ホテルから少し離れた公園。二十三時前ということもあり、人はほとんどいない。街灯だけが俺らを照らしている。ベンチには座らず少し距離をあけて向かい合って立っていた。
「今日、元々シフトじゃなかったよね」
海斗が沈黙を破るように話を切り出した。
「…なんで知ってんの」
「前に今月のシフト見せてくれた」
「変わっただけ」
「見せてくれた後に変わったの?」
「…今日変わった」
「俺が会いたいって連絡した後?」
「…」
「望」
「なに」
「最近俺のこと避けてる?」
以前にも同じようなことを言われた。あの時も俺は逃げた。
「避けてない」
「避けてる」
「最近色々と忙しいだけ」
「それだけ?」
「そうだよ」
「じゃあなんで、今日わざわざバイト入れたの?」
「…」
「望」
海斗の声が少しだけ強くなる。
なんだか腹が立った。海斗に、というより自分に。
「海斗には関係ないじゃん」
言った瞬間に海斗の表情がガラッと変わった。
「関係あるよ」
「なんで」
「恋人だから」
正論だった。だから余計に苦しくなった。
「だったらさ」
「うん」
「恋人なんだったらもうちょい連絡くれたって良かったじゃん」
言ってしまった。ずっと海斗の邪魔にならないようにと抑え込んでいた感情が爆発してしまった。
海斗が黙る。
「忙しいのは分かるよ。撮影なんだから仕方ないのもわかってる。俺にばかり構っていられないのは仕方ないって分かってる」
「望」
「でもSNS見たら、北村君とはずっと一緒じゃん。俺とは全然一緒にいれてなかったのに。なんなら連絡さえ全然できてなかったのに」
「…利也?」
その名前は今聞きたくなかった。
「ほら」
「なに」
「利也って」
「向こうがそう呼べって」
「そんなの知ってる」
「じゃあ」
「めちゃくちゃ仲良いじゃん」
「友達だから」
「それも知ってるよ!」
声が大きくなった。夜の公園に響いた。海斗が黙る。俺も冷静になろうと一度口を閉じた。
「…ごめん」
でも止められなかった。一度口に出してしまった感情は。今まで押し込んできた感情は雪崩のように、自分でも信じられないくらい溢れてきた。
「仕事なのもわかってる。親友役だから一緒にいる時間が長いことも。ずっと夢見て頑張ってきた仕事が今できていることも分かってるし、俺だってそれはめちゃくちゃ嬉しくて、心の底から応援してる」
「うん」
「でも仕事じゃない時も仲良いじゃん」
「…」
「ライブでもずっと隣にいるし、SNSでも肩組んでるし名前で呼んでるし。撮影終わりにご飯にも行ったりしてるじゃん」
「それは」
「分かってるって!」
「…」
「友達なんでしょ」
「うん」
「それもわかってる」
「じゃあ何?」
海斗の声にも少しいらだちが混じる。俺は言葉に詰まった。海斗が少し眉を寄せる。
「望。ちゃんと言って」
「…」
「俺、もう勝手に望の気持ち決めたくないから」
胸がズキっとした。あの日、海斗は未来のある望のためだ、と言って勝手に俺の気持ちを決めつけて俺はそれに怒った。勝手に決めるな。そう言った。俺は今同じことをしていた。
本当は言いたくなかった。こんな気持ちを持ってることを海斗に知られたくなかった。
でも。
「…嫉妬した」
やっと言葉にした。
「うん」
「北村君に」
「うん」
「めちゃくちゃ」
笑われると思った。もしくは面倒くさいやつだと思われるかと思った。
でも海斗はどちらでもなかった。
「撮影現場にも行った」
「え?」
「エキストラ」
海斗の目が大きく見開かれる。
「来てたの?」
「うん」
「いつ?」
「大学で撮ってた日」
「…あの日?」
「そう」
「なんで言ってくれなかったの」
「言ったら海斗、変に気を遣うと思ったから」
「俺、全然気が付かなかった」
「知ってる」
その一言を言ったら、また胸が痛くなった。
「北村君とは話した」
「え?」
「休憩中。ちょっとだけ」
