家も店も奪われた私、合理主義の若手社長に拾われて住み込み家政婦になったら、なぜか婚約者まで頼まれました

 朝日の眩しさで目が覚めた桜は、ぼんやりとした頭で室内を見回す。
 質素で無機質な部屋。カーテンの開いた窓から朝日が差し込んでいる。

 ……ここ、私の部屋じゃない?

「あっ!」

ベッドから飛び出た拍子に、ぶかぶかのスウェットの裾を踏んづけて転んだ。

「痛い……。夢じゃ、ない」

桜は体を起こし、窓を開ける。
 窓の外には、眼下に広がるビル群が見えた。
 
 泊めてもらったんだった。
 会って間もない人の家に……。

 桜はそろそろとドアを開け、廊下に出た。
 リビングには誰もいない。
 ごみ袋だらけのキッチンにも、洗濯物が積み重なっている脱衣所にも人の気配はない。
 
 まだ寝てるのかな。休日だからお仕事お休みなのかも。
 何かお礼しなきゃ。でも、今はお金ないし……。
 昨夜、濡れた服はまとめて洗濯機に入れていいって言ってくれたし、ついでに掃除と料理もしておこう。
 
 洗濯機を回している間にゴミをまとめる。
 床に散らばった物は勝手に捨てず、必要そうなものだけをまとめておく。
 仕事の書類らしきものには触れない。
 桜はなるべく物音を立てないよう気を付けながら、散らかった部屋を片付け始めた。


「ふう。ある程度きれいになったかな。乾燥機付きの洗濯機だから、あとは朝食作って……」

冷蔵庫を開けた桜の顔が固まった。
 ほとんど空だ。
 あるのはビール缶と牛乳のみ。
 冷凍室と野菜室も開けてみたが、使えそうな食材は一切ない。

「……どんな食生活?」
「何をしている」

突然背後から声をかけられ、桜は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。

「あ、あの、これは、その……」
「掃除、したのか?」
 
ワイシャツにスラックス姿の照が、室内を見回しながら眉を寄せる。

「すみません、勝手なことをしてしまって……」
「悪いな。ゆっくりしてくれて構わなかったのに」
「いえ。今はこんなことしかできませんが、まともなお礼をしますので」
「礼はいらない。これで十分だ。短時間でこんなに片付けられるとは。才能だな」

照の表情がやわらぐ。
 桜は瞬きをして照を見つめた。
 
「才能だなんて、言い過ぎです。普段家でやっていることなので」
「俺は家事が苦手だから助かる。コーヒー、飲むか?」
「えっと、コーヒーもいいのですが、朝食はどうしてるんですか?」
「コーヒーとこれですませている」
 
照はキッチンのキャビネットから、栄養補助食品を取り出した。

「足りますか?」
「ああ。1人の食事に時間を使うのは合理的じゃないからな」
「そういう問題ではないと思うんですけど」
「君が朝食をとるなら、付き合おう」
「いえ、お気遣いなく。私は平気です」

