芹沢と俺には、なんの問題もない。
――はずだった。
その日、俺はいつものように、芹沢に声をかけた。
「芹沢、一緒に帰ろう」
「あー……」
芹沢が歯切れの悪い声を出した。スマホをちらっと見て、申し訳なさそうに俺を見上げる。
「ほんっとにごめん! 今日は……ちょっと用事があってさ」
「あ、そっか。うん、全然いいよ。気をつけてね」
俺は笑って手を振った。芹沢にだって用事のひとつやふたつある。当たり前のことだ。
でも。
次の日も、その次の日も、芹沢は『ごめんな、用事あって』と、俺の誘いを断り続けた。
三日連続。
しかも、その『用事』がなんなのか、芹沢は一度も教えてくれなかった。
これまでの芹沢なら、『今日は姉貴に荷物持ち頼まれてさ~』とか『歯医者だわ、マジ萎え』とか、聞いてもいないのにぜんぶしゃべってくれていた。
別にいいんだけど……やっぱりちょっとだけ、もやっとする。
それに気になることは、もうひとつあった。
ここ数日、芹沢が日に日に、かっこよくなっているのだ。
いや、もちろん芹沢は今までもかっこよかった。
だけど、月曜の芹沢は、髪がほんの少しだけ短くなっていた。耳のあたりがすっきりして、うなじのラインもきれいに見えている。
「気づいた?」
笑ってそう聞かれて、俺は勢いよくうなずいた。
気づかないわけがない。芹沢のことなら、一ミリの変化だって見逃さない自信がある。
……そんなことを口に出せるはずもなく。俺は朝から落ち着かなかった。
火曜の芹沢は、いつもと違う香りをまとってきた。甘くて深い匂いがふわりと鼻をくすぐるたび、胸の奥がざわついて、無意識に呼吸が乱れてしまう。
水曜はなんだか肌がつやつやしていた。『姉貴のいい美容液、勝手に使った』と言っていたけれど……。
日を追うごとに、芹沢のビジュアルがぐんぐん磨かれていく。
恋人として、もちろん嬉しい。
嬉しいんだけど……!
俺はいつにも増してキラキラした芹沢の横顔を、複雑な気持ちで見つめた。
今日もかっこいいよ、芹沢。世界一かっこいい。
でも……なんで急に……!?
誰のために、そんなにかっこよくなってるの……!?
……って、こんなの、勝手なやきもちだ。
俺は大きく頭を振って、よからぬ考えを無理やり追い払おうとした。
そうして芹沢が俺の誘いを断り始めて、四日目の昼休み。俺たちはいつもの空き教室で、賑やかにお昼を食べていた。
だけど、芹沢に電話がきて、「ちょっとごめん」とすぐに教室の外に出ていってしまった。
ぽっかり空いてしまった俺の隣。
「芹沢、最近なんか用事ばっかりだなぁ……」
言ってから、しまった、と思った。これじゃあ束縛が激しいモラ男みたいだ。
「浮気じゃね?」
総菜パンを食べ終えた岩崎が、さらりととんでもないことを言い放つ。俺は飲んでいたお茶を噴き出しそうになり、慌てて口を覆った。
「はい、岩崎くん黙ろうねぇ」
佐伯がにこやかに微笑み、岩崎の口にメロンパンを突っ込む。
「……お前、ノンデリすぎ」
竹内はこめかみを押さえながら、低い声で言った。
「だって……そうじゃん。三日も帰り断って、用事の中身も言わねぇとか、怪しいって普通」
そんなことない、と反論しかけた俺に、佐伯が「あー……」と気まずそうな声を出した。
「これ言うか迷ったんだけど」
「……な、何?」
「この前、芹沢のスマホの通知出てて、見るつもりはなかったんだけど、たまたま目に入っちゃったんだよね」
佐伯は申し訳なさそうに話を続ける。
「『陽子』って女の人から、何度もLIMEきてた」
「よ、陽子さん……?」
「うん。……で、さっきの電話もたぶん同じ名前だった」
佐伯が、芹沢の出ていったドアのほうに目をやる。
「芹沢のお姉さんの名前、ではないな」
竹内がぼそっと言い、岩崎がここぞとばかりに身を乗り出す。
「決まりだろ、これ。陽子さんとやらと、こそこそ会ってんだよ」
「……おい、岩崎。無責任に確定させんなよ」
竹内が止めてくれたけれど、俺の頭の中は『陽子さん』のことでいっぱいになっていた。
誰なんだろう、陽子さんって。芹沢はいつから連絡を取っているんだろう。
髪を切ったのも、香水変えたのも、もしかして陽子さんのために……?