「利也、お前に気づいたの?」
「前ビデオ通話で顔見てたから覚えてたって」
「…俺には言わなかったけど」
「俺が言わないでって頼んだ」
「なんで」
「だから」
声が震える。
「普通に見たかったんだって。海斗が仕事しているところ」
「…」
「でも」
俺は下を向いた。今にも涙が溢れそうになった。
「めちゃくちゃ遠かった」
「なにが?」
海斗の声が少し柔らかくなった。
「海斗が」
顔を上げる。
「すぐそこに、手を伸ばせば、声を掛ければ振り向いてくれそうなほど近くにいたんだよ」
「…」
「本当に数メートルしか離れていなくて」
手を見る。
「普段なら。俺がこうやって手を伸ばしたら海斗が握ってくれるじゃん」
海斗が俺の手を見る。
「名前を呼んだら振り向くし、俺が泊まりたいって言ったら家だって行けるし」
「うん」
「なのに、あの日」
声が詰まる。
「あんなに近いのに、めちゃくちゃ遠かった」
海斗は。何も言わない。
「俺はただのエキストラで。海斗はメインキャストで」
「望」
「沢山のスタッフに囲まれて。北村君と二人で笑って。SNSの動画撮って」
あの光景が脳裏に浮かぶ。
「海斗がさ」
俺は。無理やり笑った。多分ひどい顔だと思う。
「本当に俳優になってた」
「…」
「嬉しかったよ」
本当に。
「すごいと思った。俺、めちゃくちゃ嬉しかった。だって超古参だもん。ずっと頑張ってきた海斗が羽ばたいている姿を見れて本当に嬉しかったし誇らしかった」
本当に自分のことのように嬉しかった。
「でも」
涙が目に溜まるのを感じる。
「同時に、俺が知らない海斗になってくみたいで怖かった」
初めて、そこまで言えた。海斗の表情が少し変わった。
「北村君と同じ世界にいて」
「…」
「同じ俳優で。同じ現場で。俺には分からない話をして」
「望」
「俺より海斗のこと分かってるんじゃないかって」
「そんなわけ」
「分かんないじゃん!」
「…」
「演技のことも。現場も。撮影も。芸能界も!俺には別世界なんだよ!」
「それの何が」
「海斗の横に居られないじゃん!」
口から出た言葉に自分でも驚いた。海斗も黙った。
「SNS見ても、海斗の横にいるのは北村君で」
「それは仕事だから」
「だから、分かってるって!」
「…」
「そんなの、分かってるよ…」
声が小さくなる。
「でも」
喉が痛い。
「俺が恋人なのに」
涙を止めることができない。本当はこんなに子供みたいなことを言いたくなかったし。泣きたくなかった。でも止められない。
「俺はさ。海斗の横にいるって、誰にも言えないじゃん」
海斗の顔が固まった。
「コメントとかで」
俺は笑おうとした。でも、できなかった。
「利也と海斗お似合いとか。リアルでもずっと一緒にいてとか。二人付き合えばいいのにとか」
「そんなのただの」
「分かってるって!」
「…」
「ただのコメントなのも!ファンが勝手に言ってるだけなのも!全部分かってる!」
涙が、止まらない。
「でも俺は」
声が震える。
「俺が彼氏だって言えないじゃん」
海斗が何も言わなくなる。
「俺の方が、海斗のこと好きだって。誰よりも海斗のことが好きなのに」
なんて。馬鹿みたいなこと言えるわけがない。
「俺がそんなこと言ったら、海斗の仕事に迷惑かかるし」
「望」
「だから黙ってるしかない」
初めて分かった。俺が何に傷ついているのか。北村に海斗を取られると思っていた。
でもそれだけではなかった。
俺の知らない世界へ海斗が行く。その世界では恋人の俺は存在しない。それが寂しかったし怖かった。
「俺は研究室でコード書いて、院試の勉強してるだけ」
「だけって言うなよ」
「でも!」
「望」
「海斗はずっと俳優になりたかったでしょ!」
海斗が黙る。
「今やっとそこに近づいているじゃん」
メインキャスト。俳優仲間。SNS。名前を知る人。ファン。
どんどん海斗は夢に向かって近づいている。
