誠司は楽屋のドアを開けたまま、立ち尽くしていた。悠馬はまだ休憩から帰ってきていない。
誰もいない部屋を見渡し、誠司は恐る恐る一歩を踏み出す。すると、悠馬の残り香を感じた。
だめだ。自然由来のいい匂いがする。しかも、最近は香りが強まった気がする。
誠司は一歩下がった。本来ならば、自分の居場所だが、誠司はこの先に行くことができない。
つま先を出しては、引っ込める。出しては、引っ込める。何かの踊りのようだった。
誠司は諦め、いつも通り梓と真彩の楽屋に向かった。だが、ドアノブに手をかけた時、誠司の腕はぐいっと引っ張られた。
振り向くと、そこには真彩がいた。トートバッグを肩にかけ、口の端に黒蜜をつけている。
「誠司さん、逃げている場合ではありません!」
真彩の目は、いつになく真剣だった。周りをキョロキョロと見渡しては、誠司を人のいない階段下へと忍び足で連れて行く。
そして、誠司の耳元に近づいて、小さな声で言った。
「悠馬さん、卒業を考えているかもしれません」
誠司は手の甲に血管が浮き出るほど、真彩の肩を強く掴み、一切瞬きをしなかった。
「いつ!」
誠司の一重の瞼が、かっぴらいている。真彩は初めて見る誠司の姿に、思わず後ずさりした。このままでは肩が粉砕されそうだ。
「わ、わかんないです!でも、『来年で10年か……』って不穏なフラグ立ってました……!」
誠司の視界は真っ白になった。力無く壁にもたれ、ズルズルと伝って座り込む。悠馬のことになると、平常心を忘れるのが常だった。
真彩は、自分の肩が残っていることに安堵しながらも、誠司に深く同情した。誠司の隣にしゃがみ、しょんぼりと肩を落とす。
「学校を卒業したら、仲が良かった人でさえ疎遠になるじゃないですか。悠馬さんとも、そうなっちゃうんですかね」
「……仕方がないです。悠馬さんにも人生があるので」
そう言いながらも、誠司は灰のようになっていた。少しでも風が吹けば、散りとなって吹き飛ばされてしまいそうだ。
真彩はトートバッグからタブレットを取り出す。画面には「どきどき♡トレーニング~君と僕のメロディ~」の文字。
誠司のために、勝手に自作したゲームは一向に進んでいない。プレーヤーが獲得した好感度は、ずっと0のままだ。
「……もし本当に卒業だったら、誠司さんどうしますか」
誠司は俯き、ついに両膝を抱え出した。今の誠司は元アスリートの180cm男性ではない。ただの迷える子羊だった。
「……わかりません。自分でもどうしたいのか」
テレビ局の隅にある階段は、忘れられたように薄暗く、隙間風のせいで寒かった。良くも悪くも、歴史を感じる灰色の空間。真彩と誠司を静寂が包み込む。
「誠司ー」
梓が廊下の角から現れると、目の前で壁にもたれて、天を仰ぐ真彩と誠司を見た。
二人とも口をポカンと開けて、白目を剥いている。これから子供と会う人の顔ではない。
だが、梓にとっては日常なので、落ち着いて豆大福を食べ続けた。
「悠馬さんが探してるけど」
そんな梓の言葉に続くように、悠馬の声が柔らかく響いた。
「誠司くん?」
穏やかな悠馬と優雅なかおる。そんな二人が歌のおにいさん・歌のおねえさんを務めた時代は、「『みんなのひろば』の春」という愛称で呼ばれている。
まさに、この時の悠馬の登場は、殺風景な階段下に春が訪れたようだった。
瞬時に黒目が芽吹き、生気を取り戻す真彩と誠司。二人は太陽へと伸びる葉のように、すくっと立ち上がった。梓から見ると、その光景はだいぶ面白かった。
悠馬は誠司を見つけると、紙袋から豆大福を取り出し、誠司へと差し出した。悠馬は、少し遠慮がちな微笑みをしていた。
