収録終わり、誠司は楽屋に戻っていた。真っ黒なリュックを広げ、帰りの支度を済ませていく。
顔はいつも通り真顔。だが、その目はリュックに焦点が合っておらず、夢見心地といった表情だった。
物を入れる手つきもおぼつかない。プロテインシェイカーをリュックに入れようとするが、スカッ、スカッと空振りし続けている。
梓は静かに近づき、誠司の背中にコールドスプレーを噴射した。だが、誠司は無反応だった。
もう一度シュッと噴射するが、まだ無反応。コールドスプレーはついに役目を失った。
トートバッグを肩にかけ、真彩は梓に耳打ちをする。
「元アスリートだから、冷却に慣れてるんですかね」
「……いや、悠馬さんに夢中なだけだと思う」
誠司と同い年で同期である梓は、予想を的中させた。
誠司は感覚を完全にシャットアウトし、記憶が薄れる前に、先ほどの悠馬を再生することに集中しているのだ。
温かい体温、無印良品みたいな香り、そして至近距離でこちらを見つめる目。
支度をとっくに終え、あとは帰るだけの真彩と梓は、誠司をずっと見ていた。
誠司は、シェイカーをまだリュックに入れられていない。
梓は思った。ここは本来、私と真彩の楽屋。
なぜ誠司は、ここで荷物をまとめているの。
なぜ誠司は当たり前のような顔で、ここにいるの。
その時、ドアをノックする音が響いた。誠司は瞬時に顔を上げる。
「悠馬さんのノック……!」
誠司の特殊能力は、百発百中だった。悠馬が楽屋のドアから、ひょこっと顔を出す。
「先に帰るね。お疲れ様」
悠馬は柔らかい笑顔で手を振る。梓と真彩は、悠馬に「お疲れ様でした!」とにこやかに返す。
その間、誠司も全ての動作を止めて、悠馬を見ていた。だが、その目は動揺で泳ぎまくっている。
悠馬はさりげなく誠司を見るが、誠司とは一切目が合わない。自分が目を向けると、サッと目を逸らされる。
悠馬は口角をあげたまま、ゆっくりとドアを閉めた。その去り際の笑顔は、俯きがちで少し寂しそうだった。
楽屋は静寂に包まれる。やりきった顔で力を抜く誠司の横で、チームの最年少26歳の真彩は違和感を持った。
あれは、恋愛シミュレーションゲームで見た表情……。しかも、良くないフラグが立つ時に出る表情だ。
真彩は一抹の不安を覚え、思わず叫んだ。
「好き避けのやり過ぎは、バッドエンドです!」
急な高らかな宣言に、誠司は肩を跳ね上げ、真彩を振り返った。梓は慌てて真彩の口を押さえる。
「静かに!誰かに聞かれたらどうするの!」
「すみません!」
真彩は小声で謝りながらも、素早くタブレットを取り出し、手作り恋愛シミュレーションゲームを映す。
そして、誠司の目の前に勢いよく突き出した。
画面には「誠司くん、僕のこと嫌いなんだ」と悲しそうに去る悠馬が映り、バッドエンドと大きく出る。
「このまま悠馬さんを避けると、これが現実になります!」
ゲーム内の悠馬の背中が、遠ざかっていく。
誠司は目を見開き、悠馬を追いかけるように、タブレットをガシッと掴んだ。
そして、説得するように、誠司は必死で口を動かす。
「ぼ、僕はただ、悠馬さんに迷惑をかけたくないだけで……!」
梓は腕を組み、綺麗な猫目で誠司を捉えた。
「悠馬さんからしたら、拒絶にしか見えないよ」
誠司は口をあんぐりと開けた。まさか自分が、悠馬さんに大きな不安を与えていたなんて。誠司はようやく気づいた。
誠司は背中を丸め、頭を抱える。これまで何度このポーズをしたかわからない。誠司は毎日のように苦悩を味わっていた。
「……僕は信頼してもらいたいだけなんです。……悠馬さんからも」
真彩と梓は顔を合わせた。真彩は子犬のように見上げ、「姉御、何か言ってあげてください」と目で訴える。
年下の後輩に頼まれてしまったら、梓も断ることはできない。梓は小さく息を吸い、誠司の肩に優しく手を置いた。
「とりあえず、悠馬さんと同じ楽屋で過ごしなさい」
その日の夜。誠司は自宅のソファーで、『みんなのひろば』の録画を見ていた。
これは誠司が体操のおにいさんに就任してから、毎日行っている習慣である。
最初の頃は、おにいさんとしての振る舞いを勉強するために録画していた。
だが、いつの日からか、勉強というのは言い訳になり、悠馬を存分に見るための録画になっている。
テレビには、歌っている悠馬の膝に、小さな子供がコアラのようにくっつく姿が映った。
悠馬は微笑み、しゃがんでその子を抱きしめる。
そんな悠馬を見ていると、誠司はやはり怖くなった。何もかもが怖い。
