俳優の卵と理系大学生

 年が明けた。

 俺は映画の役が決まった。地方で数週間撮影することになっている。
 役は小さい。それでも、役名がある。そして台詞もある。
 俳優として、久しぶりに一歩進めた。そんな気がしていた。

 でも、一番初めに思ったのは。

(望に言いたい)

 望なら、きっと自分のことみたいに喜んでくれる。あの初日に言っていたみたいに、未来の俳優。そう言って笑うかもしれない。

 でも、直接言いたかった。メッセージではなく、望の目を見ながら伝えたかった。
 そう思っている間に、支配人や周りには仕事の話が広がっていた。

 みんなと仲の良い望には、もちろんその話は伝わってしまった。
 俺本人からではなく。

 最後のシフトの日。
 スタッフのみんなから色紙と花束をもらった。
 とても嬉しかった。でも俺はすぐに色紙を見て、望の文字を探していた。

『海斗なら大丈夫。ずっと応援してる。望』

 何度も読み返した。
 嬉しい。でも怖かった。
 ずっと応援してる。それは離れた場所からでもできる。
 もしかしたら望は、本当に俺を諦めようとしているのかもしれない。

 勤務後。
 望が一人で休憩室に残っていた。

 今日は言わなければ。絶対に後悔する。俺たちはこのまま終わってしまう。

「望」

 驚いた顔をして振り返った。

「帰ったと思った」
「待ってた」
「なんで?」
「望と話したかったから」

 望が目をわざとらしく逸らした。

「俳優の仕事の話、聞いた。本当におめでとう」
「ありがとう」
「よかったね」
「うん」

 たったそれだけ。望は気まずそうにして帰ろうとした。

「じゃあ、俺帰るね。今までありがとう。楽しかった。これからも頑張ってね」

 嫌だった。最後みたいな言い方しないでほしかった。
 俺は反射的に俺の横を通り過ぎようとする望の腕を強くつかんだ。

「待って」
「なに」
「どうして俺から聞いてくれなかったの?」

 我ながら脈略もなく、そして自分勝手な質問だった。先に話さなかったのは俺だったのに。
 でも。俺は望から聞いてほしかった。まだ俺のことを気にしてくれていると知りたかった。

「本人から言われてないのに、聞けるわけないじゃん」

 当然だ。案外常識人な望ならなおさら聞いてこないだろう。

「言おうとした」
「オーバーブッキングの日に?」
「うん」
「だったら、その後にメッセージとかで言えたでしょ」
「直接言いたかった」
「なんでよ」

 言うなら今しかないと思った。

「望に一番に、目を見て伝えたかった」

 望の表情が歪んだ。顔にはとても不満の文字が見えるようなそんな顔をしていた。

「そういうこと言うの、本当にずるいよね。海斗って」

 その通りだ。拒絶したのは俺なのに。それでも俺は、望の気持ちを良いことに自分の気持ちを押し付けている。望に特別と思われていたい。

「俺が、まだ海斗のこと好きだってわかってるくせに」

 望が、俺をまっすぐ見た。今までとは違う。笑っていない。望は何か決心したような、吹っ切れたような顔をした。

「好き。めちゃくちゃ好き。」

 望は全部を話した。
 俺の顔だけでなく、俳優の話をしている俺。客に怒られても逃げない俺。望が課題をやっていないと怒る俺。俺のそっけないメッセージまで。
 そんなものまで好きだと言った。

「海斗が売れて、ホテルにいなくなるのが嫌だなと思った。でも、それ以上に夢を追ってる海斗が好きだし、夢を諦めてここにいてほしいわけじゃない。俺は海斗がどこに行ったとしても、好き」

 もう、逃げる理由がなかった。望は俺のことをこんなにも見てくれていた。

「それでも」と、望は最後に言った。

「もし困らせるなら、もう会わない。ちゃんと諦める」

 それだけは嫌だった。望は俺にとって俳優の夢と同じくらい眩しくて大事な存在になっていた。
 腕をつかむ手に力が入った。

「困ってない」
「じゃあ、何なの」

 ようやく。本当のことを言った。

「怖かった」

 望が驚いた顔をする。

「望は大学生で、これから就職して、ちゃんとした未来がある。でも俺は、来月の仕事すら分からない。俳優になれる保証もないし、急に地元に帰るかもしれない」
「だから?」
「そんな人間が、望の気持ちに応えていいのか分からなかった」
「それ、俺のためみたいに言わないでよ」
「分かってる」

 そうだ。ずっと分かっていた。望のためだけではない。俺は俺という人間が傷つかないために、逃げ続けていた。

「本当は、自分が傷つかないようにしてただけ」

 やっと認めた。

「望のいう〈好き〉が、ずっと冗談に聞こえてた。俺だけ、その言葉を本気して、ある日やっぱり違うって言われるのが怖かった」
「あれ?俺のせいじゃね」
「半分くらいは」

