「悪い、待たせたな」
あれから1時間近く待って、ようやく照は椅子から立ち上がった。同時に桜も立ち上がり、おずおずと口を開いた。
「……あの、会食のことなんですけど」
「急にすまない。これも仕事だと思ってくれ」
「本当に私でいいんですか?」
「心配するな。君はただ座ってディナーを食べてくれたらいい。別途手当は出す」
「いえ! こんなことでお金はいただけません」
「業務外の仕事には手当を出すと契約書に書いた」
「えっ? ですが……」
腕時計を見た照はわずかに顔をしかめる。
「時間がない。服を買いに行くぞ」
「何でまた?!」
「ドレスコードがある店だ。その格好では入れない」
シンプルなTシャツとジーンズ。確かにこれでは店員に止められそうだ。
「だったら私、行かなくてもいいんじゃ……」
「嫌な予感がするんだ」
苦虫を噛み潰したような表情とはまさにこのことか、と思える顔をした。何のことかさっぱり分からないが、照の不安が伝染して、桜も胸がざわつく。
「とにかく、ついてきてくれ」
珍しく余裕のない照に、桜はこれ以上何も言えずついていくしかなかった。
照の車で向かった先はブランド店が立ち並ぶ通りのブティックだった。
照は店員に、露出度が少なく華美になりすぎず、桜に似合うものをという条件で、いくつか候補の服を選んでもらった。
「この中から好きなものはあるか?」
ワンピースやブラウスとロングスカートのセットアップなど、どれも品が良く落ち着いた印象に見える。このような高級品に触れたことのない桜にはどれも良く見えて、これというものを選べない。
「えっと……」
助けを求めて照を窺うと、ショーウインドウ前に飾られたマネキンにちらちらと視線を向けていた。
そのマネキンが身につけているのは、候補にはないミントグリーンの丈の長いフレアワンピースだ。
シンプルながらも袖の透け感と首元のリボンがアクセントになっている。
あれ、かわいいかも。
それに、呉林さんも気になってるみたいだし、あれにしようかな。
「すみません、あそこのマネキンが着ているものでもいいですか?」
「申し訳ございません。現在在庫がなく、新しいものをご用意できないんです」
「マネキンが着ているものでもいいんですけど」
「よろしいのですか? 少々お待ちください」
店員は急いでマネキンを店の奥に運んでいった。
「そんなにあれが気に入ったのか?」
「デザインがかわいくて。それに、せっかくだったら呉林さんの好みにも合えばと思いまして」
「俺の好み? ……なぜ分かる?」
「あのマネキンを何回か見てたので、そうなのかなって思ったんですけど。違いました?」
照は答えず、頬を掻いて視線を逸らした。
図星のようだ。
少しずつ照の表情が読めるようになってきた。
あのワンピース、私に似合えばいいんだけど。
店員がワンピースを手に戻ってきた。
試着室で着替えてみると、ぴったりのサイズで着心地が良い。鏡に映る自分は、思ったよりも悪くない。
「どうでしょうか?」
カーテンを開けて照に問いかける。
数秒間、照は何も言わず見つめる。
「あの、呉林さん?」
「あ、ああ。似合ってる。似合いすぎて、驚いた」
そんなに言われたら恥ずかしくなる……。
でも、ちょっと嬉しい、かも。
「これにします」
「いいのか?」
「はい。呉林さんのお墨付きなので」
「……そうか。あとは靴だな」
「呉林さんが選んでくれませんか?」
「俺が?」
「この服みたいに、私に似合うのを見つけるのがお上手なんじゃないかなって。ご迷惑じゃなければ、お願いしてもいいですか?」
