「すまない」
帰宅後、照は桜に頭を下げた。
「丸三さんの同意もなしに、勝手に婚約者だと言ってしまった」
「でも、私を連れて行った理由って、縁談避けだったんじゃないんですか? 悪い予感がするって言ってましたよね?」
顔を上げた照と視線が合う。
ばつが悪そうにすぐ目を逸らした。
「……前から星菱社長が縁談を勧めてきていたから、警戒はしていたんだ。君には、婚約者がいると話を合わせてもらうだけのつもりだったんだが」
星菱社長も杏奈も本気の顔をしていた。
婚約者がいるというだけでは、次回会わせろと言われかねない様子だった。
でも、どうして偽ってまで縁談を断りたかったんだろう?
「杏奈さんとの縁談、どうして断りたかったんですか?」
「好きでもない人と結婚するつもりはない。事業上の利益と結婚は別問題だ」
当然のように言う照だが、桜には疑問が浮かぶ。
「なら、私のことを婚約者だって言ったのはどうしてですか?」
「それは……」
照は目を伏せ、ソファに腰を下ろし、膝の上で両手を組み合わせた。桜は向かいに座って照の答えを待った。
「「君なら話を合わせてくれると思った。だが、婚約者だと紹介する前に、同意を得るべきだった」
照は再び頭を下げる。桜は顔の前で慌てて手を振った。
「いえ、謝らないでください。上手く演技できてたか分からないですけど、お役に立てたなら良かったです」
「話を合わせてくれて助かった。……それで、ひとつ提案があるんだが」
「提案、ですか?」
顔を上げた照の表情が固い。組み合わせた指に力が入っている。
空気が張り詰め、照の緊張が伝わる。
桜も思わず肩に力が入る。真剣な面持ちで、おもむろに口を開く照を見つめる。
「しばらくの間、俺の婚約者になってくれないか?」
「……はい?」
思ってもいなかったことを言われ、頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
今、何て?
婚約者になってくれって言った?
これって、プロポーズ?
そんなわけないか。
ていうか、しばらくの間って言ってたよね?
どういうこと?
「星菱社長は、まだ杏奈さんとの縁談を諦めていないだろう。だが、新事業のためにも、今後の関係は良好に保ちたい。だから、婚約者がいることを周囲に認識してもらう必要がある」
まるで用意していた台詞のように、照は淡々と説明する。
理屈は分かるが、桜の頭はまだ混乱していた。
「他からの縁談も断りやすくなるし、会食でも仕事に集中できる。もちろん、ただでとは言わない」
……ん?
ただでとは言わない?
ますますどういうこと?
「婚約者として人前に出てもらったら、その都度家政婦の給与とは別に報酬を支払う。新事業が安定するまでの半年間でいい。婚約者として契約をしてほしい」
「婚約者の契約? つまり、婚約者の演技を半年間続けるってことですか?」
「ああ。そうしてもらえると助かる」
呉林さんには助けてもらった恩がある。
私が力になれるなら、協力したい。
でも、婚約者の演技なんて私にできるの?
「……本当に私でいいんですか?」
自信なさげに照を見上げる。
照の表情がふっと緩んで、張り詰めていた空気がやわらいだ。
「丸三さんだから、頼んでるんだ」
「え?」
「家政婦の仕事ぶりは丁寧だし、商才もある。婚約者として人前に出ても上手くやれるはずだ」
照れ臭いのに、褒められたことが素直に嬉しい。
……けど、たった数日でどうしてここまで信頼してくれるの?
嬉しさよりも不安が上回る。
家族から認められなかった私が、呉林さんの婚約者として上手く振る舞えるの?
