【試し読み】陽キャ集団にいる芹沢は、俺の前だと様子がおかしい2

今日も雨。六月に入って、雨の日が続いている。
 じめじめした湿気のせいで、芹沢の前髪が、いつもよりちょっとだけうねっている。それを「梅雨、マジで無理なんだけど」と本人は嫌がっているけど、俺は内心、そのくしゃっとした感じも好きだったりする。
 昼休み、いつもの空き教室でお弁当を食べ終えた頃だった。

「そういえばルーズリーフ切れてたんだわ。購買行ってくる」

 竹内がふいに立ち上がった。

「鈴木、ちょっと付き合ってくんない?」
「え、俺? あっ、うん。いいよ」
「なんだよ、竹内ー。俺も一緒じゃだめ?」

 芹沢がすかさず俺の肩を抱き寄せる。
 けれど、竹内の顔をちらりと見た瞬間、その腕からふっと力が抜けた。

「……うそうそ。いってらっしゃい、鈴木」

 ぽん、と背中を押される。

「ゆっくり聞いてやって」

 ……ん? 聞いてやって?

「購買行くなら、焼きそばパンな」

 岩崎がひらりと手を上げる。すぐさま竹内は「却下」と返していた。
 佐伯は「いってらー」と飄々としていて、岩崎はなぜか竹内を見たままぐっと眉間(みけん)にしわを寄せていた。
 空き教室を出ると、竹内は廊下をずんずん進んでいく。……でも、なんだか方向がおかしい。

「た、竹内、購買あっちだよ?」

 階段のほうを指差すと、竹内は足を止めないまま「わかってる」とだけ答えた。
 そのまま竹内が向かったのは、体育館へ続く渡り廊下だった。
 校舎と体育館をつなぐ渡り廊下は、屋根こそあるものの左右が吹きさらしだ。細長い通路の両側から、挟まれるみたいに雨音が響いている。
 その真ん中あたりで、竹内がようやく足を止めた。

「……ルーズリーフは、あとで買うとして。ちょっと鈴木、話聞いてくんない?」

 振り返った竹内が、遠慮がちに笑う。

「ごめんな、急に」
「……え、全然いいって!」

 そこでようやく、芹沢の「聞いてやって」の意味がわかった気がした。
 竹内は誰にも話を聞かれたくないのかもしれない。
 普段は体育や部活の移動くらいにしか使われないこの通路には、俺たちしかいなかった。
 ときおり、風に乗った細かい雨が、ぱらぱらと足元に吹き込んでくる。

「それで……あの、どうしたの、竹内」

 濡れないぎりぎりのところにふたりで並んで立つ。
 竹内は校舎側と体育館側を順に見やって、誰もいないことを入念に確かめてから俺に向き直った。

「えーっと、なんつーか……」

 いつも冷静で、みんなの常識担当の竹内が、こんな風に口ごもるのは見たことがない。

「……これ、学級会な。俺と鈴木、ふたりだけの」
「ふたりだけの学級会……!」

 なんだかちょっとドキドキした。だって、いつも俺を助けてくれる側の竹内が俺を頼ってくれるなんて。

「……そ、それで、議題は?」

 竹内が、小さく息を吐いた。

「『岩崎の様子がおかしい件について』」
「……岩崎の様子?」

 俺は首を傾げた。岩崎はノリがいいから、陽キャ集団の中でもけっこう様子がおかしいほうだ。この前も、学校でダンベルを上げていたし……。
 俺の顔を見ただけで察したのか、竹内が眉を寄せる。

「たぶん、鈴木の想像とはちょっとおかしさの種類が違う」
「……どうおかしいの?」
「俺が宇佐美先生のこと好きだったの、覚えてる……よな?」
「そ、それはもちろん……!」

 忘れるわけがない。
 体育会系で、細マッチョで、優しくてたくましい担任の宇佐美先生。
 去年の文化祭のとき、宇佐美先生は公開プロポーズをした。そのあとの竹内の落ち込み様はすごかった。
 芹沢たちはもともと竹内の気持ちを知っていたらしい。文化祭の日まで、まったく気づかなかったのは俺だけだ。その日、俺は悲鳴を上げるくらい驚いた。
 毎日教室でBL妄想をしていたくせに、目の前の恋は見えていなかった。我ながら、鈍感にもほどがある。
 言われてみれば、竹内は宇佐美先生の頼み事をいつもいちばんに引き受けていたし、先生に褒められるととても嬉しそうにしていた。そういうことだったのかと、あのときようやく腑に落ちたのだ。
 それから半年以上、俺たちはいつもどおり、ばかみたいに騒いで過ごしてきた。
 だから俺は、てっきり。