もし自分の好意が世間にバレたら、ゴシップ記事やSNSで面白がられ、セクシュアリティは何かと詮索され、番組に苦情が入り、挙げ句の果てには悠馬さんを巻き込んで……。
そしたら、番組の雰囲気を壊して、悠馬さんに迷惑をかけ、真彩ちゃんと梓さんにも迷惑をかけ、スタッフさんたちにも迷惑をかけ……。迷惑に迷惑を重ねた、迷惑ミルフィーユ……。
誠司は、おもむろに録画を消した。運動器具に囲まれた部屋で、誠司は一人静かに考える。
もし「好きだから近づけなかった」と正直に話したら、悠馬さんはどんな反応をするだろう。
誠司は、お得意の妄想をしてみることにした。
二人きりの楽屋。悠馬は誠司の告白に驚いている。そして、頬を赤らめ、上目遣いで誠司を見た。
「そうだったんだ……。僕と誠司くんって、同じ気持ちだったんだね」
悠馬は誠司の体に腕を回す。誠司もしっかりと悠馬を抱きしめ、悠馬の髪の毛に頬をつける。
さらに、場面は変わる。悠馬と誠司は、同じ家に住んでいた。部屋着の悠馬は子供を膝に乗せ、誠司を見て穏やかに笑う。
「あっ、パパ起きたよ。お寝坊さんだね」
誠司は目を瞑り、その光景を噛み締めた。「大ハッピーエンド」という文字が、脳内を占拠する。
祝福の打ち上げ花火が何発か上がった頃、誠司はハッと目を覚ました。
違う!妄想すぎる!僕はなんてハッピー野郎なんだ!
恋とは、ネジを緩ませていく活動である。子供の頃から真面目と言われ続けた誠司でさえ、着実にネジが外れてきていた。
誠司は頭を掻きむしった。そして、腕立て伏せ100回を自分に命じることにした。悩んだら、とりあえず筋トレする。それが、誠司の生き方である。
床で1回、2回、3回と、煩悩を捨て去るように腕立て伏せを繰り返していく。
だが、その度に悠馬の笑顔、ゴシップ記事、苦情……と様々な重圧がのしかかり、腕がプルプルと震えてくる。
そして、誠司はついに、バタッと床に突っ伏した。
悠馬を好きになったことは、誠司の人生において、最大の予想外である。
ここまでどうしようもなく好きになる人が現れるなど、何度逆立ちしても考えられなかっただろう。
なぜ好きになってしまったのか。この気持ちが芽生えたことは幸せなのか、それとも不幸なのか。床に横たわる誠司にはわからなかった。
顔はいつも通り真顔。だが、その目はリュックに焦点が合っておらず、夢見心地といった表情だった。
物を入れる手つきもおぼつかない。プロテインシェイカーをリュックに入れようとするが、スカッ、スカッと空振りし続けている。
梓は静かに近づき、誠司の背中にコールドスプレーを噴射した。だが、誠司は無反応だった。
もう一度シュッと噴射するが、まだ無反応。コールドスプレーはついに役目を失った。
トートバッグを肩にかけ、真彩は梓に耳打ちをする。
「元アスリートだから、冷却に慣れてるんですかね」
「……いや、悠馬さんに夢中なだけだと思う」
誠司と同い年で同期である梓は、予想を的中させた。
誠司は感覚を完全にシャットアウトし、記憶が薄れる前に、先ほどの悠馬を再生することに集中しているのだ。
温かい体温、無印良品みたいな香り、そして至近距離でこちらを見つめる目。
支度をとっくに終え、あとは帰るだけの真彩と梓は、誠司をずっと見ていた。
誠司は、シェイカーをまだリュックに入れられていない。
梓は思った。ここは本来、私と真彩の楽屋。
なぜ誠司は、ここで荷物をまとめているの。
なぜ誠司は当たり前のような顔で、ここにいるの。
その時、ドアをノックする音が響いた。誠司は瞬時に顔を上げる。
「悠馬さんのノック……!」
誠司の特殊能力は、百発百中だった。悠馬が楽屋のドアから、ひょこっと顔を出す。
「先に帰るね。お疲れ様」
悠馬は柔らかい笑顔で手を振る。梓と真彩は、悠馬に「お疲れ様でした!」とにこやかに返す。
その間、誠司も全ての動作を止めて、悠馬を見ていた。だが、その目は動揺で泳ぎまくっている。
悠馬はさりげなく誠司を見るが、誠司とは一切目が合わない。自分が目を向けると、サッと目を逸らされる。
悠馬は口角をあげたまま、ゆっくりとドアを閉めた。その去り際の笑顔は、俯きがちで少し寂しそうだった。
楽屋は静寂に包まれる。やりきった顔で力を抜く誠司の横で、チームの最年少26歳の真彩は違和感を持った。
あれは、恋愛シミュレーションゲームで見た表情……。しかも、良くないフラグが立つ時に出る表情だ。
真彩は一抹の不安を覚え、思わず叫んだ。
