若葉宮花伝

 ―若葉―

「じいちゃん、いまごろどこにいるんだろ……」
 祖父の墓の盛り土を、若葉(わかば)は素手でそっとならしていた。
 命が尽きた後はどこへ行くのか、次の世界があるのか、それともここに居続けるのか。答えが返ってこない疑問が浮かんでは、着地点はひとつも見つからないままだ。
「肝心なこと教えてくれてないよ……」
 祖父との別れがいつかは来る。あえて考えないようにしていたのは、怖かったから。祖父の存在はあまりにも大きくて、若葉はその死をまだ受け止めきれずにいた。
 それでも、若葉は前を向いて歩かなければ。祖父との約束だけは守りたかった。
「じいちゃんの妹がいる澄華嶺国(ちょうかれいこく)って、どんな国かな……」
 若葉が暮らす春山国(しゅんざんこく)は、山々に囲まれた小国だ。麓(ふもと)の村では薬草の栽培が盛んで、調合した薬を隣国へ卸している。
 祖父はかつて、澄華嶺国で宮廷薬師をしていたという。その後は故郷の春山国に戻り、山頂近くで畑を耕しながら暮らしていた。
 物心ついたときから祖父とこの山で過ごしてきた若葉は、薬草の知識を教わりながら育った。
「じいちゃんの薬、全部は持っていけないから、村の人に渡すね……」
 祖父が珍しい薬草を使って調合した薬は、若葉がときおり麓の村へ届けていた。
 そんな祖父も、数年前から床に伏せることが増え、次第に痩せ細っていった。自らの死期を悟っていたのか、若葉がひとりになっても困らぬよう、さまざまなことを教えてくれた。
 墓の作りかたも、そのひとつだ。
 祖父は生前、自分が亡くなったら澄華嶺国にいる妹を訪ねるよう、若葉に言い聞かせていた。祖父の妹は、そこで占いを生業(なりわい)にしているという。
「じいちゃん、ゆっくり休んでね。若葉はじいちゃんに言われたとおり、澄華嶺国にいるじいちゃんの妹に会いに行くよ」
 墓標(ぼひょう)に花を添えた若葉は盛り土に手を当て、祖父との暮らしにしばし思いを馳せる。聞き慣れた祖父の声が、いまにも聞こえてきそうだった。
「寄り道をするんじゃないぞ」
 そう言って、麓に下りる若葉をいつも送り出してくれた。
 太陽が墓標を明るく照らし、若葉は小さく微笑んだ。
「それじゃ、じいちゃん。行ってきます」
 立ち上がった若葉は、ときおり後ろを振り返りながら、山を下りていく。
 麓の村に着くと、顔馴染みのおばさんやおじさんたちが集まってきた。
「あら、若葉ちゃん。もう出発するの?」
「うん。鶏や山羊の世話を頼んでごめんね」
「なに言ってんだい。あんたのじいさんには世話になったんだ。これくらい迷惑なもんか」
「そうだよ。水くさいこと言わないでおくれ。それに鶏の卵や山羊の乳をいただくんだ。面倒なもんか」
 誰もいなくなった家に、家畜を置いて行くわけにはいかない。いつ戻るのか、若葉自身でさえわからないのだ。
「澄華嶺国へ行くには山をいくつも越えるんだ。これを持っていきな。干し棗(なつめ)と炒り豆と乾餅(かんぺい)だ。わずかだが、腹の足しにしておくれ」
「おばちゃん、ありがとう!」
「これはじいさんの薬の代金だ。まだ売れてねえ分もあるが、先に渡しとく。向こうじゃなにをするにも金がいるからな」
 手のひらに収まる麻袋を受け取ると、ずしりと重みがあった。
「こんなにたくさん?」
「それでも足りねえくらいだ。澄華嶺国までの路銀にはなるだろうが、向こうで暮らしていくには心もとねえ。まあ、薬草の知識なら若葉もじいさんに引けを取らねえからなんとかなるだろうが、なにかあったら役人を頼るんだ」
 祖父が村人に慕われていたことを物語るように、若葉のかばんはいっぱいに膨れた。
「行っといで!」
「じいさんの墓は任せときな!」
「ここがお前さんの故郷だ。いつでも帰っといで!」
 村人たちの笑顔に見送られ、若葉も手を振った。
「行ってきます!」
 澄華嶺国へと続く道を、若葉は歩き始めた。