「……竹内、もしかして、まだ――」
「子供、産まれるんだってさ。この前、宇佐美先生から聞いた」

 雨の音が絶え間なく耳に届く。心臓がぐっと重くなった。

「なんか諦めたふりしてたけど、けっこう食らったわ……。我ながら、かっこ悪ぃよな」
「そ、そんなことないよ……! 全然、ほんとに……竹内はかっこいい!」

 強がるみたいに竹内は「まぁね」と笑っていた。その笑い方がなんだか痛々しくて、俺はそれ以上言葉が出なかった。

「まぁ、それはいいとしてさ……」

 竹内が本題に入るように、俺を見据える。

「ここからは、鈴木にしか言わねぇから、内緒な」
「あ、当たり前だよ! ……でも、俺でいいの? 佐伯とか芹沢のほうが、ぜったい的確なこと言えると思うけど……」
「いや、鈴木がいい」

 はっきりと竹内が言う。俺は意を決して、ゆっくりとうなずいた。

「……先週。先生にその話を聞いた日の放課後なんだけど」

 竹内が話してくれたのは、こうだった。
 誰もいなくなった放課後の教室で、竹内はひとり、ぼうっとしていたらしい。
 泣くわけでも、暴れるわけでもなく。ただ窓を伝う雨の筋を、じっと見ていた。
 そこに岩崎が来た。
 部活帰りだったのか、ジャージ姿の岩崎が、教室の入り口に立っていた。そして、竹内の顔を見るなり、何かを察したみたいに、近づいてきたという。

「あいつ、普段は筋肉ばかですみたいな顔して、なんか時々、変なとこ鋭いんだよな」

 竹内はそう言って、話を続けた。
 岩崎は竹内の隣に座り、ぶっきらぼうに聞いたそうだ。
 ――……泣かねぇの?
 ――泣かねぇわ。
 ――ふうん。
 それだけ。それっきり岩崎は何も言わなかったらしい。からかいもしなかったし、慰めの言葉も、無理に励ます言葉も、何も。
 ただ黙って、隣にいた。
 しばらくして、先に痺(しび)れを切らしたのは竹内のほうだった。
 ――……なんか、ちょっと。……いや、やっぱ、きっついわ。
 竹内はそこで一度、雨のほうへ目をやった。

「そうしたら岩崎がさ、……何も言わずに俺の肩をぐっと引き寄せてきて……」
「うわぁぁぁっ……!?」
「……うるさい、鈴木」
「あーー、ほんとにごめん! そ、それで……?」
「それで……腕がこう……めっちゃごつごつした、柔道部の腕で。汗臭かったのに、なんか、すごく安心して……」
「ひぃ……」
「俺も、頭とか預けちゃって……」
「……はぁ……はぁ、うん……」
「しばらくそうしてて」

 竹内はそこまで話して、ちょっと黙った。耳がほんの少し赤い。

「……で、ようやく顔上げて、俺のほうから言ったんだよ」
「な、なんて……?」
「『俺もそろそろ、恋人でも探すかな』って」
「……!」

 先生のことをずっと引きずっていた竹内が、自ら前に進もうとした一言だ。

「そうしたら、あいつが」

 竹内は岩崎の声を真似るみたいに、低くつぶやく。

「『じゃあ、俺にすれば?』って」
「…………う、うわぁ~~~~」

 もうだめだ、息ができない。

「は? って思うだろ。俺も思った。だから言ったんだよ。『お前、それで何人も落としてきただろ』って」
「でっ、岩崎は……!?」
「『まぁ、……そうだな』って。普通に認めやがって。それで、『お前は落ちねぇの』って」
「…………!」

 竹内が息を吐く。

「俺は、『落ちるか。……ったく』って返して、それで終わり。……まぁ、よくあるあいつの冗談だよ」

 冗談、なのだろうか。本当に?