「これ、誠司くんにもお土産。甘い物好き?」
「あっ、あま……あま……いや……」
誠司は誤作動を起こした。先ほどまで話題にしていた人が目の前に現れたのだ。しかも、目の前には豆大福。悠馬が自分のために買ってきた豆大福。
早く受け取りたいが、誠司は手足を動かすことができず、ただ豆大福を見ながら口をパクパクさせた。真彩は思った。今日も同じルートかぁ……。
なかなか受け取らない誠司を前に、悠馬は何かを察したように「あっ」と言った。そして、眉をしゅんと下げ、豆大福を誠司の前から下げた。
「……体を鍛えている人は、食べない方がいいのかな」
豆大福が紙袋に戻されていく。誠司にはスローモーションに見えた。それぐらい惜しかった。
誠司は豆大福の救出に向かったが、実際は相変わらず動いていない。指が5mmほど動いただけだ。
「欲しい」と言えたらいいのに、大事な時ほど口が重たくなるのが、誠司の生きづらさだった。
その横で、梓は痙攣したように動く誠司の指を見ていた。こういった時、助け船を出すのは梓の役目だった。梓は食べかけの豆大福を片手に言う。
「大丈夫ですよ、悠馬さん。豆大福は脂質が少ないので」
「そうなの?」
「はい。だから、鍛えている人ほどおすすめらしいです」
「なるほど。……さすが体操のおねえさんだね」
にっこり顔の悠馬に褒められて、梓は誇らしげに胸を張った。外資系企業で働いていそうな、キリッとした顔つきが柔らかくなっている。悠馬は、梓にとっても信頼できる先輩だった。
梓は笑顔のまま、誠司の横腹を肘で軽く突く。そして、綺麗な猫目で誠司を睨んだ。その顔つきは「悠馬さんを困らせるな!」という説教が含まれていた。
「ねっ、誠司。食べられるでしょ」
「あっ、はい。もう、何個でも……」
誠司は急いで背筋を伸ばした。梓と誠司は同い年だが、悠馬のことになると、基本的に誠司は動かなくなるので、梓が引っ張るしかなかった。
一連を見ていた悠馬は、少し困った顔をした。自分が先輩だから、後輩たちに気を使わせているのだと思った。特に誠司の場合はその可能性が高い。悠馬はおずおずした表情で誠司を見上げる。
「苦手なら断っていいんだよ?」
悠馬が誠司の顔をそっと覗いている。悠馬とここまで目が合ったのは、誠司にとって久しぶりだった。誠司の黒目は、すぐさまピンボールのように動き回った。
「いや、あの、本当に。……す、好きで」
誠司の「好き」は、ロボットに負けるぐらいガッタガタな音程だった。不自然に声が裏返り、所々で音が消え、「す」の音は遠くに飛んだ。豆大福に向けた「好き」であっても、これが今の誠司の精一杯であった。
だが、真彩にはスタンディングオベーションものだった。誠司が悠馬の前に勢いよく両手を出した姿は、校舎裏で告白する中学生に見えた。「よろしくお願いします!」と握手を求めているようだった。
悠馬は誠司の勢いに圧倒されながらも、また穏やかに笑い、「良かった」と豆大福を渡した。その笑顔からは、緊張感が薄れていた。
誠司は豆大福を片手に持ちながら、去っていく悠馬の背中に見惚れていた。そんな誠司を見て、梓は「本当、好きだよね」と呆れて言った。
誠司の顔はたちまち赤くなった。誤作動により、自分が必要以上のことを口走ったことに今更気づいた。
真彩は片思いを見守る者として、誠司に可能性を感じた。そして、誠司の手を固く握った。
「好きの醍醐味は、エンディングではなく過程です!とりあえず今は、悠馬さんがいる時間を楽しみましょう!」
真彩は誠司の目の前にタブレット画面を突きつけた。そこには、まだ解放されていないイベントCGがたくさんある。誠司は赤い顔のまま豆大福を眺めた。
