「生きづらさ食堂」あなたのために、のれんは上がる

「…いらっしゃい」

店のカウンターには、1人の男がいた。彼が「タイショー」であり、店長なのだろう。
思ったよりも若い。見たところ30歳前後だ。採算度外視で「半分道楽でやっている」とか言うものだから、もっと定年を過ぎたおじいさんあたりがやっているのだと思い込んでいた。

「まあ狭いけど、好きなところ座って下さい」
「あ、どうも…」

口調はぶっきらぼうだが、嫌な感じではない。ただ単に感情を表に出さないタイプらしい。

「あの、今日はタダで食べさせてもらえるって、お姉さんが言ってたんですけど…」

島村はカウンターに座ると、恐る恐る口を開いた。
その言葉を聞いた途端、店長の眉がぴくりと反応する。やはりマズかったか。

「怜音(れいね)、お前なあ…」
「ごめんなさい、店長…。お兄さん今朝からほとんど食べてなくて、お金もないらしくて…」
「ふむ。確かに、顔色は悪い」

店長は島村の顔を見下ろしまじまじと観察した。初対面の相手にこれだけ同情されると、余計惨めさが増す。

「ね?何か食べさせてあげましょうよ」
「…あの、やっぱりお金払いますよ。何ならこのまま帰りますから」
「いえ、タダでも良いですよ」
「えっ」
「ひとつ食べていってください。何かの縁ということで。お金を払うかどうかは、食べてから決めてくだされば大丈夫です。満足いかなければ払って頂かなくても構いません」
「わ、わかりました」

店長に凄まれ、思わず承諾してしまった。しかし満足いかなければタダでも良いとは、それだけ腕に自信があるということか。

「それでは、何が食べたいですか?何でも言ってください」
「何でも良いんですか?」
「要望にはなるべくお答えします。ただしこの遅い時間ですから、出来ることには限りがありますが」
「な、なるほど…」

しかし何でも良いといきなり言われても、パッとは思いつかない。いつもはコンビニおにぎりで済ませてしまうから無理もない。「ゴホウビにアレを食べたい」といった欲さえ、麻痺してしまっていた。
コンビニおにぎりで思い出す。普段は節約のためにと、おにぎりの中でも安い具ばかりを選んでいた。定番の鮭や昆布、高菜などだ。

「じゃ、じゃあ…肉がガッツリ食べたいです!」

ハンバーグやスパム、和牛のおにぎり。そうしたリッチなお肉のメニューはどうしても敬遠していた。いやおにぎりでなくても、牛丼やハンバーグの弁当などボリュームたっぷりの肉料理はコンビニにもいくらでもある。もちろん島村は、それにも手を出せずにいた。
今日は思いっきり肉を頬張りたい。そう思い立ってのリクエストだ。

「…わかりました。少々お待ちください」
「は、はい」
「まったく。何でうちには、いつもいつもこういう客がやって来るんだ…?」

店長が調理に取り掛かる。無茶な要望だと一瞬頭をよぎったが、どうやら通ったらしい。最後に店長の不思議な独り言が聞こえた気がするが、気のせいだろう。
それにしてもどんな肉が出てくるのだろうか。興味津々ではあったが、店長の背が調理工程を隠しているので様子を見ることができない。
仕方がないので、料理が来るまで島村は店内を見回して時間を潰すことにした。


(結構、年季が入っている)

他に客はいない。いるのは店長と怜音さんだけだ。周りの目を気にすることなく、店内を見ることが出来る。
店内はかなり狭い。2人用のテーブルが3席、カウンターが4席。一度に10人しか入れない。テーブルもイスも木造りで、ところどころ欠けている。何十年も使ったような深みが出ていた。コンクリートの壁もこじゃれたタイルの床も、最近ではなく数十年前の様式のものだ。というかもはや実家だ、この空気は。

「これでも昼は繁盛して、たくさん人が入るんですよ。営業中はお客さんがいつも満杯で、私もてんてこ舞いです」
「へえ、すごいんですね。2人でやってるんですか?」
「はい、厨房は店長が1人で捌けてしまうので。おかげで人件費が出ないから、昼分の営業だけで実はほとんど採算取れちゃうんですよね」
「そ、そうなんですか」

朝から晩まで働いて満足に食事分も稼げない島村とは雲泥の差だ。それでもあの店長の腕は、やはり信用出来るらしい。

「その割には、今はお客さんいませんね?」
「夜の部の営業を知ってる人、ほとんどいないんですよ。店長があんまり人に話したがらないので」
「えー?そんな昼も繁盛するお店が夜もやってたら、俺だったら気になって覗きに来ちゃいますよ」
「かもしれませんね。けどどーしてか誰も寄り付かないんですよねー。たまに常連さんがやってきて、ゆっくり呑むくらいで。神様にイタズラでもされてるんですかね?」
「あはは…」