いや、ないない。芹沢に限って、そんなことあるわけない。そう言い切れるのに、心臓の奥がちりっと焦げたみたいに痛い。
「鈴木、本気にすんなよ?」
竹内が心配そうに、俺の顔を覗き込んでくる。
「だ、大丈夫。芹沢は浮気なんてしないって、わかってるから……」
途中でうつむいた俺の肩を、岩崎ががしっと掴む。
「なんもしねぇで悩んでたって解決しねーだろ。やるぞ、鈴木」
「えっ、や、やるって何を……!?」
「今日、芹沢を尾行する」
「びっ……尾行!?」
「スパイ大作戦的な? 今日暇だし、俺も乗った」
佐伯が楽しそうに手を上げる。
「……まぁ、鈴木が変な妄想して落ち込むよりは、白黒つけたほうがマシか……。つーわけで、俺も乗ったわ」
竹内までため息をつきながらそう言う。
「じゃ、多数決で決定ってことで」
「え~~……!?」
こうしてなぜか俺たちは、放課後に芹沢を尾行することになってしまったのだった。
◇
放課後。俺は一縷の望みをかけ、芹沢に声をかけた。
ほんの少しだけ、期待していたのだ。今日こそは一緒に帰ってくれるかもしれない、って。
「芹沢、今日は……一緒に帰れる?」
「あー……ごめん、鈴木。今日もちょっと、用事あって」
芹沢はやっぱり申し訳なさそうに眉を下げた。
……四日連続。
ずきっと胸が痛んだけど、俺はなんとか笑顔を作った。
「そ、そっか。じゃあ、俺たちは……」
「みんなで、カラオケ行くわー」
横から、岩崎がさらっと言った。
「な、鈴木」
「……そう! カラオケ!」
「はぁ? ずりぃー! 俺も鈴木と行きたい!」
「じゃあ、お前も来ればいいだろ」
岩崎の言葉に、芹沢は拗ねたように眉根を寄せる。
「だから無理だって言ってんじゃん。……鈴木、楽しんで来てな。俺のこと忘れないで。三秒に一回、思い出して?」
くしゃりと頭を撫でられ、俺は複雑な気持ちで笑った。そして、にこにこと手を振る芹沢を残し、佐伯たちと教室を出たのだ。
「……ねぇ、ほ、ほんとにするの?」
「もちろん」
佐伯がけらけら笑いながら、俺の背中を叩く。
「ちょっとした冒険だって。なんもなきゃそれはそれで問題ナシ!」
「そーそー。むしろ鈴木が安心するためだろ? 潔く行くぞ、おら」
岩崎はもう完全にスパイ気分で、わくわくしているようだ。竹内に視線を移すと、「行こう、鈴木」と俺の背中を押す。
……ごめん、芹沢。ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけだから。
心の中で謝りながら、俺はみんなのあとを追った。
◇
そうして俺たち四人は、校門から少し離れた電柱の陰に張り込んでいた。
五月の風が、新緑の匂いを運んでくる。ついこの前まで桜だったのに、街路樹は青々としていて、半袖でもいいくらいの陽気だった。
こんなに気持ちのいい日に、俺たちはいったい何をやっているんだろう。
ポケットの中で、スマホが震える。画面に浮かんでいたのは、見慣れた名前だった。
『創先輩、昨日発売の新刊、どれがよかった? 感想言い合お』
こんなタイミングで、と思わず脱力しそうになる。
「鈴木、誰から?」
佐伯に聞かれ、苦笑いで返す。
「た、たっちゃんだった……。あとで返信する」
「誰? たっちゃんて」
「あ、落合辰之進くん。一年生の……岩崎の後輩なんだよね?」
前を見ていた岩崎が、ぎょっとしたように俺のほうを向いた。
「は? お前ら、知り合いなの?」
「あっ、うん……。先月、いろいろあって」
「芹沢にライバル登場ってこと?」
佐伯にからかうように言われて、俺は「そ、そういうんじゃないから」とスマホをポケットに押し込んだ。
「来た。芹沢だ」
竹内が低く言った。
校門から出てきた芹沢は、案の定、人に囲まれていた。
左右から名前を呼ばれ、後ろから肩を叩かれ、通りすがりの女子に手を振られる。芹沢はそのぜんぶに「おー」とか「ばいばーい」とか応えていく。誰ひとり、邪険にせずに。
……ああやって、芹沢はいつも真ん中にいるんだよな。
やがて最後のひとりと別れると、芹沢はひとりで駅とは反対方向へ歩き出した。
「……あっちって、駅じゃないよね? どこに行くんだろう」
「よっしゃ、尾行開始だな」
「浮気の証拠を掴んじゃうぞー!」
「佐伯まで悪ノリしてんなよ……」
岩崎を先頭に、俺たちはこそこそと芹沢のあとをつけた。
……はずなんだけど。
「岩崎、近すぎ。もうちょい離れろって」
「あ? これくらいイケるくね?」
「バレるって。あと鈴木、見えちゃうから、岩崎の陰に隠れて」
竹内が、てきぱきと指示を出していく。
岩崎が突っ走りそうになると、竹内がさっと腕を掴んで引き戻す。また岩崎が変な動きをすると、竹内が「そっちは死角ねぇから」と方向を直す。
なんか息ぴったりだな、このふたり。
暴走しがちな攻めを、冷静な受けが「はいはい」って手綱を握って転がす感じの……いや、いやいや。
ぶわっと広がりかけた勝手な妄想を、俺は慌ててたたみ込んだ。
とにかく今の問題は、芹沢がどこへ向かっているか、だ。
「……あ、カフェ入った」
佐伯がつぶやく。
学校から少し歩いた通り沿いにある、おしゃれで広いカフェだった。
「……入るぞ」
獲物を狩る前の猛禽類のような目をして、岩崎が言った。
「え、入るの!? 中に!?」
「外から見てたって何もわかんねぇだろ。席数も多いし、客もたくさんいる。これなら、四人で紛れ込んでも、なんとかなんだろ」
そんな探偵みたいなこと、と思ったけど、もう岩崎はずんずん先へ行ってしまう。
残された三人で顔を見合わせて、覚悟を決める。
芹沢は店のいちばん奥の席に座っていた。俺たちは、そこからいくつか離れた、観葉植物の陰になる席に、息を殺して滑り込む。
メニューを広げ、顔を半分隠しながら、四人でこそこそと奥を窺った。
……はたから見たら、めちゃくちゃ不審者だ。
