俳優の卵と理系大学生

 特段大きな理由があったわけじゃない。ホテルフロントの仕事は気に入っているし、社員やバイト仲間との関係性も良いし、時給だって普通に高い。

 酔っぱらいの客や、予約が違うと怒鳴る客や日本語が通じない外国人観光客にあたることはあるけれど、それでも大学一年生から二年以上も働いていれば、慣れてくるし動じなくなってきた。

 ただ、仲良かったバイト仲間がみんな辞めてしまっただけ。卒業してしまった先輩や、ギャルだけど頼もしいフリーターのお姉さん、ワーホリで自国に戻ってしまった外国人のお兄さん。

 気がつけば、趣味の話や日常の話など、仕事中にあまり良くはないけど仕事の手を止めて、くだらない話に付き合ってくれるような相手も、バイト後に買い食いや晩飯を食べに行ってくれるような相手もいなくなっていた。

 大学三年生になって、授業も課題も研究室の準備も段々と忙しくなってきた。それなら、もう続ける理由もないのかなと思っていた。

 その日も俺は、フロントの裏にある事務所内のパソコンで宿泊者情報や予約情報の処理をしながらも、どうやってバイトを辞めることを伝えるかをぼんやりと考えていた。

「柏木くん、ちょっといい?」
 
 支配人の佐伯さんに声を掛けられ、パソコンの画面から顔を上げた。

「はい。なんかありました?」
「今日から新しい子が入るんだけど、柏木くんが教育担当として教えてあげてほしいんだけど、お願いできるかな?」
「え、俺が教えるんすか?」

 露骨に嫌な顔をしてしまった。

「柏木くん、もう三年目だしお願いだよ~」
「別にいいっすけど、三年目っつっても、俺週一,二しかシフト入ってないですけど大丈夫っすかね?」
「全然大丈夫!業務も一通りできるし、説明もわかりやすいし、何より明るいじゃん」

 説明がわかりやすいというか、俺以外に教えられる人がいないだけだろ。明るいってのも八方美人なだけだしな。

 俺は小さくため息を吐いて、フロントの方に目を向けた。その時ちょうど、自動ドアが開き、一人の男が入ってくるところだった。

 濃紺なスラックスに、まだ折り目が残っている白いシャツ。毛先は少し茶髪でセンター分け。すらりと背が高く、背筋が伸びていて存在感がある。

 一瞬、客かと思った。だが、着ている服はまぎれもなく俺と同じ制服。

その男は、フロントのカウンターまで来ると、少し緊張した様子で話しかけてきた。

「本日からアルバイトでお世話になります、朝倉海斗です。よろしくお願いします。」

 とても爽やかで、でも存在感のある声だった。

 (え、まって、顔良すぎないか?)

 ホテルのカウンターは、そこまで明るい場所でもなく、そんなに人間の顔を盛ってくれないはずだ。シフトの最後の方なんて、鏡に映る自分の疲れ切った顔に驚くレベルである。
それなのに、その人はこの無機質な証明の下でも、まるで俳優みたいなルックスをしていた。

 いや、まあ俳優みたいというより、本当に俳優を目指している人だった。後から知った話だけれども。

「朝倉くん、こちら柏木くん。この子から仕事を教えてもらって」
「よろしくお願いします」

 朝倉さんが、俺に向かって頭を下げてくる。近くで見ると、もっと背は高かった。多分百八十センチはありそうである。百六十五センチの俺からすれば、見上げる角度が普通に腹立たしい。

 ただ、見下されている感じはしなかった。多分だけど、目元が優しいからなんだと思う。

「柏木望です。これからよろしくお願いしまーす」

 俺はいつも通りの明るく誰にでも受けの良さそうな軽い調子で返した。

「俺二十一の大学生なんですけど、朝倉さんは、いくつっすか?」
「二十二です」
「え、俺より年上?」

 年上なのに後輩。その時点で、少し面白いと思った。

「じゃあさ、敬語やめない?」
「でも、柏木さんは仕事では先輩ですし、、」
「柏木さんって呼ばれるのもなんか堅くて嫌だ。望でいいよ」
「初日からなんか距離近くない?」
「年一個しか変わらないし、ここの職場さ年齢幅結構あるから、一個差なんてタメみたいなもんでしょ。俺、堅いのとか敬語使われるの苦手なんだよね」

 朝倉さんは、少し考えた後に、口元を緩めて

「じゃあ、望」

 唐突に名前を呼ばれて、心臓が少し跳ねた気がした。顔も声もいい人に名前呼ばれるのってなんか、それだけで得した気分というか良い気持ちになる。

「うん。そしたら俺も海斗って呼ぶわ」
「わかった」
「よろしくね、海斗」
「ああ、よろしく、望」

 海斗は、とても爽やかな笑顔を俺に向けた。

(え、無理かも。これ好きになるやつじゃん)


 その時はまだ、半分くらい冗談だった。