「迷惑ではない。むしろ面倒をかけているのは俺の方だ」
照はパンプスが並ぶ棚をしばらく見た後、ローヒールのシルバーのパンプスを桜の足元に置いた。
クッション性があり、ヒールが低いので歩きやすい。即決し、ワンピースと一緒に履いたまま店を出た。
ホテルに着いた頃にはすでに日が暮れていた。
夜景を見ながら最上階までエレベーターで昇っていく。
ふと、ガラスに反射する自分の姿に焦点が合う。
数日前は人生のどん底だったのに、今は高級な服を着て照の隣に立っている。
住む場所も、仕事も、衣服も、全部与えてもらっている。
なのに、私はまだ何も返せていない。
今の私は、呉林さんに頼ってばかり。
こんな自分が、呉林さんと大企業の社長との会食にいてもいいのかな……。
悔しさと心苦しさ、不安が押し寄せ、緊張が高まる。
俯き、ふうっと息を吐き出す。
「どうした?」
気遣うように照が顔を覗き込む。
「っ……!」
顔を上げると、間近に照の顔があり、思わず飛びのいた。
「具合でも悪いのか? 会食はキャンセルするか」
「いえ、大丈夫です!」
「……俺の前では誤魔化すな」
「え?」
「仕事だと言ったから、無理してるんだろ。やっぱりキャンセルを」
「待ってください!」
スマホを取り出そうとする照を、桜は咄嗟に制した。
「無理してるわけじゃありません。少し、不安になっただけで……」
「不安? なぜ?」
「なぜって、大手企業との大事な会食ですよ。本来なら私なんかが行っていい場所じゃないんです」
「またそれか。なんか、はやめろ。俺は君だから頼んだんだ。気負わず、食事を楽しんでくれたらいい」
「でも……」
「心配するな。俺がフォローする」
自信に満ちた笑みが安心感を与えてくれる。
不思議と緊張がやわらぐ。
怖気づいてる場合じゃない。
信頼してくれる呉林さんのためにも、笑顔でいないと。
エレベーターが開く。
「行くぞ」
「はい」
口角を上げて自然な笑顔を意識した。
照の口元がわずかに緩んだ。
レストランのスタッフに奥の個室を案内される。
すでに席についていた星菱社長一家が、喜んで迎え入れた。
「呉林くん、待っていたぞ」
恰幅の良い星菱が、満面の笑みで分厚い手で照と握手を交わした。
「お待たせして申し訳ございません」
「いやいや。忙しいのに、急にすまないね。妻の美恵子には前に会ったことがあるよな」
星菱の隣で美恵子が親しげな笑みを浮かべている。
「こんばんは、呉林さん」
「ご無沙汰しております」
星菱と美恵子の背後から、やたら着飾った娘が頬を染め、照をぼうっと見上げている。
星菱は娘の背中を押して照と向かい合わせに立たせた。
「娘の杏奈だ」
「は、初めまして。杏奈と申します。お会いできて嬉しいです」
上ずった高い声でお辞儀をする杏奈に、照は一礼をした。
「呉林照と申します。お父様にはお世話になっております」
「あ、はい……」
恥ずかしそうに頬に手を添える杏奈は、照に釘付けだ。
星菱は杏奈と照を見ながらどこか満足げに頷いている。
杏奈さん、分かりやすい。
完全に恋に落ちている顔ね。
にしても、星菱社長のあの表情、なんか気になる。
呉林さんが言っていた悪い予感と関係してたりして。
考えすぎかな……。
照の背後で星菱親子の様子を窺っていると、杏奈と目が合った。
なぜか敵意のある鋭い視線で射抜かれる。
杏奈の視線に気づいた星菱が問いかけた。
「呉林くん、そちらの女性は?」
「私が信頼している方です」
信頼している方……?
