翌朝、桜は目覚ましよりも早く目を覚まし、意気揚々とカーテンを開けた。
机の上に置いてある写真と前掛けに朝日が降り注ぐ。
「おじいちゃん、おはよう」
写真の中で笑っている祖父に挨拶をして、昨日照に買ってもらった仕事用の服装に着替える。
その上に、スーパーで見つけたネイビーのエプロンをつけて部屋を出た。
リビングに行くと、スーツ姿の照が資料を片手にコーヒーを飲んでいた。
もう起きてる!
しかも出かける準備万端?
雇用主より遅く起きるなんて、大失態……。
「おはようございます。すみません、すぐ朝食作ります!」
「いや、早く目が覚めただけだ。家を出るまでまだ時間はあるから、ゆっくりでいい」
「あ、はい」
それでも桜はなるべく急いで朝食を用意し、テーブルに並べた。
桜が席に座ると、照は書類を渡してきた。
「食事の後でいいから、契約書を確認したらサインしておいてくれ」
A4用紙5枚分にびっしりと文字が並んでいる。
用紙に目を落として、桜は目を丸くした。
「こんなに……」
「家政婦としての最低限の業務内容も入れてある。仕事はやりやすいように自由にやってくれて構わない。だが、ひとつだけ守ってもらいたいことがある」
「何ですか?」
「俺の部屋には、入らないでくれ」
「分かりました。お約束します」
「それと、連絡先を交換しておきたい。出勤と帰宅時間は毎日違う。関連企業との会食や打ち合わせで食事を外ですませることもあるが、その時は連絡を入れるようにする」
「はい。そうしていただけると助かります」
連絡先を交換し合うと、照は腕時計を見て立ち上がった。
「あとは頼んだ。分からないことがあれば連絡してくれ。すぐに返信はできないかもしれないが」
「本当に困った時だけ連絡しますね。いってらっしゃい」
玄関先で桜は笑顔で手を振る。
「……いってきます」
照れたように目を伏せ、照はドアを開けて出て行った。
桜は食器を片付けてから契約書に目を通し、仕事内容や勤務条件を確認した。
昨日聞いていた条件と相違はない。
「よし。働こう!」
桜は両手をパチンと打ち鳴らし、家事にとりかかった。
リビング、風呂、トイレの掃除を終え、照の部屋でも自分が使っている部屋でもない、廊下に面している部屋の前に立った。
「この部屋も掃除した方がいいよね?」
ゆっくりドアを開ける。
室内は段ボールで溢れ、足の踏み場がない。
「何これ。段ボールだらけ。しかも、どれも開いてない」
照が帰って来てから確認することにして、今は段ボールを整頓してできる範囲で掃除をしておいた。
「どうしよう。やることが終わってしまった……」
12時を回る頃には、一通りの家事が終わった。
ベランダから心地よい秋風が入り込む。
風に吹かれて洗濯物がなびいている。
ここには、静かで穏やかな時間が流れている。
1日って、こんなに長いんだ。
丸三文具店にいた時には、時間の余裕は一切なかった。
やることが山積みで、延々とゴールが見えなかった。
「お店、大丈夫かな」
窓の外から遠く広がる街並みを見下ろし、今は戻れない店に思いを馳せた。
「そういえば、SNSはどうしてるんだろう」
スマホで店のSNSを開く。
改装したことや、新商品の入荷を知らせる新しい投稿がいくつか上がっている。
それなりに反響があるようで、多数のコメントが寄せられている。
『改装してから、通路が広くなって買いやすくなりました』
『流行ってるペン、置いてくれたの嬉しい』
『文房具だけじゃなくて、かわいい雑貨が増えた』
「良いコメントばかり。私がいなくても、うまくいっている……」
私がずっと守ろうとしていたものは、本当にお客様が求めていたものだったのかな。
桜はスマホを握り締め、溜息と共にエプロンにしまった。
昼食後、自分の部屋の掃除まで終え、夕飯の支度を始めようとした時。
着信音が鳴り、慌ててスマホを取り出した。
画面には 『呉林さん』の文字が表示されている。
「もしもし?」
『今、いいか?』
耳元で照の低い声が鼓膜を震わせる。
「はい。何か御用ですか?」
『星菱ホールディングスからの郵便物が届いていないか、確認してほしい』
「分かりました」
『ポストの暗証番号は1203だ』
「了解です。すぐ見てきます」
一度電話を切り、急いで1階まで下りてポストを開けてみた。
クリーム色の封筒が1つ、入っている。
表には照の名前の横に親展の印が押されている。
裏には、星菱ホールディングスの企業名と住所が記載されている。
大手の電機メーカーだ。
こんな会社と繋がりがあるなんて、すごい。
あっ、感心してる場合じゃなかった!