「好き避けのやり過ぎは、バッドエンドです!」
急な高らかな宣言に、誠司は肩を跳ね上げ、真彩を振り返った。梓は慌てて真彩の口を押さえる。
「静かに!誰かに聞かれたらどうするの!」
「すみません!」
真彩は小声で謝りながらも、素早くタブレットを取り出し、手作り恋愛シミュレーションゲームを映す。
そして、誠司の目の前に勢いよく突き出した。
画面には「誠司くん、僕のこと嫌いなんだ」と悲しそうに去る悠馬が映り、バッドエンドと大きく出る。
「このまま悠馬さんを避けると、これが現実になります!」
ゲーム内の悠馬の背中が、遠ざかっていく。
誠司は目を見開き、悠馬を追いかけるように、タブレットをガシッと掴んだ。
そして、説得するように、誠司は必死で口を動かす。
「ぼ、僕はただ、悠馬さんに迷惑をかけたくないだけで……!」
梓は腕を組み、綺麗な猫目で誠司を捉えた。
「悠馬さんからしたら、拒絶にしか見えないよ」
誠司は口をあんぐりと開けた。まさか自分が、悠馬さんに大きな不安を与えていたなんて。誠司はようやく気づいた。
誠司は背中を丸め、頭を抱える。これまで何度このポーズをしたかわからない。誠司は毎日のように苦悩を味わっていた。
「……僕は信頼してもらいたいだけなんです。……悠馬さんからも」
真彩と梓は顔を合わせた。真彩は子犬のように見上げ、「姉御、何か言ってあげてください」と目で訴える。
年下の後輩に頼まれてしまったら、梓も断ることはできない。梓は小さく息を吸い、誠司の肩に優しく手を置いた。
「とりあえず、悠馬さんと同じ楽屋で過ごしなさい」
その日の夜。誠司は自宅のソファーで、『みんなのひろば』の録画を見ていた。
これは誠司が体操のおにいさんに就任してから、毎日行っている習慣である。
最初の頃は、おにいさんとしての振る舞いを勉強するために録画していた。
だが、いつの日からか、勉強というのは言い訳になり、悠馬を存分に見るための録画になっている。
テレビには、歌っている悠馬の膝に、小さな子供がコアラのようにくっつく姿が映った。
悠馬は微笑み、しゃがんでその子を抱きしめる。
そんな悠馬を見ていると、誠司はやはり怖くなった。何もかもが怖い。
もし自分の好意が世間にバレたら、ゴシップ記事やSNSで面白がられ、セクシュアリティは何かと詮索され、番組に苦情が入り、挙げ句の果てには悠馬さんを巻き込んで……。
そしたら、番組の雰囲気を壊して、悠馬さんに迷惑をかけ、真彩ちゃんと梓さんにも迷惑をかけ、スタッフさんたちにも迷惑をかけ……。迷惑に迷惑を重ねた、迷惑ミルフィーユ……。
誠司は、おもむろに録画を消した。運動器具に囲まれた部屋で、誠司は一人静かに考える。
もし「好きだから近づけなかった」と正直に話したら、悠馬さんはどんな反応をするだろう。
誠司は、お得意の妄想をしてみることにした。
二人きりの楽屋。悠馬は誠司の告白に驚いている。そして、頬を赤らめ、上目遣いで誠司を見た。
「そうだったんだ……。僕と誠司くんって、同じ気持ちだったんだね」
悠馬は誠司の体に腕を回す。誠司もしっかりと悠馬を抱きしめ、悠馬の髪の毛に頬をつける。
さらに、場面は変わる。悠馬と誠司は、同じ家に住んでいた。部屋着の悠馬は子供を膝に乗せ、誠司を見て穏やかに笑う。
「あっ、パパ起きたよ。お寝坊さんだね」
誠司は目を瞑り、その光景を噛み締めた。「大ハッピーエンド」という文字が、脳内を占拠する。
祝福の打ち上げ花火が何発か上がった頃、誠司はハッと目を覚ました。
違う!妄想すぎる!僕はなんてハッピー野郎なんだ!
恋とは、ネジを緩ませていく活動である。子供の頃から真面目と言われ続けた誠司でさえ、着実にネジが外れてきていた。
誠司は頭を掻きむしった。そして、腕立て伏せ100回を自分に命じることにした。悩んだら、とりあえず筋トレする。それが、誠司の生き方である。
床で1回、2回、3回と、煩悩を捨て去るように腕立て伏せを繰り返していく。
だが、その度に悠馬の笑顔、ゴシップ記事、苦情……と様々な重圧がのしかかり、腕がプルプルと震えてくる。
そして、誠司はついに、バタッと床に突っ伏した。
悠馬を好きになったことは、誠司の人生において、最大の予想外である。
ここまでどうしようもなく好きになる人が現れるなど、何度逆立ちしても考えられなかっただろう。
なぜ好きになってしまったのか。この気持ちが芽生えたことは幸せなのか、それとも不幸なのか。床に横たわる誠司にはわからなかった。