 望が、いつもの望みたいな顔を少しだけ見せた。

「そこは思ってても、全部俺のせいって言ってよ」
「俺も、もっとちゃんと望に聞けばよかった」

 本当に、聞けばよかった。冗談なのか。俺だけなのか。好きなのか。本当に俺でもいいのか。
 何も聞かずに、勝手に答えを決めつけていた。

 一歩、近づく。


「望」
「何」
「こっち向いて」

 望が恐る恐る顔を上げた。

 初めて会った日から、綺麗だと思っていた大きな目が、今俺のことだけを映している。
 俺はずっと。誰かの書いたセリフを上手く言おうとしてきた。
 でも。今まで一番言うのが難しかった言葉は、たったこれだけだった。

「俺も、望のこと好き」

 望の目が大きく見開かれた。一瞬、ぽかんとした望の顔がとても可愛くて愛おしく感じた。

「本当に?」
「本当」
「いつから?」

 考えた。最初から気になってはいた。

 名前を呼んだ時の顔。俺を未来の俳優と言った時。可愛いと言って固まった時。

 いくつもある。でも。きっと「あの時」だと、そう思った。

「たぶん、望がお菓子を持って、わざわざ休みの日にホテルに来た時から」
「めっちゃ最初じゃん」
「そうだね」

 本当に。随分前だった。随分長く、気が付かないふりをして、気が付いてからも逃げ続けていた。

「じゃあなんで、あんなに冷たかったの」
「別に、冷たくしたつもりはない」
「家に泊めてくれなかったし」
「あれは、正しい判断だったと思う」
「今も?」

 望に見つめられて、今度は俺の方が目を逸らした。
 多分、耳まで赤かったと思う。

「今は酔ってないよね」
「飲んでない」
「後悔しない?」
「しない」
「約束できないって言ってたのに?」

 今でも。全部は約束できない。俳優になれる保証なんてないし、東京に居られる化も分からない。
 でも。今言えることはある。

「全部は約束できない」

 望のことをじっと見つめる。

「俳優になれるかも分からないし、東京にずっといられるかも分からない。でも、今、望を好きなことは約束できる」

 それだけだった。それだけしか今の俺には持っていなかった。でも、望は俺のコートの袖をつかんだ。

「じゃあ、応えてよ」
「どうすればいい?」

 望がとても呆れた顔をした。

「それ、俺に言わせちゃうの?」
「もう間違いたくないから」
「ほんと、真面目」

 望が背伸びをする。それでも届かない。そんなところも愛おしく思いつつ俺は腰をかがめた。
 目が合うと、望は急に恥ずかしそうに目を閉じた。
 その顔を見て。ようやく。俺は望に触れた。とても短いキスだった。

 唇が離れた瞬間。急に俺は不安になった。

「大丈夫?」
「何が?」
「嫌じゃなかった?」

 望がまた呆れた顔をしながら、

「嫌だったら、もう一回って言わない」

 と言った。

「え、もう一回するの?」
「しないの?」

 二回目は、一回目よりも少しだけ長かった。

 俳優の卵未満だと思っていた。
 何者でもない。未来も不確定。そう思っていた。

 でも、望は最初から違った。
 未来の俳優だと。頑張っている俺が好きだと。どこへ行っても好きだと。そう何度も言葉にしてくれた。

 望が俺を俳優にしてくれるわけではない。オーディションに受からせてくれるわけでもない。仕事を持ってきてくれるわけでもない。

 それでも。

 もう少し頑張ってみよう。東京にもう少しいたいと思わせてくれた。
 その理由としては、十分すぎるくらいだった。

 ホテルを辞めて、撮影へ向かう日。
 電車の中でスマホを見ると、望からメッセージが来ていた。
 相変わらず、明るい文章。

 きっと俺がどれだけ不安になっていても、この人は多分いつも通り笑う。

 海斗なら大丈夫。頑張って。

 無責任に成功を保証するのでなく。失敗した俺ごと、また笑ってくれる。
 俺は画面を見ながら思った。

 もし。いつか本当に俳優になることができたら。
 望はきっと、初日に言った通り自慢するのだろう。

 俺が育てた俳優だ。古参だ。そう軽い調子で言うだろう。その時は否定しないでおこうと思う。
 だって、半分くらいは本当にそうだから。

 俺という人間は、柏木望という人に救われた。
 もう一度前を向いて歩いていこうと。まだ諦めずに頑張ってみようと。
 そして、自分の中だけで終わらせるのではなく、思いや気持ちは、言葉に乗せて伝えなければいけないと。

 そう思わせてくれたのが、望だった。

 俺という人間を、もう一度前に進ませてくれたのは、
 間違いなく柏木望だった。