桜はすぐに電話をかけ直した。
「届いてました!」
『よかった。会社宛てのはずが、先方の手違いで自宅宛てになっていたみたいだ。社員を向かわせるからそれを渡してほしい』
「でしたら、私がお届けします」
『いや、それは業務外だろ』
「家のことを任されているんですから、これも仕事の内です。すぐ向かいますね」
『……ああ、頼む。会社の住所はメッセージで送る』
「はい。お願いします」
電話を切ってすぐ、照から住所が届いた。
「株式会社リンフィニアって言うんだ。最寄り駅は……」
桜はアプリで経路を調べ、急いで駅へ向かった。
乗客がまばらな車内で、桜は照の会社を検索してみた。
株式会社リンフィニア。
設立からわずか3年で上場を果たし、現在の従業員数は450名を超える。
転職支援サービスを中心に急成長を続ける企業——。
3年で上場? しかも社員は450人以上。
凄い。
私は5年で、やっと赤字から脱却できた程度なのに……。
肩を落としてスクロールをすると、代表取締役の紹介ページに照の名前と年齢、顔写真が表示された。
え? 27歳? 同い年だ。
少し上だと思ってた。
ますます凄い……。
写真は今より若く見える。
相変わらずの仏頂面だけど、俳優の宣材写真みたいに決まっている。
その下には、共同経営者の名前と顔写真があった。
1人で立ち上げた会社じゃないんだ。
共同経営者は、竹菱善。この人も27歳だ。
目鼻立ちは整っているが、明るい茶髪に人懐っこそうな笑顔で、照とは真逆の印象を受ける。
呉林さんとは真逆で明るそう。
どういう経緯で、2人で会社を立ち上げたんだろう。
沿革のページを見てみると、どうやら大学在学中に前身となるサービスを立ち上げ、大学卒業後、本格的に事業を拡大したようだ。
同い年なのに、住んでいる世界がまるで違う。
昨日はスーパーで普通に言い合っていたのが、なんだか不思議に思えてくる。
本来なら、私がこんなふうに関われる人じゃないのかもしれない。
少なくとも仕事では、迷惑をかけないようにしよう。
桜は鞄を抱え直して電車を降りた。
「ここ、だよね?」
地図アプリの画面上では、現在地と目的地が重なっている。
「大きなビル……」
目の前にそびえ立つビルを唖然と見上げる。
エントランス横の壁に、各フロアの企業名が掲示されている。
「さすがにこのビル全部じゃないよね。えっと、株式会社リンフィニアは、3階から8階ね。とりあえず3階に行ってみようかな」
エレベーターで3階まで行くと、ガラス張りのエントランスが目に入った。
壁には株式会社リンフィニアのロゴが掲げられ、その奥に受付カウンターがある。
うわぁ、きれい……。
さすが上場企業。
受付に近づくと、女性スタッフが笑顔で声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「あの、呉林社長にお届け物があって……」
「お約束はございますか?」
「はい。社長から直接頼まれて来ました。丸三と申します」
スタッフは端末を操作し、すぐに顔を上げた。
「確認いたしますので、少々お待ちください。あちらの椅子にお掛けになってお待ちいただけますか?」
「はい。ありがとうございます」
桜は受付横の来客用スペースへ向かった。
その時、近くの会議室から言い争う声が聞こえてきた。
扉が少し開いている。
「だから、それだと数字が見えないんだって。自分でも分かってるだろ?」
思わず足を止める。
会議室では、2人の男性社員が資料を挟んで向かい合っていた。
年配の社員が、資料に付箋を貼り付けながら眉を寄せた。
「でも、数字が全てじゃないですよ。俺は、ユーザーの声をもっと反映させた企画をつくりたいんです」
向かい合っている若い社員が不機嫌そうな声で反論する。
「今のままじゃ、企画は通せない」
「何で俺の企画だけ反対するんですか」
「俺は別に反対してるわけじゃないって」
「さっきから無理だって言ってるじゃないですか」
「無理じゃなくて、今のままじゃ通せないって言ってるんだよ」
年配社員が、若手社員に資料を突き返す。
「もういいですよ!」
若手社員は資料をつかんで勢いよく立ち上がり、会議室を出ようとした。
その拍子に資料が手から滑り落ち、廊下に散らばる。
「あ……」
桜は足元まで滑ってきた資料を拾い集めた。
余白にびっしりと書き込まれた文字が目に入った。
先ほど年配社員が貼っていた付箋と同じ筆跡だ。
「アンケート結果は?」、「利用者が求めている根拠を示す」と細かく書き込まれている。
ただ、駄目出しをしていたんじゃない。
どうしたらこの企画を良くできるか、こんなに考えてたんだ。
この社員さん、言葉足らずなだけなんじゃ……。
「おい、どこ行く! 話は終わってないぞ!」
廊下に出ようとする若手社員を年配社員が呼び止める。
若手社員は振り向かず、拳を握りしめ、低く呟く。
「……どうせ俺の企画なんか通す気ないんだろ」
憤りと悔しさで震えるその背中が自分と重なり、桜は思わず声をかけた。
「待ってください!」
思わず大きな声が出てしまい、桜ははっと口を押さえた。
若手社員と年配社員は、怪訝な顔で桜を見た。
「はい?」
「どちらさま?」
「すみません、部外者なのに。でも、おふたりとも、利用者のことを考えていらっしゃるんですよね? この資料を見たら、そう思って……」
桜は拾った資料を若手社員に見せた。
年配社員は、少し考えてから若手社員に向き直った。
「俺はおまえの企画を否定しているんじゃない。利用者の声を生かすためにも、数字で裏付けてほしいんだ」