  ―景煌―

「占いなどくだらぬ!」
 夜着を纏(まと)い、貴妃(きひ)の蘭(らん)・綾華(りょうか)の宮を訪れた景煌(けいこう)は、寝所へ向かいながら独りごちた。
 この数日、側近の沈(しん)・宗慶(そうけい)が、「一度、星回りを見てもらうのはいかがでしょう」と詰め寄ってくるのだ。日増しにその圧が強くなり、つい先ほどは「いつ時間を調整いたしましょう」と予定を決められてしまうところだった。
「まあ、景煌様が大きなお声を出されるなど珍しいですわね」
 女官たちが両開きの木戸を開け、景煌が寝所に足を踏み入れると、侍女がちょうど茶を淹れているところだった。
「宗慶が早計すぎるのだ」
「まあ、駄洒落ですの?」
 綾華にくすりと笑われ、口にした言葉を反芻すれば、たしかに語呂合わせだった。
「そなたに不平をこぼすつもりはなかった。すまない」
 侍女に差し出された茶碗を手に取り、蓋をわずかにずらせば、茶葉の香りがふわりと立ちのぼる。ひとくち含めば、奥深い味わいが広がり、ささくれ立っていた気がいくらか和らいでいく。
「とんでもございません。他の妃(ひ)には聞かせられないこともおありでしょう。わたくしでよろしければ、なんでもお聞かせくださいませ」
 ふふ、と上品な笑みを浮かべる綾華の優しさに、つい甘えてしまいがちの景煌は、目を伏せて頷き、茶を啜る。
 澄華嶺国の第二皇子として生まれ、いずれ帝位を継ぐ兄上の補佐を務めるはずであった蕭(しょう)・景煌は、皇帝陛下より「子を成すがよい」と朝議で命じられた。
 それはすなわち、第一皇子である兄、蕭・清弦(せいげん)を差し置いて、第二皇子を次期皇帝に据える可能性を示唆(しさ)する言葉でもあった。
 景煌は茶碗を置き、綾華に目を向けた。
「兄上はまた体調を崩されたらしい」
「そうですの……清弦様はご無理の利かない身体ですし、お見舞いを持って様子をうかがってみますわ」
「ああ、そなたが行けば、兄上の気も和らぐだろう」
 見目麗しく、品があり、細やかな気遣いのできる綾華なら、病床の兄を煩わせることもあるまい。兄も綾華には、ことのほか心を許しているようだった。
 兄の清弦は、名は体を表すという言葉どおり、清い心の持ち主であり、その身体は張り詰めた弦のように、すこし無理をすると床に伏せてしまう。そのため、妃は幾人もいるが、寝所をともにすることは、ひと月に一度あるかないか。それこそ、体調次第であった。
 皇子たる者にとって、子を成し、皇統を絶やさぬことも政務のひとつ。
 だが、景煌もまた、清弦とは違う悩みで子を成せてはいなかった。
「一献(いっこん)ご用意いたしましょうか?」
 綾華の申し出に、「ああ」と返事をする景煌の口から、ため息が漏れる。
 第一皇子とおなじく、数多の妃がいる景煌は、閨で一度も果てたことがなかった。まったく反応しないわけではなく、女性を悦ばせるだけの力はある……というよりも、ありすぎるほどだ。
 妃は一夜で幾度となく気をやり、景煌が果てるまえに皆、悦びの余韻と心地よい気だるさに包まれ、いつしか眠りに落ちてしまう。景煌も果てようと律動を重ねるのだが、どれほど時を費やそうとも果てることはなく、やがて身体の昂ぶりさえ失われていく。
 そんな景煌の事情を知っているのは、宗慶のほか、数名のみ。
 妃のだれも懐妊しないことを、重臣たちは訝(いぶか)しんでいる。いらぬ詮索を避けるため、医官の診察も受けたが、あきらかな異常は見当たらなかった。寝所では妃の悦ぶ声も漏れ聞こえており、それ以上の詮索を許す材料は与えていない。
 いまのところ、子を授かるか否かは、天の采配とされていた。
「景煌様、ご用意ができました。酒盃(しゅはい)をどうぞ」
 酒注(しゅちゅう)を両手で持ち、酒を注ぐ綾華の手つきは、いつ目にしても優美だ。妃のなかで最高位にある貴妃にふさわしい気品がある。
 かつてはその身に欲情を覚えることもあったが、いまでは褥(しとね)をともにしても、ただ安らかな眠りを分かち合う間柄となっていた。
「そなたの注ぐ酒がやはり一番美味いな」
「まあ、お上手ですこと」
「兄上とも、酒を酌み交わして、日頃の緊張を緩められれば良いのだが、それも叶わぬ」
「清弦様も、景煌様に心配をかけぬよう、気を張っておられるのでしょうね」
「ああ。兄上は私利私欲とは無縁で、公正な政(まつりごと)を行えるお方だというのに、身体がついてこず、歯がゆい思いをなさっているのだろう」
 そんな兄を差し置いて、自分が先に子を成すことには抵抗があった。いまだ子を授からずにいる現状に、ほっとしている部分さえある。その後ろめたい安堵が、閨で果てられぬ一因となっているのかもしれない。
 宗慶には、そんな心を見透かされ、第一皇子に子ができぬことと景煌が子を成すことは別問題だと再三進言されてきた。景煌に子を成す力がないと知れれば、政敵につけ入る隙を与えることになる。
 だからこそ、問題を放置せず、解決の糸口を探るべきだというのが宗慶の考えだ。その手立てに星回りなどと言い出すくらい、宗慶も焦りを募らせているのだろう。
 だが、星の巡りなどで、この身に起きていることの答えが見つかるとは到底思えなかった。