十年越しの子守唄 〜泣き虫だった皇子は、龍帝となって私を望む〜

第一章 再会
 後宮の門をくぐったのは、桜がすっかり散り終えた、春の終わりの朝だった。
 朱塗りの柱が延々と続く回廊を、私は風呂敷包みひとつを抱えて歩いていた。前を行く案内の女官は一度も振り返らない。磨き上げられた床板に、自分の草履の音だけがやけに大きく響く。
「柚葉、と申したか」
 ようやく足を止めた女官が、肩越しにこちらを見た。白髪まじりの髪をきっちりと結い上げた、五十がらみの女性だった。
「はい。橘柚葉と申します」
「わたくしは沙月。今日からそなたの上役となる。言っておくが、ここは貴族の姫君が花を愛でに来る場所ではない。下働きの女官は、朝は誰より早く起き、夜は誰より遅く眠る。泣き言は聞かぬ」
「心得ております」
 頭を下げると、沙月さまはわずかに眉を上げた。没落したとはいえ一応は貴族の娘だ。もっと戸惑うと思っていたのかもしれない。
 けれど私は、戸惑うほどの何かをもう持っていなかった。
 父が人の良さにつけこまれて借財を重ね、屋敷を手放したのが三年前。父はそれから間もなく病で逝き、母と幼い弟を養うために、私は親戚筋の口利きで後宮の下働きに上がることになった。二十四にもなって嫁ぎ先のひとつもない娘にできる奉公など、そう多くはない。
 それでいい、と思っている。給金の大半は里へ送る。私はここで、目立たず、静かに務めを果たせばいい。
 ──ただひとつ、気がかりがあるとすれば。
 この宮のどこかに、あの子がいる、ということだ。
 私はそっと、袖の中で左の手首に巻いた組紐に触れた。藍と白の糸を撚り合わせた、もうすっかり色の褪せた紐。十年前、同じものをもうひとつ編んで、小さな手首に結んであげた。
「ゆず、どこにも行かないで」
 あの子は泣きながら、そう言った。
 そして私は、何も告げずにあの子のそばを去ったのだ。
 *
 十二年前、私は十二歳だった。
 当時、父はまだ中務省の下級役人として宮仕えをしていた。そのつてで、私は都の外れにある古い離宮へ、ひとりの幼い皇子の世話係として遣わされた。
 皇子の名は蛍丸といった。先帝の八番目の御子で、御年八歳。
 けれど離宮に着いた日、私が見たのは、几帳の陰で膝を抱えてうずくまる、八歳とは思えないほど細くて小さな男の子だった。
「……だれ」
 ぼさぼさの前髪の隙間から、夜の湖のような深い青の瞳がこちらをうかがっていた。
 龍の瞳だ、と聞いていた。この国の帝の血筋には、遥か昔に龍神と交わった祖の血が流れているという。たいていの皇族はその名残をわずかに持つだけだが、ごく稀に、血の濃い御子が生まれる。蛍丸さまがそうだった。
 血の濃い御子は、力が安定するまで、感情が昂ぶると周囲に風を呼び、雷を招き、時には物の怪まで引き寄せてしまう。だから宮中の人々は彼を「鬼を呼ぶ忌み子」と呼び、母君が亡くなるとすぐに、この寂しい離宮へと追いやった。
 仕える者は何人いても、誰も長くは続かなかった。皆、怖がってすぐに辞めてしまうのだという。
「柚葉と申します。今日から蛍丸さまのお世話をいたします」
「どうせ、すぐいなくなるくせに」
 小さな声だった。拗ねているのではなく、本当にそう信じ込んでいる声だった。
 私はしばらく考えて、几帳の前に正座した。
「では、わたくしがいつまでいるか、蛍丸さまが見張っていてくださいませ」
「……みはる?」
「はい。毎朝、わたくしがまだいるか、確かめにいらしてください。いなくなっていたら、蛍丸さまの勝ちです」
 男の子は、ぽかんと口を開けた。それから、ほんの少しだけ、几帳の陰から体を乗り出した。
 次の朝、まだ夜も明けきらないうちに、私の局の戸がそっと開いた。
 薄目を開けると、戸の隙間から青い瞳がのぞいていた。私が「おはようございます」と声をかけると、彼は弾かれたように逃げていった。
 その次の朝も、そのまた次の朝も。
 ひと月が過ぎる頃には、彼は戸の隙間からではなく、私の夜具の横にちょこんと座って、私が目を覚ますのを待つようになっていた。
「ゆず、まだいた」
「はい。まだおりますよ、ほた」
 いつからか、私は彼を「ほた」と呼び、彼は私を「ゆず」と呼ぶようになった。
 ほたは雷が何より怖かった。自分の力が雷を呼ぶのだと、幼いながらにわかっていたのだろう。遠くで空が鳴るたび、彼は私の袖をぎゅっと握りしめ、そこから離れなかった。
 そんな夜、私は彼を膝に抱いて、母が昔歌ってくれた子守唄を口ずさんだ。
 ──ねんねん ころりよ ほたるのこ    あおいひかりは ゆめのみち
 蛍丸という名に合わせて、少しだけ詞を変えた歌だった。不思議なことに、私が歌うと、離宮の屋根を叩いていた風が少しずつ凪いでいった。ほたの体のこわばりがほどけ、やがて小さな寝息が聞こえてくる。
「ゆずの歌、すき」
 眠りに落ちる間際、ほたはいつもそう呟いた。
 秋には庭の渋柿を一緒に干した。軒先に吊るした柿が甘くなるのを、ほたは毎日数えて待った。初めて食べた干し柿に目を丸くして、「あまい」と言ったときの顔を、私はいまでも覚えている。
 二年が過ぎた。
 ほたは少しずつ笑うようになり、背も伸びた。それでも私より頭ひとつ小さくて、雷の夜には相変わらず私の袖を握っていた。
 別れは突然だった。
 父が、上役の不正の濡れ衣を着せられて職を解かれたのだ。役人の娘という身分で離宮に上がっていた私も、その日のうちに暇を出された。
「皇子さまには、何も申し上げずに去るように。罪人の娘が近くにいたと知られれば、皇子さまのお立場にも障る」
 離宮の長はそう言った。
 私は言われるままに荷をまとめた。別れを告げれば、ほたは泣く。泣けば、また嵐を呼ぶ。そうなれば、彼はますます「忌み子」と呼ばれる。
 だから私は、まだ夜の明けない朝、眠るほたの枕元に、編みかけていた組紐の片割れを置いて、離宮を出た。
 あの子が目を覚まして、戸を開けて、私の局が空っぽなのを見たとき、どんな顔をしたのか。
 私はそれを、この十年、一度も想像しないようにしてきた。
 *
 後宮での暮らしは、沙月さまの言葉どおり、目が回るような忙しさだった。
 夜明け前に起きて水を汲み、殿舎の床を磨き、女御さま方の衣装を運び、膳を下げ、灯明の油を足す。日が落ちてからも、繕い物や香の支度に追われた。
 それでも、体を動かしているあいだは余計なことを考えずにすむ。
 出仕して七日目の夜のことだった。
 ようやく一日の務めを終えて局へ戻る途中、私は回廊からひとり、裏庭へと下りた。下働きの女官に与えられる局は六人の相部屋で、誰かの寝息を聞きながら物思いにふけることもできない。少しだけ、ひとりになりたかった。
 裏庭には古い池があった。水面に、ほとんど満ちた月が映っている。
 池のほとりの石に腰を下ろし、私は無意識のうちに、手首の組紐を指でなぞっていた。
 ──いまの帝は、蒼真さまとおっしゃる。
 出仕してすぐ、同室の女官たちから聞かされた。二年前、先帝が崩御されたあと、並み居る兄皇子たちを退けて即位された、若き龍帝。御歳二十。誰も知らない離宮で育ったとも、遠い地で武功を立てて戻ったとも噂されている。
 蒼真。
 蛍丸は、幼名だ。皇子は元服のときに名を改める。だから、いまの帝が誰なのか、名前だけではわからない。
 わからない、ことにしておきたかった。
 先帝の御子は十人を超えていた。八番目の皇子が、兄たちを押しのけて帝になるなど、ありえない。きっとほたは、どこか遠い領地で、静かに暮らしているのだろう。あの子にはそれが似合っている。雷の怖くない、穏やかな場所で。
 そう思いながら、私は月を見上げて、ほとんど吐息のような声で歌った。
 ──ねんねん ころりよ ほたるのこ    あおいひかりは ゆめのみち
 歌い終えたとき、背後で砂利を踏む音がした。
 はっと振り返る。
 月明かりの下に、ひとりの男が立っていた。
