体操のおにいさん、歌のおにいさんのことが好きらしい

これまでの反省を活かし、誠司はソファーに座っていた。端の方にちょこんと、片側のお尻だけを乗せて。

誠司は、悠馬がこのソファーに、「よいしょ」と腰掛けるところをたまに見ていた。

なので、このまま待っていれば、悠馬が隣に座ってくれるのではないかと、誠司は密かに期待していたのだった。

だが、悠馬はディレクターに呼ばれたきり、楽屋に帰ってこない。誠司は、首から下げたカードに目を移す。

3分、5分の項目に花丸シールが貼られたこれは、真彩お手製の『トレーニングカード』である。

その仕様はラジオ体操出席カードと同じで、悠馬と二人きりで過ごせる時間を延ばすために作られた。

そして、誠司は前回5分の耐久をクリアした後、数週間ほど一進一退を繰り返し、今日やっと10分耐久に挑戦する予定だった。

誠司は今日のために、話題も考えてきていた。片手には台本、もう片手にはスマホ。その画面には、テレビで紹介されていた、例の保護犬カフェのサイトが開かれている。

悠馬が「行ってみたいね」と言った日から、誠司はサイトを熟読し、毎日朝昼晩と開き、情報を頭に叩き込んだ。

だが、その蓄えてきた知識も、悠馬がいなければ使い道が無い。時計を見ると、そろそろ誠司の出番も近づいていた。

誠司は思い知った。こうやって、一緒にいられる時間は減っていくのだと。

隣に座ることを断ったことも、保護犬カフェに誘わなかったことも。いくら後悔しても、逃げ続けた時間は返ってこない。

誠司はソファーに背を預け、ゆっくりと腕を組んだ。瞼を閉じ、眉間にシワを寄せていく。

悠馬さんは犬が好きだ。僕も好きだ。そして、悠馬さんは保護犬カフェに行きたいと言った。

悠馬さんが卒業したら、きっと僕はただの過去の後輩。二人で出かけることなんてあるはずがない。

なら、やはり今のうちに誘うべきだ。……仕事仲間として。

そう考えながらも、脳内では「デート」の文字が踊っていた。誠司は頭を抱えた。

でも、長時間も一緒にいたら、好意が表面化してしまうかもしれない。犬と悠馬さんなんて、とんでもないセットだ。

誘うべきか、誘わざるべきか。誠司の思考は、出口のない迷路へと突入し、ぐるぐると同じ場所を歩き始めた。

その時、ドアをノックする音が響いた。誠司は「悠馬さんのノック音ではない」と判別し、落ち着いて顔を上げる。『みんなのひろば』のADが、ドアから顔を出していた。

「誠司おにいさん、お願いしまーす」

誠司は台本を閉じ、悠馬と二人きりになれないままスタジオへと向かった。

「猫さんが迷子になってるよ。真彩おねえさん、どうしよう」

悠馬は困り顔で首を傾げ、真彩に話しかける。二人の前には、収録に参加中の子供達が座っていた。お遊戯を見る姿勢である。

そして、真彩はキリッとした顔で、人差し指を天へと伸ばした。

「こんな時はおまわりさんを呼びましょう!犬のおまわりさーん!」

真彩の合図を受け、誠司は台本通りアクロバットで登場した。ほぼ助走をつけずに高く飛び、スタッと静かな着地。

犬耳付きの警官帽を被り、青い制服に身を包んだ、犬のおまわりさんの到着である。

それは、保護者たちをどよめかせ、子供達の目を釘付けにするほど、かっこいい登場だった。

誠司は悠馬の前では挙動不審だが、こういう時はちゃんと体操のおにいさんである。

「わー!かっこいいー!」

だが、悠馬の声が誠司の耳に入った瞬間、それも崩れかけた。誠司は、台本にないその言葉に動揺した。

誠司が視線だけ移すと、悠馬は目を輝かせて、無邪気に手を叩いていた。

これを誠司が無視できるわけがない。今日は特に無理だった。

誘いたい。いや、誘うなんて出来ない。下心があるみたいだ。

誠司の意識はブランコのように揺れ、最終的には吸い寄せられるように悠馬へと傾いた。

「……私が来たら……安心です」

葛藤の末、誠司はセリフを間違えた。正しくは「私が来たからには、もう安心だワン!」である。犬のおまわりさんではなく、誠司という人間が返答した瞬間であった。

誠司は、自分の失敗を静かに噛み締めた。真彩も梓も悠馬もスタッフ達も、誠司がセリフを間違えたことに気づいていた。

だが、これぐらいでは収録を止めないのが『みんなのひろば』である。なぜなら、子供達が楽しく収録に参加できる時間には限りがあるからだ。ほぼ一発本番で収録するのが基本だった。