「だったら」
声が小さくなる。
「俺なんか、いない方がいいのかなって」
海斗の目が見開かれた。
「…何言ってんの」
「だって」
「なんでそうなるの」
「俺と会う時間作るよりも仕事した方がいいじゃん」
「望」
「俺が寂しいとか会いたいとか言ったら。海斗の邪魔になるかもしれないじゃん」
「ならない」
「分からないじゃん!」
「俺がならないって言ってる」
「今はそうでも、これからもっと売れたら、、」
「望!」
海斗が初めて強い声を出した。俺は少しびっくりして涙が止まった。
「それ」
海斗が苦しそうに息を吐く。
「俺が一番言われたくないやつなんだけど」
「…」
「望」
「何」
「昔、俺になんて言ったか覚えてる?」
分かっていた。
「俺の気持ち勝手に決めないでって」
「そうだよ」
海斗の声が少し震える。
「今、望が同じことしてる」
何も言えない。
「俺が望を邪魔だって言った?」
「…言ってない」
「会いたくないなんて言った?」
「言ってない」
「望がいるせいで俳優が続けられなくなるなんて一回でも言った?」
「…言ってない」
「じゃあ勝手に決めるなよ!」
海斗が珍しく明確に怒っていた。
「俺のためみたいに言って、勝手に俺から離れようとするなよ」
「…」
あの日。俺が海斗に同じことを言った。
『それ、俺のためみたいに言わないでよ』
今度は俺が。言われる側だった。
「利也とは友達だよ」
海斗が真剣な顔で言う。
「仲は良い。それは否定しない」
胸が少し傷む。
「これからも多分友達でいる」
「…うん」
「でも」
まっすぐ綺麗なあの目で俺を見る。
「なんでそれと、望がいらなくなることが繋がるの」
「だって」
「繋がらない」
「北村君は同じ俳優だし」
「だから?」
「海斗と同じものが分かるし寄り添える」
「じゃあ工藤さんは?」
「え?」
「工藤さんは望と同じで、俺には分からない研究について分かるだろ」
「それは」
「じゃあ俺より工藤さんの方が、望に必要?」
「違う!」
即答だった。海斗は少し眉を下げた。
「同じだよ」
「…」
「同じことが分かるから好きになるわけじゃないだろ」
正しい。全部。海斗が正しい。それでも感情はそんな簡単じゃない。
「でも…」
俺は俯く。
「でも、俺は寂しかったんだよ」
やっと一番簡単な言葉が出た。
「…うん」
「遊園地で、会う時間作るって言ってくれたじゃん」
海斗の顔が少しゆがんだ。
「なのに全然会えなくなって」
「…ごめん」
「責めたいわけじゃない!」
「うん」
「何度も言ってるけど、仕事だって分かってるから」
「うん」
「でも」
止まっていた涙が、一滴また落ちた。
「分かってても。寂しいものは寂しかった」
「…うん」
海斗が一歩こちらへ近づいてきた。
でもまだ触れなかった。
「ごめん」
「だから海斗が悪いってわけじゃ」
「いや、俺が悪いよ」
「なんでよ」
「俺もだから」
「どういうこと?」
「俺も望が忙しいの分かってたから」
海斗は俺をまっすぐ見つめる。
「俺から連絡しすぎたら、院試の邪魔になると思ってた」
「…」
「撮影で返せないことも多かったし」
「うん」
「だから」
少し。海斗は自嘲するように笑う。
「望なら分かってくれるって甘えてた」
「…」
「何も言わなくても。待っててくれるって」
その言葉を聞いて俺は少し胸が痛かった。
「それは」
正直に言う。
「…ちょっと嫌だ」
「うん」
「俺は、海斗のファンじゃないから」
「分かってる」
「恋人だから」
「うん」
声がまた震える。
「たまには、俺を優先してほしい」
「分かった」
「仕事全部断れってことじゃないからね」
「分かってる」
「そんなことしたら俺が怒る」
「それも分かってる」
海斗が少しだけ笑った。
でも。すぐに真剣な顔に戻る。
「俺もさ」
「うん」
「ちょっと怒ってる」
「…ごめん」
「望が」
