「……どうしてあそこにいたんですか?」
照は足を止め、桜を振り返った。
「家まで送ると言っただろう」
「あのまま、戻られたんだと思ってました」
「呼び止めたんだが、先に行ってしまったからな」
「すみません、全然気づきませんでした……」
「いや。追いついた時には店に着いていたから去ろうと思ったんだが、揉めている様子だったから口を挟んでしまった」
桜は俯き、写真立てと前掛けを抱く手に力を込める。
「……話し合いにすらならなかったです。おじいちゃんが大切にしてきたのはお店だけじゃないっていうのを、妹と母にも分かってもらいたかったのですが、説得できませんでした」
涙をこらえて顔を上げ、無理やり笑顔を浮かべた。
「もうあのお店には、私は必要ないみたいです」
照は眉間に皺を寄せ、桜を見下ろした。
「なぜ笑う?」
「え?」
「無理して笑わなくてもいいんじゃないか」
「無理してるわけじゃ……」
「じゃあ、嬉しいのか?」
「そんなわけないです!」
「なら、笑わないだろう。本当は、どう思ってるんだ?」
ストレートな問いに、桜の胸の中がざわつく。
どうしてそんなこと気にするの?
笑顔で隠した本音を掘り起こして何がしたいの?
桜は険しい表情で照を見上げた。
「そんなこと、あなたには関係ありませんよね?」
「……怒っているのか? 俺に?」
怒ってる?
呉林さんに?
……違う。
なら、柚仁、母、昭広さんに?
それもあるけど、一番腹が立つのは、おじいちゃんとの約束を守れなかった自分だ。
写真の中で笑っている祖父の顔を見ていると、涙が溢れてくる。
悔しい。
不甲斐ない。
やるせない。
何もできずに店を出てきた自分の弱さが嫌になる。
「泣きたい時は泣けばいい。笑うのはその後でいいんじゃないか」
照の長い指が、桜の頬を流れる涙を拭う。
祖父の言ってくれたことと似たような台詞に、桜は驚いて目を見開く。
おじいちゃんと同じだ。
どうしてこの人は、欲しい言葉をくれるの?
こんな時にそんなふうに言われたら、もう感情を堪えきれない。
「うっ……、ううっ」
噛み締めた唇の隙間から嗚咽が漏れる。
次から次へと涙が溢れ出して止められない。
照は泣きじゃくる桜を人目から隠すように、建物の脇へそっと誘導した。
桜にハンカチを渡すと、涙が止まるまで何も言わず寄り添った。
しばらくしてようやく涙が止まると、恥ずかしさと申し訳なさが一気に押し寄せ、桜は深く顔を下げた。
「ご迷惑ばかりおかけして、本当にすみません……」
「いや、気にするな。落ち着いたか?」
「はい。おかげさまで。ハンカチ、洗ってお返しします」
「安物だ。捨てて構わない」
「そういうわけにはいきません!」
「なら、もらってくれ」
涙で濡れたハンカチに目を落とし、桜は頷いた。
こんなに汚れたハンカチ、返されても困るよね……。
呉林さんに会ってから迷惑しかかけてない……。
「喉、乾いてないか?」
「はい?」
「あそこの喫茶店、行くぞ」
照は向かいの喫茶店を指さし、歩き出す。
桜は広い背中を慌てて追いかけた。
ゆったりとしたBGMが流れる店内に入ると、顔見知りのマスターが気さくに声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。あ、桜ちゃん。お店、改装してるんだって?」
「あ、えっと、はい」
「改装終わったらまた買いに行くから。えっと、隣の方はお連れさん?」
「そうです」
「へえ。あっ、もしかして、彼氏?」
にんまりと笑うマスターに、桜は大げさに首を振った。
「ち、違います! そんなわけないじゃないですか!」
「……嫌そうだな」
照が低く呟くが、桜の耳には届かない。
「違うのか。桜ちゃんが男性といるの珍しいから勘違いしちゃったよ。奥の方空いてるから、座って」
奥の席に座り、桜はふうと息を吐き出した。
「なんかすみません。変な誤解されちゃって」
「変というわけではないが。……何にする?」
照は口ごもり、メニューを桜に見せた。桜はメニューを見るまでもなく、即答した。
「クリームソーダにします」
「クリームソーダ?」
「子供の時からここのクリームソーダが大好きで」
「なら、俺も同じものにしよう」
「呉林さんも、ですか?」
「悪いか?」
「悪くはないですけど、ギャップが……」
おしゃれにシャツを着こなしている照にクリームソーダが合わなすぎて、桜は思わず口元が緩みそうになる。
「すみません、注文を」
照はメニューをしまってマスターを呼ぶと、さらりとクリームソーダを2つ注文した。マスターは驚きながら、カウンターの奥に姿を消した。
「コーヒーもおいしいんですよ?」
「さく……丸三さんが子供の頃からずっと好きだということは、よっぽどうまいんだろ。コーヒーは今度にする」
「おいしいですけど、けっこう甘いですよ? 甘いのお好きですか?」
「どちらかというと、そうでもないが」
「だったらコーヒーに変えてもらいましょう。本当に甘いですよ」
「いや、いい。せっかくだ。飲んでみたい」
「そう、ですか」
なんだか読めない人……。
私に合わせてくれてる?