でも、ここまで来たら、ちゃんと確かめなくては……。この席なら、声は聞こえないけれど、芹沢の横顔はよく見える。
「え~、女の人と一緒じゃん~」
佐伯の言うとおり、芹沢はかなりきれいな人と向かい合って座っていた。
上品で、すらっとした大人の女性だ。何かを見せながら、にこやかに話している。芹沢も真剣な顔で、それを聞いていた。
次の瞬間。その人がすっと手を伸ばして、芹沢の前髪に触れた。確かめるように、軽く。
芹沢は嫌がるそぶりもなく、笑っている。
見つめ合うふたりがあまりに似合っていて、呼吸がワンテンポ遅れた。
「……やっぱ、浮気じゃねぇか」
岩崎が、低く唸った。
「見たろ今の。髪触ったぞ。あんなんよっぽど親しくなきゃ、芹沢が許さねぇだろ」
「あの距離感はちょっとねぇ……。浮気かどうかより、鈴木にこんな顔させてる時点でナシじゃない?」
さっきまでの悪ノリが嘘みたいに、佐伯の声は本気で怒っていた。
「だよな? ボコボコにぶん殴ってきてやろうか? 俺らの鈴木を泣かせやがって!」
「岩崎!」
立ち上がった岩崎の腕を、竹内ががしっと掴んで止める。
「落ち着け。まだ何もわかってねぇだろ」
メニューの陰から、俺は芹沢を見つめていた。
声は聞こえない。だから、余計に勝手な妄想が頭の中でふくらんでいく。
だけど――。
テーブルの下で、指先に力がこもる。
「……芹沢は、そんなことしない」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「なんか……理由があるはずだよ。せ、芹沢は人を裏切ることとか、ぜったいしない。俺、知ってるから」
言葉にしたら、胸のもやもやが、すっと晴れていくのがわかった。
そうだ。俺が好きになった芹沢は、そういう人だ。俺がいちばん、それを知ってる。
「……鈴木」
岩崎がちょっと驚いたような顔で俺を見た。
「だってさ、岩崎」
「……まぁ、鈴木がそこまで言うなら、もうちょっと泳がすか」
岩崎がしぶしぶといった様子で、席に座り直した。
ちょうどそのとき、奥の席の芹沢が、ゆっくりと俺たちのほうを向いた。
「「「「あ」」」」
俺たちの声が重なる。
俺の勘違いでなければ、今、芹沢とばっちり目が合っている。
芹沢の目がまんまるになっていく。
しばらく、お互いに固まっていた。芹沢は自分の見ているものが信じられないみたいな顔で、何度かまばたきをする。
「す、鈴木?」
……やばい、完全に気づかれた。
俺たちが動けずにいるうちに、向かいの女の人が、伝票を持って静かに席を立った。芹沢に何かを告げ、そのままレジのほうへ歩いていく。
去り際、ちらりとこっちを見て、おかしそうに笑ったような気がした。
残されたのは、奥のテーブルの芹沢と、観葉植物の陰でひと塊になって縮こまっている、俺たち四人。
「ど、どうしよう……」
「いや、もう完全にバレちゃったよねぇ……」
「今から他人のふりできねぇかな」
「無理だろ……」
ひそひそと、最悪な今の状況を話し合う。
その間も、芹沢はテーブルに頬杖をついて、にこにこと――それはもうにっこにことこちらを見ていた。
ゆっくりと芹沢が立ち上がり、こっちに向かってくる。俺たち四人はただならぬ気配を感じながら、目をきょろきょろと漂わせた。
「鈴木ぃ。あと、佐伯と竹内と岩崎も」
甘ったるいイケメンボイスで、芹沢が俺たちを呼ぶ。
「今日の学級会の議題、わかってるよな?」
「「「「……はい」」」」
俺たち四人の声が、おそろしいほどきれいにそろった。
◇
いつものファミレスに移動して、五人でボックス席に収まる。
さっきドリンクバーで取ってきたジュースに、口をつける気にはなれない。
「そんじゃあ、尾行の経緯について、説明をどうぞ」
俺は緊張しながら、ことのいきさつを白状した。芹沢の様子がおかしくて、ほんのちょっとだけ浮気を疑っていたこと、カラオケと嘘をついて尾行したこと。
「え、浮気?」
「ほんとにごめん、芹沢……!」
俺が深く頭を下げると、芹沢は「あー……」と、なんとも言えない声を出した。
「……その発想はなかったわ。そっか、四日も帰り断ったもんな。俺、もしかして……つうか、確実に鈴木を不安にさせたよな?」
「えっ、い、いや、それは……」
「人と会ったり、話聞いたり、いろいろあってさ。……って、それも言い訳だな」
芹沢は俺から目を逸らさずに言った。
「ごめんな、鈴木。俺が鈴木に言えないことなんてないから」
その声があまりに真剣で、俺はなんだか泣きそうになってしまった。
「……まぁ、迷ってたのは、ほんとなんだけど」
芹沢はポケットから一枚の名刺を取り出し、俺たちに見せた。
「……えっ!?」
そこには俺でも名前を聞いたことのある芸能事務所の社名と、『月城陽子』という女の人の名前が書いてあった。
「さっきの人、陽子さん。事務所の人でさ。俺をスカウトしてくれたわけ」
「……ス、スカウト?」
「は? マジかよ。漫画じゃあるまいし」
岩崎が名刺をひょいと取り上げ、裏まで確認している。
「いや、普通にあるでしょ。芹沢だよ?」
佐伯があっさりと言い切る。
「この人、去年も俺と駅前歩いてたとき、何度も声かけられたもん。毎回にこにこ断ってたけど」
「……そうなの!?」
「うん。まぁ、そんときは興味なかったし」
芹沢はなんでもないようにうなずいていた。
「事務所の名前もまともだし……まぁ、怪しいやつではないっぽいな」
竹内が名刺の社名を検索しながら、淡々と補足する。
「さっき陽子さんに、『芹沢くん、モテモテじゃない』って笑われたわ。お前らが覗いてんの、バレバレだったみたいよ」
芹沢が苦笑いする。
「えー、マジかよ……」
岩崎はまるで試合に負けたかのように唇を尖らせていた。
でも、俺の頭はそれどころじゃなかった。
芸能事務所にスカウトされた? 芹沢が?