 ぐー。
 
 桜は顔を真っ赤にしてお腹を押さえた。
 
 恥ずかしい! 
 そういえば夕飯、食べれてなかったんだった……。

「何か買ってくる。コンビニが一番近い。何がいい?」
「朝食までごちそうになるわけには……」
「気にするな。……梅のおにぎりはどうだ?」

 私の一番好きなおにぎりの具。
 考えたらまたお腹が鳴りそう。

「……お願いします」

桜は顔を覆い、深く頭を下げた。

「分かった。すぐ戻るから」
「はい。いってらっしゃい」

玄関に行きかけた照は一瞬、動きを止める。
 
「……いってくる」

呟くように言うと、足早に出て行った。

 もう、私のお腹!
 申し訳なさすぎる……。
 
桜はまた鳴りそうになるお腹を押さえてうずくまった。


 しばらくして照は、両手にパンパンの袋を持って戻ってきた。
 テーブルの上に、おにぎりやパン、サンドイッチ、飲み物が積みあがる。
 
「これ、全部買ってきたんですか?」
「おにぎりだけだと足りないかと思ってな」
「あ、ありがとうございます」

やっぱり、ちょっと不思議な人……。

 朝食後、洗濯機の運転が終了し、桜は自分の服に着替えながら昨夜のことを思い返した。

 つい家を出てきちゃったけど、このままでいいわけないよね……。
 居場所がないからって逃げちゃだめだ。
 もう一度、話し合わないと。

 ショルダーバッグを手に取り、照に頭を下げた。

「本当に、お世話になりました」
「どこに行くんだ?」
「家に戻ろうと思います。昨日は色々あって出てきてしまったのですが、おかげさまでちょっと気持ちが落ち着きました」
「……そうか」
「もう一度、家族と話してみます」
「家まで送ろう」
「いえ、1人で戻れますから」
「出かける用事があるからついでだ。行くぞ」
「あ、はい」

ぶっきらぼうだけど、親切な人。
 イケメンだし、モテるだろうな。
 仕事もできそうだし。
 ……何でほぼ初対面の私なんか、助けてくれたんだろう。

 照はマンションの前でタクシーを拾い、桜と一緒に乗り込んだ。
 しばらく走ると商店街が見えてきて、桜は運転手に声をかけた。

「ここで停めてください」

照は怪訝な顔で眉を寄せる。

「店の前まで行かなくていいのか?」
「すぐそこなので大丈夫です」

タクシーが商店街の入口に停まる。桜は下りて照に頭を下げた。

「タクシーまで乗せてもらって、すみません」
「謝ってばかりだな」
「ご迷惑ばかりおかけして申し訳なくて……」
「迷惑だとは思っていない。そんなに気にするな」

照の温かな声が胸に染みる
 昨日とは違う涙がこぼれそうで、桜は堪えて口角を上げた。

「ご親切にありがとうございました。近いうちにお礼に伺います」

照が口を開く前に、桜は一礼して踵を返した。

「さく……」

照の呼びかけは届かない。桜の背中は遠ざかり、人ごみに紛れた。
 照はタクシーの中から、桜の姿が見えなくなったあとも、しばらくその方向を見つめていた。
 
 店に近づくにつれ、桜の足は重くなる。
 一晩家にいなかったのに、母と柚仁から連絡は来なかった。
 照の前ではもう一度家族と話すと意気込んだものの、昨夜のことを思い返すと怖じ気づきそうになる。
 
 弱気になっちゃだめ。
 お店だけじゃなくて、おじいちゃんが大切にしていたお客様との縁も守りたい。
 それに、おじいちゃんと一緒に叶えたかった夢だって、まだ諦めたくない。
 柚仁たちに望まれていなくても、もう一回ちゃんと話し合わないと。

 拳を握りしめ、顔を上げる。
 いつの間にか店の前に来ていた。
 店先には、商品棚や段ボールなどが出ていて、営業をしているようには見えない。
 
「えっ、何で……」

慌てて店の中に入る。
 昭広と一緒に商品棚を持ち上げて移動させている柚仁が、桜に気付いて顔をしかめた。

「あっ、お姉ちゃん!」
「何、してるの?」
「見て分かんない? 模様替え」

柚仁は棚を下ろし、ふうと息を吐き出した。

「どうして急に……」

昭広が柚仁の隣に並んで笑顔を浮かべた。

「前々から、店内のレイアウトが少し雑然としているのが気になっていたんですよ」
「昭広くん、もっとはっきり言ってもいいよ。商品が多すぎてごちゃついてるって」
「無駄な商品は置いてない。それに、あのレイアウトにはちゃんと意味があったの」

柚仁の前に一歩踏み出し、入り口を指さす。
 
「子供たちや若い人に人気のある商品棚は、入口付近に置いて店に入りやすくしてた。奥の方にはご年配の方に人気の商品棚を置いてたの。それに、ゆっくり選べるよう椅子も用意してたし」
「あの椅子、まじでいらない。ぼろかったし、捨てといたから」
「捨てた?」

