個人の仕事が終わり、悠馬は待ち合わせ場所に向かって走っていた。
9年も出演しているので、今や悠馬は『みんなのひろば』の顔である。
なので、『みんなのひろば』の代表として、悠馬に仕事が入ることは多々あった。
今回は、音楽大学で発行しているパンフレットにインタビュー記事を載せたいと、母校から取材を受けていた。
「なぜ、歌のおにいさんになろうと思ったんですか」
「来年も継続されるなら、歴代最長出演者になりますが、どう思いますか」
質問に答えていくうちに、悠馬の過去と未来が、かつての学び舎で交差していく。
インタビュアーの生徒は悠馬のファンらしく、熱心に話してくれる青年だったので、悠馬もなるべく全部に答えたいと受けていた。
そして、誠司との待ち合わせ時間ギリギリになってしまったのだ。
公園の入り口近く。大きな池の前。ポツンと置かれているベンチに、誠司は座っているはずだった。
だが、そこにいたのは、誠司のようで誠司には見えない人だった。
ネイビーのテーラードジャケット、白い無地のカットソー、チャコールグレーの細身のスラックス、白いレザースニーカー、そして巨大な黒いサングラス。
悠馬は息切れをしながら、辺りを見渡した。
多分、この人が誠司くんだ。悠馬はそう思いながらも、遠くから見る限りでは自信がなかった。
スポーツ系実業家みたいな人は、背筋をピシッと伸ばし、正面にある池を眺めずにスマホを見ている。
その画面に映っているのは、子犬を抱っこする27歳の悠馬。
これは、9年前に発行された『みんなのひろば スペシャルムック』から、真彩が切り抜いて送った画像である。
この画像を使い、実業家は本番に向け、目を慣らすトレーニングをしているのだ。
だが、例のサングラスをかけているので、本当に向き合えているかどうかは微妙である。
悠馬は恐る恐る近づいていく。実業家は、悠馬に気づいている様子はない。
悠馬はゆっくりと前に回り、その男の顔を覗いた。
「誠司くん……?」
サングラスの男は、その声に我に返った。そして、スマホ画面を瞬時に消す。
顔を上げると、ぼんやりと暗い視界の中で悠馬と目が合った。
「悠馬さん……」
その低く畏まった声は、まさしく誠司だった。
悠馬は胸をほっと撫で下ろし、弱々しく微笑む。
「良かった。いつもと雰囲気が違うから、違う人だったらどうしようって、ちょっと怖かったよ」
誠司の服装は、胡散臭いスポーツ系実業家から脱却できなかった。
昨日、ユニクロ退店後も何軒か巡ったが、梓も真彩も誠司も答えを出せず、コーデは迷子になった。
そして、サングラスの存在感に引っ張られたまま、三人とも首を傾げて解散したのだった。
誠司は悠馬に失礼ではなく、悠馬の隣を歩くのに相応しい格好になりたかった。
だが、今のところは戸惑わせているだけだった。
「今日はちょっと暑いね。走ったら疲れちゃったよ……」
「……走ったんですか」
「うん。遅刻しそうだったから、待たせてごめんね」
誠司は確かに待った。だが、待ち合わせ時間の2時間前に、誠司が勝手に来ただけである。
そんなことは言えない誠司の隣に、悠馬は「よいしょ」と何気ない調子で座った。
いつもの誠司だったら、ここでパニックに陥っていた。だが、今日の誠司はサングラスのおかげで少し落ち着いている。
黒い壁を隔てているので、悠馬と近いのか遠いのか、あまりよくわからないのだ。
なので、誠司は体を強張らせるだけで、逃げずに留まることができた。
「あっ、そうだ。匂い……」
悠馬はそう言って、トートバッグから汗拭きシートを取り出した。
悠馬はシャツのボタンを一つ外し、襟の隙間から手を入れ、シートで首元をゴシゴシ拭き出す。
誠司は反射神経で、襟から覗く悠馬の肌に視線が吸い寄せられていた。
だが、どれだけ目を凝らしても、視界が黒くてほとんど見えない。
サングラスをかけていたことは、誠司にとって幸でもあり、不幸でもあった。