……そして、同時にすとんと腑に落ちた。
さっき髪に触れていたのも、髪を急に切ったのも、香水を変えたのも、肌を磨いていたのもぜんぶ。
「す、すごいよ、芹沢!」
俺は思わず興奮して叫んでいた。
やっぱり、世界が芹沢を放っておくわけがない。
「鈴木が、前に本屋で言ってくれたじゃん? モデルとか芸能界とか合うんじゃないかって」
「えっ……お、覚えてたの?」
「覚えてるって。あれ、なんか妙に残っててさ。そのタイミングで陽子さんにスカウトされて、話だけ聞いてみっか、ってなったんだよね」
あんなぽろっとこぼしただけの一言を、芹沢は覚えていてくれた。
「……なぁ、鈴木」
芹沢が少し身を乗り出して、俺に顔を近づけてきた。
「俺がモデルやってるとこ、見たい?」
「……」
俺は持ち前の妄想力をフルスロットルにして、未来を思い浮かべた。
雑誌の表紙で笑ってる芹沢とか、ランウェイを歩く芹沢とか、そういうのが一気に頭の中に浮かんできて――。
「み、見たい……! 芹沢ならぜったい似合う……! 世界中の人に、芹沢のかっこよさを知ってほしい……!」
「ふは、何それ」
芹沢が楽しそうに笑った。そして、ちょっとだけ目を伏せて、ぽつりと言う。
「俺も正直、来年のために金貯めときたかったしさ。……まぁ、いろいろ、ちょうどよかったんだよな」
来年のため。ああ、そっか。大学に行ったらいろいろとお金かかるもんな。芹沢はそういうの、ちゃんと考えていて本当にえらい。
「……そんなに鈴木がすすめてくれんなら――」
芹沢がすっと背筋を伸ばした。その目に火がついたみたいに、強い光が宿る。
「やるわ」
「えっ」
「やる。めっちゃ本気でやる」
即決だった。
「えー、芹沢くん、そんな軽率に決めちゃっていいわけ?」
佐伯が保護者のように、不安げな声を出す。
「佐伯は応援してくれねぇのかよ」
「……いや、応援するけどさぁ!」
まんざらでもない顔で、「だろ?」と芹沢が笑った。
「芹沢、すごい。俺、ほんとに泣きそう……」
俺が感極まっていると、竹内が真顔で肩を叩いてきた。
「鈴木? 芹沢はまだなんにも成し遂げてないからね? しっかりして?」
「だいたい、モデルってそんな簡単にできるもんじゃねぇだろうが」
岩崎も呆れ顔で言う。
「まぁそれはそう」
芹沢が言うには、たしかにスカウトされてすぐに華々しくデビュー……なんて甘い話じゃないらしい。まずは事務所に所属して、宣材写真を撮って、オーディションを受けるところからのスタート。レッスンはその間もずっと続くという。
「レッスンって、何すんの?」
「ウォーキングとか、ポージングとか。……あと、ダンスもやるらしいわ」
「ダ、ダンス!?」
「体幹とかリズム感? 鍛えんだって」
「お前がダンスって、想像つかねぇわ」
岩崎の言葉を、芹沢はケロッと認めた。
「うん。体験レッスンで実際やってみたら、マジで初心者以下だったわ」
「おま……」
できないことを隠さない強さも芹沢らしい。
「あ、全然平気。俺、ダンスも完璧にこなしてみせるから」
「その自信どっから来んだよ」
「まぁなんとかなんだろ! まかせろって!」
「……ほんとにポジティブモンスターで、羨ましいわ」
竹内がどうしようもないなという感じでつぶやいた。
在学中は学業優先で、活動は放課後や休みの日だけ。
地道な『これからの人』の助走らしい。
それでも、芹沢を見ていると、本当になんとかなる気がしてくるから不思議だ。
◇
その日の帰り道。佐伯たちと別れ、俺は芹沢とふたりで並んで歩いた。
「なんか鈴木とこうして帰んの久しぶりだな」
「うん」
五月の夕暮れはとてもきれいだった。沈みかけた太陽が、街全体をオレンジ色に染めている。
「……芹沢、尾行なんてしちゃってほんとごめんね」
「いいって! マジで全然怒ってねぇから。俺のほうこそ、ちゃんと言わなくてごめん」
俺はふるふると首を横に振ってから、芹沢を見上げる。
「でも、ほんとにすごいよ、芹沢」
「だから、まだなんもしてねぇって。また竹内に怒られるかんね、鈴木は」
芹沢が屈託なく笑う。でもその横顔はやっぱりちょっと誇らしそうだった。
「これからさ、忙しくなるね。レッスンとか、撮影とか」
「……あー、まぁ、そうなるかも」
芹沢が少しだけ声のトーンを落とした。
「鈴木」
「ん?」
「……いや」
芹沢が何か言いかけて、口をつぐんだ。
「何?」
「……ううん、なんでもねぇわ」
信号待ちの交差点で、俺たちは足を止めた。ここを渡れば、芹沢の家と、俺の家の分かれ道。
信号が青に変わる。
でも、芹沢は動かなかった。
「……芹沢? 青だよ」
「ん」
返事はするのに、芹沢はその場から動こうとしない。
芹沢の指先が、俺の手首のあたりを探った。一度ためらって、それから手のひらに落ち着く。ぎゅっ、と力がこもった。
「せ、芹沢……?」
「……なんか」
芹沢は夕日を背に、ぽつりと言った。
「なんか、帰したくないなって思っただけ」
顔が一気に熱くなる。何も言えないでいる俺の横で、芹沢の唇がもう一度動いた。
「俺と……」
その言葉の続きは出てこなかった。
「……なぁんて。行こ、鈴木」
つないでいた手を、ぱっと離される。今度は俺の背中を押しながら、芹沢が歩き出していた。
俺と、何?
