「生きづらさ食堂」あなたのために、のれんは上がる

「お待たせしました。どうぞ、お召し上がりください」

ブラック企業に心身を削られ、限界寸前にいるひとりのサラリーマン。
彼は今、とある定食屋で温かい食事を出されていた。

どこにでもあるはずの風景なのに、彼はとても困惑している。
朝は無理矢理ご飯とバナナを詰め込んで出社し、休む間もなく働いて昼食をすっぽかす。
激しい疲労と空腹に耐えながら帰宅し、夕食は昼に食べ損ねたコンビニおにぎりを辛うじて食べるだけ。

泥のように働き、泥のように眠る。それが日常だったはずだ。
だからこうして豪勢な料理を提供されることを、「異常」だと認識して戸惑っている。

どうしてこんなことになったのだろう?彼はその経緯を、数日前からさかのぼり思い出していた…。

 ◆ ◇ ◆

「ひとつ!お客様の笑顔を最高の報酬とすべし!」
「「ひとつ!お客様の笑顔を最高の報酬とすべし!」」
「声が小さいぞもう1回!」
「「ひとつ!お客様の笑顔を、最高の報酬とすべし!」」
「ひとつ!自分の全てを会社の未来に捧げるべし!」
「「ひとつ!自分の全てを会社の未来に捧げるべし!」」

社訓を叫ぶのを周りの社員に任せて、島村(しまむら) 優一(ゆういち)は朝礼をやり過ごす。
見ての通りの過酷な世界だ。化粧品の販売会社。その経営は下っ端社員達の身を削る労働で成り立っている。

「さて、もうすぐ月末だ。契約数に応じて給与が増えるから、各自最後まで励むように!では解散!」
「「はい!今日もよろしくお願いいたします!」」
(はー。やっと終わったー…)

島村は現在3年目の25歳。営業職に就いているが、仕事へのやる気はゼロ。むしろ合わない体育会系のノリに、ずっと辟易していた。

「今日も上手く流して…」
「おい島村!」
「はっ、はい!?」

先ほどまで号令をとっていた、部長の武田(たけだ)だ。突然名指しされ、身体が強張ってしまう。

「お前だけだぞ、ノルマ達成していないのは!これではまた給料が落ちるぞ!」
「す、すいません…。自分も頑張ってはいるのですが…」
「結果が出なければ意味がないのだ!とにかく押し入って売りに行け!それくらいやらねば誰にも買ってもらえんぞ!お前達の行動は社用スマホのGPSで常に把握していることを忘れるな!」
「はい…」

げんなりする上司のお小言。これのせいで、社外でいかに上手くサボれるかをいつも考えている。
ノリも合わない、仕事に興味もない、頼れる人もいない。最悪の環境に何故島村が居座り続けているのか、その理由はどうということでもない。単に他に行ける場所がないからだ。不景気の中、卒業間際にようやく拾ってくれたのがこの会社。こんなことならもっと学生時代に勉強しておけばよかったと、過去の自分を恨んだことも数知れず。

「じゃあ、行ってきます…」
「おう気合入れて行け!ノルマのこと、忘れるなよー!」

名も知られていない私大を辛うじて卒業し、目立ったスキルも資格もない。そんな自分が他の会社に行けるはずもないのだ。

 ◆ ◇ ◆

「…そりゃそうだ」

リストでもらった目ぼしい女性の家に何か所も訪ねてみたが全部ダメ。ノルマどころか1件の成立すら果たせていない。

「俺が女性用の化粧品なんて、売り込める訳ないだろ」

自分では使えない。価値の知らない商品を、相手に勧められるはずがなかった。何故営業には男性ばかりがいるのか?女性用の化粧品なんだから、女性に売りに行かせればいいのに。

「さっきも部長の言う通りやってみたけど、それでもダメだったしなー」

一応武田のアドバイスに従い、それらしい年代の奥方がいそうな家にも何度か飛び込みをしてみたのだ。が。

『あ、いえうちは間に合ってますので。どうぞお引き取り下さい』
『あー?うちはオレだけだよ。女なんてここ何十年も縁がねえんだ』
『え、何ですかドロボーですか!?あんまりしつこいと、私ケイサツを呼びますよ!』

手応えは一切なし。挙句不審者呼ばわりされて気が滅入った。彼の心はしばらく痛むだろう。
太陽は高く昇っている。さっきから腹が悲鳴をあげてうるさい。そろそろ昼にしよう。朝はご飯が少しと、バナナ1本しか食べられなかった。

(でも今日は、いっぱい食べられるなー)

出勤前におにぎりを3つ買ってきた。ツナマヨと高菜と昆布。これだけあれば、とりあえず1日もつだろう。栄養バランスは…考えられる余裕がない。

「いただきまーす」

最初にツナマヨおにぎりをかじる。美味しい。動いた分、エネルギーと塩分は確保しなければ。
テキトーな公園を見つけて食べているので、周囲の視線が痛い。早く退散せねばと、急いで放り込んだ。
続いて高菜おにぎり。これも美味しい。そういえば、野菜を食べたのはいつ振りだろう。貴重なご飯だ。はやる気持ちはあるが、高菜おにぎりだけは大事に味わいた…