「……だったら、最初からそう言ってくださいよ」
「言ったつもりだったんだがな」
若手社員は資料を受け取り、書き込みに目を落とした。
「じゃあ、企画の方向性は変えずに、根拠を集める方法を考えてもいいですか?」
「もちろん。そのための改善案だ」
2人が再び席につくのを見て、桜はほっと胸を撫で下ろした。
よかった。
ちゃんと話し合えば、分かり合えることもあるんだよね。
……私がもっと上手にお母さんたちに伝えられていたら、何か変わったのかな。
「ここにいたのか」
背後から聞き覚えのある低い声がした。
「呉林さん!」
桜が驚いた顔で振り向くと、年配社員と若手社員が慌てて頭を下げた。
「社長!」
「お疲れ様です!」
「お疲れ様。企画の件か?」
「はい。もう一度、根拠となるデータを集め直そうと思います」
若手社員が答えると、照は小さく頷いた。
「利用者の声を取り入れるという方向性は悪くない。数字で裏付けられれば、説得力が増す」
「はい!」
「それと、君が先月まとめた利用者アンケートはよかった。今回も期待している」
「ありがとうございます!」
若手社員の表情がぱっと明るくなる。
「データの集め方は、彼にも相談するといい。以前、似た案件を担当していたはずだ」
「はい。私も手伝うつもりです」
年配社員が笑って答える。
照は2人に頷き、桜に目を向けた。
「ついてきてくれ」
照は片手を上げて挨拶を返し、桜に目を向けた。
「……はい」
桜はおずおずと照の後について廊下に出た。
「あの、これで合ってますか?」
鞄からクリーム色の封筒を出して渡した。
「ああ。届けに来てくれてありがとう。助かった」
「お役に立てて良かったです。私はこれで……」
エレベーターの前で桜は足を止める。下りのボタンを押そうとしたが、照に遮られた。
「上だ。社長室まで来てくれ」
「え?」
「新事業を立ち上げているんだが、第三者の意見がほしくてな。少し、力を貸してくれ」
「私でいいんですか? 転職どころか就職したこともないですよ」
「関係ない。さっき、瞬時に社員同士のすれ違いを見抜いていたな」
「そこから見てたんですか⁉」
「受付の前で待ってるはずの君の声が、会議室から聞こえて気になったんだ」
「あっ……」
そうだった。椅子に座って待ってろって言われたんだった……。
「君は人をよく見ている。それに、資料の書き込みを見ただけで、気持ちまで察していた。やはり商人の才能もあるんだな」
私に、商人の才能がある?
桜の胸の奥で萎んでいた自信が、少し膨らむ。
だが、店のSNSの反響が脳裏をよぎり、すぐに萎んでしまう。
……才能があったら、もっと早く店を軌道に乗せられていたはず。
呉林さんの褒め言葉に、いい気になっちゃだめ。
8階の社長室に通され、向かい合わせにソファに座った。
「地方企業への転職を支援する新しいサービスを考えている。詳細までは話せないが、いくつか課題があってな」
照が求人情報のサンプルと、転職希望者へのアンケート結果が記載されている資料を見せてきた。
「私が見ても大丈夫なんですか?」
「この程度なら問題ない。課題のひとつが、これだ」
照がアンケート結果を指差す。
「興味を示す割合は多いが、応募したいという割合は低い。その理由が知りたいんだ」
「でも、私には何の知識もないのでお力になれるか……」
「専門家の意見ならもう聞いた。社内でも何度も議論を重ねているが、客観視できる第三者の感想がほしい」
「感想程度でいいなら」
桜は資料に目を通した。
給与、休日、福利厚生、仕事内容。
知りたい項目はちゃんとあるし、サンプル企業の条件はどれも悪くない。企業の紹介文、職場環境も写真付きで分かりやすいし、実際に働いてる人のコメントもある。やりがいだけじゃなくて、仕事面での大変なこともちゃんと書いてある。
じゃあ、どうして……?
考え込む桜の真剣な表情を、照は柔らかい眼差しで見つめる。
「何か思いついたことはあるか?」
「えっと、仕事内容と企業情報はとても分かりやすくて、転職後のこともリアルに想像しやすいです。ただ……」
「何だ?」
「地方への転職を希望する人が知りたいことは、仕事のことだけじゃないと思うんです」
「どういう意味だ?」
桜は資料から顔を上げる。
「地方に転職するって、仕事だけ変わるわけじゃないですよね。住む場所も、人間関係も、生活も全部変わります。私だったら、仕事が見つかっても、その町でちゃんと暮らしていけるのか不安になると思うんです」
照は顎に指を添えて瞳を細める。
「不安、か」
「その町で暮らしている人の声とか、生活が想像できる情報があったら、少し安心できる気がします」
「なるほど。生活に関する情報か」
照はすぐに手元の資料へ何かを書き込んだ。
「これぐらいしか言えないんですけど、お役に立てましたか?」
「ああ、助かる。やはり、君に聞いて正解だった。君は相手の立場から物を見る力があるな」
「大したことでは……」
「謙遜するな。商売をやる上でも大事なことだ。文具店でもそうだったんじゃないか?」
「それをうまく経営に活用できていたかは、分かりません。でも、お客様が何を探しているのか、どんな商品を求めているのか、考えるのは好きでした」
「顧客のニーズに合わせて売り上げを伸ばしてきたから、5年で赤字を解消できたんじゃないか?」
「それは……」
祖父の店を守るために必死にやってきた5年間を思い返す。
商店街の常連客や、学生たちの喜ぶ顔が思い浮かび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