「買い被りすぎですよ。呉林さんみたいに演技できる自信ないです……」
「無理に演技をする必要はない。だが、人の話をよく聞いて相手の気持ちを汲み取れる丸三さんなら、社交の場でも俺とは違う視点で会話を広げられるはずだ。きっと経済界のトップとの会話は、丸三さんのためにもなる」
「私のため、ですか?」
「もう一度店を経営したいと言っていただろう。先達との会話で学ぶことは多い。役に立つはずだ」
前に話したこと、覚えていてくれたんだ。
呉林さんのためだけじゃなくて、私のためにも契約婚約者の提案をしてくれたのかな。
呉林さんなりの応援ってことかな?
「君の気持ちを無視するつもりはない。嫌なら断ってくれても構わない」
真摯な瞳で見つめられる。
呉林さんは絶対に強要しない。必ず私に決めさせてくれる。
婚約者の演技、自信はないけど、呉林さんのためにも頑張りたい。
それに、家政婦とは別に婚約者の報酬も頂けたら、思ったより早く貯金ができるかもしれない。
いつか、もう一度自分のお店を持ちたい。
まだ具体的な計画は立てられていないけど、そのためにも今はお金を貯めて、経営について学びたい。
呉林さんに恩返しをしながら、自分の夢にも近づける。
だったら、この機会を逃したくない。
桜は照の視線を静かに受け止め、迷いの色が消えた澄んだ瞳で見つめ返した。
「私でよければ、お引き受けします」
「引き受けてくれるのか?」
「はい。至らない点も多いと思いますが、頑張ります」
「……ありがとう。よろしく頼む」
照は柔らかい表情を浮かべて、手を差し出した。
「はい。よろしくお願いします」
照の大きな手を両手で包み込むようにして握手した。
きゅっと力を込めて握り返される。
ただの握手なのに、触れているところが熱い。
顔まで熱が伝わりそうで、桜はすぐに手を離した。
「あ、あの、婚約者って具体的に何をすればいいですか?」
「婚約者がいることを周囲にアピールするために、会食やパーティーなどの同伴をお願いしたい」
「パーティーなんて参加したことないんですけど、大丈夫でしょうか?」
「今日の会食みたいに、俺のそばにいて話を合わせてくれるだけでいい。丸三さんなら、うまくできるだろうから……」
照は何かに気付いたように口を閉じ、ぽつりと呟いた。
「……桜」
低い声で名前を呼ばれ、桜の頬が熱くなる。熱を帯びた頬を隠して照から目を逸らした。
また名前! 何で急に……?
「婚約者だったら、名前で呼び合う方が自然だ」
「あっ、なるほど」
「桜も俺のことは名前で呼んでくれ。それと、敬語じゃなくていい」
「えっ! 名前はともかくタメ語はちょっと……」
「婚約者で同い年なのに、敬語は不自然だろ」
「確かに、それもそうですね」
……あれ? 私、年齢言ったっけ?
ふと疑問が浮かぶ。
照の年齢は会社のサイトで知ったが、自分の年齢を照に伝えた記憶がない。
「敬語になってる」
「あっ……」
質問しようと口を開きかけたが、照が先に言葉を続けた。
「練習しないとな。俺の名前、呼んでみてくれ」
「練習って……」
いきなり名前を呼べと言われ、さっきの疑問が頭から吹き飛んだ。
名前を呼ぶだけなのに気恥ずかしくて、緊張してしまう。
両膝を強く掴んで、意を決して名前を呼んでみた。
「て、照……さん」
「……っ」
桜が恐る恐る顔を上げると、照が息を呑んだように見えた。
「今は、さん付けで勘弁してください!」
「……これから、練習していけばいい。呼び方も、タメ語も」