「ワンちゃんに会うから、無香料のものにしたんだ。ミストは持ち歩いてるんだけどね。これも使うのは良くないかなと思って」
悠馬はそう言って、無印のボディミストを誠司に見せた。
誠司はボディミストのラベルに顔を近づける。やっと文字が読めた頃、誠司は悠馬のいい香りの正体を初めて知った。
「だから、もしかしたら臭いかも。ごめんね」
誠司は、悠馬がなぜそんなに体臭を気にしているのかわからなかった。
「臭い……?」
「ほら、僕もう36歳だから。もしかしたら加齢臭が出始めてるかもしれない……えっ?」
「……えっ」
「……臭くない?」
「……臭くないです」
二人の頭上では、早とちりなセミが鳴いている。
「……そっか。……そうなんだ。……なら、良かった」
悠馬は力を抜くように、ゴシゴシと汗を拭いていた手を止めた。そして、次第に考え事へ移っていった。
じゃあ、なんで避けられていたんだろう。やっぱり、僕が嫌なことをしたのかな。
一方、誠司も考えていた。仮に悠馬さんから加齢臭が出ていたとしても、自分なら「悠馬さんの匂いだ」と歓喜しそうだと。
片思いを熟成させると、人間は変態へと進化するのかもしれない。誠司は、己に危険性を感じた。
「もし、僕に嫌なことされたら言ってね」
「嫌なこと……ですか」
「名前の呼び方とか。今は君よりも、さんで呼んだ方がいい時代だもんね。『みんなのひろば』でも変更されたから、僕も学んだよ」
「……僕は気にしてないです」
誠司が頭の上で?を量産しているところを見ても、嫌がっている素振りはない。
しかも、今の誠司は二人で出かけてくれている。悠馬の謎は深まるばかりだった。
誠司はそんな悠馬のことを横目で見た。悠馬は誠司を気にかけ、自分が悪いのではと不安になっている。
誠司は好き避けの悪影響を知ってから、とても反省していた。
誠司は「悠馬のことを嫌っているわけではない」と、いつかは言わなければいけなかった。
そして、サングラスをかけている今なら、少しだけ言えそうな気がした。
「……ぼ、僕は……悠馬さんのことを……嫌いなんてことは……」
悠馬は誠司の横顔をじっと見ていた。誠司が何やら口をモゴモゴしている。
葉の音に負けそうなほど小さな声だったので、悠馬は少し誠司の傍に寄って耳を傾けた。
その時、誠司のこめかみから一筋の汗が垂れた。
温かい木漏れ日の中で、筋肉にジャケットを重ねているからだ。
「あっ……」
悠馬は少し笑い、新しい汗拭きシートを取る。
そして、誠司のこめかみに手を伸ばそうとした時、初めて気がついた。
「あれ?誠司くん」
「……はい」
「そのサングラス、値札ついているよ」
「……えっ」
誠司は思わず悠馬の方を向く。悠馬は笑って、誠司のサングラスを優しく外した。
その瞬間だけ、誠司にはスローモーションのように感じた。
黒かった世界に、色がついていく。木々は青く、水面はキラキラと輝き、穏やかに揺れていた。
そして、目の前の悠馬は、生成りのコットンシャツを袖まくりし、ベージュのチノパンを履いていた。
カラフルな番組衣装とは違い、大人っぽくて落ち着いた色合い。
歌のおにいさんではない、等身大の36歳男性がそこにいた。
悠馬はキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、サングラスの値札を取ろうと背中を丸めている。
耳にかける部分には、小さな値札が紐で結ばれてぶら下がっていた。
意識が外に向きすぎていたのか、誠司は全く気づかなかった。
梓と真彩でさえ気づかず、それは昨日から放置されていた。
多分、全員サングラスをかけていたから、見えていなかったのだろう。
「よしっ、とれた」
悠馬は器用に外した値札を掲げ、誠司に誇らしげに見せる。
その両頬や鼻の上には、薄茶色のそばかすが散らばっていた。
