「生きづらさ食堂」あなたのために、のれんは上がる

「ん…?」

固い床で目を覚ます。島村が辺りを見渡すと、ここはオフィスのあるビルの廊下だ。
スマホを確認する。時刻は20時。会社に戻ってから、既に3時間が経過していた。彼は社内で倒れ、そのままになっていたのだ。
倒れた原因は島村本人にもわかっている。業務で溜まった疲労と極度の空腹であった。朝からほとんど何も手に付けず、1日中炎天下を歩き回っていればこうもなろう。

「いてて…」

廊下の硬い床で寝転がっていたものだから、身体のあちこちが痛む。目撃されていれば誰かが助けてくれそうなものだが、ずっと放置されていたようだ。
どうやら彼以外は誰もビルに残っていないらしい。そのせいで発見者は1人もいない。あまりにも冷たい。あるいは彼がいた場所が、ビルの奥まった場所だからか。誰も通らなかったのかもしれない。腹が減りすぎて、彼自身どこを歩いているのかもわからなかった。それで本来有りえない場所に迷い込んだ可能性もある。

それでもビルの中で人が倒れていれば、誰かしらが気付いてくれるものだと思うが。同じ会社の社員達は期待出来ないにしても、他社の社員や、それか清掃員や管理会社の人間か。その救いさえなく1人ただ倒れていたことが、島村の心を惨めにした。

(帰ろう。腹減ったし、痛いし)

ビルの入口が施錠されていないことが幸いだった。これで何も食べ物もないまま会社に軟禁されるという、最悪の事態は免れる。
もっとも最悪は逃れても、状況はひどいままだが。カスカスのエネルギーを絞り出し、重い身体を引きずって帰路に就く。いつまでもこんな場所にいたら、それこそ頭がおかしくなってしまいそうで。

 ◆ ◇ ◆

(眩しい。いつも目の前にこんな世界があったのか)

日はすっかり落ち、真っ暗な空。しかしそれとは対照に、街は煌びやかな照明に照らされ賑わっていた。
都会の街は夜が遅い。日が沈んでも人が行き交い、店は客を迎える。遊び場には事欠かないし、終電に構わず酒を煽る猛者までいるほどだ。落ち着いたホテルで優雅な食事を楽しむという話もあるが、それは島村には遠い世界。
現代が生み出した栄華がそこにあった。その財力に空は覆われ、輝きは満月も星明かりも霞ませる。 

残業の多い島村はこの時間帯に帰宅することも少なくない。しかし、ここまで街をまじまじと見て回るのは初めてだった。帰りが遅い時間帯になるほど、周りを見る余裕もなくなる。社会人3年目の身にも、街の賑わう姿はまだまだ新鮮だ。

すれ違う人を観察してみた。デート中だろうか、笑い合いながら歩くカップル。今日の飲み屋を決める最中の、賑わうサラリーマンの集団。みんな笑っている。この瞬間を謳歌している。眠らない都心の華やかな世界を、目の前で見せつけられていた。
それを見るたび島村の心はより荒んでいく。何故自分だけこんな目に遭わなければならないのかと。

現実から目を背けたくて、無骨なビルの上の方に目をやった。明かりはほとんど消えているが、その中にひとつだけ明るい窓。そこにまだ働いている人間がいるのだろう。残業だろうか。昨日の自分を思い出して、少し親近感と同情が湧いた。
少し淀みが落ちたところで、もう一度視線を地上に戻す。有名百貨店の店員さんが、低頭して接客している姿が見えた。忙しそうだ。迎える客は仕立ての良い服を着て、奥方らしき女性を連れてふんぞり返っていた。
華やかな世界を支えるべく、汗水垂らして動いている人がいる。光あるところに、陰あり。同族意識が芽生える。

ところがすぐに掻き消えた。昨日今日の出来事が、脳裏によみがえってしまう。

『結果を出せないお前が悪い!』
『お前だって、頑張れば変われるはずだ』
『お前はこの会社に何の貢献も出来ていないってことなんだよ!お荷物なんだよ!会社の!』
『実際お前が役立たずなのがいけない』

同僚と上司に、役立たず扱いをされたばかりだ。会社で成果を出せない自分は、社会を支える側にもなれない。
結局自分だけが、世界から取り残されている。

(ぐううーー…)

果ての無い孤独感がダメ押しの一発に。限界を超えた腹が、強烈に鳴った。

(早く帰って寝よ。つーか家までもつかな…)

今日1日ほとんど食事にありつけなかった島村。家に帰るどころか、付く前に空腹で倒れるビジョンさえ見える。
いっそどこか店に入って、腹をごまかすだけでもしたかった。しかし彼にそんなことが出来る金銭の余裕は無い。おまけに物価高だ。背に腹は代えられないとわかっていても、二の足を踏んでしまう。
さっさと帰宅しご飯を食べて、もう寝るべきだ。それはわかっている。
そのはずなのに、何故か身体は人気のない裏通りに入っていく。
まるで何かに、引き寄せられるように。