そんなふうに紹介してもらえるなんて、ちょっと嬉しい。
「丸三桜と申します。よろしくお願いいたします」
笑顔で頭を下げる桜を観察するように星菱は目を細めた。
「ほう。竹菱くん以外にも君が信頼している人がいたとはな」
星菱が椅子に座ると、美恵子と杏奈も腰掛けた。
照は椅子を引いて、桜に目を向ける。
「丸三さん、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
照のエスコートに驚きながら、桜は浅く腰掛けた。
杏奈の視線が突き刺さり、居心地が悪い。
それから、星菱と照の他愛もない会話に耳を傾けながら、桜は粗相をしないよう慎重に料理を食べ進めた。
「竹菱くんは元気かい?」
「はい。新事業のために地方を飛び回っています」
「そうか。彼も素晴らしい青年だ。君たちのことは女性が放っておかないだろ」
ワインのグラスを傾け、星菱は上機嫌で笑い声を上げる
「私はともかく、竹菱は女性の噂が絶えません」
「さすが竹菱くんだ。独身の内はそれでいい。呉林くんはどうだ? いい人はいるのか?」
「私は……」
照は口を閉じ、一瞬桜を見る。
星菱は更に質問を重ねた。
「結婚願望はあるかい?」
「結婚、ですか?」
「今すぐでなくとも、結婚をしておくと事業の発展にも自分の成長にも繋がるぞ。君はいくつだ」
「27です」
「杏奈の3つ上か。良い年齢差じゃないか」
「お、お父さん!」
杏奈が慌てて声を上げ、星菱に囁く。
「今日は会ってお話をするだけって言ったじゃない」
「悠長にしていたら機を逃すぞ。お父さんに任せておきなさい」
星菱は照に、機嫌のよさそうな笑顔を向けた。
「杏奈が呉林くんのことを大層気に入ってね。君がよければ、結婚を前提に付き合うというのはどうだ?」
ええっ! 呉林さんと杏奈さんが、付き合う?!
「ゴホッゴホッ」
突然の提案に驚きすぎて、むせてしまった。
「大丈夫か。水飲んで」
「あ、ありがとうございます」
照が差し出した水を飲み、なんとか落ち着いた。
呉林さん、全然表情が変わらないんだけど。
もしかして、悪い予感ってこれだったの?
でも、悪い予感がするからって私を同行させたんだよね?
……何で?
「話を合わせてくれ」
照が桜にだけ聞こえるよう声を落とす。
何のことか分からないまま、桜は小さく頷く。
「星菱社長。申し訳ございませんが、その話はお受けできません」
「どうしてだ?」
照は星菱を真っ直ぐ見据え、背筋を伸ばした。
「私には婚約者がいるからです」
「婚約者、だと?」
「あら、まあ」
「えっ……」
星菱と杏奈、美恵子が目を見開く。
婚約者、いたの?!
……あ、そっか。話し合わせなきゃだった。
桜は慌てて平静を装い、表情を取り繕った。
照が目配せをしてきたので、桜は反射的に微笑んだ。
「まさか、婚約者がいたとはな」
星菱社長が怪訝な顔を照るに向ける。
照は一瞬、言葉を探すように口を閉じた。
そして、何かを決意したように桜を見た。
「……実は、彼女なんです」
私が婚約者!?
固まる桜の肩に、照は一瞬ためらいながらも腕を回す。
桜の肩がびくっと震える。
「丸三さんが、私の婚約者なんです」
照の横顔は平然としていて、嘘をついているようには見えない。
いや、完全な嘘だけど。
婚約者ってさすがに無理があるって……。
「そんな……」
杏奈は絶句して瞳を潤ませる。声を震わせて照に問いかけた。
「……どうして、この人なんですか?」
「彼女の人柄に惹かれたんです。自分にはこの人しかいない、そう確信して私からアプローチしました」
嘘だと分かっているのに、胸の奥がくすぐられて顔が熱くなる。
「なあ、桜」
顔の近くで名前を呼ばれ、心臓がきゅっと締め付けられる。
「は、はい……」
何でこんなに演技がうまいの?
本当の婚約者みたいな言い方されたら、勘違いしそうになる。
落ち着け、私。
これは仕事!
呉林さんの言ってること全部演技だから!
「呉林くんがそこまで言うなら、これ以上口出しはできんな。とはいえまだ婚約段階。先のことは分からんよなあ」
不敵な笑みを浮かべて星菱は杏奈の頭を撫でる。
「……そうですね。人の気持ちは予想するのが難しい。数字では推し量れませんから」
桜の肩から手を離し、遠くを見るように目を細める。
その表情から照の感情は読み取れない。
これも演技?