 背が高い。私が首を反らさなければ顔が見えないほどに。濃紺の直衣を身にまとい、腰まで届く黒髪をゆるく結っている。月を背にしているせいで表情は見えない。けれど、その立ち姿だけで、ただの公達ではないとわかった。周囲の空気そのものが、彼を中心に静まり返っている。
「も、申し訳ございません。夜分にお騒がせを──」
 慌てて立ち上がり、地面に膝をつこうとした私の前で、男が一歩、踏み出した。
 月の光が、彼の顔を照らす。
 切れ長の目。すっと通った鼻筋。薄い唇。少年の面影などどこにもない、大人の男の顔だった。
 ただ、その瞳だけが。
 夜の湖のような、深い、深い青。
 息が止まった。
「……その歌を、どこで覚えた」
 低く、よく通る声だった。私の知っている、甲高くて、すぐに涙でかすれる声とはまるで違う。
 答えられなかった。喉が凍りついたように動かない。
 男は、私の顔をじっと見下ろしていた。その視線が、ゆっくりと私の左の手首へ落ちる。袖口から、色褪せた藍と白の組紐がのぞいていた。
 彼の目が、ほんのわずかに見開かれた。
 そして次の瞬間、その唇の端が、静かに持ち上がった。
「ようやく見つけた」
 それだけだった。
 男は踵を返し、闇の中へと歩き去っていく。いつの間にか回廊の陰に控えていた数人の影が、音もなくその後に従った。近衛の武官だ、と気づいたのは、彼らの姿が見えなくなってからだった。
 私はその場に、へたり込んだ。
 池の水面で、月が揺れている。
 あれは、帝だ。
 この国でただひとり、近衛を従えて後宮の庭を歩くことを許された人。
 そして、あの青い瞳は──。
「……ほた」
 震える唇から、十年ぶりにその名がこぼれた。
 答える者は、もうどこにもいなかった。
第二章 逆転
 翌朝、私は沙月さまに呼び出された。
 局の前で待っていた沙月さまは、ひどく難しい顔をしていた。手には一通の書状がある。
「柚葉。そなた、何をした」
「え……」
「今朝、蔵人所からお達しがあった。本日より、そなたを清涼殿付きの女官とする、と。帝の御身の回りのお世話をする役目だ」
 頭の中が真っ白になった。
 清涼殿は、帝が日々の政を執り、寝起きされる御殿だ。そこに仕える女官は、名家の娘の中から、長く後宮に仕えて信頼を得た者だけが選ばれる。出仕して七日の下働きが上がれる場所ではない。
「何かの、お間違いでは」
「わたくしもそう申し上げた。だが、帝直々のご指名だそうだ」
 沙月さまは書状を畳み、私をじっと見た。叱るのでも、探るのでもない、静かな目だった。
「わたくしは何も聞かぬ。だが柚葉、覚えておきなさい。後宮で帝のお目に留まるということは、同じだけの数の目に睨まれるということだ」
「……はい」
 その言葉の重さを、私はまだ半分も理解していなかった。
 *
 清涼殿の奥、昼御座と呼ばれる帝の御座所に通されたとき、私は顔を上げることができなかった。
 平伏した私の前で、衣擦れの音がした。
「下がっていい」
 昨夜と同じ、低い声。控えていた女官たちが、さざ波のように退いていく気配がする。やがて、広い御座所に残ったのは、私と、その声の主だけになった。
「顔を上げろ、柚葉」
 名を呼ばれて、肩が跳ねた。
 おそるおそる顔を上げる。
 脇息にゆったりと肘をつき、蒼真帝がこちらを見下ろしていた。昼の光の中で見る彼は、昨夜よりもさらに大人びて見えた。白の御引直衣に包まれた肩は広く、袖から伸びる手は大きい。整いすぎた顔立ちは、表情がないと冷たく見えるほどだった。
 けれど、その口元には、昨夜と同じかすかな笑みが浮かんでいる。
「ずいぶん他人行儀だな」
「……帝におかれましては、ご機嫌麗しゅう──」
「やめろ」
 短く遮られる。
「昔のように呼べとは言わない。だが、そこまで遠くに座られると話もしにくい。来い」
 彼は、自分のすぐそばの床を、とん、と指で叩いた。
 私は動けなかった。
 この人が、ほたなのだ。わかっている。わかっているのに、頭が追いつかない。私の袖を握って震えていた、あの細い指。私の膝にすっぽりおさまっていた、小さな体。それが、どうしてこうなるのだろう。
「柚葉」
 もう一度、名を呼ばれる。今度は少しだけ、声が低くなった。
「帝の命だ」
 その一言で、私はようやく膝を進めた。言われた場所に、身を固くして座る。近い。几帳一枚ぶんの距離もない。彼の衣から、焚きしめた香の匂いがした。沈香に、わずかに白檀を合わせた、落ち着いた香り。
 昔のほたは、日なたの匂いがした。
「……お尋ねしても、よろしいでしょうか」
「許す」
「なぜ、わたくしを清涼殿に」
「そばに置きたいからだ」
 あまりにもあっさりと言われて、私は言葉を失った。
 蒼真帝は、頬杖をついたまま、面白そうに私の顔を眺めている。
「そ、そのような……わたくしは、出仕したばかりの下働きで、帝のお側に仕える身分では」
「身分を決めるのは俺だ」
「ですが、周りの方々が」
「周りのことも俺が決める」
 取りつく島もない。
 私は唇を噛んだ。このままでは、すべて彼の思うままに押し流されてしまう。十年ぶりに会った相手に、何ひとつ言えないまま。
「帝」
 思いきって、まっすぐに彼を見た。
「わたくしは、二十四になりました。帝より四つも年上の、嫁ぎ遅れた没落貴族の娘です。帝が昔のよしみで情けをかけてくださるのは、身に余る光栄ですが──」
「情け?」
 彼の眉が、わずかに動いた。
「ええ。わたくしは昔、帝のお世話をさせていただきました。それを覚えていてくださったのは、本当に嬉しく思います。けれど、もうあの頃とは違います。帝は、この国の主で、わたくしは……」
 そこまで言ったとき、ふいに、大きな手が伸びてきた。
 指先が、私の顎をすくい上げる。逃げる間もなかった。
 すぐ目の前に、あの青い瞳があった。
「昔は」
 低い声が、吐息とともに落ちてくる。
「俺が泣くたびに、お前が抱きしめてくれたな」
 心臓が、大きく跳ねた。
「雷が鳴れば膝に乗せてくれた。眠れなければ歌ってくれた。怖い夢を見たと言えば、朝まで手を握っていてくれた」
「そ、それは、帝がまだお小さかったから──」
「今度は俺の番だ」
 顎に添えられた指に、ほんの少し、力がこもる。
「年上だろうが、身分がなかろうが、そんなことはどうでもいい。お前がどこにも行かないよう、今度は俺が見張っていてやる」
 ──わたくしがいつまでいるか、蛍丸さまが見張っていてくださいませ。
 十二年前、几帳の前で、自分が言った言葉だった。
 この人は覚えている。全部。
 顔が熱い。息がうまくできない。何か言わなければと思うのに、唇は震えるばかりで、言葉が出てこない。
 蒼真帝は、そんな私をしばらく眺めていたが、やがてふっと笑って手を離した。
「今日はこのくらいにしておく。下がっていい」
 私は、ほとんど転がるようにして御座所を退いた。
 *
 清涼殿付きの女官となってからの日々は、それまでとはまったく別の意味で、目が回るようだった。
 仕事そのものは、むしろ楽になった。帝の衣装を整え、膳を運び、硯に墨をすり、香を焚く。どれも離宮で一通り覚えたことばかりだ。
 困るのは、帝のほうだった。
「柚葉、茶を」
「柚葉、この書状を読み上げろ」
「柚葉、少し肩が凝った」
 何かにつけて、私の名を呼ぶ。ほかにも清涼殿付きの女官は何人もいるのに、まるで私しかいないかのように。
 しかも、そのたびに妙に距離が近い。墨をすっていれば手元を覗き込まれ、衣装を整えていれば頭の上から見下ろされる。私が慌てて身を引くと、彼は決まって、口の端だけで笑うのだ。
 からかわれている、とわかっていた。
 わかっていても、うまくかわせない自分が悔しかった。昔は私が彼をあやして、からかって、笑わせていたのに。いまはまるで、立場がすっかり逆さまだ。
 ほかの女官たちの視線も、日に日に冷たくなっていった。
「出仕して七日で清涼殿だなんて。どんな手を使ったのかしら」
「年増のくせに、よくやるわ」
 聞こえよがしの陰口にも、私は黙って頭を下げるしかなかった。言い返せば、それこそ帝のご寵愛を笠に着ていると言われる。