「……と、尊すぎ」

 意図せず、俺の口から本音がこぼれ落ちた。
 失恋を引きずる竹内に、黙って付き合ってきた岩崎。竹内が落ち込む姿を察して、ただ隣にいて、肩を抱いて。そして、竹内がようやく前を向こうとした瞬間に「俺にすれば」。
 あまりにもエモすぎる。これがBL漫画なら、俺は確実にこのページを写真に撮って保存している。
 ――って。

「っ、ご、ごめん!」

 俺は、勢いよく頭を下げた。

「た、竹内が真剣に話してるのに……俺、なんてばかなこと……マジでごめんなさい! 最低だ俺……!」
「ははっ」

 竹内がおかしそうに噴き出した。

「いや、なんで謝んの。鈴木がBL妄想すんのは、もう様式美だろ」
「で、でも……」
「気にしてないって。気にすんなら、最初から相談してないから。……俺が話したかったのは、そっからなんだよ」

 竹内が笑いを引っ込めて、またちょっと困った顔になる。

「あの日から……岩崎の様子が、なんかおかしいんだよな」
「おかしいって……?」
「最近さ、岩崎が俺のこと……ねっとり見てくるんだよ」
「ね、ねっとり」

 俺は、ごくりと唾(つば)を飲んだ。

「うまく言えないんだけど。ふとしたときに視線感じて振り向くと、岩崎がこっち見てて。で、目が合っても、逸らさねぇの。むしろ、ガン付けてくるっていうか」

 竹内が自分の腕を、なんだか落ち着かなそうにさすった。

「あいつなりの冗談だと思う。遊んでるけど、基本優しいし……。でも、あの『俺にすれば』を、まだ引きずってるみたいな。なんか……調子狂うんだよな」

 俺は必死で考えた。
 これがBL小説なら、答えなんて一話目で出ている。失恋した相手の隣に黙って座って、肩を抱いて、「俺にすれば」。そんなの、どう読んだって――。
 だけど、これは本の中の話じゃないし、竹内も岩崎も俺の大事な友達だ。
 キャラクターたちの気持ちならいくらでも読めるのに、現実の、しかも身近な人の気持ちとなると、俺は途端にわからなくなる。だから、竹内にも軽はずみなことは言えなかった。

「…………な、なんだろうね」

 たっぷり悩んだ結果、出てきたのは情けない言葉だった。

「……だよな。正直、俺も全然わかんないわ」

 お互い見つめ合って、しばらく沈黙した。
 岩崎の気持ちは、やっぱりわからない。でも、友達として知っていることならある。

「あの、竹内……。岩崎って、いっつもふざけてるし、ノンデリだし、すぐ乱闘しようとするけど」
「ははっ、すげぇ悪口」
「ち、違くて! ……でも、いざってときは頼りになるでしょ。芹沢を尾行した日だって、俺のために本気で怒ってくれたし」
「まぁね……」
「だから、岩崎の言葉が冗談でも、冗談じゃなくても。落ち込んでる竹内を変にからかったり、傷つけたりするようなことだけはぜったいしないと思う。そこだけは、俺、言い切れるよ」

 竹内は何か言いかけて、やめた。それから、小さく息を吐く。

「だよなぁ……。まぁ、俺の気にしすぎかも。……聞いてくれてサンキューね、鈴木。なんか、かなり楽になったわ」
「……ほんと? 俺でよければ、いつでも話聞くから! どんなときでも、必ず話聞くから!」

 俺は心からそう言った。
 竹内が困っているなら、竹内がつらいなら、いつでも駆けつける。
 俺にできることなんてたぶんほとんどないけど、でも話を聞くことくらいはできる。
 そうしたら竹内が、肩を震わせて笑い出した。

「な、何……?」
「いや。鈴木ってさ、やっぱいいわ」
「え?」
「鈴木と話してると、なんか……ぽわっとする」
「……ぽ、ぽわっと?」

 ますますわからなくなった。
 ぽわっと、ってなんだ。褒められてるのか、これは。
 頭の上にはてなマークを大量に浮かべている俺を見て、竹内はまた笑った。
 わからないことだらけだったけど、ひとつだけ確かなことがある。
 みんながもし困ることがあったら、俺は何度でも話を聞きたい。そう思える友達がいつの間にかそばにいてくれる。


 ◇


 竹内の相談を聞いてから、数日後のこと。
 梅雨の晴れ間のその日、体育の授業があった。
 いつもの準備体操の流れで、ふたり一組のストレッチをする。
 いまだに夢みたいだけれど、今日も俺は芹沢とペアだ。向かい合って座って、足の裏を合わせて、お互いの手を引き合いながら、ぐーっと前屈する。

