一度マンションに戻り、桜は照から駐車場前で待つよう言われた。
すぐに、一台の車が桜の前に停まる。
艶のあるシルバーカラーのセダン。車に詳しくない桜でも、高級車であることが一目で分かる。
これ、呉林さんの車?
……さすが社長さん。
目を丸くしていると、運転席から照が降りてきて、助手席のドアを開けた。
「乗って」
「いいんですか?」
「買い物をするなら、車の方が合理的だろ」
「……失礼します」
桜はおずおずと助手席に乗り込む。シートベルトをつけたことを確認すると、照はドアを閉めた。
部屋とは違って、タクシーみたいにきれい。
そういえば、何で車があるのにさっきはタクシーを使ったんだろう?
運転席に座って発車させる照の横顔に目を向ける。
桜の視線に気づいた照は、前を向きながら口を開いた。
「安心しろ。安全運転で行く」
「不安に思ってるわけでは……。何でさっき車を使わなかったのかなと思いまして」
「店の前に車を停めたら迷惑だろ。歩いていくのも距離がある。タクシーが合理的だ。車は長距離移動の時だけでいい」
また合理的。
口ぐせなのかな。
長距離移動ってことは、遠くまで行くつもり?
商店街でも十分なんだけど。
しばらく進むと、照は誰もが知る老舗百貨店の駐車場に入り、手際よく駐車した。
何でこんな高級デパート?
そっか。自分の買い物を先にすませるのかも。
だったら、私は待っていた方がいいかな。
車外に出た照は、ドアを開けようとしない桜に怪訝な顔を向け、助手席のドアを開けた。
「何をしている? ここでは不満か?」
「不満? 私が、ですか?」
「ここなら一度に揃うからいいと思ったのだが。行きつけの店があるならそこに行くか?」
「ちょっと待ってください! ここで呉林さんの物を買うんじゃないですか?」
「何でそうなる。君の物を買いに来たんだぞ」
「こんな高級な所で買い物したことなんてないです。もっと安いところで十分です!」
「ここが嫌というわけではないんだな。なら、いい。行くぞ」
「……え?」
照は桜に手を差し出す。
桜はその手を呆然と見つめる。
本当に、ここで買うつもり?
「ほら、早く」
照に促され、桜はその手を取って車を降りた。
「あっ、すみません……」
「いや……」
桜は照の手を離し、一歩後ろをついていった。
照は空いた手を一瞬見つめ、ポケットにしまった。
照はエレベーター横のフロアマップを見て、婦人服売場に向かった。
各店の女性スタッフたちが、丁寧にお辞儀をする。
顔を上げた瞬間、照に目を向け、うっすらと頬を染める。
各店の服を見ながら歩く照の背中を見上げて、桜は内心頷いた。
モテるんだろうな、この人。
彼女、いないのかな。
ちょっと待って。
仕事とはいえ、一緒に住むってことだよね?
もし彼女いるんだったら、まずい気が……。
いや、でも、まさか彼女いるのに、私を住み込み家政婦にはしないよね?
「これなんかどうだ?」
「えっ?」
近くの店の服を手に取った照が、桜に見せてきた。
「これ、ですか?」
バラの繊細なレースが印象的なネイビーのワンピース。
こんなの、いつ着るの?
「気に入らないか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて。こんな良い服、普段着と仕事で使えません」
「それもそうか」
照は近くの店舗に移動した。
「これなら、いいんじゃないか」
動きやすそうなシンプルなTシャツを指差した。
「そうですね。これなら……ん?!」
襟元の値札を思わず二度見してしまった。
想定よりも0がひとつ多い。
こんな高価なTシャツ、見たことない!
「うそ……」
桜は絶句して、Tシャツをそっと元に戻した。
「好みじゃなかったか?」
「そうではなくて、高すぎるんです! こんな良い服、たかが家政婦のために買っちゃだめですよ」
「たかが、ではない。君は我が社の社員と同じだ」
「社員、ですか?」
「雇用主には、社員が快適に仕事をできる環境を整える責任がある。 それに、良質な製品は長く使える。値段は見るな。好みと機能性で判断しろ」
値段は見るな、なんて初めて言われた……。
私にこの値段のものを与える価値があるって思ってくれてるってこと?