 それに、彼女たちの言うことは、半分は当たっているのだ。私は帝に釣り合う身分でも、年でもない。帝がいま私をそばに置くのは、きっと、懐かしさと、少しばかりの意地悪のせいだ。じきに飽きて、もっと若く美しい姫君たちのほうへ心を移すだろう。
 そう考えると、なぜか胸の奥がちくりと痛んだ。
 *
 ある日の昼下がり、私は里から届いた包みを抱えて、清涼殿の裏手にある小さな局にいた。
 母からの便りだった。弟が手習いで褒められたこと。庭の柿の木に、今年もたくさん実がつきそうなこと。そして包みの中には、去年の秋に干した干し柿が、油紙に包まれて三つ、入っていた。
「……懐かしい」
 ひとつ手に取ると、白い粉をふいた表面が、指にしっとりと馴染んだ。
「何が懐かしいんだ」
 突然、頭の上から声が降ってきて、私は干し柿を取り落としそうになった。
「み、帝! なぜこのような場所に」
「昼御座にいなかったから探しに来た」
 当たり前のように言って、蒼真帝は狭い局に身をかがめて入ってきた。供の者もつれていない。帝が下仕えの局にひとりで足を運ぶなど、聞いたこともない。
「お、お呼びくだされば参りましたのに」
「呼んでも来なかったら困るだろう」
 どういう理屈なのか。
 彼は私の向かいに、ためらいもなく腰を下ろした。長い脚を持て余すように片膝を立て、私の手元を覗き込む。
 そして、ふと、動きを止めた。
「……それは」
 視線の先には、私の手の中の干し柿があった。
「里の母が、送ってくれたのです。庭の柿で作ったもので──」
 言い終わる前に、彼の手がすっと伸びてきた。
 干し柿をひとつ、私の手からさらっていく。止める間もなく、彼はそれを口に運んだ。
 ひと口、かじる。
 その瞬間だった。
 ずっと大人びた、隙のない表情を浮かべていた彼の顔が、ふっと、ほどけた。
 目尻が下がり、頬がゆるむ。口元に浮かんだのは、皮肉めいた笑みではなく、幼い子どもが好物を前にしたときのような、まっさらな笑顔だった。
「……あまい」
 小さな呟きが、こぼれ落ちた。
 十二年前、軒先に吊るした柿を毎日数えて、ようやく食べられた日。目をまんまるにして、同じことを言った男の子の顔が、目の前の顔に重なった。
 ああ、と思った。
 この人は、やっぱりほただ。
 背が伸びても、声が低くなっても、どれほど威厳を身にまとっても。この人の中には、あの日の小さな男の子が、ちゃんといる。
 気づけば、私の口元もゆるんでいた。張りつめていた何かが、すうっと解けていく。
「お気に召しましたか」
「ああ。お前の干し柿が、一番うまい」
「わたくしではなく、母が干したものですよ」
「同じ味がする」
 彼はそう言って、残りをあっという間に平らげた。そして、包みの中に残ったふたつを、名残惜しそうに見つめる。
 その様子があまりにも昔のままで、私はとうとう、小さく吹き出してしまった。
「どうぞ。おひとつ、差し上げます」
「……ふたつとも、とは言わないのか」
「ひとつは母の分です。わたくしが、いただかないと」
 蒼真帝は、少しだけ不満そうに眉を寄せた。それから、ふいに左の耳たぶを指でつまんだ。
 その仕草にも、見覚えがあった。ほたは、自分のわがままが通らないとき、きまり悪そうに耳たぶをいじる癖があったのだ。
「……わかった。ひとつでいい」
 ぼそりと言って、彼は干し柿を受け取った。それを大事そうに懐紙に包み、袖に入れる。
 そして立ち上がり、局を出ていこうとして、戸口でふと振り返った。
「柚葉」
「はい」
「やっと、笑ったな」
 それだけ言って、彼は去っていった。
 私はひとり局に残されて、手の中の最後の干し柿を見つめた。
 胸が、どきどきと鳴っていた。それが懐かしさのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、私にはまだ、わからなかった。
第三章 龍の夜
 梅雨に入ると、後宮の空気はどこか重く、湿りを帯びるようになった。
 その頃から、私は清涼殿の中に、ある奇妙な決まりがあることに気づきはじめた。
 雨の強い日、とりわけ遠くで雷の音が聞こえる日には、帝はいつもより早く政務を切り上げ、夜御殿にこもってしまう。そして、そういう夜に限って、帝の寝所の周りから女官たちがすべて遠ざけられるのだ。
 代わりに、夜御殿の四方を固めるのは、近衛の武官と、白い装束をまとった陰陽寮の術者たちだった。
「雨の夜は、清涼殿の奥へ近づいてはならない」
 古参の女官からそう言い含められたとき、私は理由を尋ねなかった。尋ねなくても、わかる気がしたからだ。
 ──血の濃い御子は、力が安定するまで、感情が昂ぶると周囲に風を呼び、雷を招く。
 ほたは、帝になったいまも、あの頃と同じものを抱えているのかもしれない。
 そう思うと、胸の奥がざわついた。昼間、あれほど余裕たっぷりに私をからかう人が、夜には何を抱えて、ひとりきりで閉じこもっているのだろう。
 *
 その日の昼、私は初めて、藤壺の女御さまにお目通りした。
 右大臣の姫君で、後宮に入られて二年。いまだ皇后は立てられていないが、いずれその座に就くのは藤壺さまだろう、と誰もが噂していた。
 帝のもとへご機嫌伺いに参上された女御さまは、噂にたがわぬ美しい方だった。藤色の唐衣に、艶やかな黒髪。白い頬に、紅を差した小さな唇。年は十八と聞いていたが、その落ち着いた物腰は、ずっと大人びて見えた。
 帝との短いやりとりを終え、御座所を退かれる途中、女御さまはふと、控えていた私の前で足を止めた。
「そなたが、柚葉ね」
 鈴を転がすような声だった。
「は、はい」
「帝がずいぶんとお気に召しているとか。なんでも、昔のお知り合いだそうね」
 穏やかな微笑み。けれど、扇の陰からこちらを見下ろす瞳は、少しも笑っていなかった。
「お世話になっていたのですって? 帝がまだ、お小さかった頃に」
「……身に余るお役目をいただいておりました」
「そう。それなら、帝がそなたを懐かしがるのも無理はないわね」
 女御さまは扇をぱちりと閉じた。
「乳母のようなものですもの」
 それだけ言って、女御さまは衣擦れの音とともに去っていった。あとに、甘い藤の香りだけが残った。
 乳母のようなもの。
 その言葉は、思っていたよりも深く、私の胸に刺さった。
 間違ってはいない。私は昔、ほたの世話係だった。年上で、身分もなく、彼に懐かしい日々を思い出させるだけの存在。帝が私をそばに置くのは、それ以上の理由ではない。
 わかっていたはずなのに。
 どうしてこんなに、苦しいのだろう。
 *
 その夜は、夕刻から雨脚が強くなった。
 日が落ちる頃には、空の奥で低い雷鳴が響きはじめた。私たち女官は早々に清涼殿の奥から下がるよう命じられ、控えの局に集まって息をひそめていた。
 風が出てきた。蔀戸ががたがたと鳴り、灯明の火が大きく揺れる。
「今夜は、ひどいわね」
 誰かが小声で呟いた。
「去年の秋の嵐の夜なんて、紫宸殿の屋根の瓦が飛んだのよ」
「しっ。滅多なことを言うものではないわ」
 女官たちは、それきり口をつぐんだ。誰もが同じことを考えていて、誰もそれを言葉にしない。
 この嵐は、ただの嵐ではない。
 空が白く光った。一拍おいて、耳をつんざくような雷鳴が轟く。局の柱がびりびりと震え、誰かが小さく悲鳴を上げた。
 私は膝の上で、両手を固く握りしめていた。
 ──ゆず、こわい。
 幼い声が、耳の奥でよみがえる。
 雷が鳴るたびに、ほたは私の袖を握った。自分が呼んだ雷だとわかっていて、だからこそ余計に怖がった。自分のせいで誰かが傷つくのが、何より怖かったのだ。
 あの子はいま、ひとりなのだろうか。
 術者や武官に囲まれて、それでもたったひとりで、この雷を抱えているのだろうか。
 そのとき、局の戸が乱暴に開いた。
「橘柚葉はおるか」
 飛び込んできたのは、ずぶ濡れになった壮年の男だった。束帯姿で、冠が雨に濡れて傾いている。見覚えがあった。帝の側近として、いつも御座所に控えている蔵人頭の高階さまだ。
「わ、わたくしです」
「来てくれ。帝がお呼びだ」
 局の女官たちが一斉に息を呑んだ。