――これから。
半年間、照の婚約者になる。
偽装の。
店の経営から外されて家を出て、家政婦として雇ってもらったと思ったら、まさか婚約者まで任されることになるなんて。
照さんに恩返しして、もう一度店を経営する力を身につけるためにも頑張らないと。
桜の肩に力が入る。
対照的に、照の口元がふっと緩む。
「そんなに気負わないでくれ。そのままの君でいてくれたらいい」
「えっ……」
「言っただろ。桜だから頼んだって」
照さんだけは、私のことを認めてくれる。
そのことが、こんなにも嬉しいなんて。
もっと頑張らないと。
結果を出さないと。
焦燥感と不安で凝り固まっていた心が溶かされ、柔らかくなっていく。
これ以上溶かされると目から熱いものが流れていきそうで、桜は立ち上がって照に背を向けた。
「照さんの婚約者として恥ずかしくないように、頑張ります。……コーヒー、淹れますね」
そそくさとキッチンに行く桜の後ろ姿を見ながら、照は自嘲気味に薄く笑った。
「婚約者は少し、強引だったか。……らしくないことをしてしまったな」
ブブッ。
テーブルの上に置いた照のスマホが震える。
確認すると、星菱社長からのメールだった。
さっと目を通した照は口角を上げて呟いた。
「……早速か」
「どうしたんですか?」
桜がマグカップをテーブルの上に置いて首を傾げた。
「星菱社長主催の、慈善パーティーに招待された。家族同伴でのパーティーだから、ぜひ婚約者と出席してくれ、だそうだ。会食で伝え忘れたと言っているが、事前に決まっていたのか、さっき決めたことなのか。つくづく食えない人だ」
「さすが星菱の社長さんですね。パーティーはいつなんですか?」
「1週間後の土曜日」
「1週間後⁉」
「君を俺の婚約者だと周囲に紹介する良い機会だ。周知の事実になれば、星菱社長も諦めるだろう」
「だといいんですけど。怪しまれないように婚約者を演じないと……」
「まずは敬語を直すところからだな」
「うっ……。そうだった」
桜は口に手を当て、眉を下げた。
照はすっと立ち上がり、桜の隣に座った。
「えっ?」
何でここに座ったの?!
近いよ……。
少し距離を開ける桜に、照はいたずらっぽい眼差しを向ける。
「パーティーまでに、婚約者に見えるよう距離を縮めないとな。呼び捨てだともっと親しく見える気もするが」
マグカップを片手に、さらりと要求してくる照に、桜は頭を抱えてしまう。
「そうかもしれないけど……」
照はふいに手を伸ばし、桜の頭を優しく撫でた。
驚いた桜が顔を上げると、照の柔らかい視線と絡み合った。
「焦らなくていい」
ぼんやりとした少年の顔が、一瞬照の顔に重なる。
頭に触れる温かい手の感触。
焦らなくていいという台詞。
遠い昔、どこかで誰かに、同じようなことを言われたような気がする。
けれど、少年の面影は、思い出そうとした途端に記憶の奥へ沈んでしまった。
照は何かに気づいたように目を見開き、すっと手を引っ込めた。
「……すまない。つい」
「いえ……」
マグカップに手を伸ばしてコーヒーをすする照を見上げる。
何で謝るんだろう。嫌だったわけじゃないのに。
さっきの、気のせいだったのかな。
でも、照さんは前に、覚えていないのかって言ってた。
聞いてみるべき?
けど、それでも覚えていなかったら申し訳なさすぎる。
やっぱり自分で思い出すしかない。
近くにいれば何か思い出すかも。
……今はそれよりも、タメ語と呼び捨てのミッションをこなさないと!