(ピリリリリ!)
「うわっ!?」

突然鳴ったのは社用スマホ。いきなりだったもので、島村は慌てておにぎりを地面に落としてしまった。
しかしそんなことにも気付かず、恐る恐る電話に出る。

「は、はい。島村ですけど…」
『キサマ!何十分も何ボーっとしているのだ!?』
「た、武田さん!?いや、昼休憩してたところです」
『いかん!キサマはノルマ未達なのだ、休み時間を削ってでも働け!それとも午前中で、ノルマを達成したか!?』

「…いえ、1つも売れてないです」
『何をやっとるんだ!昼休憩は終わりだ、今すぐ次の訪問先へ行け!これ以上ヘボな成績出しとるようだと、給料をカットするぞ!良いな!?』
「わ、わかりました…。失礼します」

電話が切れる。GPSの記録を見られていたのだろう。自分は相当マークされているらしい。ゆっくりと昼ご飯を食べることさえ許されない。
これ以上ここに留まるのは危険だ。そう悟った島村は、大人しく次の営業に向かうことにした。

 ◆ ◇ ◆

「ただいま戻りましたー…」
「遅かったな島村。お前が一番最後だぞ」

会社で出迎えたのは武田と、島村の同僚である横川(よこかわ)。ドベの島村とは対極に、一番の稼ぎ頭だ。

「で、結局どれだけ売れたんだ?あちこち回ってたみたいだが」
「…ひとつも売れなかった」
「まったく、島村はダメだな。お前は何のために3年もここにいたのだ?」
「す、すみません…」

ただ生活費のためです、とは上司相手に口が裂けても言えない。

「だらしない、それではいつまでも使い物にならんぞ!お前は追加業務だ、この資料を今日中に作成しておけ!」
「今日中って…もう5時ですよ!?」
「構うか、結果を出せないお前が悪い!今日でムリなら泊まってでも完成させろ!では私はこれで失礼する!」

紙の束だけ押し付けて、武田は帰ってしまった。島村と横川が残され、他の社員ももう帰宅の準備を進めている。

「そんな…」
「島村、こればっかりはどうしようもない。社会は結果が全てだから」
「横川まで…。手伝ってくれないのかよ」
「そしたらお前のためにならないだろ。お前だって、頑張れば変われるはずだ。俺みたいにさ。んじゃ、俺も帰るわ」

武田は悠々と部屋を出た。上司を始め社内での評価も高く、余裕があるのだろう。


夕日もすっかり落ちた時頃。経費の削減という理由で最低限の照明しか付かない薄暗い部屋で、黙々と資料作成をしていた。

(『お前だって頑張れば変われるはずだ』…か)

島村だって、入社当時はもっとやる気があったはずだ。女性の化粧品という縁のない世界でも、必要としてくれる人がいるなら広めていきたい。そう思い、流れ着いた環境で一生懸命励んでいた。先ほどの横川とも、一緒に頑張ろうとお互い鼓舞することもあった。

しかし、不明な効能に謎の成分。調べるほどにわからなくなる商品の闇が、彼に迷いを生じさせた。これは本当に勧めても良いものなのかと。そして営業成績はみるみるうちに下がっていき、今では課で一番の役立たずに。自信のないものを売り込む勇気が、彼にはなかったのだ。
一度は意気投合し、高め合った仲間。彼の言葉が、今は重くのしかかる。

「…帰るか」

もう何時間経っただろう、ようやく資料が完成した。帰る電車もまだある。最後の電気を消し、島村はひとり大きく出遅れて帰路に就いた。

 ◆ ◇ ◆

ようやく自室に戻った島村には、もうほとんど気力が残っていなかった。今ベッドで横になれば、一瞬で睡魔に狩られて朝を迎えるだろう。それはそれで楽なのだが、今度は腹の虫が邪魔をしてきそうだ。何かしら腹に入れておかなければ、快眠さえ得られない。
夜ご飯を作ろうと思ったが、あいにく冷蔵庫はすっからかんだ。明日の朝の米と果物しかない。料理しようにも材料がない。そもそもそんな体力は残っていない。今から外に食材を買いに行くのもムリだ。

「そういえば…」

八方塞がりかと思いきや、昼食に食べ損ねたおにぎりが残っていた。これなら明日の朝まではしのげる。
バッグから出てきた昆布のおにぎりを、大事に頬張った。甘じょっぱい昆布が、わずかに活力を与えてくれる。生き返った心地だ。
…そういえば、今朝買ったおにぎりは3つだったはずだ。昼に1個、夜に1個食べた。ひとつ足りない気がする。どこかで落としてしまったのだろうか?いや、考えても意味がないからやめよう。というか思い出す余裕もない。

申し訳程度だが、一応腹は溜まった。それでも体力は既に限界。帰宅してすぐのスーツ姿のまま、島村は夢の世界に旅立ってしまった。