「……帝が?」
「いや、正確には、帝ではない」
 高階さまは、苦しげに顔をゆがめた。
「お呼びしているのは、私だ。帝は今、誰の言葉もお聞きになれる状態ではない。陰陽寮の結界も、もう長くはもたぬ。だが──」
 彼は、私をまっすぐに見た。
「帝は以前、仰せになった。もし自分が抑えきれなくなったら、そなたを呼べ、と。そなたの歌なら、届くかもしれぬ、と」
 考えるより先に、体が動いていた。
 *
 渡り廊下は、横殴りの雨で水浸しだった。
 高階さまに導かれて走る私の頭上で、空が何度も裂けるように光った。清涼殿に近づくほど、風は強くなる。まるで、嵐の中心がそこにあるかのように。
 夜御殿の前では、白装束の術者たちが印を結んだまま、青ざめた顔で立ち尽くしていた。彼らが張った結界の札が、風にあおられて今にもちぎれそうにはためいている。
「お入りください。ただし、危ないと思ったらすぐに逃げるのだ」
 高階さまの言葉にうなずいて、私は御帳台のある奥の間へと踏み入った。
 息を呑んだ。
 灯りはすべて消えていた。闇の中、部屋の中央に、ひとりの男がうずくまっている。
 蒼真帝だった。
 白い夜着の背が、苦しげに上下している。長い黒髪が床に乱れ、その周りを、青白い光の筋がいくつも、蛇のようにのたうっていた。それが光るたびに、外で雷が鳴る。
 彼の体から、目に見えるほどの力があふれ出していた。
「……来るな」
 かすれた声がした。
「出ていけ。誰も、近づくな」
 顔を上げた彼の瞳は、青を通り越して、ほとんど白く発光していた。額には汗がにじみ、歯を食いしばった口元から、苦痛の息が漏れている。
 あの余裕に満ちた笑みは、どこにもなかった。
 昼間、私をからかっていた人とは、まるで別人だ。
 ──いいえ。
 私は知っている。この顔を。
 十二年前の離宮で、雷の夜に、几帳の陰でうずくまっていた男の子の顔と、同じだ。
「来るなと、言って……っ」
 彼が叫んだ瞬間、光の筋がひときわ大きくうねり、私の足元の床板をえぐった。焦げた匂いが鼻をつく。
 怖くない、と言えば嘘になる。
 けれど私は、一歩、また一歩と、彼に近づいた。
 そして、震える彼の前に膝をつき、その背に、そっと手を回した。
 びくり、と彼の体が強張る。
「大丈夫ですよ」
 十二年前と同じ言葉を、同じ声で言った。
「わたくしは、ここにおります」
 そして、歌った。
 ──ねんねん ころりよ ほたるのこ    あおいひかりは ゆめのみち    ないてもいいよ こわくない    あさまで ここに いるからね
 声が震えないように、ゆっくりと。彼の背を、拍子に合わせて軽く叩きながら。
 一度目では、何も変わらなかった。光の筋は相変わらず床を這い、外では雷が鳴り続けていた。
 二度目に歌い始めたとき、私の腕の中で、彼の呼吸が少しだけ深くなった。
 三度目には、光の筋が、ひとつ、またひとつと、闇に溶けるように消えていった。
 四度目を歌い終える頃には、外の雷鳴は遠のき、屋根を叩く雨の音だけが、静かに部屋を満たしていた。
 彼の体から、ふっと力が抜けた。
 大きな体が、ゆっくりと私のほうへ傾いてくる。私はそれを受け止めて、自分の膝の上に、彼の頭を乗せた。
 昔は、膝にすっぽりおさまるほど小さかったのに。いまは頭ひとつ乗せただけで、膝がいっぱいになってしまう。
 汗に濡れた前髪を、指でそっと払う。
 瞳の光は、もう普段の深い青に戻っていた。けれどその目はぼんやりとして、焦点が合っていない。眠りに落ちる、ほんの手前。
 彼の唇が、かすかに動いた。
「……ゆず」
 息が、止まった。
 低く大人びた声ではなかった。どこか舌足らずで、甘えるような、幼い響き。
 十二年前、毎晩のように聞いていた声だった。
「ゆず……まだ、いた」
 彼の手が、私の袖を探るように動いた。そして、見つけた布地を、ぎゅっと握りしめる。
 あの頃と、まったく同じように。
 涙が、こぼれた。
 止めようと思っても、止まらなかった。ぽたぽたと落ちた雫が、彼の頬を濡らす。
「……はい」
 喉の奥から、やっとの思いで声を絞り出す。
「まだ、おりますよ。……ほた」
 彼の口元が、ほんのわずかに、安心したようにゆるんだ。
 そして、深い寝息が聞こえはじめた。
 *
 夜が明けるまで、私は彼の頭を膝に乗せたまま、動かなかった。
 障子の向こうが白みはじめた頃、そっと戸が開いて、高階さまが顔をのぞかせた。眠る帝と、その膝枕をしている私の姿を見て、彼は深々と、頭を下げた。
「……礼を言う」
 小声だった。
「帝がこれほど穏やかにお休みになるのは、即位されてから、初めてのことだ」
「初めて……?」
「帝の御力は、即位されてから日に日に強くなっている。龍の血を継ぐ帝として国を守るには、それだけの力が要る。だが、それを鎮める術を、帝はお持ちではなかった。嵐の夜はいつも、陰陽寮の結界の中で、朝までひとりで耐えておられた」
 私は、膝の上の寝顔を見下ろした。
 昼間はあんなに堂々として、何でも思いのままにしているように見えた人が。
 ずっと、ひとりで、耐えていた。
「帝はずっと、そなたを探しておられた」
 高階さまが、静かに言った。
「即位されてすぐ、私に命じられたのだ。十年前に離宮を去った娘を探せ、と。だが、橘家は屋敷を手放して都を離れ、行方が知れなかった。そなたが後宮に上がったと知れたのは、帝が庭でそなたの歌を聞かれた、あの夜のことだ」
 ──ようやく見つけた。
 あの夜の言葉の意味が、ようやくわかった。
 胸がいっぱいになって、私は何も言えなかった。
 けれど同時に、心の奥で、冷たい声が囁いていた。
 帝が私を探していたのは、この力を鎮めるためだったのではないか。
 嵐を止める歌を歌える者が、ほかにいないから。
 ただ、それだけのことなのではないか、と。
第四章 すれ違い
 帝が目を覚ましたのは、日がすっかり高くなってからだった。
 私の膝の上で、長い睫毛がふるりと震え、青い瞳がゆっくりと開く。ぼんやりと天井を見上げていたその目が、やがて私の顔をとらえた。
 一瞬の沈黙。
 それから、帝は弾かれたように身を起こした。
「……っ」
 乱れた髪を片手でかき上げ、私から顔をそむける。けれど、黒髪の隙間からのぞく耳の先が、見たこともないほど赤く染まっていた。
「お、おはようございます」
「……ああ」
「お加減は、いかがですか」
「悪くない」
 ぶっきらぼうに答えながら、帝の指が、左の耳たぶをしきりにつまんでいる。
 私は、思わず笑いそうになるのを、唇を噛んでこらえた。昨日まであんなに余裕たっぷりに私をからかっていた人が、いまは私の顔をまともに見ることもできずにいる。
「……昨夜のことは」
 帝が、低い声で言った。
「何か、口走ったか。俺は」
「いいえ」
 私は首を横に振った。
「何も。ぐっすりお休みでした」
 嘘だった。
 けれど、あの「ゆず」という声は、私だけの胸にしまっておきたかった。誰にも、本人にさえも、渡したくなかった。
 帝は疑わしげに私を横目で見ていたが、やがて小さく息をついた。
「……礼を言う」
「もったいないお言葉です」
「柚葉」
 名を呼ばれて顔を上げると、帝はもう、いつもの顔に戻っていた。少しだけ口の端を上げた、あの見慣れた笑み。
「足は、しびれていないか」
「……少しだけ」
「立てるか」
 言うが早いか、彼は私の手を取って、ひょいと引き起こした。しびれた足がもつれて、私はそのまま彼の胸に倒れ込んでしまう。
 大きな腕が、危なげなく私を受け止めた。
「ほら見ろ。昔から無理をする」
 頭の上から、笑いを含んだ声が降ってくる。
 昔から。
 その言葉に、また胸の奥がきゅっとなった。
 *
 噂が流れはじめたのは、それから三日後のことだった。
「聞いた? 清涼殿の新しい女官のこと」
「ああ、あの年増の。嵐の夜に帝の寝所に呼ばれたのですってね」
「でもそれ、ご寵愛とは違うらしいわよ。藤壺の女房から聞いたのだけれど、あの女官は、帝の御力を鎮めるためだけに呼ばれているのですって」