一度言葉を切って、言葉を選んでいる。
「俺に何も言わずに勝手にいなくなろうとしたこと、俺は怒ってるし悲しんでる」
胸が痛む。
「いなくなるつもりじゃ」
「俺のこと避けてたし、今日に関しては明らかにそうだろ。わざわざシフトまで入れて避けたじゃん」
「…うん」
「連絡も減った」
「うん」
「現場に来てくれてたことも知らなかった」
「…」
「俺だけ」
海斗の声が、一段低くなる。
「何も知らなかった」
俺は顔を上げる。海斗も傷ついている。当たり前だった。俺だけが苦しいなんてことがあるわけがなかった。
「海斗、ごめん」
「俺もごめん」
「…」
「でも」
海斗は大きく息を吐いた。
「今日は帰ろう」
一瞬胸が冷たくなった。心臓が止まったかと思った。
「…帰るの?」
「このまま話したら」
少し疲れたように海斗が言う。
「俺も望を責めるだけになりそうだから」
「…」
「正直、今俺ちょっと怒ってる」
「うん」
「自分にも。望にも」
「…うん」
「だから」
海斗が、俺を見る。
「一回帰ろう」
怖かった。このまま終わるんじゃないかと。
それが顔に出たのだろう。海斗がすぐに続ける。
「逃げないよ」
「…」
「明日」
まっすぐ。俺のことを見つめる。
「ちゃんと話したい。今日は一度頭を冷やしたい」
その言葉に少しだけ息ができた。昔の海斗なら多分言えなかった。傷ついて怖くなって、そのまま引いてた。でも今の海斗は明日を約束してくれる。
「…分かった」
俺は頷いた。駅へ向かう途中、海斗が俺を呼ぶ。
「望」
「なに?」
「帰ったら連絡して」
思わず少しだけ笑った。
「それ、最初に三軒茶屋で飲んだ時も言ってた」
海斗もほんの少し笑う。
「じゃあ絶対して」
「するって」
その夜。俺たちはキスもしなかった。それどころか手も繋げなかった。
家に着いて。
【着いた】
それだけ送った。すぐに。
【良かった】
そして、少しして。
【おやすみ】
俺はしばらく画面を見た。
【おやすみ】
たったそれだけ。でもまだ繋がっている。そう思えた。
「今日、元々シフトじゃなかったよね」
海斗が沈黙を破るように話を切り出した。
「…なんで知ってんの」
「前に今月のシフト見せてくれた」
「変わっただけ」
「見せてくれた後に変わったの?」
「…今日変わった」
「俺が会いたいって連絡した後?」
「…」
「望」
「なに」
「最近俺のこと避けてる?」
以前にも同じようなことを言われた。あの時も俺は逃げた。
「避けてない」
「避けてる」
「最近色々と忙しいだけ」
「それだけ?」
「そうだよ」
「じゃあなんで、今日わざわざバイト入れたの?」
「…」
「望」
海斗の声が少しだけ強くなる。
なんだか腹が立った。海斗に、というより自分に。
「海斗には関係ないじゃん」
言った瞬間に海斗の表情がガラッと変わった。
「関係あるよ」
「なんで」
「恋人だから」
正論だった。だから余計に苦しくなった。
「だったらさ」
「うん」
「恋人なんだったらもうちょい連絡くれたって良かったじゃん」
言ってしまった。ずっと海斗の邪魔にならないようにと抑え込んでいた感情が爆発してしまった。
海斗が黙る。
「忙しいのは分かるよ。撮影なんだから仕方ないのもわかってる。俺にばかり構っていられないのは仕方ないって分かってる」
「望」
「でもSNS見たら、北村君とはずっと一緒じゃん。俺とは全然一緒にいれてなかったのに。なんなら連絡さえ全然できてなかったのに」
「…利也?」
その名前は今聞きたくなかった。
「ほら」
「なに」
「利也って」
「向こうがそう呼べって」
「そんなの知ってる」
「じゃあ」
「めちゃくちゃ仲良いじゃん」
「友達だから」
「それも知ってるよ!」
声が大きくなった。夜の公園に響いた。海斗が黙る。俺も冷静になろうと一度口を閉じた。
「…ごめん」
