俳優の卵と理系大学生

 海斗がホテルに入って、三ヶ月ほど経ったころ、俺らは二人で飲みに行くことになった。

 きっかけは、とある外国人観光客の対応だった。

 予約した部屋タイプが、ベッド一つの部屋なのに、自分たちの予約はベッド二つのツインルームであると主張していた。その上、日本語や英語がほとんど通じない。

 俺がなんとか翻訳アプリや身振り手振りで、事情や詳細な予約情報を聞き出し、海斗が予約サイトへ問い合わせて確認した。

 結局、予約サイトのミスで手配を誤ってしまっていたらしい。客は最初は怒りを俺らにぶつけていたが、予約サイトのミスであると事情をなんとか伝えると、怒りの矛先は俺らから逸れた。

 なんとかツインルームの空室があったので、差額は予約サイトが払う手はずとなり、客を部屋へ案内した。

 客が部屋に入ったころ、俺ら二人ともぐったりとしていた。

「まじで、疲れたー」

 俺は人目がなくなったことを確認し、カウンターへ突っ伏した。

「お疲れ様」
「海斗、このあと時間ある?」
「別に、帰るだけだけど」
「疲れたしさ、お疲れ様会ってことで飲みに行かん?」

 口にしてから、鼓動が速くなっているのを感じた。
 もし断られても、ただバイト仲間として誘っただけで大して乗り気ではなかったふりをすればいい。

「いいよ」

 海斗は俺が悩んでるのが馬鹿馬鹿しいほど、そう簡単に答えた。

「本当に?」
「誘ってきたのは望なのに、なんで驚いているんだよ」
「いや、だって、もっと渋るかと」
「なんで?」
「俺の誘い、いつもあんまり乗ってこないじゃんか」
「いつも?」
「ご飯行こーとか、遊びに行こーとかいつも俺言ってるじゃん」
「冗談だと思ってた」
「え、ひどくね」

 俺が唇を尖らせていると、海斗が少し困ったように、それでいて幼子をあやすかのうように笑いながら

「じゃあ、今日は行こう」
「よっしゃ!三軒茶屋とかどう?三軒茶屋ってなんかお洒落で憧れてるんよ」
「俺、家近いよ」
「まじ?じゃあ決まり」

 退勤後、俺たちは電車に揺られながら三軒茶屋へ向かった。
 平日の二十三時近くだったけれど、駅前にはまだ多くの人だかりがあった。

 細い路地に居酒屋やバーの明かりが連なり、酔った大人たちの笑い声があちこちから聞こえてきた。

 俺は海斗に連れられて、とあるこじんまりとした居酒屋に入った。

「ここ、前のバイト先の人たちと来てた」
「あー例の潰れた飲食店の?」
「言い方」
「だって、それ以外の情報知らないし」
「それもそうだけど」

 俺たちは、小さなテーブルを挟んで向かい合いながらビールで乾杯した。

 いつもはフロントで横並びだが、今夜は向かい合っている。なんだか慣れない。
 海斗の綺麗な顔が、瞳が俺だけを見ている気がして、どうにも落ち着かない。俺は、誤魔化すように話題を海斗に振った。

「俳優の活動って、普段は何をしてんの?」

 俺は玉子焼きを箸で切り分けながら聞いた。

「ワークショップに行ったり、オーディションを受けたり。一応小さいけど、事務所には入ってるから、事務所からたまに案件とか紹介してもらったりしてる」
「へえ、ドラマとか出たことあんの?」
「通行人として後ろを歩いたことならある」
「え、すごいじゃん」
「顔もほぼ映ってないよ」
「どのドラマ?俺、見つけるわ」
「絶対わからない」
「海斗なら、すぐわかる。なんなら後頭部だけでも分かる自信ある」
「それはそれで怖い」

 海斗は笑ってビールに口をつけた。

「なんで、海斗は俳優を目指そうって思ったの?」

 それまでの軽い空気が、少しだけ変わった気がした。
 海斗は自分のグラスを見ながら、まじめな顔で答え始めた。

「高校の文化祭で、演劇をやったんだ」
「へえ」
「それで、最初はやる気がなくて、裏方とかの仕事をしていたんだけど、主役をやる予定だったやつがケガして、俺が代わりに出ることになったんだ」
「え、つまりは主役ってこと?」
「ただの高校のクラスの演劇だけどね」
「それでも主役ってすごいし、似合いそう」
「本番が終わったあと、同級生や知らない人から声をかけられて、感動したって言われた」