でも、無理してる様子はないし。
呉林さんがよく分かんない……。
すぐにマスターがクリームソーダを2つ運んできてくれ、桜はストローに口をつけた。
シュワシュワのサイダーとクリームの甘さが口いっぱいに広がり、喉を潤す。
甘くておいしい。
呉林さん、大丈夫かな?
照は固い表情でストローから口を離し、水を飲んでいる。
……大丈夫じゃなさそう。
「やっぱり、甘すぎたんじゃないですか?」
「いや、クリームソーダはこういうものだろう。……うまい」
こんなに感情のこもってない「うまい」、初めて聞いた。
明らかに無理してる。
コーヒーにしたら良かったのに。
グラスの中で弾ける炭酸をじっと見つめる照は、意を決したようにもう一度ストローで吸い込む。
わずかに眉を寄せ、またすぐに水を飲んだ。
クリームソーダに苦戦する姿がおかしくて、自分でも気づかないうちに笑みがこぼれた。
「ふふっ。呉林さん、無理しないでくださいね」
「……笑えるようになったか」
「え?」
自分の頬に手を添え、桜ははっとした。
私、今笑ってた?
さっきまで泣いてたのに。
子供みたいで恥ずかしい……。
「文具店はあれでいいのか?」
「それは……」
桜は椅子の上に置いた写真を見てから、接客中のマスターに視線を移した。
「マスターはうちのお店のお得意様なんです。商店街には他にもお得意様がたくさんいらっしゃるんです。こうしてお互いの店を行き来して、情報交換したり、支え合ったりして生活してきたんです。柚仁たちにもそれを分かってほしかったのですが……」
スプーンでグラスの中をかき混ぜながら、桜は沈んだ声を出した。
「おじいちゃんのやり方を守りたいと言い続けても、妹たちには通じません。……でも、おじいちゃんとの約束を諦めたくないんです」
「なら、どうするんだ?」
「今の私では力不足です。また店に戻っても同じことになるかもしれません。しばらく家から離れて、具体的にどうするか少し考えようかなって……」
「ホテルでも探すつもりか?」
「お恥ずかしながら、貯金がほとんどなくてネットカフェとか安いところじゃないと泊まれないんです」
「金も住む場所もない、この先の計画もまだない、か」
「はっきり言わないでくださいよ……。その通りですけど」
「ふむ」
照は少しの間目を伏せ、考え込む。
桜がクリームソーダを飲み終わると同時に、桜と目を合わせた。
「俺が住み込みの家政婦として雇おう」
「はい?」
「俺は家事に時間を使いたくない。散らかっていても気にならなかったが、今朝片付けてもらって久しぶりにきれいな部屋で過ごせた。やはり、家事をする人間が必要かと思っていたところなんだ」
「ですが……」
「家政婦として働いてくれたら、住む場所、金の問題は解決できる。食事も三食保証しよう。俺との利害は一致している。どうだ?」
「魅力的なお誘いなのですが、お給料をもらえるほど家事ができるわけではありません。家事代行を頼んだ方がいいと思います」
「俺のいない間に、他人を家に入れる気になれない」
「私も他人ですよね?」
「もう知り合いだろ? 一泊したんだから」
「それは、まあ、そうですけど」
「それに、丸三さんの家事の才能には給金を支払う価値がある」
「どうして言いきれるんですか?」
「俺は人を見る目がある。上場企業の社長は伊達じゃないぞ」
「え? 社長?! しかも上場企業の?!」
「まだ言ってなかったか」
「聞いてません!」
……私、呉林さんについて何も知らない。
昨日、道端で会っただけなんだから、当然だけど。
住み込み家政婦、今の私には願ってもないことだけど、よく考えもせずに答えるわけには……。
「月25万でどうだ?」
「そ、そんなに?! あっ、そこから家賃と食費が抜かれるとか?」