「鈴木、かったいなー。もっと前、イケる?」
「む、無理っ、これ以上は……!」
「いやいや、イケるって。ほら、こっちおいで」

 芹沢が俺の手をぐいっと引く。体がぐっと前に倒れ、至近距離で芹沢がにやっと笑う。

「がんばれがんばれ、鈴木」
「ありがとう……! が、がんばるからね、芹沢……!」

 少しだけ額に汗を浮かべながら、芹沢の手をぎゅっと握り返す。

「あー、かわいい……」
「え?」
「……ふたりっきりなら、押し倒してんのになぁ」
「な……」

 芹沢はわざとらしくにやにやしていた。

「せ、芹沢、だるいて」

 そう言っても照れ隠しなことはきっとバレている。赤い顔でふいっと視線を逸らすと、視界の端に竹内が映った。
 今日はクラスの男子と組んでいる。前までは、たいてい宇佐美先生とだったのに。
 そこで、あることに気づいた。少し離れたところから、竹内をじっと見ているやつがいる……岩崎だ。

「鈴木? どした?」
「あ、いや、なんでもない……」

 そう言いつつ、岩崎の様子を見つめる。自分のペアはほったらかしで、竹内のほうばかり気にしていた。なんだかすごくおもしろくなさそうな顔で。
 これがもしかして……竹内が言っていた、『ねっとり見てくる』ってやつ?

「ああ、岩崎か。あいつわっかりやすいなー」

 俺の視線をたどっていた芹沢が、俺にだけ聞こえる声で笑った。

「え? な、何が?」
「何がじゃないの。鈴木はほかの男ばっか見てないで、俺のこと見てよ」

 その瞬間、芹沢がつないでいた手をぐいっと引いた。

「あっ、ちょ、待って、やっ……痛い痛い痛い!」

 芹沢は一瞬、ぴたりと手を止めた。にやーっと、実に楽しそうな顔になる。

「……ははっ。やっば。新しい扉開くかと思った」

 その扉は一生閉めておいてほしい。
 真っ赤になって睨んでも、つながった手はそのままだ。逃げ場がない。芹沢は俺がうろたえるのを、心底おもしろがっている。

「芹沢さ……岩崎の何がわかりやすいの?」
「……うーん、いや、まぁ……いろいろと。そういうキングオブ鈍感なとこもかわいいよ、鈴木」
「全然フォローになってないから!」

 芹沢は、それ以上は教えてくれなかった。ただおかしそうにくすくす笑っている。
 勘の鋭い芹沢としては、岩崎の気持ちなんてとっくにお見通しなのかもしれない。おっしゃるとおり、キングオブ鈍感な俺にはさっぱりだけど。
 その日の休み時間。
 たまたま岩崎とふたりになったとき、なんとなくさっきの体育のことを思い出して聞いてみた。

「岩崎ってさ、竹内のこと、よく見てるよね」

 その瞬間、スマホをいじっていた岩崎の指が、あからさまに止まった。

「……は? 見てねぇけど」
「えっ、見てたよ。体育のとき」
「…………」

 岩崎はしばらく黙ってから、おもむろに口を開く。

「……竹内って、最近、あいつと妙に仲よくね?」
「あいつ……?」

 俺は一瞬、きょとんとした。
 岩崎の視線の先を追うと、竹内が男子と何かを話して笑っていた。今日の体育で、竹内とペアを組んでいた子だ。

「……そうかな? 竹内って、誰とでもあんな感じじゃない?」

 それに、竹内が好きだったのは宇佐美先生だ。体育会系で、たくましくて、頼りがいのある人。あの男子はどちらかといえば線が細くて、物静かなタイプに見える。
 ――俺もそろそろ、恋人でも探すかな。
 渡り廊下で聞いた竹内の言葉が、ふいに頭をよぎった。
 しかも、好みとは正反対の相手に気づいたら惹かれていた、なんてBLでは王道中の王道だ。体育のペアから始まる恋だって、読んだことがある。
 ありえるの、かも……? いや、でも……。

「……わ、わかんなくなってきた」
「どっちだよ」

 岩崎は呆れたように鼻で笑って、それからまた竹内のほうへ目を戻した。

「……あいつが誰かに泣かされんの、もう見たくねぇんだよな」

 ぼそりと落とされた声は、俺に聞かせるつもりがあったのかどうかもわからないくらい小さかった。
 文化祭のあとも、あの雨の日も、竹内のいちばん近くにいたのは岩崎だ。
 ……岩崎って、ほんとに友達思いだ。
 じーんとしつつ、竹内の様子をもう一度しっかり観察する。

「……うん。やっぱり、いつもどおりだと思う」

 俺が言うと、岩崎はちらっと俺を見て、なぜか合点がいったように笑った。

「ふうん。じゃあ、やっぱこっちの問題ってことか」
「……えっ、何が?」
「なんでもねぇわ」
「岩崎、気になるて! 何、こっちの問題って!」
「なんでもねぇっつの。鈴木、飲み物買いに行こーぜ。俺、メロンソー」
「あ、待って、岩崎! ……メロンソーダ、ね!」