悠馬はテレビに映る人なので、仕事では大抵メイクを施されている。
その上、誠司は悠馬を見ないように生きてきたので、そばかすを見た記憶がなかった。
こんなに近くにいるからこそ、悠馬とプライベートで会ったからこそ、ハッキリと見えるものだった。
誠司は大きな喜びを感じた。そして、その愛らしいそばかすを目に焼き付けた。
そんな誠司を悠馬も見ていた。悠馬は口角を上げ、少しだけ誠司に顔を近づける。
誠司は何事かと思い、ギョッとして固まった。そして、思わず生唾を飲んだ。
だが、悠馬から発されたのは意外な言葉だった。
「よく見たら、目が茶色だね。いいなぁ。かっこいい」
そう言い残して、悠馬は満足したように離れた。
誠司は驚きで、ぽかんと口を開けた。まさか目を褒められるなんて。
服装ではなく目。誠司のコーデが相応しいかよりも目。
この目があるだけで、誠司は悠馬に褒めてもらえた。
誠司は、体操のおにいさんに就任したての頃を思い出した。
あの時、悠馬は誠司を変えようとすることなく、誠司の特技を活かせる場を作った。
悠馬は昔から、他人に変わってもらうことを要求しない人だった。
なのに、誠司は恋をした途端、そのことが頭から抜け落ちていた。
「はい、どうぞ」
悠馬は、サングラスと値札を誠司に渡す。
「ありがとうございます……」
誠司は戻ってきたサングラスを見つめた。
隣にいる悠馬はサングラスどころか、マスクも、帽子も被っていない。
前髪を風で揺らし、穏やかな表情をしていた。
「悠馬さんは、私生活を誰かに見られるのは怖くないですか」
悠馬は誠司を見て、その唐突な質問に首を傾げた。
そして、サングラスに視線を移した時、点と点がようやく線で繋がった。
「なるほどね。変装のためにかけてたんだ」
「はい。……かおるさんのこともあったので。こういう職業だと、僕は人目が気になります」
悠馬は水面をじっと見た。悠馬もかおるの引退劇を目の前で見ている。
匿名の相手から、どんな罵詈雑言を浴びせられていたかも知っている。
そして、悠馬は9年も『みんなのひろば』にいるので、自分がどんな立場なのかは、重々承知の上で働いていた。
「……そうだね。僕も怖いよ。誰がいつ、どんな僕を見ているのか」
そう言いながらも、悠馬は少し口角を上げた。悠馬の思い出は、悪いことばかりではなかった。
「でも、この間小学生の子が僕に気づいてくれたんだ。僕はその時、顔を隠してなかった。あんみつを食べていたからね」
桜の下を跳ねる赤いランドセル。白玉を落とす真彩。話を逸らした自分。
悠馬の中で、様々なシーンがフラッシュバックする。
子供の頃、ずっと家にいた経験がある悠馬にとって、誰かに気づいてもらえることは喜びでもあった。
自分が誰かの記憶に残って、誰かの日常にいると実感できるのは、少し不思議で幸せなことでもある。
「僕が変装の達人だったら、その子との思い出はなかっただろうね。だから、誰かに見つけてもらうことを、あまり怖がりすぎないようにしたいかな」
誠司は辺りを見渡す。平日の昼過ぎなので、周囲には人が少なかった。
池の向こう側では、誰かが犬の散歩をしたり、ランニングしたり、ベンチで休んでいたり。
誰も誠司のことなど眼中になく、それぞれが自分の生活を営んでいる。
誠司が恐れている世界は、目の前にはなかった。
「でも、ちゃんとマスクは持ち歩いてるよ。不安になったら、僕はマスクをして、誠司くんはサングラスをかけよう?」
悠馬はそう言って笑いながら、誠司のこめかみの汗をシートでさっと拭いた。
「話し込んじゃったね。そろそろ保護犬カフェに行こうか」
悠馬が立ち上がり、誠司もつられて立ち上がる。
誠司はサングラスをケースにしまうことにした。
せっかく悠馬が褒めてくれたものを、隠したくない。
そして、悠馬のそばかすをもう少し見ていたかった。
誠司は歩きながら、汗でジメジメしたジャケットを脱いだ。その姿は、ただの誠司に近づいていた。