「家賃はいらない。食費は必要経費だ。俺のと君の2人分を作ってくれたらいい」
「えっ? それじゃ、呉林さんは損じゃないですか?」
「いや、そんなことはない。住み込みで家事全般を任せるなら、妥当な額だろう」
即答。
私の家事能力なんて一般レベルなのに……。
「あの、お仕事の内容や勤務時間はどうなるんですか?」
「掃除、洗濯、食事の用意だ。時間は相談して決めよう。契約書も用意する」
「契約書?」
「当然だろう。仕事として頼むんだからな」
「……何で、こんなによくしてくれるんですか?」
「丸三さんだからだ」
じっと見つめられ、桜は視線を逸らした。
同情、してくれてるのかな。
優しい人だもんね。
合理的って言いながら、一晩泊めてくれたし。
さっきも用事があるからついでだって言ってたのに、お店まで追いかけてきて、話を聞いてくれた。
呉林さんは私の意思を尊重してくれる。
……呉林さんのこと、信じてみようかな。
桜は顔を上げ、照の顔を真っすぐ見つめる。
「呉林さん、住み込み家政婦のお話、お受けします。至らない点もあるかと思いますが、よろしくお願いします」
照は一瞬目を見開く。
自然に口角が上がり、表情が緩む。
「ああ。よろしく」
……また、笑った。
表情のギャップに桜の心がくすぐられる。
何で嬉しそうなんだろう。
やっぱり、考えてることが読めない。
家政婦になるなら、呉林さんのことこれから知っていかなきゃ。
「家には戻りづらいだろ。身の回りの必要なもの、揃えに行くぞ」
「一緒に、ですか?」
「雇用主としての責任だ」
「ですが、私あんまりお金なくて。着替えぐらいは家から持ってきますので」
「金は俺が出す。必要経費だ。早く行くぞ」
「あっ、待ってください!」
桜は慌てて写真立てと前掛けを持ち、レジに向かう照の後を追いかけた。
照は足を止め、桜を振り返った。
「家まで送ると言っただろう」
「あのまま、戻られたんだと思ってました」
「呼び止めたんだが、先に行ってしまったからな」
「すみません、全然気づきませんでした……」
「いや。追いついた時には店に着いていたから去ろうと思ったんだが、揉めている様子だったから口を挟んでしまった」
桜は俯き、写真立てと前掛けを抱く手に力を込める。
「……話し合いにすらならなかったです。おじいちゃんが大切にしてきたのはお店だけじゃないっていうのを、妹と母にも分かってもらいたかったのですが、説得できませんでした」
涙をこらえて顔を上げ、無理やり笑顔を浮かべた。
「もうあのお店には、私は必要ないみたいです」
照は眉間に皺を寄せ、桜を見下ろした。
「なぜ笑う?」
「え?」
「無理して笑わなくてもいいんじゃないか」
「無理してるわけじゃ……」
「じゃあ、嬉しいのか?」
「そんなわけないです!」
「なら、笑わないだろう。本当は、どう思ってるんだ?」
ストレートな問いに、桜の胸の中がざわつく。
どうしてそんなこと気にするの?
笑顔で隠した本音を掘り起こして何がしたいの?
桜は険しい表情で照を見上げた。
「そんなこと、あなたには関係ありませんよね?」
「……怒っているのか? 俺に?」
怒ってる?
呉林さんに?
……違う。
なら、柚仁、母、昭広さんに?
それもあるけど、一番腹が立つのは、おじいちゃんとの約束を守れなかった自分だ。
写真の中で笑っている祖父の顔を見ていると、涙が溢れてくる。
悔しい。
不甲斐ない。
やるせない。
何もできずに店を出てきた自分の弱さが嫌になる。
「泣きたい時は泣けばいい。笑うのはその後でいいんじゃないか」
照の長い指が、桜の頬を流れる涙を拭う。
祖父の言ってくれたことと似たような台詞に、桜は驚いて目を見開く。
おじいちゃんと同じだ。
どうしてこの人は、欲しい言葉をくれるの?
