俳優の卵と理系大学生

 「急な話で、本当にごめんな」

 店がつぶれると聞いた時、最初に感じたのは悲しさではなく、安心だった。

 ああ、これで地元に変える理由ができたな。そう思っていた。

 十八歳で地元から出てきて、もう四年目。

 俳優になりたい。

 たったそれだけの理由で、家を飛び出して東京にやってきた。

 たまたまやった文化祭でやった演劇の主役。もともと裏方をやるはずだったが、主役をやる同級生がけがをして、代わりに出ただけ。

 それなのに、本番が終わった後に同級生でもない名前も知らない人から声をかけられた。

「感動した」

 その言葉に、俺の心は動かされ気が付けば東京にいた。

 今思えば、ただの高校の文化祭。プロの舞台でもなければ、百人も観客がいたわけでもない。

 でも、あの瞬間だけは忘れることができなかった。

 自分が何かをしたことで、誰かの心を動かして、そして心に何か残る。

 そんな経験は一度もしたことがなかった。

 だから、俺はすぐに俳優になりたいと思った。

 両親には反対された。大学に行けとも言われた。

 それでも、その言葉を聞く耳を当時の俺は持っていなかった。俺なら、俳優になれるという根拠もない自身があった。

 東京で頑張れば、いつか役をもらえる。何とかなる。

 そんな風に思っていた。

 最初の一年くらいは、それでもよかった。

 毎日、新鮮な気持ちでいられた。演劇のワークショップに通って、オーディションを受けて、たまにエキストラとして仕事をもらったり。

 ドラマで、後ろをただ歩いただけでもとても楽しかった。

 ただ、これが二年目、三年目、四年目と続くうちに、いつからか楽しいよりも、辛いほうが増えていった。

「見た目は良いんだけどね」

 そう何度も言われた。

 最初のうちは褒められていると思っていたが、そのうちその続きの言葉があることが分かった。

 ――でもそれだけ。

「演技がきれいすぎる」
「感情が見えない」
「台詞を覚えているだけ」
「本当に役者を目指しているの?」

 何度も言われた。

 オーディション会場を出て、何が悪かったのかを考えて、次は直そうと思う。

 でも、結局「何かが足りない」と言われるだけ。

 その何かがどうしても分からない。分からない物は直しようがなかった。

 一緒にレッスンを受けていたやつがドラマ出演を勝ち取った。

 少し後に入ってきたやつが、舞台の主要キャストに抜擢された。

 SNSを開けば、同年代の役者が次々に仕事を決めて、活躍している。

 そのたびに、おめでとうという言葉を送った。

 その気持ちには嘘がなかった。本当に嬉しい。

 でも、そのあとすぐに、自分はいったい何をしているんだろうと思った。

 俺は俳優の卵なんだと、なんども言い聞かしてきた。

 でも、四年間も孵らない物を、はたして卵と呼んでいいのだろうか。

 もしかしたら、俺は卵なんてそんなかっこいいものではなく、ただ俳優になりたいと言っているだけの、二十二歳のフリーターなんじゃないか。

 そんなことを考えるようになっていた。

 その中で、上京してから続けていた飲食店がつぶれた。

 ショックだった。

 四年近く、生活を、メンタルを支えてくれた第二の家族のようなそんな場所だった。

 東京で最初に手に入れた自分の居場所だった。

 でも同時に思ってしまった。

 これで帰れる。仕事がなくなったんだから俳優を諦めて帰らないといけないという大義名分を得られた。

 俳優を諦めたんじゃなくて、仕方なく戻ることになった。

 そういうことにできる。

 自分で「もう無理だ」と認めなくて済む。

 けれど、結局俺は帰らなかった。

 意地だったのかもしれない。

 自分でもよく分からない。

 とにかく家賃を払わないといけないから、新しいバイトを探した。

 そこで見つけたのが、時給と立地の良かったホテルフロントの求人だった。

 特別な思い入れなんてなかった。

 飲食店で接客を四年近くしていたし、多少は経験を活かせるだろう。

 それくらいだった。

 あの日。

 あのホテルの自動ドアを開けたとき。

 俺は、自分の生活をつなぐためだけにそこへ行った。

 まさかそこで、自分をもう一度東京に引き留める人間と出会うなんて、思ってもいなかった。