まだ働いてもいないのに、どうして……?
照はさっきのTシャツを取って腕にかけた。
「これは決まりだな。このジーンズ、動きやすそうだ。試着してみるか?」
「え、えっと……」
値段のことが頭から離れない桜は目を泳がせる。
店員がさっと近づき、声をかけてきた。
「人気の商品なんですよ。ぜひ、ご試着してみてください」
「でも、私に似合うか……」
「俺は似合うと思うが」
「そうですか?」
「着てみたらいい。試着、お願いします」
「はい、かしこまりました。こちらへどうぞ」
「えっ……」
断り切れず、桜は言われるがまま店員についていった。
「サイズはいかがですか?」
試着室に入って着替えていると、カーテンの外から店員が尋ねてきた。
「ちょうどいいです」
カーテンを開けて返事をすると、店員の横に照が立っていた。桜をまじまじと見つめ、満足げに頷いた。
「うん、似合ってる」
表情を変えずにさらりと言われ、桜は気恥ずかしくなる。
「あ、ありがとうございます」
「こちら、どうされますか?」
「これも決まりだ」
私より迷いがない……。
履き替えて店員に渡すと、満面の笑みを浮かべて桜に囁いた。
「素敵な彼氏さんですね」
「ち、違います!」
桜は顔を赤くして首を横に振った。
「失礼しました。早とちりをしてしまって、申し訳ございません」
「いえ……」
呉林さんが彼氏だなんて。
私なんかじゃ、釣り合わなさすぎる。
きっと、美人で仕事のできる彼女がいるんじゃないかな。
あっ! いたらまずいんだった。
ちゃんと確認しておかなきゃ。
「あの、呉林さん」
「何だ?」
桜よりも積極的に服を見ている照は、手を止めずに一瞬桜へ目線を動かした。
「お付き合いしている方、いらっしゃいませんか?」
照の手が止まる。
眉を寄せ、桜を見下ろした。
「……なぜ、そんなことを聞く?」
「彼女さんがいらっしゃったら、私が住み込みで家政婦をしていたら気を悪くされるのではと思いまして」
照は呆れたような安堵したような溜息をつき、真摯な眼差しを桜に向けた。
「そんな人はいないから、気にするな」
「そう、ですか。なら、良かったです」
桜は胸を撫で下ろし、微笑んだ。
「余計なことを考えていないで、早く選ぶぞ」
「あ、はい!」
その後も照は値札を見ることなく、桜の服を選び続けた。最低限の着替えだけのつもりだったはずが、いつの間にか照の両手にはいくつもの紙袋が提げられている。
桜の手にはランジェリーショップの紙袋ひとつだけ。
照には店の外で待っていてもらったが、支払いの時にはレジに来て、桜が遠慮する前に照はすかさずカードを出して支払いを済ませてしまった。
一体いくら使ったんだろう……。
恩を返せるほどの働きをしないと。
紙袋の取っ手を握り締め、桜は決意を新たにした。
「もう昼だな。何か食べていくか」
「それなら、私が作ります」
「ここで食べた方が楽じゃないか? 君も疲れただろ」
桜は照の前に進み出て、瞳に力を込めた。
「疲れてません。こんなに買ってもらって、食事までご馳走になるわけにはいきません。そろそろ家政婦として働かせてください!」
「……あ、ああ」
照は目を見開き、たじろぎながら頷いた。
「大した物は作れないんですけど、何かリクエストはありますか? 好きな食べ物とか?」
「……焼きそば」
意外に庶民的な物が好きなんだ。
でも、焼きそばは小学生の時から作ってきたから一番自信がある。
「任せてください!」
桜は胸を張って自信に満ちた表情を浮かべる。
「だが、家には食材がない」
「そういえば。なら、スーパーで買いましょう」
「スーパー?」
「マンションの近くに、大きなスーパーがあったはずです。行きましょう!」
桜は意気込んで駐車場に向かう。
「また、食べられる日が来るとはな……」
照の口元が緩む。