でも止められなかった。一度口に出してしまった感情は。今まで押し込んできた感情は雪崩のように、自分でも信じられないくらい溢れてきた。
「仕事なのもわかってる。親友役だから一緒にいる時間が長いことも。ずっと夢見て頑張ってきた仕事が今できていることも分かってるし、俺だってそれはめちゃくちゃ嬉しくて、心の底から応援してる」
「うん」
「でも仕事じゃない時も仲良いじゃん」
「…」
「ライブでもずっと隣にいるし、SNSでも肩組んでるし名前で呼んでるし。撮影終わりにご飯にも行ったりしてるじゃん」
「それは」
「分かってるって!」
「…」
「友達なんでしょ」
「うん」
「それもわかってる」
「じゃあ何?」
海斗の声にも少しいらだちが混じる。俺は言葉に詰まった。海斗が少し眉を寄せる。
「望。ちゃんと言って」
「…」
「俺、もう勝手に望の気持ち決めたくないから」
胸がズキっとした。あの日、海斗は未来のある望のためだ、と言って勝手に俺の気持ちを決めつけて俺はそれに怒った。勝手に決めるな。そう言った。俺は今同じことをしていた。
本当は言いたくなかった。こんな気持ちを持ってることを海斗に知られたくなかった。
でも。
「…嫉妬した」
やっと言葉にした。
「うん」
「北村君に」
「うん」
「めちゃくちゃ」
笑われると思った。もしくは面倒くさいやつだと思われるかと思った。
でも海斗はどちらでもなかった。
「撮影現場にも行った」
「え?」
「エキストラ」
海斗の目が大きく見開かれる。
「来てたの?」
「うん」
「いつ?」
「大学で撮ってた日」
「…あの日?」
「そう」
「なんで言ってくれなかったの」
「言ったら海斗、変に気を遣うと思ったから」
「俺、全然気が付かなかった」
「知ってる」
その一言を言ったら、また胸が痛くなった。
「北村君とは話した」
「え?」
「休憩中。ちょっとだけ」
「利也、お前に気づいたの?」
「前ビデオ通話で顔見てたから覚えてたって」
「…俺には言わなかったけど」
「俺が言わないでって頼んだ」
「なんで」
「だから」
声が震える。
「普通に見たかったんだって。海斗が仕事しているところ」
「…」
「でも」
俺は下を向いた。今にも涙が溢れそうになった。
「めちゃくちゃ遠かった」
「なにが?」
海斗の声が少し柔らかくなった。
「海斗が」
顔を上げる。
「すぐそこに、手を伸ばせば、声を掛ければ振り向いてくれそうなほど近くにいたんだよ」
「…」
「本当に数メートルしか離れていなくて」
手を見る。
「普段なら。俺がこうやって手を伸ばしたら海斗が握ってくれるじゃん」
海斗が俺の手を見る。
「名前を呼んだら振り向くし、俺が泊まりたいって言ったら家だって行けるし」
「うん」
「なのに、あの日」
声が詰まる。
「あんなに近いのに、めちゃくちゃ遠かった」
海斗は。何も言わない。
「俺はただのエキストラで。海斗はメインキャストで」
「望」
「沢山のスタッフに囲まれて。北村君と二人で笑って。SNSの動画撮って」
あの光景が脳裏に浮かぶ。
「海斗がさ」
俺は。無理やり笑った。多分ひどい顔だと思う。
「本当に俳優になってた」
「…」
「嬉しかったよ」
本当に。
「すごいと思った。俺、めちゃくちゃ嬉しかった。だって超古参だもん。ずっと頑張ってきた海斗が羽ばたいている姿を見れて本当に嬉しかったし誇らしかった」
本当に自分のことのように嬉しかった。
「でも」
涙が目に溜まるのを感じる。
「同時に、俺が知らない海斗になってくみたいで怖かった」
初めて、そこまで言えた。海斗の表情が少し変わった。
「北村君と同じ世界にいて」
「…」
「同じ俳優で。同じ現場で。俺には分からない話をして」
「望」
「俺より海斗のこと分かってるんじゃないかって」
「そんなわけ」
「分かんないじゃん!」
「…」
「演技のことも。現場も。撮影も。芸能界も!俺には別世界なんだよ!」
「それの何が」
