俳優の卵と理系大学生

 初出勤の日。

 制服として指定された濃紺のスラックスと白いシャツを着て、シフトの時間より少し早めにホテルへ向かった。

 新しい職場というだけ緊張していた。

 飲食店とはもちろん勝手が違う。ホテルの雰囲気は飲食店と比べればとても落ち着いた雰囲気で、背筋が自然と伸びていた。

 また一から人間関係を作らないといけない。

 正直言うと、面倒くさかった。

 店がつぶれてから、人と仲良くなることそのものに少し疲れていたのかもしれない。

 フロントへ行くと、一人の男が俺の方を見た。

 小柄だった。

 多分俺より十五センチくらい低い。

 少し明るい髪に、細い体、目は大きくて、男にしては愛嬌のある顔をしていた。

 何より、俺を見た瞬間に表情がわかりやすく変わった。

 (これは、多分顔を見られているな)

「本日からアルバイトでお世話になります、朝倉海斗です。よろしくお願いします。」

 挨拶をすると、支配人の佐伯さんが彼を紹介してくれた。

 柏木望。

 大学三年生で、ホテルでは三年目。

 俺より年下だけど、この場所では大先輩。

「柏木望です。これからよろしくお願いしまーす」

 随分と軽い人だと思った。

 それから年齢をすぐに聞かれた。

 俺が二十二だと答えると、望は少し驚いた顔をした。

「じゃあさ、敬語やめない?」
「でも、柏木さんは仕事では先輩ですし、、」
「柏木さんって呼ばれるのもなんか堅くて嫌だ。望でいいよ」

 初対面なのに、ものすごく距離が近い。

「初日からなんか距離近くない?」

 そう言うと、

「年一個しか変わらないし、ここの職場さ年齢幅結構あるから、一個差なんてタメみたいなもんでしょ。俺、堅いのとか敬語使われるの苦手なんだよね」

 当たり前みたいに言った。

 こういうタイプの人間とはあまり関わったことがなかった。

 俺は昔から、誰かと打ち解けるまでには時間がかかるタイプだった。

 愛想が良いとはよく言われるし、実際人当たりも良いほうだと思う。

 でも、それはただ外面がいいだけであって、簡単に人の内側へ入っていける人間ではない。

 そんな俺とは、望は真逆の存在だった。

 俺は少し迷ってから、

「じゃあ、望」

 名前を呼んだ。その瞬間。

 自分から呼べと言ったくせに、望の大きな目がさらに大きくなった。

 その反応が妙に可愛かった。

「うん。そしたら俺も海斗って呼ぶわ」

 そこから俺たちは、海斗と望になった。

 初日から。

 望は、最初から軽かった。

 でも、仕事は思っていた以上にしっかりしていたし真面目だった。

「そんな全部書かなくても、何回かやれば覚えるし、初日なんだしもっと気楽でいいんだよ。初日なんて、同僚の名前を憶えて、挨拶さえできてれば満点なのに」

 俺が仕事を覚えなければと、焦りながらメモを取っていると笑われた。

「教えてもらったのに、忘れたらみんなに迷惑かけるだろ」
「ま、真面目すぎじゃね?、前のバイト、何してたの?」

 その流れで、飲食店がつぶれたことを話した。

 普通なら気まずくなるところだ。

 実際、変に気を遣われることも多かった。

 大変だったね。可哀想。次見つかってよかったね。

 そういう言葉をかけられるたびに、こちらも「大丈夫」と返さなければならなくなる。

 でも望は、違った。

 ただ思ったことをそのまま口にする。

 俳優を目指していることを話したときもそうだった。

「めっちゃ似合うね」
「何が?」
「俳優だよ」
「まだ、何にもなれてないよ」

 俺は、自分の後ろ向きな気持ちを隠すように自虐的に笑った。

 いつもの癖だった。期待される前に、自分で下げておく。

「オーディションとかにも、ほぼ通ってないし」

 すると、望は思いもしないことを言った。

「それでも、俳優の卵ってことでしょ?それってかっこいいけどなあ」

 一瞬、何も返せなかった。

 俳優の卵。

 最近、自分ですらその言葉を自分に言ってあげられなくなっていた。

「卵と言っていいかわからないレベルだけど」

 それでも否定すると、望は急に楽しそうなわくわくした顔をした。

「あ!つまり俺は、未来の俳優が売れる前から知ってる超古参になれるわけだ!激熱だ」

 未来の俳優。

 その言葉が、不思議なくらい胸に残った。

 俺にはもう見えなくっていた未来を、会ったばかりのこいつは当たり前のようにその未来を想像して、簡単に口にする。

「そしたら、俺が売れたら自慢していいよ」
「まじ?絶対自慢するわ!俺が育てた俳優ですって言う」
「ホテルの仕事を教えただけだろ」
「だとしても、育成したことには変わらんっしょ」

 バカみたいな会話だった。

 でも、久しぶりだった。

 俳優の話をしていて、苦しくならなかったのは。