その呟きは、先を歩く桜の耳には届かなかった。
「何だ、この人の多さは……」
一歩スーパーの中に踏み入れた照は、人でごった返している店内に思わず顔をしかめた。
「呉林さん、行きますよ」
「……ああ」
桜は手慣れた様子で、買い物かごを2つ乗せたカートを押していく。
騒然としている店内には軽快な音楽と呼び込みの音声が流れ、人々の話し声が意味を成さない雑音として響いている。
狭い通路を、桜はぶつからないよう巧みに避けていく。
だが、照は何度かすれ違いざまに肩がぶつかり、徐々に眉間の皺が深くなる。
さっきまでいた百貨店が別世界のようだ。
「まずは野菜ですね。キャベツは……」
桜がキャベツを選んでいる間、照は辺りを見回し、カットされたキャベツが入っている袋をカゴに入れた。
「これいいだろ」
「だめです!」
「だめ? 何でだ」
「これじゃあ、一回分しか作れないじゃないですか。それに、値段みてください」
「198円……。安すぎる」
「安くないです! キャベツ半玉より高いんですよ」
「その分、切る手間が省けるからいいじゃないか」
「大した手間じゃないです。カットされてない方を買うので、これは戻してきてください」
「たかが数十円の違いだ。楽な方を選べばいい。時は金なり、だ。数十円多く払えば時間を短縮できるんだぞ」
経営者らしい考え方だ。
でも、呉林さんは数字しか見ていない。
桜は固い表情で照を見上げた。
「私は、カットされたものより、されてないものの方が値段の価値は上だと思っています」
「なぜ?」
「芯があるからです」
「芯? 捨てるものだろ」
「いいえ。芯だって食べられますよ。塩もみして浅漬けにしたり、他の野菜の皮と一緒に煮出して出汁にしたりできるんです」
「そんな使い道があるのか」
「はい。なので、切る手間を省くために値段を上乗せして買うのは、私にはもったいないと思ってしまうんです」
「……なるほど。理解した」
納得したように頷き、カットキャベツの袋を棚に戻した。
キャベツ半玉をカゴに入れた桜はカートを押して歩き出す。
「じゃあ、次行きましょう。あとは人参と、今後のために玉ねぎとじゃがいもも必要ですね」
桜はひとつひとつ吟味しながらカゴに入れていく。
照は口を出さずにその様子を観察するようにじっと見る。
「あの、そんなに見られると買いづらいんですけど」
「気にするな」
「そう言われましても……」
視線がすっごく気になる。
しかも、周りの人たちからも見られてるし。
高級スーツを着たイケメンがスーパーって、かなり目立つよね……。
さっきのデパートより、居心地が悪すぎる。
早く買い物終わらせないと。
桜はてきぱきと動いて、あっという間にカゴ2つ分をいっぱいにして買い物を終わらせた。
照のマンションに戻り、10分ほどで焼きそばを作り上げた。
「できましたよ」
テーブルの上に、焼きそばが盛られた皿を2つ置く。
「手際が良いな」
「普段からやっていることなので。それに、焼きそばは一番得意なんです。お口に合うといいのですが」
焼きそばから上がる湯気が、ソースの香りを運ぶ。
照は目を細め、香りを吸い込む。
「……懐かしい匂いだ」
懐かしい?
好きな物なのに、普段は食べてないのかな。
「いただきます」
背筋を伸ばして両手を合わせ、照は箸を取る。
一口すすり、ゆっくりと噛みしめる。
伏せた長いまつげが、ほんの少し揺れる。
「どう、ですか?」
桜がおそるおそる尋ねる。
照は目を上げ、桜を見据える。
だが、その瞳は焦点が合っていない。
桜を見ているようで見ていない。
まるで遠くの何かに思いを馳せているようだ。
「呉林さん?」
問いかけると、照は我に返り、桜に焦点を合わせた。
「……すまない。おいしすぎて、我を忘れていた」
ふっと表情が緩み、自然な笑みが浮かぶ。
笑ってる?