こんな時にそんなふうに言われたら、もう感情を堪えきれない。
「うっ……、ううっ」
噛み締めた唇の隙間から嗚咽が漏れる。
次から次へと涙が溢れ出して止められない。
照は泣きじゃくる桜を人目から隠すように、建物の脇へそっと誘導した。
桜にハンカチを渡すと、涙が止まるまで何も言わず寄り添った。
しばらくしてようやく涙が止まると、恥ずかしさと申し訳なさが一気に押し寄せ、桜は深く顔を下げた。
「ご迷惑ばかりおかけして、本当にすみません……」
「いや、気にするな。落ち着いたか?」
「はい。おかげさまで。ハンカチ、洗ってお返しします」
「安物だ。捨てて構わない」
「そういうわけにはいきません!」
「なら、もらってくれ」
涙で濡れたハンカチに目を落とし、桜は頷いた。
こんなに汚れたハンカチ、返されても困るよね……。
呉林さんに会ってから迷惑しかかけてない……。
「喉、乾いてないか?」
「はい?」
「あそこの喫茶店、行くぞ」
照は向かいの喫茶店を指さし、歩き出す。
桜は広い背中を慌てて追いかけた。
ゆったりとしたBGMが流れる店内に入ると、顔見知りのマスターが気さくに声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。あ、桜ちゃん。お店、改装してるんだって?」
「あ、えっと、はい」
「改装終わったらまた買いに行くから。えっと、隣の方はお連れさん?」
「そうです」
「へえ。あっ、もしかして、彼氏?」
にんまりと笑うマスターに、桜は大げさに首を振った。
「ち、違います! そんなわけないじゃないですか!」
「……嫌そうだな」
照が低く呟くが、桜の耳には届かない。
「違うのか。桜ちゃんが男性といるの珍しいから勘違いしちゃったよ。奥の方空いてるから、座って」
奥の席に座り、桜はふうと息を吐き出した。
「なんかすみません。変な誤解されちゃって」
「変というわけではないが。……何にする?」
照は口ごもり、メニューを桜に見せた。桜はメニューを見るまでもなく、即答した。
「クリームソーダにします」
「クリームソーダ?」
「子供の時からここのクリームソーダが大好きで」
「なら、俺も同じものにしよう」
「呉林さんも、ですか?」
「悪いか?」
「悪くはないですけど、ギャップが……」
おしゃれにシャツを着こなしている照にクリームソーダが合わなすぎて、桜は思わず口元が緩みそうになる。
「すみません、注文を」
照はメニューをしまってマスターを呼ぶと、さらりとクリームソーダを2つ注文した。マスターは驚きながら、カウンターの奥に姿を消した。
「コーヒーもおいしいんですよ?」
「さく……丸三さんが子供の頃からずっと好きだということは、よっぽどうまいんだろ。コーヒーは今度にする」
「おいしいですけど、けっこう甘いですよ? 甘いのお好きですか?」
「どちらかというと、そうでもないが」
「だったらコーヒーに変えてもらいましょう。本当に甘いですよ」
「いや、いい。せっかくだ。飲んでみたい」
「そう、ですか」
なんだか読めない人……。
私に合わせてくれてる?
でも、無理してる様子はないし。
呉林さんがよく分かんない……。
すぐにマスターがクリームソーダを2つ運んできてくれ、桜はストローに口をつけた。
シュワシュワのサイダーとクリームの甘さが口いっぱいに広がり、喉を潤す。
甘くておいしい。
呉林さん、大丈夫かな?
照は固い表情でストローから口を離し、水を飲んでいる。
……大丈夫じゃなさそう。
「やっぱり、甘すぎたんじゃないですか?」
「いや、クリームソーダはこういうものだろう。……うまい」
こんなに感情のこもってない「うまい」、初めて聞いた。
明らかに無理してる。
コーヒーにしたら良かったのに。
グラスの中で弾ける炭酸をじっと見つめる照は、意を決したようにもう一度ストローで吸い込む。
わずかに眉を寄せ、またすぐに水を飲んだ。
クリームソーダに苦戦する姿がおかしくて、自分でも気づかないうちに笑みがこぼれた。
「ふふっ。呉林さん、無理しないでくださいね」
「……笑えるようになったか」
「え?」
自分の頬に手を添え、桜ははっとした。
私、今笑ってた?