 海斗は少しだけ恥ずかしそうにそっぽを向きながら笑った。

「それまで、自分が何かをして、誰かに感情というか、何かを与えたことがなかったんだけど、あの演劇で初めてそれができた。単純だけど、それがまたやりたいと思うようになった」

 その話をする海斗の目は、ひどく美しかった。とてもまぶしく感じた。

(ああ、この人は、海斗は本当に俳優になりたいんだ)

 顔がいいからとか、承認欲求を満たしたいからとか、そういった単純な理由ではない。

「いいね」

 海斗の目が、今度は俺を映した。

「何が?」
「ちゃんとやりたいことがあって」
「望は、何かないの?」
「俺は、国語とか社会よりかは数学やプログラミングができたから、理系の大学に行っただけ」
「でも、ちゃんと三年生まで続けてるだろ」
「一応ね。留年しないすれすれだけど」
「そういう軽い感じなのに、実はちゃんとやってるよね」
「何それ。褒めてんの?」
「褒めてる。俺は大学行ってないし、望は凄いと思うよ」

 海斗がそう言ってくれると、なんだか自分は大したことをしているかのように思えてきた。

「海斗って、案外俺のこと見てくれてるよね」
「一緒に働いているしな」
「仕事以外にも見てくれもいいんよ」
「また、そういうことを簡単に言う」
「だって、今二人で飲んでるんだよ?なんか、デートっぽくない?」

 海斗の手が、ほんの一瞬止まった。

「デートなの?」
「俺は三軒茶屋デートだと思ってたけど。思ってくれてなかったの?悲しいなー」

 俺はまた冗談っぽく逃げ道を残した。
 海斗は俺の顔をまっすぐに見て、静かに言った。

「望って、誰にでもこういう感じなの?」
「?こういう感じって?」
「距離が近いというか」
「どうだろ。でも、仲良くなりたい人にはそうかもしれない」
「じゃあ、俺とも仲良くなりたい?」
「もちろん。めちゃくちゃ仲良くなりたい」
「もう仲良いと思ってた」

(その言い方はずるい)

 恋愛的な意味ではないと分かっているのに、どうしても期待してしまう自分がいる。

「海斗、もしかして酔ってる?」
「別に、酔ってない。そこまで飲んでないし」
「俺は結構酔ってるかも」
「顔赤いよ」
「可愛い?」
「うん、可愛いよ」

 即答だった。

 俺はその言葉に耐え切れずに、テーブルに額をつけた。

「ほんとに、そういうところだよ」
「何が?」
「これだから、無自覚イケメンって怖い」

 帰り道、俺は酔ったふりをして海斗の腕に手を伸ばした。
 本当は、まっすぐ歩けるくらいには意識がはっきりしていた。

 海斗の腕は、細く見えるのに、意外とがっちりしていて硬かった。

「望、大丈夫そう?」
「ちょっと、無理かもしれん」
「駅まで送るよ?」
「家までじゃなくて?」
「家どこにあるの?」
「電車で四十分くらい」
「それは遠いな。終電なくなる」
「冷た」

 駅前の交差点の信号で立ち止まった。
 俺は海斗の腕につかまったまま、横顔を見上げた。

「海斗の家に、泊めてくれてもいいんだよ」

 一瞬、車の音だけが聞こえた。

 海斗は俺を見下ろして、少しだけ眉を寄せた。

「それはだめ」
「なんでよ」
「酔ってる人を連れて帰るのはよくない」
「俺が問題ないって言ってんのに?」
「望が、明日後悔するかもしれない」
「しないよ」
「する」

 きっぱりと断れてしまった。

 信号が青になる。

 海斗は俺の手を自分の腕から、そっと離れた。
 初めて、明確に拒まれたと思った。

 けれど次の瞬間、その手で俺の手首をつかんだ。

「転ぶと危ないし、こっちにして」

 手をつなぐわけではなかった。それでも。触れられた場所が、妙に熱かった。

 ホームまで、送ってくれた海斗は、電車のドアが閉まる直前に言った。

「家に着いたら連絡して」

 その夜、俺は自宅に着いてから、浮ついた心でメッセージを送った。

【帰宅しました!今日は本当にありがとう!まじ楽しかった!】

 しばらくしてから、返信が来た。

【俺も楽しかった。また行こう】

 俺はベッドの上で、何度もその文章を読み返した。

「また」がある。俺はこの二文字だけで、眠れないほど嬉しかった。