「うんしょ…。ふう、今日はこの辺で店じまいですかねー」

しばらく歩くと、のれんを下ろす女性を見つけた。もう遅い時間帯だ。店を閉める準備をしているところなのだろう。
この辺りはとても静かだ。明かりも少なく、人通りは皆無。一軒家がややゆとりを持って並んでいる。大通りから一本入るだけで、閑静な住宅地が広がっていた。
島村は困った。会社と駅を行き来するだけだった彼に土地勘はない。知らない場所に迷い込んで、半ば途方に暮れていた。

あのお姉さんならば手を貸してくれるだろうか。そんなバカなことを考えて、つい彼女を眺めてしまう。腹が減り、ショックで傷心し、おまけにひどい孤独感。行動しようにももう頭が回らない。閉店作業を進める彼女に視線を合わせたまま、身体が動かせずにいる。

「ん?」
「あ…」

どうしたものかと迷っているうちに、彼女と目が合ってしまった。

「こんばんは。今日もお疲れ様です」
「お、お疲れ様です。店じまいですか?」
「はい。うちの定食屋、夜遅い時間までやってるんですけど。今日はお客さんの入りが悪いし、早いうちに切り上げとこうかと話してまして」

たなびくのれんには、『さくら』と平仮名で書かれていた。それがお店の名前なのだろう。

「定食屋なんですか。いやー、自分いつもこの辺で仕事してるんですけど。知らなかったなー、こんなところに飯屋があったなんて」
「うちの店長、秘密主義なところがありましてね。『狭い店で客を捌き切れない』って言って、あんまり宣伝とかしないんですよ」
「そうなんですか」

会社でも店の名前は聞いたことがない。その理由は島村が会話に入れないからだけではきっとないのだろう。
島村はいつまでも邪魔になりたくない。しかし会話が切れるタイミングがどこまでも見つからない。当たり障りのない世間話が、どこまでも続いていく。

「いやーだけど残念だなー。店じまいするタイミングでここに来ちゃうなんて、タイミング悪かったですね。ちょっと気まずいというか…」
「お兄さんはもう夜ご飯、頂いちゃいました?」
「それがまだなんですよ。どころか今日は朝からほとんど何も食べられてなくてですね。お腹空いてるし早く家に帰ろうと、思ってたんですけど…」
「それは大変ですね、本当にお疲れ様です。…もし良ければ、うちで食べていきません?」
「いや、それは…」

(ぐうう…)

「…私にも聞こえましたよ、今の」

お姉さんがジトっとした眼差しを向けてくる。あまりにも気まずい。

「帰れそうですか?そんな状態で」
「ちょっと自信なくなってきました…」
「…やっぱり、うちで食べていってくださいよ。今日は満足に食べられなかったみたいですし」
「けど、お金ないですよ?」

だから外食という選択肢を捨てて、真っすぐに家に帰ろうと思っていたのに。

「じゃあ、今日はタダでも良いですよ」
「はい!?」

思わず大声が出てしまった。採算度外視の、飲食店としてあるまじき発言。そこまでして店に入れたいのだろうか。

「良いんですよ。うちの人、半分道楽でお店やってるので。お腹いっぱいになって幸せそうなお客さんの顔が見られたらそれで十分だって、本気で言っちゃう人なんです。ホント、物好きですよね」
「そ、そうなんですか…」

これは願ってもない申し出だ。ここまで頼まれたら、いっそ飛び込んでしまいたい。
それでも入ったこともない怪しい店だ。島村の心はまだ迷っている。

「だけど、タダっていうのはやっぱり…」
「不安になっちゃいます?じゃあお近付きの印ってことで。それにお兄さん、すごくお疲れの様子ですから。お腹空いてるだけじゃなくて、スーツもよれよれで。本当に毎日、頑張ってるんですね」
「あ…」
「だからそんな頑張るお兄さんを、ちょっと応援出来たらって思います。せっかく会えたんですもん。お腹いっぱいになって、笑顔で帰ってもらった方が、私としても嬉しいですよ。その方が明日からもまた頑張れるかもって、思ったりしません?」

人に心配されたのはいつ以来だろう。疲れた島村の心に彼女の言葉は染みすぎてしまう。
たとえそれが危険な手口だとしても。彼はもう首を縦に振らずにはいられない。

「じゃあ…お願いします」
「はーい!タイショー、お客さん最後に1人ご案内でーす!」

彼女の小気味よい掛け声と共に、定食屋の扉が開かれる。島村はお言葉に甘えることにした。