俳優の卵と理系大学生

 好きになった瞬間を、一つだけ挙げろと言われてもできない。

 顔がかっこいいと思ったのは最初からだ。
 話しやすいと思ったのは、二回目に被ったシフトの時。
 彼の優しさに触れたことなんて、何度だってある。

 その幾多もある優しさの中でも、特に覚えている夜がある。

 平日の遅番で、俺と海斗は二人でフロントに立っていた。
 その日は、朝から大学で実験に追われて昼飯を食べ損ねていた。ホテルに来てからも、チェックインや客対応が途切れず、休憩に行くタイミングを逃していた。

 夜八時を過ぎたころ、やっとロビーに静けさが訪れた。オレはカウンターの下で、誰にもばれないようにお腹を押さえていた。

「やっと、落ち着いたな。望、ご飯食べた?」

 隣から声を掛けられ、ぎくりとする。

「うん、食べたよ」
「なにを?」
「んとね、、」
「本当は、食べてないでしょ」
「なんでわかるの?」
「さっきからずっと、お腹が鳴ってるの聞こえてるよ」
「へ?まじで?聞こえてたん?」
「結構ね」

 俺は顔を両手で覆った。

「まじ、最悪。バイト辞めようかな」
「そんな理由で辞めるの?」

 海斗は笑いながら、フロントの裏にある事務所に戻っていった。
 少しして、海斗に呼ばれてフロントから事務所に下がると、

「これ、よければ食べなよ」

 海斗の手には、コンビニのサンドイッチとスープがあった。

「え、なにこれ。海斗の食べ物じゃないの?」
「夜食用に買ったんだけど、俺は休憩のタイミングでご飯食べたし、望が食べていいよ」
「いや、でも悪いよ」
「倒れられる方が、困る。望、今日出勤してきたとき朝から何も食べれてないって話してたの聞いてたよ」
「え、聞いてたの?」
「望は声でかいから、フロントにいても事務所での会話少し聞こえる」
「え、はず」

 そう笑いながら、海斗は再度俺にサンドイッチとスープを差し出してきた。

「だから、俺のやつ食べていいよ」
「ありがとう。海斗って、本当に優しいよね」
「別に、普通だよ」
「いやいや、普通じゃないって。もう、こんなに優しくされたら好きになっちゃうって」

 また、俺は冗談みたいに言った。実は半分くらいは本気だった。
 海斗は一瞬だけ、黙った。

 俺は、その一瞬を見逃さなかった。

「そういうことは、あんまり簡単には言わない方がいいよ」

 声は優しかった。でも、少しだけ線引きをされたような気がした。

 俺はすぐに笑った。

「冗談じゃん。なに、本気にしちゃった?」
「してない」
「じゃあ、何も問題ないじゃん」
「よくない」

 海斗は俺の目をまっすぐ見た。

「もし本気の人がいたら、勘違いする」

 それは、俺ではなくて別の誰かの話をするみたいな言い方だった。
 もしかしたら、海斗には好きな人がいるかもしれない。俳優仲間かもしれないし、前の職場の人、地元の人かもしれない。とにかく俺の知らない誰かのことが好きなのかもしれない。

 そう思った瞬間に、胸の奥がズキっとした。

「海斗は、そういう人いるの?」
「何が?」
「勘違いしてほしい相手」

 海斗は少し考えてから、首を横に振った。

「今はいない」 

 俺は、それを聞いて、口が緩みそうになるのを誤魔化すために、サンドイッチを食べ始めた。

「それなら、俺が好きって言っても何の問題もないね」
「どうしてそうなるの?」
「海斗さん、これは論理的帰着です」
「どこが理系なんだよ」

 その後も、海斗は普段と変わらない様子だった。
 でも、俺はその夜から辞めることを考えなくなっていた。

 だって、海斗に会える場所を自分から手放すことなんてできないから。