こんなふうに笑うんだ……。
桜は瞬きもせず照の笑顔をじっと見つめる。
貴重なシーンを見たようで、目を離すのがもったいない。
「食べないのか? 冷めてしまうぞ」
「は、はい! 食べます!」
桜は慌てて箸を取って食べ始める。
照はあっという間に食べ終わり、テーブルに肘をついて、焼きそばを頬張る桜を眺めた。
またその視線。
食べづらいよ……。
あ、そうだ。聞きたいことがあるんだった。
「呉林さん、エコバッグ持ってますか?」
「いや、ない」
「そう、ですよね。あの、買ってもいいですか?」
「必要だと思うなら買ってくれ。カードを渡しておく」
「分かりました。ありがとうございます」
「また、スーパーに行くのか?」
「今度からは1人で行くので、お付き合いいただかなくても大丈夫です」
「1人で重いものを運ぶのは大変だろう。あのスーパーはネットでも注文できると広告が貼ってあったぞ」
「体力には自信があるんで、大丈夫です! それに、やっぱり直接見て自分で選びたいんです。呉林さんには良い物を食べていただきたいので」
照は一瞬瞳を丸くし、桜から視線をずらしてそっぽを向いた。
「……期待している」
ぽつりと零された言葉が、桜の胸をくすぐる。
おじいちゃん以外の人に、初めて言われた……。
呉林さんの期待に応えたい。
恩を返して、きちんとお礼がしたい。
「頑張ります!」
桜は晴れやかな笑顔を浮かべる。
照はその笑顔から目を離すことができなかった。
「……変わらないな」
「え?」
照は懐かしむように目を細めた。
「焼きそばも、笑った顔も」
「それって、どういう……」
尋ねようとした瞬間、照はふいっと顔を逸らした。
「いや、何でもない」
何でもないって顔じゃなかったけど……。
それ以上聞くことができず、桜は首を傾げる。
照はもう一度、空になった皿に目を落とした。
過去を懐かしんでいるだけではないようなその眼差しに、桜の胸が小さく揺れた。
すぐに、一台の車が桜の前に停まる。
艶のあるシルバーカラーのセダン。車に詳しくない桜でも、高級車であることが一目で分かる。
これ、呉林さんの車?
……さすが社長さん。
目を丸くしていると、運転席から照が降りてきて、助手席のドアを開けた。
「乗って」
「いいんですか?」
「買い物をするなら、車の方が合理的だろ」
「……失礼します」
桜はおずおずと助手席に乗り込む。シートベルトをつけたことを確認すると、照はドアを閉めた。
部屋とは違って、タクシーみたいにきれい。
そういえば、何で車があるのにさっきはタクシーを使ったんだろう?
運転席に座って発車させる照の横顔に目を向ける。
桜の視線に気づいた照は、前を向きながら口を開いた。
「安心しろ。安全運転で行く」
「不安に思ってるわけでは……。何でさっき車を使わなかったのかなと思いまして」
「店の前に車を停めたら迷惑だろ。歩いていくのも距離がある。タクシーが合理的だ。車は長距離移動の時だけでいい」
また合理的。
口ぐせなのかな。
長距離移動ってことは、遠くまで行くつもり?
商店街でも十分なんだけど。
しばらく進むと、照は誰もが知る老舗百貨店の駐車場に入り、手際よく駐車した。
何でこんな高級デパート?
そっか。自分の買い物を先にすませるのかも。
だったら、私は待っていた方がいいかな。
車外に出た照は、ドアを開けようとしない桜に怪訝な顔を向け、助手席のドアを開けた。
「何をしている? ここでは不満か?」
「不満? 私が、ですか?」
「ここなら一度に揃うからいいと思ったのだが。行きつけの店があるならそこに行くか?」
「ちょっと待ってください! ここで呉林さんの物を買うんじゃないですか?」
「何でそうなる。君の物を買いに来たんだぞ」
「こんな高級な所で買い物したことなんてないです。もっと安いところで十分です!」
「ここが嫌というわけではないんだな。なら、いい。行くぞ」
「……え?」
照は桜に手を差し出す。
桜はその手を呆然と見つめる。
本当に、ここで買うつもり?