だが、店のSNSが脳裏をよぎり、桜の表情が曇る。
「けど、私がいなくなっても、お店はうまくいってます。私は経営者として力不足だったんです。だから柚仁たちが代わりに経営をやることになって……」
俯き、両手を膝の上で握り締める。
「何もしないで諦めるのか?」
「でも、もう店は……」
「力不足だというなら、実力を身につければいい」
桜の手から力が抜ける。
そっか。
力不足なら補えばいいんだ。
もっと経営について学んで、自分の力で立てるようにお金も貯めて。
「丸三さんは、どうしたい?」
「私は……」
祖父の顔が脳裏をよぎる。
祖父が入院していた時、約束をした。
『元気になって一緒にお店で働こう。それから、子どももお年寄りも、文房具を通じて交流できるような、みんなの居場所になるお店を作ろう』
祖父と指切りをしたのだが、その数日後に息を引き取った。
一緒にお店に立つ約束は、もう果たせない。
でも、もうひとつの約束まで諦めたくない。
「……もう一度、お店を経営したいです。おじいちゃんと約束した、みんなの居場所になるお店を作りたいんです」
瞳には強い光が宿る。
照の口角が緩み、表情が和らぐ。
「そうか。今度は俺が応援しよう」
「今度は、ですか?」
「……気にするな」
照は視線を逸らす。誤魔化すように立ち上がり、資料を窓際のデスクに置いた。
桜も立ち上がり、すっきり片付けられている社長室を見回す。ちらっとデスクを覗くと、書類やバインダーが乱雑に散らばっている。
「片付けましょうか?」
デスクを指差して尋ねると、照の表情が固まった。
「……いや、いい」
「ですが、キーボードも埋まってて大変じゃないですか?」
照はデスクから桜を遠ざけ、早口で制した。
「これは、散らかっているんじゃない。無秩序に見えるが、秩序がある合理的な置き方をしている。だから、片付けは不要だ」
「そう、ですか」
片付けられない人の言い訳みたい。
仕事はできるのに、生活面抜けててなんだかかわいい。
「ふふっ」
堪えきれず、笑いがこぼれた。
「何かおかしいか?」
「いえ、すみません。気にしないでください」
口元を手で隠し、笑いを抑えるために他の話題を探した。
そういえば、共同経営者の方はどこにいるんだろう?
他の部屋を使っているのかな?
「あの、この会社は共同経営をされているんですよね?」
「調べたのか?」
「どんな会社なのか気になって、つい。在学中に設立して、3年で上場なんて凄すぎです」
「俺ひとりじゃ無理だった。営業や資金集め、他の企業との連携は全部あいつの力だ」
「竹菱さん、ですよね? 信頼しているんですね」
「見た目は胡散臭いし、軽く見えるが、人の懐に入るのが上手い。性格は真逆だが、互いの不足な面を補って会社を発展させていくという利害が一致して、今に至っている」
「素敵な関係ですね」
「そうか? 今は近くにいないからいいが、あいつの騒々しさには時々腹が立つ」
眉間に皺が寄る。冗談ではないみたいだ。
「竹菱さん、今はどちらにいるんですか?」
「新事業のために、全国を回っている」
「しばらく戻らないんですか?」
「あと半年はな」
「半年……」
「戻ってきたら、今度こそあいつには別の住まいを探してもら」
「今度こそ?」
「あいつとは会社がここに移ってから一緒に住んでいる。君が使ってる部屋は、あいつの部屋だ」
「えっ? そうだったんですか!? じゃあ、竹菱さんが戻ってくるまでには住む場所を探して出ていきます」
「急がなくてもいい。あいつの荷物はほとんどないし、戻ってきたら追い出すつもりだ」
「さすがにそれは……」
「どうせそうするつもりだったんだ。それに、丸三さんがいてくれて助かっている。焼きそば、うまかった。また作ってくれないか?」
そんなにおいしかったんだ。
お母さんと柚仁からおいしいなんて言われたことなかったから、嬉しい……。
桜は満面の笑みで、大きく頷いた。
「はい。もちろんです! 他にもリクエストがあったらどんどん言ってくださいね」
「ああ。家に帰るのが楽しみになるな」
照の微笑みから目が離せない。
桜の心臓が小さく跳ねる。
なんでこの人は、欲しい言葉をくれるんだろう。
しかも、普段は無表情なのに、こんな時笑うなんて。
このギャップ反則だよ……。
雇用主だし、私とは住む世界が違う異次元の人なんだから、異性として意識しちゃだめ!
赤くなる頬をパチンと叩き、唇を引き結ぶ。
「もう少しで終わるから、少し待っていてくれないか? 一緒に帰ろう」
「あ、はい……」
一緒に帰ろうって、恋人に言うみたいな言い方……。
だからだめだって、意識したら!
ソファに座って頭を抱えていると、照のスマホが鳴った。
「もしもし。……星菱社長、お世話になっております。ええ、書類届きました。ありがとうございます」
星菱ホールディングスの社長さん?
普通に話してる。やっぱり凄いな。
呉林さんはああ言ってくれたけど、いつまでも迷惑をかけていられない。
目標貯金額決めて、竹菱さんが戻ってくる前に自立しなきゃ。
「……今夜、会食ですか?」
照の声が沈む。
桜の方を見て顔を歪める。
「ご家族も? でしたら、こちらも1人連れていっても構いませんか? ……はい。では、19時にホテルへ伺います。失礼します」
スマホを置いた照は、桜の向かいに腰掛け、気まずそうに口を開いた。
「すまない。予定変更だ」
「会食に行かれるんですか? でしたら呉林さんの夕飯は作らない方がいいですよね」
「君のもだ」
「私のも?」
「会食に同行してくれ」
「私が、ですか?」
「ああ」
「……はい?」
星菱社長との会食に同行?