「まあ。それじゃまるで──」
「そう。道具みたいなものよ。陰陽寮の札と同じ」
 くすくすと笑う声が、回廊の角の向こうから聞こえてきた。
 私は、手にした衣装箱を抱え直して、その場をそっと離れた。
 道具。
 陰陽寮の札と、同じ。
 何度も頭の中で繰り返す。不思議と、腹は立たなかった。それよりも、すとんと、何かが腑に落ちた気がした。
 そうだ。きっと、そういうことなのだ。
 帝は、龍の血を鎮める術を持たずに、ひとりで苦しんできた。そこへ、昔自分の嵐を止めた娘が現れた。手元に置いておきたいと思うのは当然だ。清涼殿付きに引き上げたのも、そばに置きたいと言ったのも、全部、そのため。
 ──今度は俺の番だ。
 ──お前がどこにも行かないよう、今度は俺が見張っていてやる。
 あれは、どこにも行かれては困るから。
 嵐の夜に、歌う者がいなくなっては困るから。
 そう考えれば、すべて辻褄が合う。年上で、身分もない女を、帝がわざわざそばに置く理由も。
 それなのに、どうしてだろう。
 腑に落ちたはずの胸が、こんなにも、痛いのは。
 *
 その夜、局に戻った私は、里の母への便りを書こうとして、筆を止めた。
 何を書けばいいのか、わからなかった。帝のおそばに仕えていると書けば、母は喜ぶだろう。けれど、その帝が昔私が世話をした皇子だとは、書けない。書けば母は、十年前のことを思い出してしまう。
 十年前。
 私が離宮を去ったあと、父は濡れ衣を晴らせないまま官職を失った。暮らしは日に日に苦しくなり、母は寝る間も惜しんで繕い物の内職をした。私も、それを手伝った。ほたのことを考えないように、ひたすら針を動かした。
 そしていつか、思うようになったのだ。
 私は、あの子を捨てたのだ、と。
 家の命令だった。皇子さまのためだった。そう言い訳することはできる。けれど結局、私は何も告げずに、眠っているあの子を置いて出ていった。「どこにも行かないで」と泣いた子を。
 そんな私に、帝のそばにいる資格などない。
 道具でもいい、と一瞬思った。せめて嵐の夜に歌うことで、昔の償いができるなら。
 でも、無理だった。
 あの人のそばで、あの人に笑いかけられて、昔と変わらない仕草を見つけるたびに、胸が苦しくなる。からかわれるたびに顔が熱くなる。藤壺さまが帝の御座所に参上されると、息が詰まる。
 こんな気持ちを抱えたまま、ただの道具として仕えることなど、できるはずがない。
 私は筆を置き、新しい紙を広げた。
 書いたのは、母への便りではなかった。
 里下がりを願い出る、願い書だった。
 *
「どういうつもりだ」
 翌日の昼、昼御座に呼び出された私の前に、帝は願い書を叩きつけるように置いた。
 御座所には、私と帝のふたりきりだった。帝が人払いを命じたのだ。いつもの、あの面白がるような笑みはどこにもない。青い瞳が、冷たく私を見据えていた。
「母が、体を悪くしておりまして」
 用意していた言葉を口にする。
「里へ戻り、看病をしたいと──」
「嘘だな」
 一言で切り捨てられた。
「お前の里には人をやって、様子を見させている。母御は息災だ。弟は手習いに励んでいる。干し柿も、去年より多く吊るしたそうだな」
 私は、言葉を失った。
 いつの間に、そんなことまで。
「本当の理由を言え、柚葉」
「……申し上げることは、ございません」
「言え」
 低い声に、かすかな苛立ちがにじむ。御座所の外で、風が木々を揺らす音がした。
 私はうつむいたまま、膝の上で手を握りしめた。
「帝には、わたくしなど必要ございません」
「何だと」
「陰陽寮の方々に、わたくしの歌を書き取っていただきます。節も、詞も、すべてお教えします。わたくしでなくとも、きっと誰かが歌えるようになります。そうすれば、嵐の夜も──」
「お前は」
 帝の声が、震えた。
 怒りのせいだ、と思った。けれど顔を上げると、そこにあったのは、怒りだけではない、もっと別の何かだった。
「お前は、俺が、歌のためだけにお前を探したと思っているのか」
 答えられなかった。
 沈黙を、答えと受け取ったのだろう。帝の顔が、ぐっとゆがんだ。
 外で、ごう、と風が鳴った。
 蔀戸が大きく揺れ、御簾がはためく。晴れていたはずの空が、いつの間にか灰色の雲に覆われていた。
「帝……っ、御力が」
「また、何も言わずに消えるつもりか」
 押し殺したような声だった。
「十年前と同じように。俺が眠っているあいだに、組紐ひとつ置いて」
 息が、止まった。
「あの朝、俺がどんな思いでお前の局の戸を開けたか、お前は知らないだろう」
 帝の拳が、膝の上で白くなるほど握りしめられていた。
「空っぽの局を見て、俺は思った。やっぱりそうだ、と。誰も俺のそばにはいてくれない。ゆずも、結局は俺が怖かったんだ、と」
「ちがいます……!」
 思わず叫んでいた。
「ちがいます、わたくしは、帝が怖かったことなど一度も……っ、ただ、父が罪を着せられて、皇子さまのお立場に障るからと、何も告げずに去るように言われて……」
「わかっている」
 帝は、苦しげに目を閉じた。
「あとで、すべて調べた。お前が去った理由も、橘の家に何があったのかも。お前のせいではないことも、わかっている」
「それなら……」
「わかっていても」
 彼が目を開けた。青い瞳が、揺れていた。
「お前がまた、いなくなろうとしているのは、変わらないだろう」
 空が、白く光った。
 遅れて、遠い雷鳴。
 帝ははっとしたように自分の手のひらを見下ろし、それから、ぐっと奥歯を噛みしめた。荒く息をつき、ゆっくりと吐き出す。何度も、何度も。やがて、外の風が少しずつおさまっていった。
 彼は、自分の力で、嵐を鎮めたのだ。
 私の歌なしで。
「……龍神祭が、ひと月後にある」
 帝は、私から目をそらしたまま言った。
「国の豊穣を祈る、年に一度の大祭だ。それまでは、ここにいろ。そのあとは──お前の好きにすればいい」
 そして、願い書をつかんで立ち上がり、御座所を出ていった。
 ひとり残された私は、しばらく動くことができなかった。
 *
「ひどい顔だね」
 その夜、局の前で私を待っていたのは、沙月さまだった。
 何も言えずに立ち尽くす私の手に、温かい湯呑みを押しつける。
「わたくしは何も聞かぬと言った。だが、ひとつだけ教えてやろう」
 沙月さまは、遠くの清涼殿の灯りを見やった。
「わたくしは先帝の御代から、この後宮に仕えている。だから、即位されたばかりの頃の帝も知っている。嵐の夜が明けると、帝はいつも、ひどくやつれたお顔で、夜御殿から出てこられた。誰にも弱音を吐かず、誰にも頼らず。まだ二十にもならない若者が、たったひとりで、国を背負っておられた」
「……はい」
「それが、そなたが来てから、変わった」
 沙月さまは、私の顔をまっすぐに見た。
「歌の話ではない。昼間の話だ。帝が、あのように笑っておられるのを、わたくしは初めて見た。そなたをからかって、そなたが困った顔をするのを見て、まるで子どものように楽しそうに。干し柿ひとつで、あんなにほころんだお顔をなさるのも」
 湯呑みを持つ手が、震えた。
「道具に、あのような顔をする者はおらぬよ、柚葉」
 それだけ言って、沙月さまは去っていった。
 私は湯呑みを抱えたまま、清涼殿の灯りを見つめていた。
 その灯りは、夜が更けても、消えることはなかった。
第五章 祭祀の夜の陰謀
 それからのひと月は、ひどく静かだった。
 帝は、もう私の名を呼ばなかった。
 茶を運べば黙って受け取り、書状を差し出せば目を通して頷くだけ。墨をすっていても、手元を覗き込まれることはない。衣装を整えていても、頭の上から見下ろされることもない。
 ほかの女官たちと同じように、私は帝の御用を務め、帝はほかの女官たちと同じように、私を扱った。
 それが、本来あるべき姿なのだ。
 出仕したばかりの下働きと、この国の主。私が望んだのは、そういう距離のはずだった。
 なのに、気づけば私は、帝の横顔ばかり目で追っていた。