「海斗の横に居られないじゃん!」
口から出た言葉に自分でも驚いた。海斗も黙った。
「SNS見ても、海斗の横にいるのは北村君で」
「それは仕事だから」
「だから、分かってるって!」
「…」
「そんなの、分かってるよ…」
声が小さくなる。
「でも」
喉が痛い。
「俺が恋人なのに」
涙を止めることができない。本当はこんなに子供みたいなことを言いたくなかったし。泣きたくなかった。でも止められない。
「俺はさ。海斗の横にいるって、誰にも言えないじゃん」
海斗の顔が固まった。
「コメントとかで」
俺は笑おうとした。でも、できなかった。
「利也と海斗お似合いとか。リアルでもずっと一緒にいてとか。二人付き合えばいいのにとか」
「そんなのただの」
「分かってるって!」
「…」
「ただのコメントなのも!ファンが勝手に言ってるだけなのも!全部分かってる!」
涙が、止まらない。
「でも俺は」
声が震える。
「俺が彼氏だって言えないじゃん」
海斗が何も言わなくなる。
「俺の方が、海斗のこと好きだって。誰よりも海斗のことが好きなのに」
なんて。馬鹿みたいなこと言えるわけがない。
「俺がそんなこと言ったら、海斗の仕事に迷惑かかるし」
「望」
「だから黙ってるしかない」
初めて分かった。俺が何に傷ついているのか。北村に海斗を取られると思っていた。
でもそれだけではなかった。
俺の知らない世界へ海斗が行く。その世界では恋人の俺は存在しない。それが寂しかったし怖かった。
「俺は研究室でコード書いて、院試の勉強してるだけ」
「だけって言うなよ」
「でも!」
「望」
「海斗はずっと俳優になりたかったでしょ!」
海斗が黙る。
「今やっとそこに近づいているじゃん」
メインキャスト。俳優仲間。SNS。名前を知る人。ファン。
どんどん海斗は夢に向かって近づいている。
「だったら」
声が小さくなる。
「俺なんか、いない方がいいのかなって」
海斗の目が見開かれた。
「…何言ってんの」
「だって」
「なんでそうなるの」
「俺と会う時間作るよりも仕事した方がいいじゃん」
「望」
「俺が寂しいとか会いたいとか言ったら。海斗の邪魔になるかもしれないじゃん」
「ならない」
「分からないじゃん!」
「俺がならないって言ってる」
「今はそうでも、これからもっと売れたら、、」
「望!」
海斗が初めて強い声を出した。俺は少しびっくりして涙が止まった。
「それ」
海斗が苦しそうに息を吐く。
「俺が一番言われたくないやつなんだけど」
「…」
「望」
「何」
「昔、俺になんて言ったか覚えてる?」
分かっていた。
「俺の気持ち勝手に決めないでって」
「そうだよ」
海斗の声が少し震える。
「今、望が同じことしてる」
何も言えない。
「俺が望を邪魔だって言った?」
「…言ってない」
「会いたくないなんて言った?」
「言ってない」
「望がいるせいで俳優が続けられなくなるなんて一回でも言った?」
「…言ってない」
「じゃあ勝手に決めるなよ!」
海斗が珍しく明確に怒っていた。
「俺のためみたいに言って、勝手に俺から離れようとするなよ」
「…」
あの日。俺が海斗に同じことを言った。
『それ、俺のためみたいに言わないでよ』
今度は俺が。言われる側だった。
「利也とは友達だよ」
海斗が真剣な顔で言う。
「仲は良い。それは否定しない」
胸が少し傷む。
「これからも多分友達でいる」
「…うん」
「でも」
まっすぐ綺麗なあの目で俺を見る。
「なんでそれと、望がいらなくなることが繋がるの」
「だって」
「繋がらない」
「北村君は同じ俳優だし」
「だから?」
「海斗と同じものが分かるし寄り添える」
「じゃあ工藤さんは?」
「え?」
「工藤さんは望と同じで、俺には分からない研究について分かるだろ」
「それは」
「じゃあ俺より工藤さんの方が、望に必要?」
「違う!」
即答だった。海斗は少し眉を下げた。