何で私が?
何考えてるの、この人……?!
机の上に置いてある写真と前掛けに朝日が降り注ぐ。
「おじいちゃん、おはよう」
写真の中で笑っている祖父に挨拶をして、昨日照に買ってもらった仕事用の服装に着替える。
その上に、スーパーで見つけたネイビーのエプロンをつけて部屋を出た。
リビングに行くと、スーツ姿の照が資料を片手にコーヒーを飲んでいた。
もう起きてる!
しかも出かける準備万端?
雇用主より遅く起きるなんて、大失態……。
「おはようございます。すみません、すぐ朝食作ります!」
「いや、早く目が覚めただけだ。家を出るまでまだ時間はあるから、ゆっくりでいい」
「あ、はい」
それでも桜はなるべく急いで朝食を用意し、テーブルに並べた。
桜が席に座ると、照は書類を渡してきた。
「食事の後でいいから、契約書を確認したらサインしておいてくれ」
A4用紙5枚分にびっしりと文字が並んでいる。
用紙に目を落として、桜は目を丸くした。
「こんなに……」
「家政婦としての最低限の業務内容も入れてある。仕事はやりやすいように自由にやってくれて構わない。だが、ひとつだけ守ってもらいたいことがある」
「何ですか?」
「俺の部屋には、入らないでくれ」
「分かりました。お約束します」
「それと、連絡先を交換しておきたい。出勤と帰宅時間は毎日違う。関連企業との会食や打ち合わせで食事を外ですませることもあるが、その時は連絡を入れるようにする」
「はい。そうしていただけると助かります」
連絡先を交換し合うと、照は腕時計を見て立ち上がった。
「あとは頼んだ。分からないことがあれば連絡してくれ。すぐに返信はできないかもしれないが」
「本当に困った時だけ連絡しますね。いってらっしゃい」
玄関先で桜は笑顔で手を振る。
「……いってきます」
照れたように目を伏せ、照はドアを開けて出て行った。
桜は食器を片付けてから契約書に目を通し、仕事内容や勤務条件を確認した。
昨日聞いていた条件と相違はない。
「よし。働こう!」
桜は両手をパチンと打ち鳴らし、家事にとりかかった。
リビング、風呂、トイレの掃除を終え、照の部屋でも自分が使っている部屋でもない、廊下に面している部屋の前に立った。
「この部屋も掃除した方がいいよね?」
ゆっくりドアを開ける。
室内は段ボールで溢れ、足の踏み場がない。
「何これ。段ボールだらけ。しかも、どれも開いてない」
照が帰って来てから確認することにして、今は段ボールを整頓してできる範囲で掃除をしておいた。
「どうしよう。やることが終わってしまった……」
12時を回る頃には、一通りの家事が終わった。
ベランダから心地よい秋風が入り込む。
風に吹かれて洗濯物がなびいている。
ここには、静かで穏やかな時間が流れている。
1日って、こんなに長いんだ。
丸三文具店にいた時には、時間の余裕は一切なかった。
やることが山積みで、延々とゴールが見えなかった。
「お店、大丈夫かな」
窓の外から遠く広がる街並みを見下ろし、今は戻れない店に思いを馳せた。
「そういえば、SNSはどうしてるんだろう」
スマホで店のSNSを開く。
改装したことや、新商品の入荷を知らせる新しい投稿がいくつか上がっている。
それなりに反響があるようで、多数のコメントが寄せられている。
『改装してから、通路が広くなって買いやすくなりました』
『流行ってるペン、置いてくれたの嬉しい』
『文房具だけじゃなくて、かわいい雑貨が増えた』
「良いコメントばかり。私がいなくても、うまくいっている……」
私がずっと守ろうとしていたものは、本当にお客様が求めていたものだったのかな。
桜はスマホを握り締め、溜息と共にエプロンにしまった。
昼食後、自分の部屋の掃除まで終え、夕飯の支度を始めようとした時。
着信音が鳴り、慌ててスマホを取り出した。
画面には 『呉林さん』の文字が表示されている。
「もしもし?」
『今、いいか?』
耳元で照の低い声が鼓膜を震わせる。
「はい。何か御用ですか?」
『星菱ホールディングスからの郵便物が届いていないか、確認してほしい』
「分かりました」
『ポストの暗証番号は1203だ』
「了解です。すぐ見てきます」
一度電話を切り、急いで1階まで下りてポストを開けてみた。
クリーム色の封筒が1つ、入っている。
表には照の名前の横に親展の印が押されている。
裏には、星菱ホールディングスの企業名と住所が記載されている。
大手の電機メーカーだ。
こんな会社と繋がりがあるなんて、すごい。
あっ、感心してる場合じゃなかった!