ハードル高いけど、照さんの婚約者に見えるよう練習しておこう。
桜は怖気づきそうになる足を踏ん張って、高くそびえたつミッションと1週間後のパーティーを見据えた。
決意を秘めた桜の顔を横目に、照はスマホを手に取り、星菱社長のメールを読み返す。
『妻も杏奈も、また君に会えるのを楽しみにしている。急な日程で悪いが、婚約者同伴で出席してくれ。仕事もプライベートも、欲しいものを手に入れた者が勝ちだ』
最後の一文を親指でなぞり、眉をしかめる。
漏れそうになるため息を、コーヒーと一緒に飲み下した。
帰宅後、照は桜に頭を下げた。
「丸三さんの同意もなしに、勝手に婚約者だと言ってしまった」
「でも、私を連れて行った理由って、縁談避けだったんじゃないんですか? 悪い予感がするって言ってましたよね?」
顔を上げた照と視線が合う。
ばつが悪そうにすぐ目を逸らした。
「……前から星菱社長が縁談を勧めてきていたから、警戒はしていたんだ。君には、婚約者がいると話を合わせてもらうだけのつもりだったんだが」
星菱社長も杏奈も本気の顔をしていた。
婚約者がいるというだけでは、次回会わせろと言われかねない様子だった。
でも、どうして偽ってまで縁談を断りたかったんだろう?
「杏奈さんとの縁談、どうして断りたかったんですか?」
「好きでもない人と結婚するつもりはない。事業上の利益と結婚は別問題だ」
当然のように言う照だが、桜には疑問が浮かぶ。
「なら、私のことを婚約者だって言ったのはどうしてですか?」
「それは……」
照は目を伏せ、ソファに腰を下ろし、膝の上で両手を組み合わせた。桜は向かいに座って照の答えを待った。
「「君なら話を合わせてくれると思った。だが、婚約者だと紹介する前に、同意を得るべきだった」
照は再び頭を下げる。桜は顔の前で慌てて手を振った。
「いえ、謝らないでください。上手く演技できてたか分からないですけど、お役に立てたなら良かったです」
「話を合わせてくれて助かった。……それで、ひとつ提案があるんだが」
「提案、ですか?」
顔を上げた照の表情が固い。組み合わせた指に力が入っている。
空気が張り詰め、照の緊張が伝わる。
桜も思わず肩に力が入る。真剣な面持ちで、おもむろに口を開く照を見つめる。
「しばらくの間、俺の婚約者になってくれないか?」
「……はい?」
思ってもいなかったことを言われ、頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
今、何て?
婚約者になってくれって言った?
これって、プロポーズ?
そんなわけないか。
ていうか、しばらくの間って言ってたよね?
どういうこと?
「星菱社長は、まだ杏奈さんとの縁談を諦めていないだろう。だが、新事業のためにも、今後の関係は良好に保ちたい。だから、婚約者がいることを周囲に認識してもらう必要がある」
まるで用意していた台詞のように、照は淡々と説明する。
理屈は分かるが、桜の頭はまだ混乱していた。
「他からの縁談も断りやすくなるし、会食でも仕事に集中できる。もちろん、ただでとは言わない」
……ん?
ただでとは言わない?
ますますどういうこと?
「婚約者として人前に出てもらったら、その都度家政婦の給与とは別に報酬を支払う。新事業が安定するまでの半年間でいい。婚約者として契約をしてほしい」
「婚約者の契約? つまり、婚約者の演技を半年間続けるってことですか?」
「ああ。そうしてもらえると助かる」
呉林さんには助けてもらった恩がある。
私が力になれるなら、協力したい。
でも、婚約者の演技なんて私にできるの?
「……本当に私でいいんですか?」
自信なさげに照を見上げる。
照の表情がふっと緩んで、張り詰めていた空気がやわらいだ。
「丸三さんだから、頼んでるんだ」
「え?」
「家政婦の仕事ぶりは丁寧だし、商才もある。婚約者として人前に出ても上手くやれるはずだ」
照れ臭いのに、褒められたことが素直に嬉しい。
……けど、たった数日でどうしてここまで信頼してくれるの?
嬉しさよりも不安が上回る。
家族から認められなかった私が、呉林さんの婚約者として上手く振る舞えるの?
