俳優の卵と理系大学生

「柏木、それ昨日からずっと同じところ見てないか?」
「…」
「おい、柏木」
「へ?」

 声をかけられて顔をあげると、そこには細身の眼鏡の男が俺のデスクの横に立っていた。

 工藤隼人(くどう・はやと)。

 修士二年で、俺より二つ年上の先輩だ。研究室では一番面倒見がよく、教授からも後輩からも頼られている。

「あ、工藤さん」
「大丈夫そう?」
「何がですか?」
「そのプログラム、昨日からずっと同じエラー出てない?」
「…」

 画面を見ると、エラーの文字。昨日とほぼ同じ。

「気のせいっすよ」
「現実逃避じゃん」

 工藤さんは笑った。

「見せてみ」

 椅子を一つ持ってきて、隣に座る。コードを見ながら、質問をされて、それに俺が答える。何回か続けていると、

「ここじゃない?」

 工藤さんがコードの一行を指し示した。

「あ」
「配列のサイズがズレてる」
「うわ、まじじゃん」
「昨日から?」
「昨日からです」
「お疲れ」
「工藤さん、俺の二日間返してください」
「自分に言いなよ」

 大学四年生。卒論。研究。

 三年生までと違って、急に自分で考えることが増えた。今までは、答えのある問題や、先生から言われた課題を解いていた。

 でも、研究は違う。自分の興味のあることに、自分で問題を見つけて、自分で回答を見つける。何が正解か分からない。そもそも正解があるのかさえ分からない。

 最初は面倒だと思っていた。なんで理系に来ちゃったんだろうとも感じた。でも。不思議なことに少しだけ面白かった。

「柏木って、就活してんの?」
「一応ちょっとだけ」
「院は?」
「今のところ考えてないっす」
「そうなんだ」
「工藤さんは、なんで院行ったんすか?」
「研究が面白かったから」
「そのままじゃん」
「あと、就職したくなかった。モラトリアム伸ばしたかったからかな」
「うわ。急に説得力なくなった」

 二人で笑った。

「でも、院行って後悔はしてないかな」

 工藤さんはモニターを見ながら言った。

「学部の卒論だけだと、研究ってどんなものか分かり始めたくらいで終わるし」
「ふーん。そういうもんですか」
「柏木は、研究嫌い?」
「いや」

 答えてから。自分で少し驚いた。嫌いではない。むしろ最近は、少し楽しい。

 自分で問題を考えるとき。仮説を考えるとき。実際に手を動かしてコードを書いてるとき。結果が出た瞬間。仮説と違う結果が出て、理由を考える時間。

 海斗が俳優について話すときほどではないけれど。

(俺にも。)

 もう少しやってみたい。そんなものができ始めていた。

 その日の夜。

 海斗の家で、俺はベッドに寝転がりながら、天井を見ていた。海斗はキッチンで何かを作っている。

「ねえ海斗」
「何?」
「俺さ、大学院行こうかなって思っているんだよね」

 音が止まった。少しして、海斗がキッチンから顔を出す。

「本当に?」
「急だね」
「最近ちょっと研究面白くて」

 俺は上半身を起こす。

「あとさ」
「うん」
「海斗を見てると、俺も何かをちゃんと頑張ってみたいなって思って」
「俺?」
「海斗、あんなに何回も落ちてもまだ俳優目指して頑張ってるじゃん」
「褒めてる?貶してる?」
「褒めてる」
「それなら言い方他にあるだろ」

 俺は笑った。

「俺ずっとさ、なんとなく理系に行って、なんとなく大学来て、なんとなく卒業して、就職するんだろうなってぼんやり思ってたんだけど」
「うん」
「もうちょっと研究やってみてもいいかなって」

 海斗がこっちへ来た。ベッドの端に座る。

「いいと思う」
「軽っ」
「だって、望がしたいんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、やった方がいいよ」

 迷いがなかった。昔、海斗に俺が言ったみたいだった。

「院試とかあるし、卒論もあるし、結構きついと思うけど大丈夫かな」
「望なら絶対大丈夫」
「無責任。絶対とか言うなよ」
「どこかの誰かさんに教わった」
「どこの誰さんですか。そんな無責任なやつは」
「俺の目の前にいる大切な恋人さん」
「俺そんなこと言ったっけ」
「言ってた」

 海斗が笑う。

「でも、すごいね」
「まだ受けるって決めただけだよ」
「それでも」

 少し嬉しかった。

「工藤さんにも、色々アドバイスとかもらってるし頑張ってみようと思う」
「工藤さん?」
「研究室の先輩」
「…男?」

 俺は海斗を見る。

「男だけど」
「何歳?」
「修士二年。俺の二つ上」
「へえ」
「何」
「何でもない」
「海斗」
「何?」
「もしかして嫉妬してる?」
「してないけど」
「絶対してるじゃん」
「してません」
「顔がしてる」
「どんな顔」
「ちょっと不満そうな拗ねてるイケメン」
「何それ」
「俺の先輩、爽やかで優しくて、すらっとしてて結構かっこいいし人気なんだよ」

 海斗が俺を見る。

「ふーーん」

 分かりやすい。俺は笑いながら海斗の方に頭を乗せた。

「安心して」
「何が?」
「海斗の方が顔がいいから」
「そこ?」
「そこ大事でしょ」
「全然安心できないんだけど」
「じゃあ何て言えばいいの?」

 少し考えるそぶりをする。俺は海斗の手を取った。

「好きなのは海斗だけ。俺は海斗しか見てないし、見れない」

 一瞬。海斗が黙った。

「…そういうの急に言うよね」
「嬉しい?キュンってした?」
「まあ」
「素直じゃないなー海斗さんは」
「望にだけは言われたくない」

 海斗が握り返す。俺はそのまま海斗の膝へ頭を乗せた。

「どうしたの?」
「膝枕してみた」
「勝手にするんだ」
「恋人だからね」
「その言葉便利に使いすぎじゃない?」
「いいじゃん。本当のことだし」

 海斗の指が俺の髪を触る。

「院試いつ?」
「夏」
「じゃあ、これから大変になるね」
「うん」
「俺にできることがあったら教えて」
「じゃあ、数学教えて」
「無理」
「即答じゃん。手伝ってくれるんじゃないの?」
「俺、高卒だから」
「知ってる」
「でも、飯くらいは作れる」
「それはめちゃ助かる」
「あと、寝ろって怒る」
「それはいらない」
「必要だろ」

 俺は笑った。このときの海斗の嫉妬はただただ可愛いと思えた。

 まさか数か月後。自分が海斗よりよっぽど面倒くさい嫉妬をするなんて。考えてもいなかった。