 政務のあいだ、眉間にしわを寄せて書状を読む横顔。高階さまと低い声で何かを話し合う横顔。庭の桔梗を、ぼんやりと眺めている横顔。
 時折、ふいに左の耳たぶに指が伸びる。何か思い通りにならないことがあるときの癖。それを見つけるたびに、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
 あの日から、雨の夜は何度かあった。
 けれど、私が夜御殿に呼ばれることは、一度もなかった。
 帝はひとりで、陰陽寮の結界の中で夜を越した。翌朝、夜御殿から出てくる帝の顔は青白く、目の下にはうっすらと影が落ちていた。それでも帝は何事もなかったかのように昼御座に座り、政務をこなした。
 ──嵐の夜はいつも、陰陽寮の結界の中で、朝までひとりで耐えておられた。
 高階さまの言葉がよみがえる。
 私が呼ばれないのは、帝が私を必要としていないからではない。
 私を、道具にしないためだ。
 そう気づいたのは、三度目の雨の朝だった。やつれた顔で昼御座に向かう帝の背中を見送りながら、私は袖の中で、手首の組紐を強く握りしめていた。
 歌のためではない、と、あの人は言おうとしていたのだ。
 それなのに私は、あの人の言葉を最後まで聞こうともせず、自分の負い目と、身分と、年の差と、そういうものの陰に隠れて、逃げ出そうとした。
 十年前と、同じように。
 龍神祭の朝が、近づいていた。
 祭が終われば、私はここを去る。そう約束した。
 けれど、その前に。
 せめて一度だけ、ちゃんと伝えたい。あの朝、何も言えずに去ったことを、ずっと悔やんでいたこと。あなたを怖いと思ったことは、一度もないこと。
 そして──。
 その先の言葉は、まだ、胸の中で形にならなかった。
 *
 龍神祭の三日前、私は内蔵寮へ祭具の受け取りに遣わされた。
 その帰り道、藤壺の殿舎の裏手を通りかかったときだった。
 半ば開いた妻戸の向こうから、ひそやかな声が漏れ聞こえてきた。
「……これを、御神酒に」
 男の声だった。低く、しわがれている。
「龍胆の根に、狂い藤の汁を合わせたものだ。龍の血を持つ者が口にすれば、半刻もたたぬうちに、御力が荒れ狂う」
「そ、そんな……父上、それでは帝のお体が」
 答えた声には、聞き覚えがあった。鈴を転がすような、あの声。けれど今は、ひどく震えている。
 藤壺の女御さまだ。そして、父上ということは──。
「案ずるな。命までは取らぬ。ただ、祭の場で、百官の目の前で、帝が龍の力を抑えきれぬ姿をさらせば、それでよい」
 右大臣さまの声は、どこまでも落ち着いていた。
「さすれば、誰もが思い知る。帝はまだ、御位にふさわしくないと。御力が安定されるまで、しかるべき者が政を代わりに執るべきだと」
「……摂政に、父上が」
「そうだ。そしてそなたは、いずれ皇后となる。何も変わらぬ。むしろ、帝のおそばに張りついているあの年増の女官も、役立たずと知れて追い払われよう。そなたにとっても、悪い話ではあるまい」
 長い沈黙のあと、女御さまの、消え入るような声がした。
「……はい」
 私は、祭具の箱を抱えたまま、その場に凍りついていた。
 足音を立てないように後ずさり、殿舎の角を曲がったところで、ようやく息を吐く。心臓が、耳の奥で痛いほど鳴っていた。
 どうすればいい。
 すぐに帝に申し上げるべきだ。けれど、何の証もない。下働き上がりの女官が、右大臣と女御さまを謀反の企てで訴える。誰が信じるだろう。それどころか、帝の寵を失った女官が、恨みから讒言したと言われるだけだ。
 それに、帝はもう、私と口をきいてくださらない。
 私は震える足で清涼殿へ戻り、高階さまを探した。けれど高階さまは、祭の支度のために都の外れの神泉苑へ出向いていて、戻るのは祭の当日だという。
 沙月さまに打ち明けると、沙月さまは顔色を変えた。
「確かに聞いたのだね」
「はい」
「……わたくしから、内々に蔵人所へ伝えよう。だが、柚葉。右大臣さまは用心深いお方だ。証を残すようなことはなさらぬ。祭の当日まで、何も変わらぬかもしれぬ」
 沙月さまの言葉は、正しかった。
 祭の朝まで、何ひとつ、変わらなかった。
 *
 龍神祭は、都の南にある神泉苑で執り行われる。
 広大な池のほとりに、白木の祭壇が組まれていた。池の水面には龍神をかたどった船が浮かび、周囲にはずらりと百官が居並ぶ。その外側には、祭を見ようと集まった都の人々が、幾重にも人垣を作っていた。
 日が傾きはじめた頃、太鼓の音とともに、帝が祭壇へと上った。
 白の祭服に身を包み、冠に金の龍の飾りをいただいたその姿は、夕陽を受けて、まるで神そのもののように輝いて見えた。人々のあいだから、ため息のような声が漏れる。
 清涼殿付きの女官として、私は祭壇の下手に控えていた。祭壇の上で帝の御神酒をお注ぎするのは、皇后に代わって、藤壺の女御さまの役目だった。
 女御さまが、白い瓶子を捧げ持って祭壇を上がっていく。
 その横顔は、紙のように白かった。
 私は思わず、一歩踏み出していた。
「柚葉、どこへ」
 隣の女官が袖を引く。振りほどこうとしたとき、祭壇の上で、女御さまが瓶子を傾けた。透明な御神酒が、帝の手にした土器に注がれる。
 女御さまの手が、震えていた。瓶子の口が土器の縁に当たって、かちり、と小さな音を立てる。
 帝が、ふと顔を上げて、女御さまを見た。
 その青い瞳が、何かを確かめるように、ほんの一瞬だけ細められた。
 そして帝は、静かに土器を口に運び、御神酒を飲み干した。
「……っ!」
 声にならない声が、喉の奥で詰まった。
 祭は、何事もなかったかのように進んでいった。神官が祝詞を奏上し、楽人が笛を吹き、舞人が池のほとりで舞う。帝は祭壇の中央に座し、まっすぐに池の水面を見つめていた。
 半刻。
 右大臣さまは、そう言っていた。
 私は膝の上で両手を握りしめ、祭壇の上の帝から目を離さなかった。
 最初に異変に気づいたのは、風だった。
 凪いでいたはずの池の水面に、さざ波が立ちはじめる。篝火の炎が、横になびいた。楽人の笛の音が、風にかき消されて途切れる。
 祭壇の上で、帝の肩が、ぐらりと揺れた。
 帝は片手で胸を押さえ、もう片方の手で祭壇の縁をつかんでいた。冠の下の顔は青ざめ、額に汗が浮かんでいる。食いしばった歯のあいだから、荒い息が漏れていた。
 ──抑えている。
 あの人は、必死に、抑えようとしている。
 けれど、空はもう、言うことを聞かなかった。
 西の空から、墨を流したような黒雲が押し寄せてくる。あっという間に夕陽が飲み込まれ、あたりは夜のように暗くなった。
 空が、裂けた。
 目もくらむような光とともに、雷が池の真ん中に落ちる。龍神の船が砕け散り、水柱が高く上がった。
 人々の悲鳴が、あたりを満たした。
「帝の御乱心だ!」
 誰かが叫んだ。百官のあいだから、まるで待っていたかのように、右大臣さまが進み出る。
「皆の者、下がれ! 帝は龍の力にお呑まれになった! 陰陽寮、何をしておる、結界を張れ!」
 白装束の術者たちが祭壇を取り囲み、印を結ぶ。けれど、彼らの張った結界の札は、吹き荒れる風に次々と引きちぎられていった。
 祭壇の上で、帝が膝をついた。
 その体から、青白い光の筋が、いくつも、いくつも噴き出していた。あの嵐の夜に見たものより、ずっと大きく、ずっと激しい。光が祭壇の白木を焦がし、雷が祭壇の周りに次々と落ちる。
 誰も、近づけなかった。
 武官も、術者も、遠巻きに立ち尽くすばかりだった。
 右大臣さまの声が、風の中でかすかに聞こえた。
「ご覧になったか、皆の者。これが、いまの帝の御姿だ。これでも、帝にこの国を任せておけると──」
 その言葉を、最後まで聞いてはいなかった。
 私は、走り出していた。
「柚葉!」
 沙月さまの叫び声が、背中を追いかけてきた。誰かの手が袖をつかんだが、私はそれを振りほどいた。
 祭壇へと続く白木の階を、駆け上がる。
 風が、全身を叩いた。髪がほどけて、頬を打つ。雨粒が、礫のように顔に当たる。足元で雷が弾け、焦げた木の匂いが鼻をついた。