誰もいない部屋を見渡し、誠司は恐る恐る一歩を踏み出す。すると、悠馬の残り香を感じた。
だめだ。自然由来のいい匂いがする。しかも、最近は香りが強まった気がする。
誠司は一歩下がった。本来ならば、自分の居場所だが、誠司はこの先に行くことができない。
つま先を出しては、引っ込める。出しては、引っ込める。何かの踊りのようだった。
誠司は諦め、いつも通り梓と真彩の楽屋に向かった。だが、ドアノブに手をかけた時、誠司の腕はぐいっと引っ張られた。
振り向くと、そこには真彩がいた。トートバッグを肩にかけ、口の端に黒蜜をつけている。
「誠司さん、逃げている場合ではありません!」
真彩の目は、いつになく真剣だった。周りをキョロキョロと見渡しては、誠司を人のいない階段下へと忍び足で連れて行く。
そして、誠司の耳元に近づいて、小さな声で言った。
「悠馬さん、卒業を考えているかもしれません」
誠司は手の甲に血管が浮き出るほど、真彩の肩を強く掴み、一切瞬きをしなかった。
「いつ!」
誠司の一重の瞼が、かっぴらいている。真彩は初めて見る誠司の姿に、思わず後ずさりした。このままでは肩が粉砕されそうだ。
「わ、わかんないです!でも、『来年で10年か……』って不穏なフラグ立ってました……!」
誠司の視界は真っ白になった。力無く壁にもたれ、ズルズルと伝って座り込む。悠馬のことになると、平常心を忘れるのが常だった。
真彩は、自分の肩が残っていることに安堵しながらも、誠司に深く同情した。誠司の隣にしゃがみ、しょんぼりと肩を落とす。
「学校を卒業したら、仲が良かった人でさえ疎遠になるじゃないですか。悠馬さんとも、そうなっちゃうんですかね」
「……仕方がないです。悠馬さんにも人生があるので」
そう言いながらも、誠司は灰のようになっていた。少しでも風が吹けば、散りとなって吹き飛ばされてしまいそうだ。
真彩はトートバッグからタブレットを取り出す。画面には「どきどき♡トレーニング~君と僕のメロディ~」の文字。
誠司のために、勝手に自作したゲームは一向に進んでいない。プレーヤーが獲得した好感度は、ずっと0のままだ。
「……もし本当に卒業だったら、誠司さんどうしますか」
誠司は俯き、ついに両膝を抱え出した。今の誠司は元アスリートの180cm男性ではない。ただの迷える子羊だった。
「……わかりません。自分でもどうしたいのか」
テレビ局の隅にある階段は、忘れられたように薄暗く、隙間風のせいで寒かった。良くも悪くも、歴史を感じる灰色の空間。真彩と誠司を静寂が包み込む。
「誠司ー」
梓が廊下の角から現れると、目の前で壁にもたれて、天を仰ぐ真彩と誠司を見た。
二人とも口をポカンと開けて、白目を剥いている。これから子供と会う人の顔ではない。
だが、梓にとっては日常なので、落ち着いて豆大福を食べ続けた。
「悠馬さんが探してるけど」
そんな梓の言葉に続くように、悠馬の声が柔らかく響いた。
「誠司くん?」
穏やかな悠馬と優雅なかおる。そんな二人が歌のおにいさん・歌のおねえさんを務めた時代は、「『みんなのひろば』の春」という愛称で呼ばれている。
まさに、この時の悠馬の登場は、殺風景な階段下に春が訪れたようだった。
瞬時に黒目が芽吹き、生気を取り戻す真彩と誠司。二人は太陽へと伸びる葉のように、すくっと立ち上がった。梓から見ると、その光景はだいぶ面白かった。
悠馬は誠司を見つけると、紙袋から豆大福を取り出し、誠司へと差し出した。悠馬は、少し遠慮がちな微笑みをしていた。
「これ、誠司くんにもお土産。甘い物好き?」