「ほら、早く」
照に促され、桜はその手を取って車を降りた。
「あっ、すみません……」
「いや……」
桜は照の手を離し、一歩後ろをついていった。
照は空いた手を一瞬見つめ、ポケットにしまった。
照はエレベーター横のフロアマップを見て、婦人服売場に向かった。
各店の女性スタッフたちが、丁寧にお辞儀をする。
顔を上げた瞬間、照に目を向け、うっすらと頬を染める。
各店の服を見ながら歩く照の背中を見上げて、桜は内心頷いた。
モテるんだろうな、この人。
彼女、いないのかな。
ちょっと待って。
仕事とはいえ、一緒に住むってことだよね?
もし彼女いるんだったら、まずい気が……。
いや、でも、まさか彼女いるのに、私を住み込み家政婦にはしないよね?
「これなんかどうだ?」
「えっ?」
近くの店の服を手に取った照が、桜に見せてきた。
「これ、ですか?」
バラの繊細なレースが印象的なネイビーのワンピース。
こんなの、いつ着るの?
「気に入らないか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて。こんな良い服、普段着と仕事で使えません」
「それもそうか」
照は近くの店舗に移動した。
「これなら、いいんじゃないか」
動きやすそうなシンプルなTシャツを指差した。
「そうですね。これなら……ん?!」
襟元の値札を思わず二度見してしまった。
想定よりも0がひとつ多い。
こんな高価なTシャツ、見たことない!
「うそ……」
桜は絶句して、Tシャツをそっと元に戻した。
「好みじゃなかったか?」
「そうではなくて、高すぎるんです! こんな良い服、たかが家政婦のために買っちゃだめですよ」
「たかが、ではない。君は我が社の社員と同じだ」
「社員、ですか?」
「雇用主には、社員が快適に仕事をできる環境を整える責任がある。 それに、良質な製品は長く使える。値段は見るな。好みと機能性で判断しろ」
値段は見るな、なんて初めて言われた……。
私にこの値段のものを与える価値があるって思ってくれてるってこと?
まだ働いてもいないのに、どうして……?
照はさっきのTシャツを取って腕にかけた。
「これは決まりだな。このジーンズ、動きやすそうだ。試着してみるか?」
「え、えっと……」
値段のことが頭から離れない桜は目を泳がせる。
店員がさっと近づき、声をかけてきた。
「人気の商品なんですよ。ぜひ、ご試着してみてください」
「でも、私に似合うか……」
「俺は似合うと思うが」
「そうですか?」
「着てみたらいい。試着、お願いします」
「はい、かしこまりました。こちらへどうぞ」
「えっ……」
断り切れず、桜は言われるがまま店員についていった。
「サイズはいかがですか?」
試着室に入って着替えていると、カーテンの外から店員が尋ねてきた。
「ちょうどいいです」
カーテンを開けて返事をすると、店員の横に照が立っていた。桜をまじまじと見つめ、満足げに頷いた。
「うん、似合ってる」
表情を変えずにさらりと言われ、桜は気恥ずかしくなる。
「あ、ありがとうございます」
「こちら、どうされますか?」
「これも決まりだ」
私より迷いがない……。
履き替えて店員に渡すと、満面の笑みを浮かべて桜に囁いた。
「素敵な彼氏さんですね」
「ち、違います!」
桜は顔を赤くして首を横に振った。
「失礼しました。早とちりをしてしまって、申し訳ございません」
「いえ……」
呉林さんが彼氏だなんて。
私なんかじゃ、釣り合わなさすぎる。
きっと、美人で仕事のできる彼女がいるんじゃないかな。
あっ! いたらまずいんだった。
ちゃんと確認しておかなきゃ。
「あの、呉林さん」
「何だ?」
桜よりも積極的に服を見ている照は、手を止めずに一瞬桜へ目線を動かした。
「お付き合いしている方、いらっしゃいませんか?」
照の手が止まる。
眉を寄せ、桜を見下ろした。