 怖い。
 足が震える。膝から力が抜けそうになる。
 けれど、私は止まらなかった。
 十年前、私はあの子を置いて逃げた。
 二度と、逃げない。
 祭壇の上にたどり着いたとき、帝は四つん這いになって、苦しげに肩を上下させていた。冠が外れ、長い黒髪が風に乱れて舞っている。
「ほた!」
 叫んだ。
 帝が、顔を上げた。
 その瞳は、白く、ほとんど燃えるように光っていた。焦点の合わない目が、私をとらえる。けれど、そこに私を見分ける色はなかった。
「来る、な……」
 かすれた声。
「誰も……傷つけ、たく……」
 光の筋が、鞭のようにしなった。
 避ける間もなかった。左の腕に、焼けるような痛みが走る。袖が裂け、手首に巻いていた組紐がちぎれて、風にさらわれていった。
 膝をつく。腕から流れた血が、白木の床にぽたぽたと落ちた。
 その赤を見た瞬間、帝の動きが、止まった。
 白く光る瞳が、大きく見開かれる。
「……ゆず」
 唇が、震えていた。
「ゆず、血が……俺が……」
 光の筋が、彼の動揺に応えるように、さらに激しく暴れはじめる。空がうなり、雷が祭壇の四隅に立て続けに落ちた。
 私は痛む腕をかばいながら、這うようにして、彼の前へ進んだ。
 そして、震えるその頭を、両腕で抱きしめた。
「大丈夫」
 耳元で、ささやく。
「大丈夫ですよ、ほた。わたくしは、ここにいます。どこにも、行きません」
 そして、歌った。
 ──ねんねん ころりよ ほたるのこ    あおいひかりは ゆめのみち    ないてもいいよ こわくない    あさまで ここに いるからね
 風に、声がかき消されそうになる。それでも、歌い続けた。何度も、何度も。腕の痛みも、雨の冷たさも、もう感じなかった。
 ただ、腕の中の人に、届けたかった。
 あなたは、ひとりじゃない。
 あなたを怖いと思ったことなんて、一度もない。
 五度目を歌い終えたとき、腕の中で、彼の体の震えが止まっていることに気づいた。
 顔を上げる。
 空を覆っていた黒雲が、ゆっくりと、ほどけるように薄れていく。その隙間から、細い月がのぞいた。風がやみ、雨がやみ、池の水面が、鏡のように静まり返っていく。
 帝の体から、ふっと、力が抜けた。
 私の腕の中に、その重みが、すべて預けられる。
 受け止めきれずに、私たちはふたりして、祭壇の床に倒れ込んだ。
 そのとき。
 乱れた祭服の胸元から、何かが、はらりとこぼれ落ちた。
 月明かりの下で、私はそれを見た。
 藍と白の糸を撚り合わせた、細い組紐だった。
 すっかり色が褪せて、ところどころほつれている。何度も何度も、結び直したのだろう。結び目が、いくつも重なっていた。
 十年前、眠る男の子の枕元に置いてきた、あの組紐の片割れ。
 祭服の内側、心臓のすぐ近くに、それは結びつけられていたのだ。
「……ほた」
 気を失った彼の顔に、私の涙が、いくつも落ちた。
 遠くで、人々のざわめきが聞こえる。祭壇の階を駆け上がってくる、いくつもの足音。高階さまの声。沙月さまの声。
 けれど私は、ただ、腕の中の人を抱きしめていた。
 十年分の想いを込めて、その色褪せた組紐ごと。
第六章 十年越しの答え
 目を覚ますと、見覚えのない天井があった。
 格天井に、金泥で描かれた雲と龍。焚きしめた沈香の匂い。体を包む夜具は驚くほど柔らかく、身じろぎすると、絹の衣擦れの音がした。
 左の腕に、ずきりと痛みが走る。見ると、肘から手首にかけて、白い布が丁寧に巻かれていた。
「目が覚めたか」
 すぐそばで、声がした。
 首を巡らせると、枕元に、帝が座っていた。
 祭服ではなく、くつろいだ白の単衣姿だった。結われていない黒髪が肩に流れている。その顔はまだ少し青白く、目の下には濃い影が落ちていた。けれど、青い瞳はいつもの深い色を取り戻し、まっすぐに私を見下ろしていた。
「み、帝……ここは」
「夜御殿だ」
 帝の寝所。
 私は慌てて身を起こそうとして、腕の痛みに顔をしかめた。すかさず、大きな手が私の肩を押さえる。
「動くな。丸一日、眠っていたんだぞ」
「丸一日……?」
「薬師の見立てでは、傷は浅い。痕も残らないだろうと。だが、熱が出た」
 帝は、私の額にそっと手のひらを当てた。ひんやりとした感触が心地いい。
「……下がったな」
 ほっと息をついたその横顔を見て、私は気づいた。目の下の影は、龍の力のせいだけではない。この人は、私が眠っているあいだ、ずっとここにいたのだ。
「帝こそ、お体は」
「俺はいい」
「よくありません。あんな薬を飲まされて」
 言いかけて、私ははっと口をつぐんだ。
 祭壇の上で、女御さまの震える手を見つめた、帝の青い瞳。何かを確かめるように、一瞬だけ細められた目。
「……ご存じだったのですね」
 帝は、何も言わなかった。けれどその沈黙が、答えだった。
「どうして」
 声が震えた。
「どうして、わかっていて、お飲みになったのですか」
 帝はしばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「祭の前夜、高階から知らせが届いた。沙月が蔵人所へ伝えたものだ。右大臣が御神酒に何かを仕込もうとしている、と」
「それなら、祭を取りやめるか、御神酒を替えれば……」
「それでは、右大臣は罪に問えない」
 帝の声は、静かだった。
「あれは用心深い男だ。企てが露見したと知れば、すべてを娘に押しつけて逃れるだろう。藤壺の女御ひとりが罪をかぶり、右大臣は何事もなかったように朝廷に居座る。そしてまた、別の機会を待つ」
「では……」
「百官の目の前で、あの男に、己の手の内をさらさせる必要があった」
 帝はわずかに口の端を上げた。いつもの皮肉めいた笑みとは違う、少し疲れたような笑みだった。
「案の定、あの男は自分から進み出た。帝は龍の力に呑まれた、御位にふさわしくない、と。まるで台本でもあったかのようにな。その間に、高階が右大臣の屋敷を押さえた。狂い藤の残りと、陰陽寮の一部の者と交わした書状が、すべて見つかった。いまごろ、右大臣は検非違使の手の中だ」
「……藤壺の、女御さまは」
「自ら、すべてを打ち明けた。父に逆らえなかったと、泣いていた」
 帝は、遠くを見るような目をした。
「里へ帰す。罪には問わない。あれもまた、父の駒にされていただけだ。御神酒を注ぐとき、あれの手はずっと震えていた。……最後まで、迷っていたのだろう」
 私は、祭壇の上の、紙のように白かった女御さまの横顔を思い出した。
 あの方もまた、苦しんでいたのだ。
「けれど」
 私は、帝を見上げた。
「御力が暴れて、もし、抑えきれなかったら。帝ご自身が、どうなっていたか」
「抑えられると思っていた」
 帝は、ぽつりと言った。
「この十年、ひとりで耐えてきた。お前が去ったあとも、即位してからも。お前の歌がなくとも、半刻やそこら、どうにかなると。……甘かったな」
 自嘲するように笑って、帝は自分の手のひらを見下ろした。
「祭壇の上で、もう駄目だと思った。何も見えなくなって、何も聞こえなくなって。このまま、誰かを傷つけるんだと思った。……そうしたら、お前が来た」
 その手が、私の腕に巻かれた白い布に、そっと触れた。
「……すまなかった」
 かすれた声だった。
「お前を、傷つけた」
「いいえ」
 私は首を振った。
「わたくしが、勝手に行ったのです。それに、傷つけたのは帝ではありません。狂い藤の毒です」
「それでも」
「それでも、です」
 私は、痛まないほうの手を伸ばして、布に触れる彼の手の上に、重ねた。
 大きな手が、びくりと震えた。
「十年前、わたくしは帝を置いて逃げました。何も言わずに。帝が目を覚まして、空っぽの局を見て、どんな思いをなさるか、わかっていたのに」
「柚葉、それは」
「言わせてください」
 私は、まっすぐに彼を見た。
「ずっと、悔やんでいました。あの朝のことを。家の命令だったと言い訳をしても、結局は、わたくしが自分で選んで、出ていったのです。だから……祭壇の上で、今度こそ逃げないと決めました。それだけです」