やっぱり、呉林さんのことよく分からない……。
『なあ、桜』
鼓膜の裏側で照の声が反響する。
あれは演技だから。
そう言い聞かせても、胸のざわつきはなかなか収まってくれなかった。
あれから1時間近く待って、ようやく照は椅子から立ち上がった。同時に桜も立ち上がり、おずおずと口を開いた。
「……あの、会食のことなんですけど」
「急にすまない。これも仕事だと思ってくれ」
「本当に私でいいんですか?」
「心配するな。君はただ座ってディナーを食べてくれたらいい。別途手当は出す」
「いえ! こんなことでお金はいただけません」
「業務外の仕事には手当を出すと契約書に書いた」
「えっ? ですが……」
腕時計を見た照はわずかに顔をしかめる。
「時間がない。服を買いに行くぞ」
「何でまた?!」
「ドレスコードがある店だ。その格好では入れない」
シンプルなTシャツとジーンズ。確かにこれでは店員に止められそうだ。
「だったら私、行かなくてもいいんじゃ……」
「嫌な予感がするんだ」
苦虫を噛み潰したような表情とはまさにこのことか、と思える顔をした。何のことかさっぱり分からないが、照の不安が伝染して、桜も胸がざわつく。
「とにかく、ついてきてくれ」
珍しく余裕のない照に、桜はこれ以上何も言えずついていくしかなかった。
照の車で向かった先はブランド店が立ち並ぶ通りのブティックだった。
照は店員に、露出度が少なく華美になりすぎず、桜に似合うものをという条件で、いくつか候補の服を選んでもらった。
「この中から好きなものはあるか?」
ワンピースやブラウスとロングスカートのセットアップなど、どれも品が良く落ち着いた印象に見える。このような高級品に触れたことのない桜にはどれも良く見えて、これというものを選べない。
「えっと……」
助けを求めて照を窺うと、ショーウインドウ前に飾られたマネキンにちらちらと視線を向けていた。
そのマネキンが身につけているのは、候補にはないミントグリーンの丈の長いフレアワンピースだ。
シンプルながらも袖の透け感と首元のリボンがアクセントになっている。
あれ、かわいいかも。
それに、呉林さんも気になってるみたいだし、あれにしようかな。
「すみません、あそこのマネキンが着ているものでもいいですか?」
「申し訳ございません。現在在庫がなく、新しいものをご用意できないんです」
「マネキンが着ているものでもいいんですけど」
「よろしいのですか? 少々お待ちください」
店員は急いでマネキンを店の奥に運んでいった。
「そんなにあれが気に入ったのか?」
「デザインがかわいくて。それに、せっかくだったら呉林さんの好みにも合えばと思いまして」
「俺の好み? ……なぜ分かる?」
「あのマネキンを何回か見てたので、そうなのかなって思ったんですけど。違いました?」
照は答えず、頬を掻いて視線を逸らした。
図星のようだ。
少しずつ照の表情が読めるようになってきた。
あのワンピース、私に似合えばいいんだけど。
店員がワンピースを手に戻ってきた。
試着室で着替えてみると、ぴったりのサイズで着心地が良い。鏡に映る自分は、思ったよりも悪くない。
「どうでしょうか?」
カーテンを開けて照に問いかける。
数秒間、照は何も言わず見つめる。
「あの、呉林さん?」
「あ、ああ。似合ってる。似合いすぎて、驚いた」
そんなに言われたら恥ずかしくなる……。
でも、ちょっと嬉しい、かも。
「これにします」
「いいのか?」
「はい。呉林さんのお墨付きなので」
「……そうか。あとは靴だな」
「呉林さんが選んでくれませんか?」
「俺が?」
