代からって……まさか、結婚する前からってこと? その人、もしかして、結婚式の時にいたの?」
「いや。呼んでない」
「呼んでないって、じゃあ、結婚前からってこと?」
夫が静かに頷いた。
「なんでその人と結婚しなかったの?」
夫の視線が落ち着きなく揺れた。
「……男だからできないんだ。ごめん」
「……は? え? やだ、じゃあ何? 私とだったら、結婚できたからしただけってこと?」
夫は何も言わずに目を伏せるように床を見ていた。
私は深いため息をついた。
「……あなた同性愛者だったの?」
「分からない」
私は硬直したまま、夫を見ていた。彼は下を向いたまま動かなかった。
「……分かった。もうこの話はおしまいにしましょ。だって、どう考えたって、お互い別れるメリットなんてないでしょ。娘たちだっているのよ。あなたは父親でもあるのよ」
「分かってる。本当にすまないと思っている」
「すまない、すまないじゃないわよ。そんな簡単なことじゃないでしょ? とりあえず、もう、いいから、今までだって、完璧に隠してきたんでしょ。だったら、そのままでいいじゃない。何も別れなくても。そんなのご両親だって、悲しむわよ。それでもいいの?」
――あー、言ってしまった。
嫌な言い方をしている自分を呪いたくなった。
「分かってる。でも、もう偽って生きるのをやめたいんだ」
「偽り、偽りって、私にとっては偽りなんかじゃない!」
思わず声を荒げてしまった。私は娘たちが寝ている寝室に意識を一瞬向けたが、泣き声は聞こえてこない。ほっとして、そして、口をつぐんだ。それから冷静になって続けた。
「とりあえず、娘たちがまだ小さいし、もう少し成長してからにしてほしい。別に男同士じゃ結婚だってできないんだし、それでもいいでしょ?」
私は静かに肩を落として、洗濯物をかごから取り出した。
心当たりが微塵も浮かばなかった。本当に突然すぎて、頭がついていかない。悲しいのか、怒っているのか、それさえも分からない。これが現実なのかも疑わしいほどだった。
「すまない。でも別れる方向で考えてほしい」
私は黙って洗濯物を見つめた。娘の小さなパジャマのスナップボタンの付近に穴が開きかけていた。
「……つまり、私たちを捨ててまでそうしたいってことなのね」
「すまない」
「でも、それって不倫してたってことでしょ?」
「……そういうつもりはなかった。でもそういうことになると思う」
私は穴の開きそうな娘のパジャマをじっと見ていた。
――私はこの人の何を見てきたのだろう。
「とりあえず、冷静になって考えましょ。あなたにとったって、何のメリットもないと思うから」
私は洗濯カゴを持って、夫の前を通り、娘たちの寝室へと向かった。夫は何も言わないままだった。
突然夫にそう言われた。ついさっきまで、娘たちの寝室で、長女の葵に絵本を読んであげていた。それが、リビングに戻ってくるなり、夫は私にそう言ったのだ。
ソファーの上で洗濯物を畳んでいた私は、手を止めて、夫を見た。夫はリビングに入ってすぐのキッチンカウンターの横に突っ立ったままだった。
今まで、ずっと上手くやっていた。私にとって申し分ない夫で、娘たちの面倒もよく見てくれるいい父親だった。特に喧嘩をしたことも、何か思い当たることも全くなかった。
「え? どうして?」
「離婚して欲しいんだ。本当に申し訳ないと思っている。でも、もう自分を偽って生きるのをやめたいんだ」
夫が深く頭を下げた。
「偽り?」
夫が頭を上げて私を見た。
「俺、本当はこんな優しい奴でも、いつも笑顔でいる奴でもないんだよ」
夫の顔が引き攣っている。うまく笑顔が作れていない夫に、ふと怒りが湧きそうになった。
「そんなの誰だって、あるわよ。だからって別れなくてもいいじゃない」
「すまない」
夫が項垂れた。そこにいる人は私の知っている夫とは別人のようだった。私は急いで何が起こっているのかを把握しようとした。
「……もしかして、他に誰かいるの?」
「……すまない」
私は目を見開いた。
「嘘でしょ。今までそんな……。誰? 職場の人?」
「……」
「そうなの?」
「すまない」
「すまないじゃなくて、誰? 私の知っている人?」
「……詩織の知らない人だよ」
「誰?」
「……学生時代からの……」
「え? ちょっと待って、どういうこと? 学生時代からって……まさか、結婚する前からってこと? その人、もしかして、結婚式の時にいたの?」
「いや。呼んでない」
「呼んでないって、じゃあ、結婚前からってこと?」
夫が静かに頷いた。
「なんでその人と結婚しなかったの?」
夫の視線が落ち着きなく揺れた。
「……男だからできないんだ。ごめん」
「……は? え? やだ、じゃあ何? 私とだったら、結婚できたからしただけってこと?」
夫は何も言わずに目を伏せるように床を見ていた。
私は深いため息をついた。
「……あなた同性愛者だったの?」
「分からない」
私は硬直したまま、夫を見ていた。彼は下を向いたまま動かなかった。
「……分かった。もうこの話はおしまいにしましょ。だって、どう考えたって、お互い別れるメリットなんてないでしょ。娘たちだっているのよ。あなたは父親でもあるのよ」
「分かってる。本当にすまないと思っている」
「すまない、すまないじゃないわよ。そんな簡単なことじゃないでしょ? とりあえず、もう、いいから、今までだって、完璧に隠してきたんでしょ。だったら、そのままでいいじゃない。何も別れなくても。そんなのご両親だって、悲しむわよ。それでもいいの?」
――あー、言ってしまった。
嫌な言い方をしている自分を呪いたくなった。
「分かってる。でも、もう偽って生きるのをやめたいんだ」
「偽り、偽りって、私にとっては偽りなんかじゃない!」
思わず声を荒げてしまった。私は娘たちが寝ている寝室に意識を一瞬向けたが、泣き声は聞こえてこない。ほっとして、そして、口をつぐんだ。それから冷静になって続けた。
「とりあえず、娘たちがまだ小さいし、もう少し成長してからにしてほしい。別に男同士じゃ結婚だってできないんだし、それでもいいでしょ?」
私は静かに肩を落として、洗濯物をかごから取り出した。
心当たりが微塵も浮かばなかった。本当に突然すぎて、頭がついていかない。悲しいのか、怒っているのか、それさえも分からない。これが現実なのかも疑わしいほどだった。
「すまない。でも別れる方向で考えてほしい」
私は黙って洗濯物を見つめた。娘の小さなパジャマのスナップボタンの付近に穴が開きかけていた。
「……つまり、私たちを捨ててまでそうしたいってことなのね」
「すまない」
「でも、それって不倫してたってことでしょ?」
「……そういうつもりはなかった。でもそういうことになると思う」
私は穴の開きそうな娘のパジャマをじっと見ていた。
――私はこの人の何を見てきたのだろう。
「とりあえず、冷静になって考えましょ。あなたにとったって、何のメリットもないと思うから」
私は洗濯カゴを持って、夫の前を通り、娘たちの寝室へと向かった。夫は何も言わないままだった。