9年も出演しているので、今や悠馬は『みんなのひろば』の顔である。
なので、『みんなのひろば』の代表として、悠馬に仕事が入ることは多々あった。
今回は、音楽大学で発行しているパンフレットにインタビュー記事を載せたいと、母校から取材を受けていた。
「なぜ、歌のおにいさんになろうと思ったんですか」
「来年も継続されるなら、歴代最長出演者になりますが、どう思いますか」
質問に答えていくうちに、悠馬の過去と未来が、かつての学び舎で交差していく。
インタビュアーの生徒は悠馬のファンらしく、熱心に話してくれる青年だったので、悠馬もなるべく全部に答えたいと受けていた。
そして、誠司との待ち合わせ時間ギリギリになってしまったのだ。
公園の入り口近く。大きな池の前。ポツンと置かれているベンチに、誠司は座っているはずだった。
だが、そこにいたのは、誠司のようで誠司には見えない人だった。
ネイビーのテーラードジャケット、白い無地のカットソー、チャコールグレーの細身のスラックス、白いレザースニーカー、そして巨大な黒いサングラス。
悠馬は息切れをしながら、辺りを見渡した。
多分、この人が誠司くんだ。悠馬はそう思いながらも、遠くから見る限りでは自信がなかった。
スポーツ系実業家みたいな人は、背筋をピシッと伸ばし、正面にある池を眺めずにスマホを見ている。
その画面に映っているのは、子犬を抱っこする27歳の悠馬。
これは、9年前に発行された『みんなのひろば スペシャルムック』から、真彩が切り抜いて送った画像である。
この画像を使い、実業家は本番に向け、目を慣らすトレーニングをしているのだ。
だが、例のサングラスをかけているので、本当に向き合えているかどうかは微妙である。
悠馬は恐る恐る近づいていく。実業家は、悠馬に気づいている様子はない。
悠馬はゆっくりと前に回り、その男の顔を覗いた。
「誠司くん……?」
サングラスの男は、その声に我に返った。そして、スマホ画面を瞬時に消す。
顔を上げると、ぼんやりと暗い視界の中で悠馬と目が合った。
「悠馬さん……」
その低く畏まった声は、まさしく誠司だった。
悠馬は胸をほっと撫で下ろし、弱々しく微笑む。
「良かった。いつもと雰囲気が違うから、違う人だったらどうしようって、ちょっと怖かったよ」
誠司の服装は、胡散臭いスポーツ系実業家から脱却できなかった。
昨日、ユニクロ退店後も何軒か巡ったが、梓も真彩も誠司も答えを出せず、コーデは迷子になった。
そして、サングラスの存在感に引っ張られたまま、三人とも首を傾げて解散したのだった。
誠司は悠馬に失礼ではなく、悠馬の隣を歩くのに相応しい格好になりたかった。
だが、今のところは戸惑わせているだけだった。
「今日はちょっと暑いね。走ったら疲れちゃったよ……」
「……走ったんですか」
「うん。遅刻しそうだったから、待たせてごめんね」
誠司は確かに待った。だが、待ち合わせ時間の2時間前に、誠司が勝手に来ただけである。
そんなことは言えない誠司の隣に、悠馬は「よいしょ」と何気ない調子で座った。
いつもの誠司だったら、ここでパニックに陥っていた。だが、今日の誠司はサングラスのおかげで少し落ち着いている。
黒い壁を隔てているので、悠馬と近いのか遠いのか、あまりよくわからないのだ。
なので、誠司は体を強張らせるだけで、逃げずに留まることができた。
「あっ、そうだ。匂い……」
悠馬はそう言って、トートバッグから汗拭きシートを取り出した。
悠馬はシャツのボタンを一つ外し、襟の隙間から手を入れ、シートで首元をゴシゴシ拭き出す。
誠司は反射神経で、襟から覗く悠馬の肌に視線が吸い寄せられていた。
だが、どれだけ目を凝らしても、視界が黒くてほとんど見えない。
サングラスをかけていたことは、誠司にとって幸でもあり、不幸でもあった。