「この服みたいに、私に似合うのを見つけるのがお上手なんじゃないかなって。ご迷惑じゃなければ、お願いしてもいいですか?」
「迷惑ではない。むしろ面倒をかけているのは俺の方だ」
照はパンプスが並ぶ棚をしばらく見た後、ローヒールのシルバーのパンプスを桜の足元に置いた。
クッション性があり、ヒールが低いので歩きやすい。即決し、ワンピースと一緒に履いたまま店を出た。
ホテルに着いた頃にはすでに日が暮れていた。
夜景を見ながら最上階までエレベーターで昇っていく。
ふと、ガラスに反射する自分の姿に焦点が合う。
数日前は人生のどん底だったのに、今は高級な服を着て照の隣に立っている。
住む場所も、仕事も、衣服も、全部与えてもらっている。
なのに、私はまだ何も返せていない。
今の私は、呉林さんに頼ってばかり。
こんな自分が、呉林さんと大企業の社長との会食にいてもいいのかな……。
悔しさと心苦しさ、不安が押し寄せ、緊張が高まる。
俯き、ふうっと息を吐き出す。
「どうした?」
気遣うように照が顔を覗き込む。
「っ……!」
顔を上げると、間近に照の顔があり、思わず飛びのいた。
「具合でも悪いのか? 会食はキャンセルするか」
「いえ、大丈夫です!」
「……俺の前では誤魔化すな」
「え?」
「仕事だと言ったから、無理してるんだろ。やっぱりキャンセルを」
「待ってください!」
スマホを取り出そうとする照を、桜は咄嗟に制した。
「無理してるわけじゃありません。少し、不安になっただけで……」
「不安? なぜ?」
「なぜって、大手企業との大事な会食ですよ。本来なら私なんかが行っていい場所じゃないんです」
「またそれか。なんか、はやめろ。俺は君だから頼んだんだ。気負わず、食事を楽しんでくれたらいい」
「でも……」
「心配するな。俺がフォローする」
自信に満ちた笑みが安心感を与えてくれる。
不思議と緊張がやわらぐ。
怖気づいてる場合じゃない。
信頼してくれる呉林さんのためにも、笑顔でいないと。
エレベーターが開く。
「行くぞ」
「はい」
口角を上げて自然な笑顔を意識した。
照の口元がわずかに緩んだ。
レストランのスタッフに奥の個室を案内される。
すでに席についていた星菱社長一家が、喜んで迎え入れた。
「呉林くん、待っていたぞ」
恰幅の良い星菱が、満面の笑みで分厚い手で照と握手を交わした。
「お待たせして申し訳ございません」
「いやいや。忙しいのに、急にすまないね。妻の美恵子には前に会ったことがあるよな」
星菱の隣で美恵子が親しげな笑みを浮かべている。
「こんばんは、呉林さん」
「ご無沙汰しております」
星菱と美恵子の背後から、やたら着飾った娘が頬を染め、照をぼうっと見上げている。
星菱は娘の背中を押して照と向かい合わせに立たせた。
「娘の杏奈だ」
「は、初めまして。杏奈と申します。お会いできて嬉しいです」
上ずった高い声でお辞儀をする杏奈に、照は一礼をした。
「呉林照と申します。お父様にはお世話になっております」
「あ、はい……」
恥ずかしそうに頬に手を添える杏奈は、照に釘付けだ。
星菱は杏奈と照を見ながらどこか満足げに頷いている。
杏奈さん、分かりやすい。
完全に恋に落ちている顔ね。
にしても、星菱社長のあの表情、なんか気になる。
呉林さんが言っていた悪い予感と関係してたりして。
考えすぎかな……。
照の背後で星菱親子の様子を窺っていると、杏奈と目が合った。
なぜか敵意のある鋭い視線で射抜かれる。
杏奈の視線に気づいた星菱が問いかけた。
「呉林くん、そちらの女性は?」
「私が信頼している方です」
信頼している方……?