聞き返すタイミングを逃したまま、俺は芹沢に歩幅を合わせることしかできなかった。
――はずだった。
その日、俺はいつものように、芹沢に声をかけた。
「芹沢、一緒に帰ろう」
「あー……」
芹沢が歯切れの悪い声を出した。スマホをちらっと見て、申し訳なさそうに俺を見上げる。
「ほんっとにごめん! 今日は……ちょっと用事があってさ」
「あ、そっか。うん、全然いいよ。気をつけてね」
俺は笑って手を振った。芹沢にだって用事のひとつやふたつある。当たり前のことだ。
でも。
次の日も、その次の日も、芹沢は『ごめんな、用事あって』と、俺の誘いを断り続けた。
三日連続。
しかも、その『用事』がなんなのか、芹沢は一度も教えてくれなかった。
これまでの芹沢なら、『今日は姉貴に荷物持ち頼まれてさ~』とか『歯医者だわ、マジ萎え』とか、聞いてもいないのにぜんぶしゃべってくれていた。
別にいいんだけど……やっぱりちょっとだけ、もやっとする。
それに気になることは、もうひとつあった。
ここ数日、芹沢が日に日に、かっこよくなっているのだ。
いや、もちろん芹沢は今までもかっこよかった。
だけど、月曜の芹沢は、髪がほんの少しだけ短くなっていた。耳のあたりがすっきりして、うなじのラインもきれいに見えている。
「気づいた?」
笑ってそう聞かれて、俺は勢いよくうなずいた。
気づかないわけがない。芹沢のことなら、一ミリの変化だって見逃さない自信がある。
……そんなことを口に出せるはずもなく。俺は朝から落ち着かなかった。
火曜の芹沢は、いつもと違う香りをまとってきた。甘くて深い匂いがふわりと鼻をくすぐるたび、胸の奥がざわついて、無意識に呼吸が乱れてしまう。
水曜はなんだか肌がつやつやしていた。『姉貴のいい美容液、勝手に使った』と言っていたけれど……。
日を追うごとに、芹沢のビジュアルがぐんぐん磨かれていく。
恋人として、もちろん嬉しい。
嬉しいんだけど……!
俺はいつにも増してキラキラした芹沢の横顔を、複雑な気持ちで見つめた。
今日もかっこいいよ、芹沢。世界一かっこいい。
でも……なんで急に……!?
誰のために、そんなにかっこよくなってるの……!?
……って、こんなの、勝手なやきもちだ。
俺は大きく頭を振って、よからぬ考えを無理やり追い払おうとした。
そうして芹沢が俺の誘いを断り始めて、四日目の昼休み。俺たちはいつもの空き教室で、賑やかにお昼を食べていた。
だけど、芹沢に電話がきて、「ちょっとごめん」とすぐに教室の外に出ていってしまった。
ぽっかり空いてしまった俺の隣。
「芹沢、最近なんか用事ばっかりだなぁ……」
言ってから、しまった、と思った。これじゃあ束縛が激しいモラ男みたいだ。
「浮気じゃね?」
総菜パンを食べ終えた岩崎が、さらりととんでもないことを言い放つ。俺は飲んでいたお茶を噴き出しそうになり、慌てて口を覆った。
「はい、岩崎くん黙ろうねぇ」
佐伯がにこやかに微笑み、岩崎の口にメロンパンを突っ込む。
「……お前、ノンデリすぎ」
竹内はこめかみを押さえながら、低い声で言った。
「だって……そうじゃん。三日も帰り断って、用事の中身も言わねぇとか、怪しいって普通」
そんなことない、と反論しかけた俺に、佐伯が「あー……」と気まずそうな声を出した。
「これ言うか迷ったんだけど」
「……な、何?」
「この前、芹沢のスマホの通知出てて、見るつもりはなかったんだけど、たまたま目に入っちゃったんだよね」
佐伯は申し訳なさそうに話を続ける。
「『陽子』って女の人から、何度もLIMEきてた」
「よ、陽子さん……?」
「うん。……で、さっきの電話もたぶん同じ名前だった」
佐伯が、芹沢の出ていったドアのほうに目をやる。
「芹沢のお姉さんの名前、ではないな」
竹内がぼそっと言い、岩崎がここぞとばかりに身を乗り出す。
「決まりだろ、これ。陽子さんとやらと、こそこそ会ってんだよ」
「……おい、岩崎。無責任に確定させんなよ」
竹内が止めてくれたけれど、俺の頭の中は『陽子さん』のことでいっぱいになっていた。
誰なんだろう、陽子さんって。芹沢はいつから連絡を取っているんだろう。
髪を切ったのも、香水変えたのも、もしかして陽子さんのために……?