「ワンちゃんに会うから、無香料のものにしたんだ。ミストは持ち歩いてるんだけどね。これも使うのは良くないかなと思って」
悠馬はそう言って、無印のボディミストを誠司に見せた。
誠司はボディミストのラベルに顔を近づける。やっと文字が読めた頃、誠司は悠馬のいい香りの正体を初めて知った。
「だから、もしかしたら臭いかも。ごめんね」
誠司は、悠馬がなぜそんなに体臭を気にしているのかわからなかった。
「臭い……?」
「ほら、僕もう36歳だから。もしかしたら加齢臭が出始めてるかもしれない……えっ?」
「……えっ」
「……臭くない?」
「……臭くないです」
二人の頭上では、早とちりなセミが鳴いている。
「……そっか。……そうなんだ。……なら、良かった」
悠馬は力を抜くように、ゴシゴシと汗を拭いていた手を止めた。そして、次第に考え事へ移っていった。
じゃあ、なんで避けられていたんだろう。やっぱり、僕が嫌なことをしたのかな。
一方、誠司も考えていた。仮に悠馬さんから加齢臭が出ていたとしても、自分なら「悠馬さんの匂いだ」と歓喜しそうだと。
片思いを熟成させると、人間は変態へと進化するのかもしれない。誠司は、己に危険性を感じた。
「もし、僕に嫌なことされたら言ってね」
「嫌なこと……ですか」
「名前の呼び方とか。今は君よりも、さんで呼んだ方がいい時代だもんね。『みんなのひろば』でも変更されたから、僕も学んだよ」
「……僕は気にしてないです」
誠司が頭の上で?を量産しているところを見ても、嫌がっている素振りはない。
しかも、今の誠司は二人で出かけてくれている。悠馬の謎は深まるばかりだった。
誠司はそんな悠馬のことを横目で見た。悠馬は誠司を気にかけ、自分が悪いのではと不安になっている。
誠司は好き避けの悪影響を知ってから、とても反省していた。
誠司は「悠馬のことを嫌っているわけではない」と、いつかは言わなければいけなかった。
そして、サングラスをかけている今なら、少しだけ言えそうな気がした。
「……ぼ、僕は……悠馬さんのことを……嫌いなんてことは……」
悠馬は誠司の横顔をじっと見ていた。誠司が何やら口をモゴモゴしている。
葉の音に負けそうなほど小さな声だったので、悠馬は少し誠司の傍に寄って耳を傾けた。
その時、誠司のこめかみから一筋の汗が垂れた。
温かい木漏れ日の中で、筋肉にジャケットを重ねているからだ。
「あっ……」
悠馬は少し笑い、新しい汗拭きシートを取る。
そして、誠司のこめかみに手を伸ばそうとした時、初めて気がついた。
「あれ?誠司くん」
「……はい」
「そのサングラス、値札ついているよ」
「……えっ」
誠司は思わず悠馬の方を向く。悠馬は笑って、誠司のサングラスを優しく外した。
その瞬間だけ、誠司にはスローモーションのように感じた。
黒かった世界に、色がついていく。木々は青く、水面はキラキラと輝き、穏やかに揺れていた。
そして、目の前の悠馬は、生成りのコットンシャツを袖まくりし、ベージュのチノパンを履いていた。
カラフルな番組衣装とは違い、大人っぽくて落ち着いた色合い。
歌のおにいさんではない、等身大の36歳男性がそこにいた。
悠馬はキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、サングラスの値札を取ろうと背中を丸めている。
耳にかける部分には、小さな値札が紐で結ばれてぶら下がっていた。
意識が外に向きすぎていたのか、誠司は全く気づかなかった。
梓と真彩でさえ気づかず、それは昨日から放置されていた。
多分、全員サングラスをかけていたから、見えていなかったのだろう。
「よしっ、とれた」
悠馬は器用に外した値札を掲げ、誠司に誇らしげに見せる。
その両頬や鼻の上には、薄茶色のそばかすが散らばっていた。
悠馬はテレビに映る人なので、仕事では大抵メイクを施されている。