「……なぜ、そんなことを聞く?」
「彼女さんがいらっしゃったら、私が住み込みで家政婦をしていたら気を悪くされるのではと思いまして」
照は呆れたような安堵したような溜息をつき、真摯な眼差しを桜に向けた。
「そんな人はいないから、気にするな」
「そう、ですか。なら、良かったです」
桜は胸を撫で下ろし、微笑んだ。
「余計なことを考えていないで、早く選ぶぞ」
「あ、はい!」
その後も照は値札を見ることなく、桜の服を選び続けた。最低限の着替えだけのつもりだったはずが、いつの間にか照の両手にはいくつもの紙袋が提げられている。
桜の手にはランジェリーショップの紙袋ひとつだけ。
照には店の外で待っていてもらったが、支払いの時にはレジに来て、桜が遠慮する前に照はすかさずカードを出して支払いを済ませてしまった。
一体いくら使ったんだろう……。
恩を返せるほどの働きをしないと。
紙袋の取っ手を握り締め、桜は決意を新たにした。
「もう昼だな。何か食べていくか」
「それなら、私が作ります」
「ここで食べた方が楽じゃないか? 君も疲れただろ」
桜は照の前に進み出て、瞳に力を込めた。
「疲れてません。こんなに買ってもらって、食事までご馳走になるわけにはいきません。そろそろ家政婦として働かせてください!」
「……あ、ああ」
照は目を見開き、たじろぎながら頷いた。
「大した物は作れないんですけど、何かリクエストはありますか? 好きな食べ物とか?」
「……焼きそば」
意外に庶民的な物が好きなんだ。
でも、焼きそばは小学生の時から作ってきたから一番自信がある。
「任せてください!」
桜は胸を張って自信に満ちた表情を浮かべる。
「だが、家には食材がない」
「そういえば。なら、スーパーで買いましょう」
「スーパー?」
「マンションの近くに、大きなスーパーがあったはずです。行きましょう!」
桜は意気込んで駐車場に向かう。
「また、食べられる日が来るとはな……」
照の口元が緩む。
その呟きは、先を歩く桜の耳には届かなかった。
「何だ、この人の多さは……」
一歩スーパーの中に踏み入れた照は、人でごった返している店内に思わず顔をしかめた。
「呉林さん、行きますよ」
「……ああ」
桜は手慣れた様子で、買い物かごを2つ乗せたカートを押していく。
騒然としている店内には軽快な音楽と呼び込みの音声が流れ、人々の話し声が意味を成さない雑音として響いている。
狭い通路を、桜はぶつからないよう巧みに避けていく。
だが、照は何度かすれ違いざまに肩がぶつかり、徐々に眉間の皺が深くなる。
さっきまでいた百貨店が別世界のようだ。
「まずは野菜ですね。キャベツは……」
桜がキャベツを選んでいる間、照は辺りを見回し、カットされたキャベツが入っている袋をカゴに入れた。
「これいいだろ」
「だめです!」
「だめ? 何でだ」
「これじゃあ、一回分しか作れないじゃないですか。それに、値段みてください」
「198円……。安すぎる」
「安くないです! キャベツ半玉より高いんですよ」
「その分、切る手間が省けるからいいじゃないか」
「大した手間じゃないです。カットされてない方を買うので、これは戻してきてください」
「たかが数十円の違いだ。楽な方を選べばいい。時は金なり、だ。数十円多く払えば時間を短縮できるんだぞ」
経営者らしい考え方だ。
でも、呉林さんは数字しか見ていない。
桜は固い表情で照を見上げた。
「私は、カットされたものより、されてないものの方が値段の価値は上だと思っています」
「なぜ?」
「芯があるからです」
「芯? 捨てるものだろ」
「いいえ。芯だって食べられますよ。塩もみして浅漬けにしたり、他の野菜の皮と一緒に煮出して出汁にしたりできるんです」
「そんな使い道があるのか」
「はい。なので、切る手間を省くために値段を上乗せして買うのは、私にはもったいないと思ってしまうんです」