「買い被りすぎですよ。呉林さんみたいに演技できる自信ないです……」
「無理に演技をする必要はない。だが、人の話をよく聞いて相手の気持ちを汲み取れる丸三さんなら、社交の場でも俺とは違う視点で会話を広げられるはずだ。きっと経済界のトップとの会話は、丸三さんのためにもなる」
「私のため、ですか?」
「もう一度店を経営したいと言っていただろう。先達との会話で学ぶことは多い。役に立つはずだ」
前に話したこと、覚えていてくれたんだ。
呉林さんのためだけじゃなくて、私のためにも契約婚約者の提案をしてくれたのかな。
呉林さんなりの応援ってことかな?
「君の気持ちを無視するつもりはない。嫌なら断ってくれても構わない」
真摯な瞳で見つめられる。
呉林さんは絶対に強要しない。必ず私に決めさせてくれる。
婚約者の演技、自信はないけど、呉林さんのためにも頑張りたい。
それに、家政婦とは別に婚約者の報酬も頂けたら、思ったより早く貯金ができるかもしれない。
いつか、もう一度自分のお店を持ちたい。
まだ具体的な計画は立てられていないけど、そのためにも今はお金を貯めて、経営について学びたい。
呉林さんに恩返しをしながら、自分の夢にも近づける。
だったら、この機会を逃したくない。
桜は照の視線を静かに受け止め、迷いの色が消えた澄んだ瞳で見つめ返した。
「私でよければ、お引き受けします」
「引き受けてくれるのか?」
「はい。至らない点も多いと思いますが、頑張ります」
「……ありがとう。よろしく頼む」
照は柔らかい表情を浮かべて、手を差し出した。
「はい。よろしくお願いします」
照の大きな手を両手で包み込むようにして握手した。
きゅっと力を込めて握り返される。
ただの握手なのに、触れているところが熱い。
顔まで熱が伝わりそうで、桜はすぐに手を離した。
「あ、あの、婚約者って具体的に何をすればいいですか?」
「婚約者がいることを周囲にアピールするために、会食やパーティーなどの同伴をお願いしたい」
「パーティーなんて参加したことないんですけど、大丈夫でしょうか?」
「今日の会食みたいに、俺のそばにいて話を合わせてくれるだけでいい。丸三さんなら、うまくできるだろうから……」
照は何かに気付いたように口を閉じ、ぽつりと呟いた。
「……桜」
低い声で名前を呼ばれ、桜の頬が熱くなる。熱を帯びた頬を隠して照から目を逸らした。
また名前! 何で急に……?
「婚約者だったら、名前で呼び合う方が自然だ」
「あっ、なるほど」
「桜も俺のことは名前で呼んでくれ。それと、敬語じゃなくていい」
「えっ! 名前はともかくタメ語はちょっと……」
「婚約者で同い年なのに、敬語は不自然だろ」
「確かに、それもそうですね」
……あれ? 私、年齢言ったっけ?
ふと疑問が浮かぶ。
照の年齢は会社のサイトで知ったが、自分の年齢を照に伝えた記憶がない。
「敬語になってる」
「あっ……」
質問しようと口を開きかけたが、照が先に言葉を続けた。
「練習しないとな。俺の名前、呼んでみてくれ」
「練習って……」
いきなり名前を呼べと言われ、さっきの疑問が頭から吹き飛んだ。
名前を呼ぶだけなのに気恥ずかしくて、緊張してしまう。
両膝を強く掴んで、意を決して名前を呼んでみた。
「て、照……さん」
「……っ」
桜が恐る恐る顔を上げると、照が息を呑んだように見えた。
「今は、さん付けで勘弁してください!」
「……これから、練習していけばいい。呼び方も、タメ語も」
――これから。
半年間、照の婚約者になる。
偽装の。
店の経営から外されて家を出て、家政婦として雇ってもらったと思ったら、まさか婚約者まで任されることになるなんて。
照さんに恩返しして、もう一度店を経営する力を身につけるためにも頑張らないと。