何でそんな勝手なこと……。
 
 昭広が薄い笑みを桜に向ける。
 
「椅子があるせいで、長話して居座る方が多い上に、桜さんも一緒に話し込んでいましたよね?」
「ここは憩いの場で、私と話す時間が楽しいって言ってくれるんです」
「そういうことしてるから、売上伸ばせないんだよ。憩いの場って何? うちはカフェじゃないんだけど」
「でも、みんなおじいちゃんの時からの常連さんで、毎回商品を買ってくれてるの! お客様ひとりひとりを大事にして、うちの店に来て笑顔になってもらいたい。それがおじいちゃんの願いなの!」
「いい加減にしてよ!」

柚仁の怒声が店内に響く。
 
「昨日言ったよね。これからは私たちが経営するって。お姉ちゃんは口出ししないで!」
「もう一度話し合いたいの」

その時、お茶を運んできた母が店の奥から姿を現した。
 
「桜! 連絡もなしにどこ行ってたのよ」
「えっと……」
「まあ、いいわ。柚仁たちのこと手伝ってあげて」
「……できない」
「何言ってるの? どうしたのよ、桜」

母は困ったように眉を寄せた。

「おじいちゃんが大切にしてきたものをなくそうとしてるのに、手伝うなんてできない。昨日は分かったって言ったけど、やっぱり柚仁たちに経営は任せられない」

桜の瞳に強い光が宿る。
 柚仁が目を吊り上げて声を上げた。

「そんなのただのわがままじゃん!」
「全部今まで通りにしたいって言ってるんじゃない。変えなきゃいけないところがあるなら、私も考える。でも、おじいちゃんが大切にしてきたものまで、全部古いものみたいに捨てたくない」

桜は首を横に振り、柚仁と昭広を見据える。

「私に、もう一度任せてほしい」
「はあ?」
「柚仁、落ち着いて」

苛立つ柚仁の背中を母がさすり、宥める。

「桜が頑張ってきたのは分かってる。でも、これからは昭広さんと柚仁に任せるって決めたの」

母の瞳に迷いはない。

「桜、あなたは経営からおりてちょうだい」
「……!」

桜は息を呑み、母を凝視した。
 柚仁は指に髪を巻きつけながら、唇を尖らせた。
 
「手伝ってくれるなら助かるけど、いちいち『おじいちゃんはこうしてた』、『これは変えないで』って口出ししないで。それに、いつまでもおじいちゃんにこだわるのやめてよ。ここはもう、おじいちゃんの店じゃないんだから」
「……え?」
「これからは私たちの店になるの」

柚仁はにっこり笑って、昭広と母の腕にしがみついた。

 柚仁の言う私たちに、私は入っていない……?

「これとこれ、お姉ちゃんのでしょ」

柚仁は写真立てと前掛けを手に取り、放り投げるように渡してきた。

「あっ!」

落ちそうになる写真立てを慌てて受け止めた。

「邪魔だから持ってって」

……邪魔?

 写真と前掛けを呆然と見つめる。

 おじいちゃんのお店なのに。
 頑張って立て直してきたのに。
 こんなの、ひどすぎる……。

「ひどいな」

突然、桜の背後から低い声が聞こえた。
 振り向くと、タクシーで別れたはずの照が店の入り口に立っていた。

「く、呉林さん!?」
「これのどこが話し合いだ?」

照が鋭い視線で、柚仁たちを睨みつける。

「店は臨時休業ですよ。部外者は立ち入らないでください」

昭広の口元は笑みの形をしているが、照に向けられた視線は冷たい。

「部外者、か。桜さんとはちょっとした知り合いなんだが。なあ?」
「そう、ですね……」
「まだ店に居続けたいか?」
「え?」
「俺は部外者だから行くが、君はどうする?」
「私は……」

 もう何を言っても、聞いてもらえない。
 守りたいって思っていたのに。
 おじいちゃんと約束したのに。
 大切なお店なのに。
 でも、今の私じゃ太刀打ちできない。
 ここに残っても、私にできるのは、変わっていく店を黙って見ていることだけだ。
 
 ……ごめん、おじいちゃん。

 桜は写真立てと前掛けを握り締め、照を見上げた。

「……私も行きます」
「そうか」

照の口元が緩む。

 ……笑ってる?
 初めて見た。
 
 なぜか照の微笑みから目が離せない。

「行くぞ」
「あ、はい」

桜は照の背中を追って、店の外へ踏み出した。