いや、ないない。芹沢に限って、そんなことあるわけない。そう言い切れるのに、心臓の奥がちりっと焦げたみたいに痛い。
「鈴木、本気にすんなよ?」
竹内が心配そうに、俺の顔を覗き込んでくる。
「だ、大丈夫。芹沢は浮気なんてしないって、わかってるから……」
途中でうつむいた俺の肩を、岩崎ががしっと掴む。
「なんもしねぇで悩んでたって解決しねーだろ。やるぞ、鈴木」
「えっ、や、やるって何を……!?」
「今日、芹沢を尾行する」
「びっ……尾行!?」
「スパイ大作戦的な? 今日暇だし、俺も乗った」
佐伯が楽しそうに手を上げる。
「……まぁ、鈴木が変な妄想して落ち込むよりは、白黒つけたほうがマシか……。つーわけで、俺も乗ったわ」
竹内までため息をつきながらそう言う。
「じゃ、多数決で決定ってことで」
「え~~……!?」
こうしてなぜか俺たちは、放課後に芹沢を尾行することになってしまったのだった。
◇
放課後。俺は一縷の望みをかけ、芹沢に声をかけた。
ほんの少しだけ、期待していたのだ。今日こそは一緒に帰ってくれるかもしれない、って。
「芹沢、今日は……一緒に帰れる?」
「あー……ごめん、鈴木。今日もちょっと、用事あって」
芹沢はやっぱり申し訳なさそうに眉を下げた。
……四日連続。
ずきっと胸が痛んだけど、俺はなんとか笑顔を作った。
「そ、そっか。じゃあ、俺たちは……」
「みんなで、カラオケ行くわー」
横から、岩崎がさらっと言った。
「な、鈴木」
「……そう! カラオケ!」
「はぁ? ずりぃー! 俺も鈴木と行きたい!」
「じゃあ、お前も来ればいいだろ」
岩崎の言葉に、芹沢は拗ねたように眉根を寄せる。
「だから無理だって言ってんじゃん。……鈴木、楽しんで来てな。俺のこと忘れないで。三秒に一回、思い出して?」
くしゃりと頭を撫でられ、俺は複雑な気持ちで笑った。そして、にこにこと手を振る芹沢を残し、佐伯たちと教室を出たのだ。
「……ねぇ、ほ、ほんとにするの?」
「もちろん」
佐伯がけらけら笑いながら、俺の背中を叩く。
「ちょっとした冒険だって。なんもなきゃそれはそれで問題ナシ!」
「そーそー。むしろ鈴木が安心するためだろ? 潔く行くぞ、おら」
岩崎はもう完全にスパイ気分で、わくわくしているようだ。竹内に視線を移すと、「行こう、鈴木」と俺の背中を押す。
……ごめん、芹沢。ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけだから。
心の中で謝りながら、俺はみんなのあとを追った。
◇
そうして俺たち四人は、校門から少し離れた電柱の陰に張り込んでいた。
五月の風が、新緑の匂いを運んでくる。ついこの前まで桜だったのに、街路樹は青々としていて、半袖でもいいくらいの陽気だった。
こんなに気持ちのいい日に、俺たちはいったい何をやっているんだろう。
ポケットの中で、スマホが震える。画面に浮かんでいたのは、見慣れた名前だった。
『創先輩、昨日発売の新刊、どれがよかった? 感想言い合お』
こんなタイミングで、と思わず脱力しそうになる。
「鈴木、誰から?」
佐伯に聞かれ、苦笑いで返す。
「た、たっちゃんだった……。あとで返信する」
「誰? たっちゃんて」
「あ、落合辰之進くん。一年生の……岩崎の後輩なんだよね?」
前を見ていた岩崎が、ぎょっとしたように俺のほうを向いた。
「は? お前ら、知り合いなの?」
「あっ、うん……。先月、いろいろあって」
「芹沢にライバル登場ってこと?」
佐伯にからかうように言われて、俺は「そ、そういうんじゃないから」とスマホをポケットに押し込んだ。
「来た。芹沢だ」
竹内が低く言った。
校門から出てきた芹沢は、案の定、人に囲まれていた。
左右から名前を呼ばれ、後ろから肩を叩かれ、通りすがりの女子に手を振られる。芹沢はそのぜんぶに「おー」とか「ばいばーい」とか応えていく。誰ひとり、邪険にせずに。
……ああやって、芹沢はいつも真ん中にいるんだよな。
やがて最後のひとりと別れると、芹沢はひとりで駅とは反対方向へ歩き出した。
「……あっちって、駅じゃないよね? どこに行くんだろう」
「よっしゃ、尾行開始だな」
「浮気の証拠を掴んじゃうぞー!」
「佐伯まで悪ノリしてんなよ……」
岩崎を先頭に、俺たちはこそこそと芹沢のあとをつけた。
……はずなんだけど。
「岩崎、近すぎ。もうちょい離れろって」
「あ? これくらいイケるくね?」
「バレるって。あと鈴木、見えちゃうから、岩崎の陰に隠れて」
竹内が、てきぱきと指示を出していく。
岩崎が突っ走りそうになると、竹内がさっと腕を掴んで引き戻す。また岩崎が変な動きをすると、竹内が「そっちは死角ねぇから」と方向を直す。
なんか息ぴったりだな、このふたり。
暴走しがちな攻めを、冷静な受けが「はいはい」って手綱を握って転がす感じの……いや、いやいや。
ぶわっと広がりかけた勝手な妄想を、俺は慌ててたたみ込んだ。
とにかく今の問題は、芹沢がどこへ向かっているか、だ。
「……あ、カフェ入った」
佐伯がつぶやく。
学校から少し歩いた通り沿いにある、おしゃれで広いカフェだった。
「……入るぞ」
獲物を狩る前の猛禽類のような目をして、岩崎が言った。
「え、入るの!? 中に!?」
「外から見てたって何もわかんねぇだろ。席数も多いし、客もたくさんいる。これなら、四人で紛れ込んでも、なんとかなんだろ」
そんな探偵みたいなこと、と思ったけど、もう岩崎はずんずん先へ行ってしまう。
残された三人で顔を見合わせて、覚悟を決める。
芹沢は店のいちばん奥の席に座っていた。俺たちは、そこからいくつか離れた、観葉植物の陰になる席に、息を殺して滑り込む。
メニューを広げ、顔を半分隠しながら、四人でこそこそと奥を窺った。
……はたから見たら、めちゃくちゃ不審者だ。