「同じだよ」
「…」
「同じことが分かるから好きになるわけじゃないだろ」
正しい。全部。海斗が正しい。それでも感情はそんな簡単じゃない。
「でも…」
俺は俯く。
「でも、俺は寂しかったんだよ」
やっと一番簡単な言葉が出た。
「…うん」
「遊園地で、会う時間作るって言ってくれたじゃん」
海斗の顔が少しゆがんだ。
「なのに全然会えなくなって」
「…ごめん」
「責めたいわけじゃない!」
「うん」
「何度も言ってるけど、仕事だって分かってるから」
「うん」
「でも」
止まっていた涙が、一滴また落ちた。
「分かってても。寂しいものは寂しかった」
「…うん」
海斗が一歩こちらへ近づいてきた。
でもまだ触れなかった。
「ごめん」
「だから海斗が悪いってわけじゃ」
「いや、俺が悪いよ」
「なんでよ」
「俺もだから」
「どういうこと?」
「俺も望が忙しいの分かってたから」
海斗は俺をまっすぐ見つめる。
「俺から連絡しすぎたら、院試の邪魔になると思ってた」
「…」
「撮影で返せないことも多かったし」
「うん」
「だから」
少し。海斗は自嘲するように笑う。
「望なら分かってくれるって甘えてた」
「…」
「何も言わなくても。待っててくれるって」
その言葉を聞いて俺は少し胸が痛かった。
「それは」
正直に言う。
「…ちょっと嫌だ」
「うん」
「俺は、海斗のファンじゃないから」
「分かってる」
「恋人だから」
「うん」
声がまた震える。
「たまには、俺を優先してほしい」
「分かった」
「仕事全部断れってことじゃないからね」
「分かってる」
「そんなことしたら俺が怒る」
「それも分かってる」
海斗が少しだけ笑った。
でも。すぐに真剣な顔に戻る。
「俺もさ」
「うん」
「ちょっと怒ってる」
「…ごめん」
「望が」
一度言葉を切って、言葉を選んでいる。
「俺に何も言わずに勝手にいなくなろうとしたこと、俺は怒ってるし悲しんでる」
胸が痛む。
「いなくなるつもりじゃ」
「俺のこと避けてたし、今日に関しては明らかにそうだろ。わざわざシフトまで入れて避けたじゃん」
「…うん」
「連絡も減った」
「うん」
「現場に来てくれてたことも知らなかった」
「…」
「俺だけ」
海斗の声が、一段低くなる。
「何も知らなかった」
俺は顔を上げる。海斗も傷ついている。当たり前だった。俺だけが苦しいなんてことがあるわけがなかった。
「海斗、ごめん」
「俺もごめん」
「…」
「でも」
海斗は大きく息を吐いた。
「今日は帰ろう」
一瞬胸が冷たくなった。心臓が止まったかと思った。
「…帰るの?」
「このまま話したら」
少し疲れたように海斗が言う。
「俺も望を責めるだけになりそうだから」
「…」
「正直、今俺ちょっと怒ってる」
「うん」
「自分にも。望にも」
「…うん」
「だから」
海斗が、俺を見る。
「一回帰ろう」
怖かった。このまま終わるんじゃないかと。
それが顔に出たのだろう。海斗がすぐに続ける。
「逃げないよ」
「…」
「明日」
まっすぐ。俺のことを見つめる。
「ちゃんと話したい。今日は一度頭を冷やしたい」
その言葉に少しだけ息ができた。昔の海斗なら多分言えなかった。傷ついて怖くなって、そのまま引いてた。でも今の海斗は明日を約束してくれる。
「…分かった」
俺は頷いた。駅へ向かう途中、海斗が俺を呼ぶ。
「望」
「なに?」
「帰ったら連絡して」
思わず少しだけ笑った。
「それ、最初に三軒茶屋で飲んだ時も言ってた」
海斗もほんの少し笑う。
「じゃあ絶対して」
「するって」
その夜。俺たちはキスもしなかった。それどころか手も繋げなかった。
家に着いて。
【着いた】
それだけ送った。すぐに。
【良かった】
そして、少しして。
【おやすみ】
俺はしばらく画面を見た。
【おやすみ】
たったそれだけ。でもまだ繋がっている。そう思えた。