そんなふうに紹介してもらえるなんて、ちょっと嬉しい。
「丸三桜と申します。よろしくお願いいたします」
笑顔で頭を下げる桜を観察するように星菱は目を細めた。
「ほう。竹菱くん以外にも君が信頼している人がいたとはな」
星菱が椅子に座ると、美恵子と杏奈も腰掛けた。
照は椅子を引いて、桜に目を向ける。
「丸三さん、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
照のエスコートに驚きながら、桜は浅く腰掛けた。
杏奈の視線が突き刺さり、居心地が悪い。
それから、星菱と照の他愛もない会話に耳を傾けながら、桜は粗相をしないよう慎重に料理を食べ進めた。
「竹菱くんは元気かい?」
「はい。新事業のために地方を飛び回っています」
「そうか。彼も素晴らしい青年だ。君たちのことは女性が放っておかないだろ」
ワインのグラスを傾け、星菱は上機嫌で笑い声を上げる
「私はともかく、竹菱は女性の噂が絶えません」
「さすが竹菱くんだ。独身の内はそれでいい。呉林くんはどうだ? いい人はいるのか?」
「私は……」
照は口を閉じ、一瞬桜を見る。
星菱は更に質問を重ねた。
「結婚願望はあるかい?」
「結婚、ですか?」
「今すぐでなくとも、結婚をしておくと事業の発展にも自分の成長にも繋がるぞ。君はいくつだ」
「27です」
「杏奈の3つ上か。良い年齢差じゃないか」
「お、お父さん!」
杏奈が慌てて声を上げ、星菱に囁く。
「今日は会ってお話をするだけって言ったじゃない」
「悠長にしていたら機を逃すぞ。お父さんに任せておきなさい」
星菱は照に、機嫌のよさそうな笑顔を向けた。
「杏奈が呉林くんのことを大層気に入ってね。君がよければ、結婚を前提に付き合うというのはどうだ?」
ええっ! 呉林さんと杏奈さんが、付き合う?!
「ゴホッゴホッ」
突然の提案に驚きすぎて、むせてしまった。
「大丈夫か。水飲んで」
「あ、ありがとうございます」
照が差し出した水を飲み、なんとか落ち着いた。
呉林さん、全然表情が変わらないんだけど。
もしかして、悪い予感ってこれだったの?
でも、悪い予感がするからって私を同行させたんだよね?
……何で?
「話を合わせてくれ」
照が桜にだけ聞こえるよう声を落とす。
何のことか分からないまま、桜は小さく頷く。
「星菱社長。申し訳ございませんが、その話はお受けできません」
「どうしてだ?」
照は星菱を真っ直ぐ見据え、背筋を伸ばした。
「私には婚約者がいるからです」
「婚約者、だと?」
「あら、まあ」
「えっ……」
星菱と杏奈、美恵子が目を見開く。
婚約者、いたの?!
……あ、そっか。話し合わせなきゃだった。
桜は慌てて平静を装い、表情を取り繕った。
照が目配せをしてきたので、桜は反射的に微笑んだ。
「まさか、婚約者がいたとはな」
星菱社長が怪訝な顔を照るに向ける。
照は一瞬、言葉を探すように口を閉じた。
そして、何かを決意したように桜を見た。
「……実は、彼女なんです」
私が婚約者!?
固まる桜の肩に、照は一瞬ためらいながらも腕を回す。
桜の肩がびくっと震える。
「丸三さんが、私の婚約者なんです」
照の横顔は平然としていて、嘘をついているようには見えない。
いや、完全な嘘だけど。
婚約者ってさすがに無理があるって……。
「そんな……」
杏奈は絶句して瞳を潤ませる。声を震わせて照に問いかけた。
「……どうして、この人なんですか?」
「彼女の人柄に惹かれたんです。自分にはこの人しかいない、そう確信して私からアプローチしました」
嘘だと分かっているのに、胸の奥がくすぐられて顔が熱くなる。
「なあ、桜」
顔の近くで名前を呼ばれ、心臓がきゅっと締め付けられる。
「は、はい……」
何でこんなに演技がうまいの?
本当の婚約者みたいな言い方されたら、勘違いしそうになる。
落ち着け、私。
これは仕事!
呉林さんの言ってること全部演技だから!
「呉林くんがそこまで言うなら、これ以上口出しはできんな。とはいえまだ婚約段階。先のことは分からんよなあ」
不敵な笑みを浮かべて星菱は杏奈の頭を撫でる。
「……そうですね。人の気持ちは予想するのが難しい。数字では推し量れませんから」
桜の肩から手を離し、遠くを見るように目を細める。
その表情から照の感情は読み取れない。
これも演技?
やっぱり、呉林さんのことよく分からない……。
『なあ、桜』
鼓膜の裏側で照の声が反響する。
あれは演技だから。
そう言い聞かせても、胸のざわつきはなかなか収まってくれなかった。