「あっ、あま……あま……いや……」
誠司は誤作動を起こした。先ほどまで話題にしていた人が目の前に現れたのだ。しかも、目の前には豆大福。悠馬が自分のために買ってきた豆大福。
早く受け取りたいが、誠司は手足を動かすことができず、ただ豆大福を見ながら口をパクパクさせた。真彩は思った。今日も同じルートかぁ……。
なかなか受け取らない誠司を前に、悠馬は何かを察したように「あっ」と言った。そして、眉をしゅんと下げ、豆大福を誠司の前から下げた。
「……体を鍛えている人は、食べない方がいいのかな」
豆大福が紙袋に戻されていく。誠司にはスローモーションに見えた。それぐらい惜しかった。
誠司は豆大福の救出に向かったが、実際は相変わらず動いていない。指が5mmほど動いただけだ。
「欲しい」と言えたらいいのに、大事な時ほど口が重たくなるのが、誠司の生きづらさだった。
その横で、梓は痙攣したように動く誠司の指を見ていた。こういった時、助け船を出すのは梓の役目だった。梓は食べかけの豆大福を片手に言う。
「大丈夫ですよ、悠馬さん。豆大福は脂質が少ないので」
「そうなの?」
「はい。だから、鍛えている人ほどおすすめらしいです」
「なるほど。……さすが体操のおねえさんだね」
にっこり顔の悠馬に褒められて、梓は誇らしげに胸を張った。外資系企業で働いていそうな、キリッとした顔つきが柔らかくなっている。悠馬は、梓にとっても信頼できる先輩だった。
梓は笑顔のまま、誠司の横腹を肘で軽く突く。そして、綺麗な猫目で誠司を睨んだ。その顔つきは「悠馬さんを困らせるな!」という説教が含まれていた。
「ねっ、誠司。食べられるでしょ」
「あっ、はい。もう、何個でも……」
誠司は急いで背筋を伸ばした。梓と誠司は同い年だが、悠馬のことになると、基本的に誠司は動かなくなるので、梓が引っ張るしかなかった。
一連を見ていた悠馬は、少し困った顔をした。自分が先輩だから、後輩たちに気を使わせているのだと思った。特に誠司の場合はその可能性が高い。悠馬はおずおずした表情で誠司を見上げる。
「苦手なら断っていいんだよ?」
悠馬が誠司の顔をそっと覗いている。悠馬とここまで目が合ったのは、誠司にとって久しぶりだった。誠司の黒目は、すぐさまピンボールのように動き回った。
「いや、あの、本当に。……す、好きで」
誠司の「好き」は、ロボットに負けるぐらいガッタガタな音程だった。不自然に声が裏返り、所々で音が消え、「す」の音は遠くに飛んだ。豆大福に向けた「好き」であっても、これが今の誠司の精一杯であった。
だが、真彩にはスタンディングオベーションものだった。誠司が悠馬の前に勢いよく両手を出した姿は、校舎裏で告白する中学生に見えた。「よろしくお願いします!」と握手を求めているようだった。
悠馬は誠司の勢いに圧倒されながらも、また穏やかに笑い、「良かった」と豆大福を渡した。その笑顔からは、緊張感が薄れていた。
誠司は豆大福を片手に持ちながら、去っていく悠馬の背中に見惚れていた。そんな誠司を見て、梓は「本当、好きだよね」と呆れて言った。
誠司の顔はたちまち赤くなった。誤作動により、自分が必要以上のことを口走ったことに今更気づいた。
真彩は片思いを見守る者として、誠司に可能性を感じた。そして、誠司の手を固く握った。
「好きの醍醐味は、エンディングではなく過程です!とりあえず今は、悠馬さんがいる時間を楽しみましょう!」
真彩は誠司の目の前にタブレット画面を突きつけた。そこには、まだ解放されていないイベントCGがたくさんある。誠司は赤い顔のまま豆大福を眺めた。