でも、ここまで来たら、ちゃんと確かめなくては……。この席なら、声は聞こえないけれど、芹沢の横顔はよく見える。
「え~、女の人と一緒じゃん~」
佐伯の言うとおり、芹沢はかなりきれいな人と向かい合って座っていた。
上品で、すらっとした大人の女性だ。何かを見せながら、にこやかに話している。芹沢も真剣な顔で、それを聞いていた。
次の瞬間。その人がすっと手を伸ばして、芹沢の前髪に触れた。確かめるように、軽く。
芹沢は嫌がるそぶりもなく、笑っている。
見つめ合うふたりがあまりに似合っていて、呼吸がワンテンポ遅れた。
「……やっぱ、浮気じゃねぇか」
岩崎が、低く唸った。
「見たろ今の。髪触ったぞ。あんなんよっぽど親しくなきゃ、芹沢が許さねぇだろ」
「あの距離感はちょっとねぇ……。浮気かどうかより、鈴木にこんな顔させてる時点でナシじゃない?」
さっきまでの悪ノリが嘘みたいに、佐伯の声は本気で怒っていた。
「だよな? ボコボコにぶん殴ってきてやろうか? 俺らの鈴木を泣かせやがって!」
「岩崎!」
立ち上がった岩崎の腕を、竹内ががしっと掴んで止める。
「落ち着け。まだ何もわかってねぇだろ」
メニューの陰から、俺は芹沢を見つめていた。
声は聞こえない。だから、余計に勝手な妄想が頭の中でふくらんでいく。
だけど――。
テーブルの下で、指先に力がこもる。
「……芹沢は、そんなことしない」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「なんか……理由があるはずだよ。せ、芹沢は人を裏切ることとか、ぜったいしない。俺、知ってるから」
言葉にしたら、胸のもやもやが、すっと晴れていくのがわかった。
そうだ。俺が好きになった芹沢は、そういう人だ。俺がいちばん、それを知ってる。
「……鈴木」
岩崎がちょっと驚いたような顔で俺を見た。
「だってさ、岩崎」
「……まぁ、鈴木がそこまで言うなら、もうちょっと泳がすか」
岩崎がしぶしぶといった様子で、席に座り直した。
ちょうどそのとき、奥の席の芹沢が、ゆっくりと俺たちのほうを向いた。
「「「「あ」」」」
俺たちの声が重なる。
俺の勘違いでなければ、今、芹沢とばっちり目が合っている。
芹沢の目がまんまるになっていく。
しばらく、お互いに固まっていた。芹沢は自分の見ているものが信じられないみたいな顔で、何度かまばたきをする。
「す、鈴木?」
……やばい、完全に気づかれた。
俺たちが動けずにいるうちに、向かいの女の人が、伝票を持って静かに席を立った。芹沢に何かを告げ、そのままレジのほうへ歩いていく。
去り際、ちらりとこっちを見て、おかしそうに笑ったような気がした。
残されたのは、奥のテーブルの芹沢と、観葉植物の陰でひと塊になって縮こまっている、俺たち四人。
「ど、どうしよう……」
「いや、もう完全にバレちゃったよねぇ……」
「今から他人のふりできねぇかな」
「無理だろ……」
ひそひそと、最悪な今の状況を話し合う。
その間も、芹沢はテーブルに頬杖をついて、にこにこと――それはもうにっこにことこちらを見ていた。
ゆっくりと芹沢が立ち上がり、こっちに向かってくる。俺たち四人はただならぬ気配を感じながら、目をきょろきょろと漂わせた。
「鈴木ぃ。あと、佐伯と竹内と岩崎も」
甘ったるいイケメンボイスで、芹沢が俺たちを呼ぶ。
「今日の学級会の議題、わかってるよな?」
「「「「……はい」」」」
俺たち四人の声が、おそろしいほどきれいにそろった。
◇
いつものファミレスに移動して、五人でボックス席に収まる。
さっきドリンクバーで取ってきたジュースに、口をつける気にはなれない。
「そんじゃあ、尾行の経緯について、説明をどうぞ」
俺は緊張しながら、ことのいきさつを白状した。芹沢の様子がおかしくて、ほんのちょっとだけ浮気を疑っていたこと、カラオケと嘘をついて尾行したこと。
「え、浮気?」
「ほんとにごめん、芹沢……!」
俺が深く頭を下げると、芹沢は「あー……」と、なんとも言えない声を出した。
「……その発想はなかったわ。そっか、四日も帰り断ったもんな。俺、もしかして……つうか、確実に鈴木を不安にさせたよな?」
「えっ、い、いや、それは……」
「人と会ったり、話聞いたり、いろいろあってさ。……って、それも言い訳だな」
芹沢は俺から目を逸らさずに言った。
「ごめんな、鈴木。俺が鈴木に言えないことなんてないから」
その声があまりに真剣で、俺はなんだか泣きそうになってしまった。
「……まぁ、迷ってたのは、ほんとなんだけど」
芹沢はポケットから一枚の名刺を取り出し、俺たちに見せた。
「……えっ!?」
そこには俺でも名前を聞いたことのある芸能事務所の社名と、『月城陽子』という女の人の名前が書いてあった。
「さっきの人、陽子さん。事務所の人でさ。俺をスカウトしてくれたわけ」
「……ス、スカウト?」
「は? マジかよ。漫画じゃあるまいし」
岩崎が名刺をひょいと取り上げ、裏まで確認している。
「いや、普通にあるでしょ。芹沢だよ?」
佐伯があっさりと言い切る。
「この人、去年も俺と駅前歩いてたとき、何度も声かけられたもん。毎回にこにこ断ってたけど」
「……そうなの!?」
「うん。まぁ、そんときは興味なかったし」
芹沢はなんでもないようにうなずいていた。
「事務所の名前もまともだし……まぁ、怪しいやつではないっぽいな」
竹内が名刺の社名を検索しながら、淡々と補足する。
「さっき陽子さんに、『芹沢くん、モテモテじゃない』って笑われたわ。お前らが覗いてんの、バレバレだったみたいよ」
芹沢が苦笑いする。
「えー、マジかよ……」
岩崎はまるで試合に負けたかのように唇を尖らせていた。
でも、俺の頭はそれどころじゃなかった。
芸能事務所にスカウトされた? 芹沢が?