スピリチュアル的な話題は知らない。しかし怜音と話しても、店に対する疑念は消えない。
奥まった住宅地でポツンと一軒だけ開いている、小さな定食屋。見つけるのは難しい、と確かに思うが。昼には客足が絶えない人気店が夜には一切見つけられない、ということがあり得るだろうか?
いやそもそも。昼に十分収益が得られているなら、何故客がほとんど入らない夜も営業をしているのか?考えても考えても、答えは出ない。キリがないので、島村は思考をやめた。

「…お待たせしました。お召し上がりください」

そのタイミングで、店長が盆をひとつ差し出した。


島村は出された料理を見てみた。茶碗にこんもり盛られた白飯、きゅうりとにんじんのお新香。味噌汁に入っているのはもやしとにんじん、それからわかめとネギ。そしてメインディッシュは…

「肉じゃないじゃないですか!」

厚揚げだ。焼き目のついた厚揚げに、もやしとぶなしめじを絡めたあんかけがかけられている。

「入ってますよ。豚ひき肉」

肉がないことを指摘すると、揚げ足を取るように店長が反撃してきた。

「あ、ホントだ…じゃなくて!ガッツリ食べたいって言ったんですよ!こんなちまっとしたセコイ肉じゃなくて!」
「ひき肉もれっきとした肉ですよ。セコイ肉とは失礼ですね」
「もしかして、肉を出し惜しむとかケチなこと考えてます?それとも今ちょうど肉が店になかったとか?」
「いえ、肉の用意はありますよ。ほら」

店長は裏のスペースを指差す。怜音がトンカツ用のぶ厚い豚肉を抱えていた。

「じゃあそっち使って下さいよ!カツ丼!カツ丼とかあったじゃないですか!」
「申し訳ありませんね。今の貴方にはこちらの方が合っていると思ったのですが」
「え?」
「まあまずは一口食べてみてください。文句は後で聞きますよ」
「うぐ…」

やはりこの店長、なかなかオーラがある。言い切られると反撃出来ない。それだけ自信があるらしい。

「それじゃあ…頂きます」

これはもう食べるしかない。島村は箸を取り出し、恐る恐るあんかけのかかった厚揚げと対面する。
ところが、持ち上げてみると悪くない。焼かれた厚揚げの香ばしい匂いと、あんかけのほのかな香りが食欲をそそる。あんかけの半透明な照りと、トロっと絡んだ野菜達もビジュアルに渋みを与えてくれている。久しく離れていたのにどこか懐かしいような、そんな親しみを覚えた。
しかしどこまで行っても問題は味だ。あんかけと共に、厚揚げを一口頬張る。

「…あれ?」

美味い。厚揚げが持つ豆の甘みと柔らかさ、シャキシャキとしたもやしの食感、ぶなしめじのわずかな苦味。あんかけも塩味の中にほんのり甘みがあって、刺激が強くもくどくもない。すべてが渾然一体となって、優しく包み込んでくれる。
じっくり咀嚼し、やがて飲み込む。久しぶりに味わった料理の温かさが、疲れ果てた島村の身に染みていく。

(変だ。これだけなら、絶対物足りないはずなのに)

あんかけのひき肉だけでは、ここまではならない。厚揚げの底力だろうか。肉厚の厚揚げをじっくり焼いて食べると、たっぷりの肉で作ったハンバーグにも負けない満足感が得られるのだ。
しかも脂がないのでくどくない。一口で十分満たされた。なのに次のひと切れが、どうしても待ち遠しくなる。

「…美味い、美味いよ」

日本人が慣れ親しんだ、甘じょっぱい素朴な味だ。帰るべき場所に帰ってこられた安心感がそこにはある。再び厚揚げを頬張る。今度はあんかけの野菜もじっくり味わって。シャキシャキ、ふにふにのそれぞれ異なる食感が楽しい。
舌をリセットしたくて、白飯を頂く。ほかほかご飯も、最後に食べたのはいつだろうか。家でも毎日米は炊いている。しかし水の量を測る余裕すらなくて、ベチャっとしたり逆に硬すぎても、我慢して放り込んでいた。ふっくらして、ツヤツヤして、カンペキな炊き加減の米。今の島村には、ただの白飯すらご馳走に思えた。

「あの。ゆっくり食べて良いんですよ?そんなに急がなくても大丈夫ですから」
「ご、ごめんなさい。あまりに美味しくてつい…」
「…詰まらせないように気を付けて下さいね」

怜音と店長に心配されながらも、それでも箸を動かす手は止まらない。こんな温かい食事にありつけたのはいつ以来か…いや、ここまで染みたのは生まれて初めてかもしれない。
白飯も、味噌汁も、お新香も、これまで何度も食べてきたはずなのに。身近にあるはずのものがずっと遠くに感じて、今だけは目の前にある。それが島村の凍った心をわずかながらに溶かしていった。

肉を思いっきり頬張りたいと言ったはずの島村。ところが今食べているのは厚揚げだ。「畑の肉」という屁理屈でごまかして使われそうな大豆だ。
それでも今の彼に不満はみじんも無い。大きな厚揚げを贅沢に使ったメニューを、止まることなく食べ進め…あっという間に一膳平らげてしまった。