その上、誠司は悠馬を見ないように生きてきたので、そばかすを見た記憶がなかった。
こんなに近くにいるからこそ、悠馬とプライベートで会ったからこそ、ハッキリと見えるものだった。
誠司は大きな喜びを感じた。そして、その愛らしいそばかすを目に焼き付けた。
そんな誠司を悠馬も見ていた。悠馬は口角を上げ、少しだけ誠司に顔を近づける。
誠司は何事かと思い、ギョッとして固まった。そして、思わず生唾を飲んだ。
だが、悠馬から発されたのは意外な言葉だった。
「よく見たら、目が茶色だね。いいなぁ。かっこいい」
そう言い残して、悠馬は満足したように離れた。
誠司は驚きで、ぽかんと口を開けた。まさか目を褒められるなんて。
服装ではなく目。誠司のコーデが相応しいかよりも目。
この目があるだけで、誠司は悠馬に褒めてもらえた。
誠司は、体操のおにいさんに就任したての頃を思い出した。
あの時、悠馬は誠司を変えようとすることなく、誠司の特技を活かせる場を作った。
悠馬は昔から、他人に変わってもらうことを要求しない人だった。
なのに、誠司は恋をした途端、そのことが頭から抜け落ちていた。
「はい、どうぞ」
悠馬は、サングラスと値札を誠司に渡す。
「ありがとうございます……」
誠司は戻ってきたサングラスを見つめた。
隣にいる悠馬はサングラスどころか、マスクも、帽子も被っていない。
前髪を風で揺らし、穏やかな表情をしていた。
「悠馬さんは、私生活を誰かに見られるのは怖くないですか」
悠馬は誠司を見て、その唐突な質問に首を傾げた。
そして、サングラスに視線を移した時、点と点がようやく線で繋がった。
「なるほどね。変装のためにかけてたんだ」
「はい。……かおるさんのこともあったので。こういう職業だと、僕は人目が気になります」
悠馬は水面をじっと見た。悠馬もかおるの引退劇を目の前で見ている。
匿名の相手から、どんな罵詈雑言を浴びせられていたかも知っている。
そして、悠馬は9年も『みんなのひろば』にいるので、自分がどんな立場なのかは、重々承知の上で働いていた。
「……そうだね。僕も怖いよ。誰がいつ、どんな僕を見ているのか」
そう言いながらも、悠馬は少し口角を上げた。悠馬の思い出は、悪いことばかりではなかった。
「でも、この間小学生の子が僕に気づいてくれたんだ。僕はその時、顔を隠してなかった。あんみつを食べていたからね」
桜の下を跳ねる赤いランドセル。白玉を落とす真彩。話を逸らした自分。
悠馬の中で、様々なシーンがフラッシュバックする。
子供の頃、ずっと家にいた経験がある悠馬にとって、誰かに気づいてもらえることは喜びでもあった。
自分が誰かの記憶に残って、誰かの日常にいると実感できるのは、少し不思議で幸せなことでもある。
「僕が変装の達人だったら、その子との思い出はなかっただろうね。だから、誰かに見つけてもらうことを、あまり怖がりすぎないようにしたいかな」
誠司は辺りを見渡す。平日の昼過ぎなので、周囲には人が少なかった。
池の向こう側では、誰かが犬の散歩をしたり、ランニングしたり、ベンチで休んでいたり。
誰も誠司のことなど眼中になく、それぞれが自分の生活を営んでいる。
誠司が恐れている世界は、目の前にはなかった。
「でも、ちゃんとマスクは持ち歩いてるよ。不安になったら、僕はマスクをして、誠司くんはサングラスをかけよう?」
悠馬はそう言って笑いながら、誠司のこめかみの汗をシートでさっと拭いた。
「話し込んじゃったね。そろそろ保護犬カフェに行こうか」
悠馬が立ち上がり、誠司もつられて立ち上がる。
誠司はサングラスをケースにしまうことにした。
せっかく悠馬が褒めてくれたものを、隠したくない。
そして、悠馬のそばかすをもう少し見ていたかった。
誠司は歩きながら、汗でジメジメしたジャケットを脱いだ。その姿は、ただの誠司に近づいていた。