 ばたばたと岩崎を追いかける。
 もしかして岩崎は、竹内が誰かと仲よくなることに嫉妬していたのだろうか?
 でも……あの岩崎が?
 飄々としていて、誰かひとりに本気になったことのなさそうな、あの自由奔放な岩崎が?
 考えてみたけれど、やっぱりキングオブ鈍感な俺には難しい問題だ。


 ◇


 正式に芹沢が芸能事務所に入って、ひと月以上たった。
 とはいっても、世界はそんなに変わっていない。
 芹沢が言っていたとおり、いきなり華々しくデビュー、なんてことはなくて。今はまだ事務所でウォーキングやポージングのレッスンを受けたり、体づくりのメニューを組まれたり、という下積みの時期らしい(もちろん俺にとっては、そんな芹沢がとてもまぶしい)。
 放課後、週に何回か、芹沢が『今日はレッスン』『今日は打ち合わせ』と言って先に帰る日が増えた。それくらいだ。
 今日は宣材写真の撮影日みたいだ。スタジオの都合で、どうしても午後の授業を抜けないといけないらしい。

「鈴木、ごめんな。終わったら連絡する」

 昼休みに入るなり、そう言って何度も振り返りながら芹沢は帰っていった。そして、放課後。特にやることもなく、俺はひとり、教室でのんびりと帰り支度をしていた。
 正直、今はわくわくのほうが勝っていた。
 だって撮影だ、あの芹沢の。
 どんな写真を撮るんだろう。あとで新しく作ったという芹沢のSNSを確認しよう。雑誌みたいに決め顔してる芹沢も、レッスンでウォーキングしてる芹沢も、想像するだけで、顔がにやけてしまう。
 ……まぁ、ほんのちょっとだけ。俺の知らない場所で、俺の知らない芹沢が増えていくのは、不思議な感じもするのだけれど。
 でも、やっぱり楽しみだ。俺の恋人が、どんどんかっこよくなっていく。こんなに嬉しいことはない。

「創先輩!」

 元気な声と一緒に、三年の教室の入り口から、ひょいっと顔を出した一年生がいた。

「た、たっちゃん!? なんでここに……?」
「いや、だって創先輩、昨日DMで『新刊やばかった』ってだけ送ってきて、どこがよかったのか正解くれねぇんだもん」
「あ、ごめん。寝ちゃってた」
「だと思った。すげぇ気になって、会いに来ましたよ」

 たっちゃんはずかずかと俺の机まで来て、前の席に座った。
 廊下でぶつかったあの日以来、俺とたっちゃんはずっとDMでBLの話をしている。
 一日に何往復もするときもあって、最近いちばんマメに連絡を取っている相手かもしれない。
 好きなものの話になると、この子は本当に積極的だ。

「で、新刊の何がやばかったの?」

 たっちゃんはこうしてふいに敬語がぽろっと外れる瞬間がある。
 ほかの人にはきっちり敬語なくせに、その落差にいちいち悶(もだ)えてしまう。まさに、生意気で人懐っこい年下攻め、ど真ん中だ。
 ……いやいや。だから、現実の後輩で萌えるな。何回目だ、この反省は。

「えっと……受けがずっとツンツンしてたでしょ。でも二話で攻めが風邪ひいたとき、『ついで』ってプリン買ってくるじゃん」
「ああ、ありましたね」
「最後の告白で、受けが『ついでじゃなかった』ってぽつりと言うんだよね。プリンのことだとは言わないけど、もうぜったいプリンなんだよね! ずっと一回も好きって言わなかったのに、ほんとの始まりはあそこだったんだって思ったら、もうほんと無理だった!」
「……え、待って。そこつながってたの?」
「つながってる! その間もずっと、傘とか、渡せなかった書きかけの手紙とか、好きがちょっとずつこぼれてて。それが最後に『ついでじゃなかった』だよ? ほんとやばくてさぁ……!」
「……創先輩の解釈、鋭すぎだわ」
「え? そんなことないよ」
「プリンか……俺、あのときはまだ受けって攻めのこと好きになってないって思ってたけど、……たしかに好きだったのかもしんない。よっぽど気持ちがないと、見舞いになんて行かねぇもんな」

 たっちゃんの言葉を聞いて、ふと思い出した。……そういえば俺も、風邪をひいた芹沢の家にプリンを買っていったことがある。
 でもあのときは、ただ心配なだけだと思っていた。というか、自分でそう思い込んでいた。
 ただ心配なだけ。それって、つまり――俺にとっての『ついで』だったんじゃないか。
 待って、じゃあ、俺ってすでにあのときには芹沢のことが恋愛的な意味で気になってた……!?