桜はすぐに電話をかけ直した。
「届いてました!」
『よかった。会社宛てのはずが、先方の手違いで自宅宛てになっていたみたいだ。社員を向かわせるからそれを渡してほしい』
「でしたら、私がお届けします」
『いや、それは業務外だろ』
「家のことを任されているんですから、これも仕事の内です。すぐ向かいますね」
『……ああ、頼む。会社の住所はメッセージで送る』
「はい。お願いします」
電話を切ってすぐ、照から住所が届いた。
「株式会社リンフィニアって言うんだ。最寄り駅は……」
桜はアプリで経路を調べ、急いで駅へ向かった。
乗客がまばらな車内で、桜は照の会社を検索してみた。
株式会社リンフィニア。
設立からわずか3年で上場を果たし、現在の従業員数は450名を超える。
転職支援サービスを中心に急成長を続ける企業——。
3年で上場? しかも社員は450人以上。
凄い。
私は5年で、やっと赤字から脱却できた程度なのに……。
肩を落としてスクロールをすると、代表取締役の紹介ページに照の名前と年齢、顔写真が表示された。
え? 27歳? 同い年だ。
少し上だと思ってた。
ますます凄い……。
写真は今より若く見える。
相変わらずの仏頂面だけど、俳優の宣材写真みたいに決まっている。
その下には、共同経営者の名前と顔写真があった。
1人で立ち上げた会社じゃないんだ。
共同経営者は、竹菱善。この人も27歳だ。
目鼻立ちは整っているが、明るい茶髪に人懐っこそうな笑顔で、照とは真逆の印象を受ける。
呉林さんとは真逆で明るそう。
どういう経緯で、2人で会社を立ち上げたんだろう。
沿革のページを見てみると、どうやら大学在学中に前身となるサービスを立ち上げ、大学卒業後、本格的に事業を拡大したようだ。
同い年なのに、住んでいる世界がまるで違う。
昨日はスーパーで普通に言い合っていたのが、なんだか不思議に思えてくる。
本来なら、私がこんなふうに関われる人じゃないのかもしれない。
少なくとも仕事では、迷惑をかけないようにしよう。
桜は鞄を抱え直して電車を降りた。
「ここ、だよね?」
地図アプリの画面上では、現在地と目的地が重なっている。
「大きなビル……」
目の前にそびえ立つビルを唖然と見上げる。
エントランス横の壁に、各フロアの企業名が掲示されている。
「さすがにこのビル全部じゃないよね。えっと、株式会社リンフィニアは、3階から8階ね。とりあえず3階に行ってみようかな」
エレベーターで3階まで行くと、ガラス張りのエントランスが目に入った。
壁には株式会社リンフィニアのロゴが掲げられ、その奥に受付カウンターがある。
うわぁ、きれい……。
さすが上場企業。
受付に近づくと、女性スタッフが笑顔で声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「あの、呉林社長にお届け物があって……」
「お約束はございますか?」
「はい。社長から直接頼まれて来ました。丸三と申します」
スタッフは端末を操作し、すぐに顔を上げた。
「確認いたしますので、少々お待ちください。あちらの椅子にお掛けになってお待ちいただけますか?」
「はい。ありがとうございます」
桜は受付横の来客用スペースへ向かった。
その時、近くの会議室から言い争う声が聞こえてきた。
扉が少し開いている。
「だから、それだと数字が見えないんだって。自分でも分かってるだろ?」
思わず足を止める。
会議室では、2人の男性社員が資料を挟んで向かい合っていた。
年配の社員が、資料に付箋を貼り付けながら眉を寄せた。
「でも、数字が全てじゃないですよ。俺は、ユーザーの声をもっと反映させた企画をつくりたいんです」
向かい合っている若い社員が不機嫌そうな声で反論する。
「今のままじゃ、企画は通せない」
「何で俺の企画だけ反対するんですか」
「俺は別に反対してるわけじゃないって」
「さっきから無理だって言ってるじゃないですか」
「無理じゃなくて、今のままじゃ通せないって言ってるんだよ」
年配社員が、若手社員に資料を突き返す。
「もういいですよ!」
若手社員は資料をつかんで勢いよく立ち上がり、会議室を出ようとした。
その拍子に資料が手から滑り落ち、廊下に散らばる。
「あ……」
桜は足元まで滑ってきた資料を拾い集めた。
余白にびっしりと書き込まれた文字が目に入った。
先ほど年配社員が貼っていた付箋と同じ筆跡だ。
「アンケート結果は?」、「利用者が求めている根拠を示す」と細かく書き込まれている。
ただ、駄目出しをしていたんじゃない。
どうしたらこの企画を良くできるか、こんなに考えてたんだ。
この社員さん、言葉足らずなだけなんじゃ……。
「おい、どこ行く! 話は終わってないぞ!」
廊下に出ようとする若手社員を年配社員が呼び止める。
若手社員は振り向かず、拳を握りしめ、低く呟く。
「……どうせ俺の企画なんか通す気ないんだろ」
憤りと悔しさで震えるその背中が自分と重なり、桜は思わず声をかけた。
「待ってください!」
思わず大きな声が出てしまい、桜ははっと口を押さえた。
若手社員と年配社員は、怪訝な顔で桜を見た。
「はい?」
「どちらさま?」
「すみません、部外者なのに。でも、おふたりとも、利用者のことを考えていらっしゃるんですよね? この資料を見たら、そう思って……」
桜は拾った資料を若手社員に見せた。
年配社員は、少し考えてから若手社員に向き直った。
「俺はおまえの企画を否定しているんじゃない。利用者の声を生かすためにも、数字で裏付けてほしいんだ」
「……だったら、最初からそう言ってくださいよ」