さっきまで泣いてたのに。
子供みたいで恥ずかしい……。
「文具店はあれでいいのか?」
「それは……」
桜は椅子の上に置いた写真を見てから、接客中のマスターに視線を移した。
「マスターはうちのお店のお得意様なんです。商店街には他にもお得意様がたくさんいらっしゃるんです。こうしてお互いの店を行き来して、情報交換したり、支え合ったりして生活してきたんです。柚仁たちにもそれを分かってほしかったのですが……」
スプーンでグラスの中をかき混ぜながら、桜は沈んだ声を出した。
「おじいちゃんのやり方を守りたいと言い続けても、妹たちには通じません。……でも、おじいちゃんとの約束を諦めたくないんです」
「なら、どうするんだ?」
「今の私では力不足です。また店に戻っても同じことになるかもしれません。しばらく家から離れて、具体的にどうするか少し考えようかなって……」
「ホテルでも探すつもりか?」
「お恥ずかしながら、貯金がほとんどなくてネットカフェとか安いところじゃないと泊まれないんです」
「金も住む場所もない、この先の計画もまだない、か」
「はっきり言わないでくださいよ……。その通りですけど」
「ふむ」
照は少しの間目を伏せ、考え込む。
桜がクリームソーダを飲み終わると同時に、桜と目を合わせた。
「俺が住み込みの家政婦として雇おう」
「はい?」
「俺は家事に時間を使いたくない。散らかっていても気にならなかったが、今朝片付けてもらって久しぶりにきれいな部屋で過ごせた。やはり、家事をする人間が必要かと思っていたところなんだ」
「ですが……」
「家政婦として働いてくれたら、住む場所、金の問題は解決できる。食事も三食保証しよう。俺との利害は一致している。どうだ?」
「魅力的なお誘いなのですが、お給料をもらえるほど家事ができるわけではありません。家事代行を頼んだ方がいいと思います」
「俺のいない間に、他人を家に入れる気になれない」
「私も他人ですよね?」
「もう知り合いだろ? 一泊したんだから」
「それは、まあ、そうですけど」
「それに、丸三さんの家事の才能には給金を支払う価値がある」
「どうして言いきれるんですか?」
「俺は人を見る目がある。上場企業の社長は伊達じゃないぞ」
「え? 社長?! しかも上場企業の?!」
「まだ言ってなかったか」
「聞いてません!」
……私、呉林さんについて何も知らない。
昨日、道端で会っただけなんだから、当然だけど。
住み込み家政婦、今の私には願ってもないことだけど、よく考えもせずに答えるわけには……。
「月25万でどうだ?」
「そ、そんなに?! あっ、そこから家賃と食費が抜かれるとか?」
「家賃はいらない。食費は必要経費だ。俺のと君の2人分を作ってくれたらいい」
「えっ? それじゃ、呉林さんは損じゃないですか?」
「いや、そんなことはない。住み込みで家事全般を任せるなら、妥当な額だろう」
即答。
私の家事能力なんて一般レベルなのに……。
「あの、お仕事の内容や勤務時間はどうなるんですか?」
「掃除、洗濯、食事の用意だ。時間は相談して決めよう。契約書も用意する」
「契約書?」
「当然だろう。仕事として頼むんだからな」
「……何で、こんなによくしてくれるんですか?」
「丸三さんだからだ」
じっと見つめられ、桜は視線を逸らした。
同情、してくれてるのかな。
優しい人だもんね。
合理的って言いながら、一晩泊めてくれたし。
さっきも用事があるからついでだって言ってたのに、お店まで追いかけてきて、話を聞いてくれた。
呉林さんは私の意思を尊重してくれる。
……呉林さんのこと、信じてみようかな。
桜は顔を上げ、照の顔を真っすぐ見つめる。
「呉林さん、住み込み家政婦のお話、お受けします。至らない点もあるかと思いますが、よろしくお願いします」
照は一瞬目を見開く。
自然に口角が上がり、表情が緩む。
「ああ。よろしく」
……また、笑った。
表情のギャップに桜の心がくすぐられる。
何で嬉しそうなんだろう。
やっぱり、考えてることが読めない。
家政婦になるなら、呉林さんのことこれから知っていかなきゃ。
「家には戻りづらいだろ。身の回りの必要なもの、揃えに行くぞ」
「一緒に、ですか?」
「雇用主としての責任だ」
「ですが、私あんまりお金なくて。着替えぐらいは家から持ってきますので」
「金は俺が出す。必要経費だ。早く行くぞ」
「あっ、待ってください!」
桜は慌てて写真立てと前掛けを持ち、レジに向かう照の後を追いかけた。