 帝は、何も言わずに私を見つめていた。
 青い瞳が、かすかに揺れている。
「それから、もうひとつ」
 私は、息を吸った。
「わたくしは、帝を怖いと思ったことは、一度もありません。十年前も、今も。ただの一度も」
 その言葉を口にした瞬間、帝の顔が、くしゃりとゆがんだ。
 泣くのかと思った。
 けれど彼は、泣かなかった。代わりに、私の手を、強く握り返した。
 *
「……これを」
 しばらくして、帝は懐から何かを取り出した。
 藍と白の、色褪せた組紐だった。
 祭壇の上で、彼の胸元からこぼれ落ちたもの。
「お前の分は、祭壇で風に持っていかれたそうだな。高階が探させたが、見つからなかった」
「……はい」
 ちぎれて飛んでいった、私の手首の組紐。十年間、一度も外さなかったもの。
「お前が去った朝、枕元にこれがあった」
 帝は、指先で組紐の結び目をなぞった。いくつも重なった、不格好な結び目。
「最初は、捨ててやろうと思った。お前に置いていかれたのが悔しくて、腹が立って。……でも、捨てられなかった。毎晩握りしめて眠った。雷の夜は、これを握って、お前の歌を思い出した。ちぎれるたびに、自分で結び直した。結び方を知らないから、こんなひどい有様だ」
 だから、結び目があんなにたくさんあったのだ。
 十歳の男の子が、たったひとりで、ちぎれた組紐を結び直す姿が、目に浮かんだ。何度も、何度も。小さな指で、不器用に。
 胸が、締めつけられた。
「元服して、蒼真の名をもらったとき、決めた」
 帝は、静かに続けた。
「帝になろう、と」
「……え」
「八番目の、忌み子と呼ばれた皇子が、兄たちを差し置いて帝になる。誰もが無理だと笑った。だが、ほかに方法がなかった」
 彼は、組紐を握りしめた。
「お前を探し出すには、力が要った。お前の家に着せられた濡れ衣を晴らすにも。そして、お前がもう二度と、誰かの都合で俺のそばから引き離されないようにするには、この国の誰よりも上に立つしかなかった」
 息が、できなかった。
「十年かかった。地方の戦にも出た。兄たちとも争った。龍の力を、ひとりで抑える術も覚えた。……全部、お前を迎えに行くためだった」
 帝は、私の目をまっすぐに見た。
「歌のためじゃない」
 あの日、御座所で、言いかけてやめた言葉。
「お前の歌は、確かに俺を鎮める。だが、俺がお前を探していたのは、そんな理由じゃない。嵐を止めてほしいんじゃない。ただ、お前に、そばにいてほしい」
 彼の手が、私の頬に触れた。涙が、その指を濡らした。いつの間にか、私は泣いていた。
「昔から、ずっとそうだった。お前が毎朝、まだいてくれることが、俺にとっては何より嬉しかった。……ゆず」
 その名で呼ばれて、心臓が、大きく跳ねた。
 夢うつつの、舌足らずな声ではなかった。低く、よく通る、大人の男の声。それなのに、その響きには、あの頃と同じ、まっすぐな想いがこもっていた。
「俺の、后になってくれ」
 *
 すぐには、答えられなかった。
 嬉しかった。泣きたいほど、嬉しかった。けれど、喉の奥で、言葉が詰まった。
「……わたくしは」
 声が、かすれる。
「わたくしは、帝より四つも年上です」
「知っている」
「家は没落して、後ろ盾も、何もありません」
「知っている」
「后になど、とても釣り合う身分では……」
「それは」
 帝が、言葉を遮った。
 そして、ふいに、左の耳たぶを指でつまんだ。
 きまり悪そうに、少しだけ目をそらして。昔、わがままが通らないとき、いつもそうしていたように。
「それは、昔から知っている」
 ぼそりと、そう言った。
「お前が年上なのも、お前の家がどうなったのかも、全部知っている。知っていて、十年、お前だけを探してきた。……今さら、そんなことで俺が引き下がると思うのか」
 拗ねたような声だった。
 十二年前、几帳の陰から「どうせ、すぐいなくなるくせに」と言った、あの男の子と同じ声。
 私は、とうとう、泣きながら笑ってしまった。
「……思いません」
「だろう」
「ほたは、昔から、言い出したら聞かない子でしたもの」
 帝の目が、わずかに見開かれた。
 それから、その顔が、ゆっくりとほどけていった。干し柿をかじったときと同じ、まっさらな笑顔に。
「それで、答えは」
 私は、頬に触れる彼の手に、自分の手を重ねた。
 大きな手だった。昔、私の袖を握りしめていた小さな手とは、まるで違う。けれど、そのぬくもりは、あの頃と少しも変わらなかった。
「……はい」
 小さく、けれどはっきりと、答えた。
「お受けいたします。……蒼真さま」
 初めて、その名を呼んだ。
 帝は──蒼真さまは、一瞬、息を止めたように見えた。
 それから、私の手首をそっと取った。傷に障らないように、ゆっくりと。そして、色褪せた藍と白の組紐を、私の左の手首に結びつけた。
 不格好な結び目が、またひとつ、増えた。
「これは、お前が持っていろ」
「ですが、これは蒼真さまの」
「代わりに、新しいのを編んでくれ」
 彼は、私の手首の組紐を、指先でなぞった。
「今度は、ちゃんとふたり分。俺の手首に、お前が結んでくれ。……もう二度と、ちぎれないように」
「……はい」
 涙で、もう前が見えなかった。
 蒼真さまの腕が、私を引き寄せた。傷ついた腕を気遣うように、そっと。私は彼の胸に額を預けた。沈香と白檀の香りの奥に、かすかに、日なたのような匂いがした。
 昔、離宮の縁側で、私の膝の上で眠っていた男の子の匂いだった。
「ゆず」
 頭の上で、彼がささやいた。
「はい」
「……たまには、ほたと呼んでくれ」
 顔を上げると、蒼真さまは、耳の先まで真っ赤になって、そっぽを向いていた。指が、また左の耳たぶをつまんでいる。
 私は、思わず声を立てて笑った。
「はい、ほた」
 彼は、ますます赤くなった。
 *
 その年の秋、右大臣は官位を剥がれて遠国へ流され、私の父に着せられていた濡れ衣も、十年ぶりに晴らされた。
 藤壺の女御さまは里へ戻られた。発つ前、私のもとを訪ね、深々と頭を下げていかれた。去り際に、「帝のあのようなお顔を、わたくしは一度も見たことがありませんでした」と、小さく笑っておられた。
 冬のはじめ、私は女御として、正式に後宮に入った。
 年が明ければ、皇后に立てられることになっている。年上で、没落貴族の娘で、出仕して七日で清涼殿に上がった変わり者の后だと、宮中ではもっぱらの噂らしい。
 沙月さまは、私付きの女房の筆頭になってくださった。相変わらず厳しく、相変わらず、何も聞かない。けれど、ときどき、目の端でそっと笑っておられる。
 そして、清涼殿の軒先には、今年もずらりと干し柿が吊るされている。
 里の母が送ってくれた渋柿を、蒼真さまとふたりで剥いて、吊るしたものだ。帝が手ずから柿を剥くなど前代未聞だと、高階さまは頭を抱えておられたけれど。
 蒼真さまは毎日、それを数えている。
「あと十日だな」
「まだ七日ほどは」
「十日だ。お前は昔から、早めに食べさせようとする」
 そんなことを、真顔で言うのだ。この国の主が。
 *
 ある冬の朝、目を覚ますと、すぐそばに青い瞳があった。
 夜具の横に肘をついて、蒼真さまが、じっとこちらを見ていた。
「……何を、なさっているのです」
「見張っている」
 当たり前のように、彼は言った。
「お前がまだいるか、毎朝確かめることにした」
 十二年前、几帳の前で、私が言った言葉。
 ──わたくしがいつまでいるか、見張っていてくださいませ。
 あの日から、彼はずっと、律儀にそれを続けているのだ。
 私は、くすりと笑って、彼の手首に結んだ真新しい組紐に、そっと触れた。藍と白の糸で、ふたり分。今度はきちんと、ほどけないように編み上げたもの。
「それで、いかがでしたか」
 蒼真さまは、少しだけ目を細めた。
 そして、あの頃と同じ、まっさらな顔で笑った。
「ゆず、まだいた」
「はい」
 私は、彼の手を握った。
「まだ、おりますよ。……これからも、ずっと」
 窓の外で、冬の陽が、軒先の干し柿を柔らかく照らしていた。
(了)