「ん? どうしたんですか、創先輩」
「……いや、小説とか漫画だったらわかるのに、自分のことになると全然わかんないなって」
「あー」

 たっちゃんが、妙に納得した顔でうなずいた。

「創先輩、壁になりたいタイプでしょ。自分がカップリングに入るって発想、最初からないっぽい」
「そうかも……」
「だから見落とすんすよ。自分の気持ちとか、……自分に向いてる好意とか」

 耳が勝手に熱くなっていく。たっちゃんの言うとおりだ。自分の『好き』の始まりにすら、一年遅れで気づく男がここにいる。

「……ま、そういうとこ、俺は嫌いじゃないですけど」

 たっちゃんがくすくすと笑う。
 そこからまたBLの話は続いた。
 新しいBLドラマの話、コラボカフェの話、攻め受けの解釈。
 話せば話すほど、たっちゃんとの会話は盛り上がった。年下なのに……というか年下だからこそ、遠慮のない感じがなんだか心地いい。

「そうだ。先輩の書いた小説、マジでよかった!」
「……うっ、そ、……た、たっちゃん、ほんとに読んだんだ!?」

 そうだった。すっかり打ち解けて、送ってしまったんだった。俺の処女作のBL小説を……。
 もちろん、攻めの名前はぜんぶ変えてある。モデルが芹沢だってことは、たっちゃんには秘密だ。
 まさか本当に、最後まで読んでくれるとは思わなかったけれど。

「読むでしょ、そりゃ。先輩の書いたやつなんだから」

 たっちゃんが、からかうようににやりとする。

「読んでくれたのは嬉しいんだけど、……は、恥ずかしいから、その話はもうおしまいで!」
「えー、なんで。めちゃくちゃよかったのに」

 たっちゃんは、まったく引き下がらない。

「特に告白シーン、俺、電車の中で読んでてやばかったんすからね。普通に泣きかけて、変顔してなんとか乗り切ったし」
「電車で読まないでよぉ……!」

 嬉しいような、恥ずかしいような。とにかく変な汗が出てくる。

「あの攻めって、モデルとかいるんすか?」
「い、いないよ!? 完全に想像だから! ほんとに!」
「へぇ……」

 焦る俺を見て、たっちゃんは「まぁ、いいですけど」とスマホを取り出した。

「で、こっから本題で……。先輩さ、WEBのBL小説コンテスト、出してみない?」
「コ、コンテスト……?」
「そう。今ちょうど大きいのやってて、誰でも応募できるんで」

 たっちゃんがスマホの画面をこっちに向けてくる。そこには、でかでかと『短編BL小説大賞』の文字が躍っていた。

「テーマが違うから新しいの書かないといけないけど、先輩なら書けると思うんだよなぁ」
「むりむりむり!」

 間髪(かんはつ)入れずに、俺はぶんぶんと手を振った。
 俺の書いたものを世間に向けて出すなんて、考えただけで心臓が止まりそうだ。

「ぜったい無理だって、そんなの……! もうたっちゃんは、ビビらせないでよ」

 へらへら笑顔を浮かべて逃げようとした俺を見て、たっちゃんがふっと真顔になる。

「創先輩」

 さっきまでのはしゃいだ声とは、まるで違う。言い聞かすような声だった。

「俺、お世辞でこんなこと言うほど、人間できてねぇから」
「……」
「先輩の小説、好きだから。もっとたくさんの人に読んでもらいたい」
「……無理! 嫌だって!」
「そこをなんとかしてくださいよ」

 たっちゃんがむすっとした顔で言う。

「やだ!」
「なぁ、創先輩。お願い」
「上目遣いしてもだめ……!」
「えー、もったいねぇなぁ……」

 たっちゃんは、本気で残念そうにしている。その気持ちは嬉しいけれど、俺は「もったいなくないから」と苦笑いをこぼす。
 何度かその攻防を繰り返していると、誰かが近づいてきた。