「……なるほど。理解した」
納得したように頷き、カットキャベツの袋を棚に戻した。
キャベツ半玉をカゴに入れた桜はカートを押して歩き出す。
「じゃあ、次行きましょう。あとは人参と、今後のために玉ねぎとじゃがいもも必要ですね」
桜はひとつひとつ吟味しながらカゴに入れていく。
照は口を出さずにその様子を観察するようにじっと見る。
「あの、そんなに見られると買いづらいんですけど」
「気にするな」
「そう言われましても……」
視線がすっごく気になる。
しかも、周りの人たちからも見られてるし。
高級スーツを着たイケメンがスーパーって、かなり目立つよね……。
さっきのデパートより、居心地が悪すぎる。
早く買い物終わらせないと。
桜はてきぱきと動いて、あっという間にカゴ2つ分をいっぱいにして買い物を終わらせた。
照のマンションに戻り、10分ほどで焼きそばを作り上げた。
「できましたよ」
テーブルの上に、焼きそばが盛られた皿を2つ置く。
「手際が良いな」
「普段からやっていることなので。それに、焼きそばは一番得意なんです。お口に合うといいのですが」
焼きそばから上がる湯気が、ソースの香りを運ぶ。
照は目を細め、香りを吸い込む。
「……懐かしい匂いだ」
懐かしい?
好きな物なのに、普段は食べてないのかな。
「いただきます」
背筋を伸ばして両手を合わせ、照は箸を取る。
一口すすり、ゆっくりと噛みしめる。
伏せた長いまつげが、ほんの少し揺れる。
「どう、ですか?」
桜がおそるおそる尋ねる。
照は目を上げ、桜を見据える。
だが、その瞳は焦点が合っていない。
桜を見ているようで見ていない。
まるで遠くの何かに思いを馳せているようだ。
「呉林さん?」
問いかけると、照は我に返り、桜に焦点を合わせた。
「……すまない。おいしすぎて、我を忘れていた」
ふっと表情が緩み、自然な笑みが浮かぶ。
笑ってる?
こんなふうに笑うんだ……。
桜は瞬きもせず照の笑顔をじっと見つめる。
貴重なシーンを見たようで、目を離すのがもったいない。
「食べないのか? 冷めてしまうぞ」
「は、はい! 食べます!」
桜は慌てて箸を取って食べ始める。
照はあっという間に食べ終わり、テーブルに肘をついて、焼きそばを頬張る桜を眺めた。
またその視線。
食べづらいよ……。
あ、そうだ。聞きたいことがあるんだった。
「呉林さん、エコバッグ持ってますか?」
「いや、ない」
「そう、ですよね。あの、買ってもいいですか?」
「必要だと思うなら買ってくれ。カードを渡しておく」
「分かりました。ありがとうございます」
「また、スーパーに行くのか?」
「今度からは1人で行くので、お付き合いいただかなくても大丈夫です」
「1人で重いものを運ぶのは大変だろう。あのスーパーはネットでも注文できると広告が貼ってあったぞ」
「体力には自信があるんで、大丈夫です! それに、やっぱり直接見て自分で選びたいんです。呉林さんには良い物を食べていただきたいので」
照は一瞬瞳を丸くし、桜から視線をずらしてそっぽを向いた。
「……期待している」
ぽつりと零された言葉が、桜の胸をくすぐる。
おじいちゃん以外の人に、初めて言われた……。
呉林さんの期待に応えたい。
恩を返して、きちんとお礼がしたい。
「頑張ります!」
桜は晴れやかな笑顔を浮かべる。
照はその笑顔から目を離すことができなかった。
「……変わらないな」
「え?」
照は懐かしむように目を細めた。
「焼きそばも、笑った顔も」
「それって、どういう……」
尋ねようとした瞬間、照はふいっと顔を逸らした。
「いや、何でもない」
何でもないって顔じゃなかったけど……。
それ以上聞くことができず、桜は首を傾げる。
照はもう一度、空になった皿に目を落とした。
過去を懐かしんでいるだけではないようなその眼差しに、桜の胸が小さく揺れた。