「言ったつもりだったんだがな」
若手社員は資料を受け取り、書き込みに目を落とした。
「じゃあ、企画の方向性は変えずに、根拠を集める方法を考えてもいいですか?」
「もちろん。そのための改善案だ」
2人が再び席につくのを見て、桜はほっと胸を撫で下ろした。
よかった。
ちゃんと話し合えば、分かり合えることもあるんだよね。
……私がもっと上手にお母さんたちに伝えられていたら、何か変わったのかな。
「ここにいたのか」
背後から聞き覚えのある低い声がした。
「呉林さん!」
桜が驚いた顔で振り向くと、年配社員と若手社員が慌てて頭を下げた。
「社長!」
「お疲れ様です!」
「お疲れ様。企画の件か?」
「はい。もう一度、根拠となるデータを集め直そうと思います」
若手社員が答えると、照は小さく頷いた。
「利用者の声を取り入れるという方向性は悪くない。数字で裏付けられれば、説得力が増す」
「はい!」
「それと、君が先月まとめた利用者アンケートはよかった。今回も期待している」
「ありがとうございます!」
若手社員の表情がぱっと明るくなる。
「データの集め方は、彼にも相談するといい。以前、似た案件を担当していたはずだ」
「はい。私も手伝うつもりです」
年配社員が笑って答える。
照は2人に頷き、桜に目を向けた。
「ついてきてくれ」
照は片手を上げて挨拶を返し、桜に目を向けた。
「……はい」
桜はおずおずと照の後について廊下に出た。
「あの、これで合ってますか?」
鞄からクリーム色の封筒を出して渡した。
「ああ。届けに来てくれてありがとう。助かった」
「お役に立てて良かったです。私はこれで……」
エレベーターの前で桜は足を止める。下りのボタンを押そうとしたが、照に遮られた。
「上だ。社長室まで来てくれ」
「え?」
「新事業を立ち上げているんだが、第三者の意見がほしくてな。少し、力を貸してくれ」
「私でいいんですか? 転職どころか就職したこともないですよ」
「関係ない。さっき、瞬時に社員同士のすれ違いを見抜いていたな」
「そこから見てたんですか⁉」
「受付の前で待ってるはずの君の声が、会議室から聞こえて気になったんだ」
「あっ……」
そうだった。椅子に座って待ってろって言われたんだった……。
「君は人をよく見ている。それに、資料の書き込みを見ただけで、気持ちまで察していた。やはり商人の才能もあるんだな」
私に、商人の才能がある?
桜の胸の奥で萎んでいた自信が、少し膨らむ。
だが、店のSNSの反響が脳裏をよぎり、すぐに萎んでしまう。
……才能があったら、もっと早く店を軌道に乗せられていたはず。
呉林さんの褒め言葉に、いい気になっちゃだめ。
8階の社長室に通され、向かい合わせにソファに座った。
「地方企業への転職を支援する新しいサービスを考えている。詳細までは話せないが、いくつか課題があってな」
照が求人情報のサンプルと、転職希望者へのアンケート結果が記載されている資料を見せてきた。
「私が見ても大丈夫なんですか?」
「この程度なら問題ない。課題のひとつが、これだ」
照がアンケート結果を指差す。
「興味を示す割合は多いが、応募したいという割合は低い。その理由が知りたいんだ」
「でも、私には何の知識もないのでお力になれるか……」
「専門家の意見ならもう聞いた。社内でも何度も議論を重ねているが、客観視できる第三者の感想がほしい」
「感想程度でいいなら」
桜は資料に目を通した。
給与、休日、福利厚生、仕事内容。
知りたい項目はちゃんとあるし、サンプル企業の条件はどれも悪くない。企業の紹介文、職場環境も写真付きで分かりやすいし、実際に働いてる人のコメントもある。やりがいだけじゃなくて、仕事面での大変なこともちゃんと書いてある。
じゃあ、どうして……?
考え込む桜の真剣な表情を、照は柔らかい眼差しで見つめる。
「何か思いついたことはあるか?」
「えっと、仕事内容と企業情報はとても分かりやすくて、転職後のこともリアルに想像しやすいです。ただ……」
「何だ?」
「地方への転職を希望する人が知りたいことは、仕事のことだけじゃないと思うんです」
「どういう意味だ?」
桜は資料から顔を上げる。
「地方に転職するって、仕事だけ変わるわけじゃないですよね。住む場所も、人間関係も、生活も全部変わります。私だったら、仕事が見つかっても、その町でちゃんと暮らしていけるのか不安になると思うんです」
照は顎に指を添えて瞳を細める。
「不安、か」
「その町で暮らしている人の声とか、生活が想像できる情報があったら、少し安心できる気がします」
「なるほど。生活に関する情報か」
照はすぐに手元の資料へ何かを書き込んだ。
「これぐらいしか言えないんですけど、お役に立てましたか?」
「ああ、助かる。やはり、君に聞いて正解だった。君は相手の立場から物を見る力があるな」
「大したことでは……」
「謙遜するな。商売をやる上でも大事なことだ。文具店でもそうだったんじゃないか?」
「それをうまく経営に活用できていたかは、分かりません。でも、お客様が何を探しているのか、どんな商品を求めているのか、考えるのは好きでした」
「顧客のニーズに合わせて売り上げを伸ばしてきたから、5年で赤字を解消できたんじゃないか?」
「それは……」
祖父の店を守るために必死にやってきた5年間を思い返す。
商店街の常連客や、学生たちの喜ぶ顔が思い浮かび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
だが、店のSNSが脳裏をよぎり、桜の表情が曇る。