「落合じゃん。何してんの」

 声のほうを振り向くと、岩崎が教室に入ってくるところだった。「うっす」とたっちゃんが笑顔で頭を下げる。

「わざわざ俺に会いに来たのかよ。今日は部活ねぇぞ」
「俊先輩じゃなくて、創先輩に会いに来たんすよ」
「相変わらず仲よくやってんのな、お前ら」

 岩崎はさして驚いた様子もなく、机の中にあったノートやらテキストやらを鞄に入れている。

「仲よしっすね。毎日DMでめっちゃしゃべってるんで。創先輩は趣味の話ができる貴重な友達です」
「ふうん。そういえばお前、部活でもやたら聞いてくるよな。鈴木と芹沢がどう仲よくなったかとか、芹沢がどんなやつかとか」
「ちょっ……俊先輩!」

 たっちゃんは何やら慌て、なぜか俺のほうをちらっと見た。俺は笑顔でうんうんとうなずいた。
 たっちゃんが芹沢に興味があるのは当然のことだ。なんたって芹沢はみんなの太陽なんだから。

「なぁんか危ういなぁ、お前ら。……鈴木、お前、こういう人懐っこい年下、好きだろ?」
「へっ……!?」

 今度はこちらが慌てる番だった。
 芹沢だけじゃない、岩崎も佐伯も竹内も、俺がどういう攻めが好きか、なんとなく知っている。

「浮気すんなよ? お前の恋人が暴れ回るぞ」
「え? ……創先輩に、恋人いるんですか?」
「いるいる。なぁ鈴木、浮気したら大変だよな?」

 たっちゃんが驚いたように俺のほうを振り向く。俺は真っ赤な顔で岩崎に反論した。

「変なこと言わないでよ! たっちゃんにも失礼だろ……!」
「悪かったって。まぁ、……あいつにバレなきゃ、ギリセーフだろ」

 岩崎が真面目な顔でそう言った、まさにそのときだった。

「――何がギリセーフなの?」

 背後から、低い声がした。
 恐る恐る振り向くと、そこに、芹沢が立っていた。いつもよりちょっと大人っぽい私服姿で、髪もセットされたままだ。

「せ、芹沢、めちゃくちゃかっこいい! どうしたのその格好……! って、そうじゃなくて……えっ!? さ、撮影は……!?」
「早く終わったから、鈴木のこと迎えに来たんだけど」

 芹沢の視線がすうっと岩崎に向けられ、そのあと俺の前に座っているたっちゃんへと向けられる。

「芹沢、こえーよ。鈴木センサーでも付いてんの、お前」
「否定はできないね」
「ははっ! ま、俺、用事あるから帰るわ。……芹沢、あんま鈴木いじめんなよ」
「えっ、岩崎!?」

 岩崎はさっさと鞄を背負い、にやにやしながら廊下を駆けていった。
 残されたのは、俺と、たっちゃんと、なんだかいつも以上に笑顔の圧が強い芹沢……。

「……で、鈴木は落合と何話してたの?」
「し、新刊の話してたんだよね! あと、DMでもBLの話してて、あの攻めがやばいねって感じで……!」

 やましいことは何もないのに、岩崎の台詞のせいで完全に容疑者の気分だ。しどろもどろに説明する俺の横で、たっちゃんがすっと居住まいを正した。

「遥人先輩って、今日、撮影だったんですか?」
「ん? そうだけど」
「やっぱすごいっすね。……なんか俺らとは住む世界が違うって感じで」
「ははっ、その『俺ら』って誰と誰のこと言ってる?」

 たっちゃんは答えず、じっと芹沢を見ていた。まばたきも忘れたみたいに、まっすぐ。声だって、俺と話すときより少しだけ固い。
 ……あれ? もしかしてたっちゃん、なんか緊張してる?
 芹沢は含みのある笑みを浮かべると、何も言わずにつかつかと近づいてきて、ごく自然に俺の肩に腕を回す。

「嬉しいわ、君たちが楽しそうで。……なぁ、帰ろ、鈴木」

 最後の言葉だけ小さく耳に囁かれ、腰が砕けるかと思った。俺がドギマギしている間に、たっちゃんの視線は俺の鞄と、芹沢の鞄とを一往復した。

「……創先輩と、遥人先輩って」
「うん、鈴木と俺が……何?」
「……いや、なんでもないっす。お邪魔しました」
「おー、またな」
「創先輩、またDMするから」
「あっ、うん」