桜の肩に力が入る。
対照的に、照の口元がふっと緩む。
「そんなに気負わないでくれ。そのままの君でいてくれたらいい」
「えっ……」
「言っただろ。桜だから頼んだって」
照さんだけは、私のことを認めてくれる。
そのことが、こんなにも嬉しいなんて。
もっと頑張らないと。
結果を出さないと。
焦燥感と不安で凝り固まっていた心が溶かされ、柔らかくなっていく。
これ以上溶かされると目から熱いものが流れていきそうで、桜は立ち上がって照に背を向けた。
「照さんの婚約者として恥ずかしくないように、頑張ります。……コーヒー、淹れますね」
そそくさとキッチンに行く桜の後ろ姿を見ながら、照は自嘲気味に薄く笑った。
「婚約者は少し、強引だったか。……らしくないことをしてしまったな」
ブブッ。
テーブルの上に置いた照のスマホが震える。
確認すると、星菱社長からのメールだった。
さっと目を通した照は口角を上げて呟いた。
「……早速か」
「どうしたんですか?」
桜がマグカップをテーブルの上に置いて首を傾げた。
「星菱社長主催の、慈善パーティーに招待された。家族同伴でのパーティーだから、ぜひ婚約者と出席してくれ、だそうだ。会食で伝え忘れたと言っているが、事前に決まっていたのか、さっき決めたことなのか。つくづく食えない人だ」
「さすが星菱の社長さんですね。パーティーはいつなんですか?」
「1週間後の土曜日」
「1週間後⁉」
「君を俺の婚約者だと周囲に紹介する良い機会だ。周知の事実になれば、星菱社長も諦めるだろう」
「だといいんですけど。怪しまれないように婚約者を演じないと……」
「まずは敬語を直すところからだな」
「うっ……。そうだった」
桜は口に手を当て、眉を下げた。
照はすっと立ち上がり、桜の隣に座った。
「えっ?」
何でここに座ったの?!
近いよ……。
少し距離を開ける桜に、照はいたずらっぽい眼差しを向ける。
「パーティーまでに、婚約者に見えるよう距離を縮めないとな。呼び捨てだともっと親しく見える気もするが」
マグカップを片手に、さらりと要求してくる照に、桜は頭を抱えてしまう。
「そうかもしれないけど……」
照はふいに手を伸ばし、桜の頭を優しく撫でた。
驚いた桜が顔を上げると、照の柔らかい視線と絡み合った。
「焦らなくていい」
ぼんやりとした少年の顔が、一瞬照の顔に重なる。
頭に触れる温かい手の感触。
焦らなくていいという台詞。
遠い昔、どこかで誰かに、同じようなことを言われたような気がする。
けれど、少年の面影は、思い出そうとした途端に記憶の奥へ沈んでしまった。
照は何かに気づいたように目を見開き、すっと手を引っ込めた。
「……すまない。つい」
「いえ……」
マグカップに手を伸ばしてコーヒーをすする照を見上げる。
何で謝るんだろう。嫌だったわけじゃないのに。
さっきの、気のせいだったのかな。
でも、照さんは前に、覚えていないのかって言ってた。
聞いてみるべき?
けど、それでも覚えていなかったら申し訳なさすぎる。
やっぱり自分で思い出すしかない。
近くにいれば何か思い出すかも。
……今はそれよりも、タメ語と呼び捨てのミッションをこなさないと!
ハードル高いけど、照さんの婚約者に見えるよう練習しておこう。
桜は怖気づきそうになる足を踏ん張って、高くそびえたつミッションと1週間後のパーティーを見据えた。
決意を秘めた桜の顔を横目に、照はスマホを手に取り、星菱社長のメールを読み返す。
『妻も杏奈も、また君に会えるのを楽しみにしている。急な日程で悪いが、婚約者同伴で出席してくれ。仕事もプライベートも、欲しいものを手に入れた者が勝ちだ』
最後の一文を親指でなぞり、眉をしかめる。
漏れそうになるため息を、コーヒーと一緒に飲み下した。