「けど、私がいなくなっても、お店はうまくいってます。私は経営者として力不足だったんです。だから柚仁たちが代わりに経営をやることになって……」
俯き、両手を膝の上で握り締める。
「何もしないで諦めるのか?」
「でも、もう店は……」
「力不足だというなら、実力を身につければいい」
桜の手から力が抜ける。
そっか。
力不足なら補えばいいんだ。
もっと経営について学んで、自分の力で立てるようにお金も貯めて。
「丸三さんは、どうしたい?」
「私は……」
祖父の顔が脳裏をよぎる。
祖父が入院していた時、約束をした。
『元気になって一緒にお店で働こう。それから、子どももお年寄りも、文房具を通じて交流できるような、みんなの居場所になるお店を作ろう』
祖父と指切りをしたのだが、その数日後に息を引き取った。
一緒にお店に立つ約束は、もう果たせない。
でも、もうひとつの約束まで諦めたくない。
「……もう一度、お店を経営したいです。おじいちゃんと約束した、みんなの居場所になるお店を作りたいんです」
瞳には強い光が宿る。
照の口角が緩み、表情が和らぐ。
「そうか。今度は俺が応援しよう」
「今度は、ですか?」
「……気にするな」
照は視線を逸らす。誤魔化すように立ち上がり、資料を窓際のデスクに置いた。
桜も立ち上がり、すっきり片付けられている社長室を見回す。ちらっとデスクを覗くと、書類やバインダーが乱雑に散らばっている。
「片付けましょうか?」
デスクを指差して尋ねると、照の表情が固まった。
「……いや、いい」
「ですが、キーボードも埋まってて大変じゃないですか?」
照はデスクから桜を遠ざけ、早口で制した。
「これは、散らかっているんじゃない。無秩序に見えるが、秩序がある合理的な置き方をしている。だから、片付けは不要だ」
「そう、ですか」
片付けられない人の言い訳みたい。
仕事はできるのに、生活面抜けててなんだかかわいい。
「ふふっ」
堪えきれず、笑いがこぼれた。
「何かおかしいか?」
「いえ、すみません。気にしないでください」
口元を手で隠し、笑いを抑えるために他の話題を探した。
そういえば、共同経営者の方はどこにいるんだろう?
他の部屋を使っているのかな?
「あの、この会社は共同経営をされているんですよね?」
「調べたのか?」
「どんな会社なのか気になって、つい。在学中に設立して、3年で上場なんて凄すぎです」
「俺ひとりじゃ無理だった。営業や資金集め、他の企業との連携は全部あいつの力だ」
「竹菱さん、ですよね? 信頼しているんですね」
「見た目は胡散臭いし、軽く見えるが、人の懐に入るのが上手い。性格は真逆だが、互いの不足な面を補って会社を発展させていくという利害が一致して、今に至っている」
「素敵な関係ですね」
「そうか? 今は近くにいないからいいが、あいつの騒々しさには時々腹が立つ」
眉間に皺が寄る。冗談ではないみたいだ。
「竹菱さん、今はどちらにいるんですか?」
「新事業のために、全国を回っている」
「しばらく戻らないんですか?」
「あと半年はな」
「半年……」
「戻ってきたら、今度こそあいつには別の住まいを探してもら」
「今度こそ?」
「あいつとは会社がここに移ってから一緒に住んでいる。君が使ってる部屋は、あいつの部屋だ」
「えっ? そうだったんですか!? じゃあ、竹菱さんが戻ってくるまでには住む場所を探して出ていきます」
「急がなくてもいい。あいつの荷物はほとんどないし、戻ってきたら追い出すつもりだ」
「さすがにそれは……」
「どうせそうするつもりだったんだ。それに、丸三さんがいてくれて助かっている。焼きそば、うまかった。また作ってくれないか?」
そんなにおいしかったんだ。
お母さんと柚仁からおいしいなんて言われたことなかったから、嬉しい……。
桜は満面の笑みで、大きく頷いた。
「はい。もちろんです! 他にもリクエストがあったらどんどん言ってくださいね」
「ああ。家に帰るのが楽しみになるな」
照の微笑みから目が離せない。
桜の心臓が小さく跳ねる。
なんでこの人は、欲しい言葉をくれるんだろう。
しかも、普段は無表情なのに、こんな時笑うなんて。
このギャップ反則だよ……。
雇用主だし、私とは住む世界が違う異次元の人なんだから、異性として意識しちゃだめ!
赤くなる頬をパチンと叩き、唇を引き結ぶ。
「もう少しで終わるから、少し待っていてくれないか? 一緒に帰ろう」
「あ、はい……」
一緒に帰ろうって、恋人に言うみたいな言い方……。
だからだめだって、意識したら!
ソファに座って頭を抱えていると、照のスマホが鳴った。
「もしもし。……星菱社長、お世話になっております。ええ、書類届きました。ありがとうございます」
星菱ホールディングスの社長さん?
普通に話してる。やっぱり凄いな。
呉林さんはああ言ってくれたけど、いつまでも迷惑をかけていられない。
目標貯金額決めて、竹菱さんが戻ってくる前に自立しなきゃ。
「……今夜、会食ですか?」
照の声が沈む。
桜の方を見て顔を歪める。
「ご家族も? でしたら、こちらも1人連れていっても構いませんか? ……はい。では、19時にホテルへ伺います。失礼します」
スマホを置いた照は、桜の向かいに腰掛け、気まずそうに口を開いた。
「すまない。予定変更だ」
「会食に行かれるんですか? でしたら呉林さんの夕飯は作らない方がいいですよね」
「君のもだ」
「私のも?」
「会食に同行してくれ」
「私が、ですか?」
「ああ」
「……はい?」
星菱社長との会食に同行?
何で私が?
何考えてるの、この人……?!