 ぱっといつもの笑顔に戻って、たっちゃんは嵐のように帰っていった。
 元気な子だよなぁと思っていると、芹沢がゆっくりと耳元に口を寄せてくる。

「鈴木、今から、……俺んち来ない?」


 ◇


 芹沢の家に来るのは、久しぶりだった。もういい加減に慣れたいと思うんだけど、いつ来てもドキドキしてしまう。

「雨、止まなかったね。芹沢、濡れなかった……?」

 部屋に入るなり、芹沢は返事の代わりに、俺を後ろから背中ごと包み込むみたいに抱きしめた。

「せ、芹沢?」
「……鈴木、悪いんだけど、五分だけ俺に捕まってて」

 背中に芹沢の体温が、ぴったりとくっつく。撮影帰りの、知らない整髪料の匂いの中に、いつもの芹沢の匂いが混じっていた。

「も、もしかして、また、嫉妬させちゃった……?」

 芹沢は俺の肩のあたりに顔をうずめたまま、言いにくそうに口を開く。

「それもあるけど……。いやさ、なんか鈴木にこれだけは勘違いしてほしくねぇんだけど、鈴木があいつとBLの話できんの、ほんとにすげぇよかったなって思ってんだよ。鈴木はBLのこと、ずっと隠してただろ?」
「……あ、うん」
「だから、俺ら以外に堂々と語り合える相手ができたの、普通に嬉しいわけ。鈴木の『好き』を、もっといろんなやつと分かち合ってほしいって、ちゃんと思ってるよ、俺だって」

 芹沢の言葉に、じんとしてしまった。
 芹沢は、いつもそうだ。俺の『好き』を、最初にまるごと肯定してくれた人。俺の世界を狭めるんじゃなくて、広げようとしてくれる人。

「……でも」

 ぎゅっ、と。抱きしめてくる腕に、力がこもった。

「すげぇ妬いてる」
「ふっ、ははっ……」

 からっと言い切る芹沢に、俺は思わず笑ってしまう。

「嬉しいけど、めっちゃ妬く。そういうもんだろ、恋人って」
「うん、……そうかも」
「……前にも言ったけどさ、鈴木」

 芹沢は俺の肩に顔をうずめたまま、小さくつぶやいた。

「鈴木が誰かと仲よくなんのは嬉しいけど、俺より仲よくなんないで」

 拗ねたみたいな、子供みたいな声だった。
 俺たちがまだ友達だった頃。芹沢が同じような台詞をこぼしたのを覚えている。
 いつも余裕たっぷりで、みんなの太陽で、俺を翻弄(ほんろう)してばかりの芹沢が、俺に対してはこんな風にちょっと幼くなる。
 ……うわ。やばい、かわいすぎる。
 俺は、抱きしめてくる芹沢の腕に、ゆるゆると自分の手を重ねた。

「……ならないよ」
「ほんと?」
「うん。芹沢がいちばん」

 普段、こういうことを言うのは、いつも芹沢のほうだ。俺は言われて真っ赤になる側。でも拗ねた芹沢の機嫌を、今日は俺が取ってあげたかった。

「たっちゃんはBL友達。でも、芹沢は……特別で、俺の、いちばん大事な恋人だから。信じてほしい、です……」

 言い終わる頃には、自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。
 後ろで芹沢が、息を呑む気配がした。

「……なぁ、鈴木ぃ」

 ぐりぐり、と。芹沢が俺の肩に、額を押しつけてくる。

「ふふっ、くすぐったい。……何?」
「さっき五分だけって言ったけど……ごめん。鈴木にもっと、触れてていい?」
「……いいよ」

 ふたりきりの部屋で、俺たちはしばらくくっついていた。聞こえるのは、窓を叩く雨の音だけだ。後ろから抱っこしてくる芹沢の胸に、頬を擦り寄せる。すると芹沢の手が、俺の耳に触れた。

「耳、赤くなんの、ほんとかわいい」
「……見ないでください」
「無理。ここ俺の特等席だし」

 うなじに芹沢の笑う息がかかる。意地悪な芹沢に散々からかわれて、たまに上を向かされてキスをした。
 芹沢は俺を抱きしめたまま、ぽつりと口を開く。

「……来週から、ちょっと撮影、増えるかも」
「えっ、そうなの!? すごいじゃん、芹沢!」
「ん。だから、一緒に帰れない日も多くなりそうでさ……」

 芹沢がなんだか言いにくそうに、俺の顔を覗き込む。

「……ごめんな」
「なっ、なんで謝るんだよ。謝ることじゃないから。芹沢ががんばってるんだから、応援させてよ!」

 俺を抱きしめる芹沢の腕の力が強くなる。
 雨は、まだ止まない。




2巻4章へつづく……

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2巻は2026/11/20 発売です!