誠司が反省していることなど関係なく、『犬のおまわりさん』の伴奏は流れ出す。そして、悠馬と真彩は、声を合わせて歌った。

「迷子の迷子の子猫ちゃん。あなたのお家はどこですか。お家を聞いても……」

ここで誠司は、梓演じる子猫ちゃんに「お家はどこですか?」と聞かなくてはいけない。

だが、誠司は家を聞かなかった。自分の失態に気を取られ、忘れていた。スタジオに沈黙が流れる。だが、曲は進む。

「名前を聞いても……」

誠司は名前も聞かなかった。頭の中では「保護犬カフェ」がチラつき、犬のおまわりさんは職務放棄をしていた。

誠司が再起動するまでの間、梓はリハーサルよりも長く、泣いてばかりいることになった。

この場を自然に成立させ、尚且つ子供達が飽きないように、バリエーションをつけた「にゃんにゃん」が続く。

その対応力は、視聴者から「前世保育士」と噂されているだけあり、まさしくプロの仕事だった。

梓は顔を手で覆い、泣く演技を続ける。そして、一切声を出さず、口の動きと表情だけで、「誠司……!」と叱った。ふわふわな猫耳に似合わないほど、その目はつり上がっていた。

誠司はハッと我に返る。同僚が必死にフォローしている姿を見て、自分を情けなく思った。

恋で右往左往し、仕事を放棄しかけ、挙げ句の果てに結論は出せない。

「犬のおまわりさん。困ってしまってー」

悠馬と真彩は、この収録の終盤に向けて歌った。誠司は吠える。

「わんわんわんわーん!わんわんわんわーん!」

誠司は本当に困っていた。保護犬カフェの苦悩を乗せた魂の叫びだった。

そして、収録が無事に終わり、子供達と保護者を見送った後、誠司は警官帽を脱いだ。

早く問題を解決しないと、次の仕事ではもっと酷い失態をしそうだと、誠司は危機感を持っていた。

「誠司くんお疲れ。ワンちゃん似合ってたね」

悠馬はいつもの調子で、誠司に話しかける。

誠司は覚悟を決めた。もう犬のおまわりさんではない。いつまでも困っているわけにはいかなかった。

「……あの……保護犬カフェなんですが。施設維持のために滞在時間制で、30分で500円もしくはワンドリンク……食事メニューもあるらしく……それら料金は、保護活動への募金にもなるそうで……」

誠司は保護犬カフェについて、ペラペラと話した。だが、誠司が言いたいのは「一緒に行きませんか」であり、知識を披露することではない。

誠司は話し始めてから、自分が誘い方を知らないことに気づいた。誠司は、これまでの人生で誰も誘ったことがなかった。

何がなんだかわからないまま、誠司は保護犬カフェを説明し続けた。跳馬の助走のように、走り出したらもう跳ぶしかなかった。

一方、悠馬は驚いていた。あの誠司くんが、こんなに話しかけてくれるなんて。

犬好きという共通点が見つかり、仲間認定してもらえたのかな。誠司くんは、そんなに犬が好きだったんだ。

一生懸命に話す誠司は、「あのね」「それでね」と話しかけてくる幼い子供のようだった。悠馬は、誠司の新たな一面を知って微笑ましくなった。

そして、その一面を見せてくれることは、年上として純粋に嬉しかった。悠馬は、笑顔で口を開く。

「今度、行ってみる?」

説明の代わりに、誠司の口から心臓が飛び出た。誘われた。誘われると思っていなかった。

「何の話ですか?」

そこに、梓の頭についた猫耳を触りながら、真彩が来た。真彩に引っ張られるように、腕を組んだ梓も連れられてくる。

「保護犬カフェだよ。真彩ちゃんも行く?梓ちゃんもどう?」

誠司は梓や真彩といることが多いので、自分と二人きりだと居心地が悪いかもしれないと、悠馬は悠馬なりに気を遣った。

だが、その言葉を聞いた誠司は、わかりやすく落ち込んだ。背中がしゅんと丸まり、負のオーラを全身から醸し出す。

そんな誠司の姿に、梓と真彩はすぐに察した。これは、自分たちが行ってはいけないイベントだと。

「すみません。私、犬アレルギーなので……」

梓は犬アレルギーではない。以前、『みんなのひろば』のロケで、犬を嬉しそうに撫でていた。

それは、とても苦しい嘘だったが、真彩も姉御を見習って続く。

「私も……犬耳を見るだけで……辛くて……」

そう言って、真彩は大袈裟に咳き込み、梓の腕を引いてスタジオを離れた。

真彩は、少女漫画の友人ポジションに憧れがあったので、最高の立ち回りをしたと満足していた。そんな真彩に、梓は「やりすぎ……」と呟いた。

残された悠馬は、誠司と向かい合う。身長差的に、自然と上目遣いで窺っていた。

「……じゃあ、二人だけど、どうかな?」

誠司は心の中で、遠吠えをした。そして、小さく頷いた。