……そして、同時にすとんと腑に落ちた。
さっき髪に触れていたのも、髪を急に切ったのも、香水を変えたのも、肌を磨いていたのもぜんぶ。
「す、すごいよ、芹沢!」
俺は思わず興奮して叫んでいた。
やっぱり、世界が芹沢を放っておくわけがない。
「鈴木が、前に本屋で言ってくれたじゃん? モデルとか芸能界とか合うんじゃないかって」
「えっ……お、覚えてたの?」
「覚えてるって。あれ、なんか妙に残っててさ。そのタイミングで陽子さんにスカウトされて、話だけ聞いてみっか、ってなったんだよね」
あんなぽろっとこぼしただけの一言を、芹沢は覚えていてくれた。
「……なぁ、鈴木」
芹沢が少し身を乗り出して、俺に顔を近づけてきた。
「俺がモデルやってるとこ、見たい?」
「……」
俺は持ち前の妄想力をフルスロットルにして、未来を思い浮かべた。
雑誌の表紙で笑ってる芹沢とか、ランウェイを歩く芹沢とか、そういうのが一気に頭の中に浮かんできて――。
「み、見たい……! 芹沢ならぜったい似合う……! 世界中の人に、芹沢のかっこよさを知ってほしい……!」
「ふは、何それ」
芹沢が楽しそうに笑った。そして、ちょっとだけ目を伏せて、ぽつりと言う。
「俺も正直、来年のために金貯めときたかったしさ。……まぁ、いろいろ、ちょうどよかったんだよな」
来年のため。ああ、そっか。大学に行ったらいろいろとお金かかるもんな。芹沢はそういうの、ちゃんと考えていて本当にえらい。
「……そんなに鈴木がすすめてくれんなら――」
芹沢がすっと背筋を伸ばした。その目に火がついたみたいに、強い光が宿る。
「やるわ」
「えっ」
「やる。めっちゃ本気でやる」
即決だった。
「えー、芹沢くん、そんな軽率に決めちゃっていいわけ?」
佐伯が保護者のように、不安げな声を出す。
「佐伯は応援してくれねぇのかよ」
「……いや、応援するけどさぁ!」
まんざらでもない顔で、「だろ?」と芹沢が笑った。
「芹沢、すごい。俺、ほんとに泣きそう……」
俺が感極まっていると、竹内が真顔で肩を叩いてきた。
「鈴木? 芹沢はまだなんにも成し遂げてないからね? しっかりして?」
「だいたい、モデルってそんな簡単にできるもんじゃねぇだろうが」
岩崎も呆れ顔で言う。
「まぁそれはそう」
芹沢が言うには、たしかにスカウトされてすぐに華々しくデビュー……なんて甘い話じゃないらしい。まずは事務所に所属して、宣材写真を撮って、オーディションを受けるところからのスタート。レッスンはその間もずっと続くという。
「レッスンって、何すんの?」
「ウォーキングとか、ポージングとか。……あと、ダンスもやるらしいわ」
「ダ、ダンス!?」
「体幹とかリズム感? 鍛えんだって」
「お前がダンスって、想像つかねぇわ」
岩崎の言葉を、芹沢はケロッと認めた。
「うん。体験レッスンで実際やってみたら、マジで初心者以下だったわ」
「おま……」
できないことを隠さない強さも芹沢らしい。
「あ、全然平気。俺、ダンスも完璧にこなしてみせるから」
「その自信どっから来んだよ」
「まぁなんとかなんだろ! まかせろって!」
「……ほんとにポジティブモンスターで、羨ましいわ」
竹内がどうしようもないなという感じでつぶやいた。
在学中は学業優先で、活動は放課後や休みの日だけ。
地道な『これからの人』の助走らしい。
それでも、芹沢を見ていると、本当になんとかなる気がしてくるから不思議だ。
◇
その日の帰り道。佐伯たちと別れ、俺は芹沢とふたりで並んで歩いた。
「なんか鈴木とこうして帰んの久しぶりだな」
「うん」
五月の夕暮れはとてもきれいだった。沈みかけた太陽が、街全体をオレンジ色に染めている。
「……芹沢、尾行なんてしちゃってほんとごめんね」
「いいって! マジで全然怒ってねぇから。俺のほうこそ、ちゃんと言わなくてごめん」
俺はふるふると首を横に振ってから、芹沢を見上げる。
「でも、ほんとにすごいよ、芹沢」
「だから、まだなんもしてねぇって。また竹内に怒られるかんね、鈴木は」
芹沢が屈託なく笑う。でもその横顔はやっぱりちょっと誇らしそうだった。
「これからさ、忙しくなるね。レッスンとか、撮影とか」
「……あー、まぁ、そうなるかも」
芹沢が少しだけ声のトーンを落とした。
「鈴木」
「ん?」
「……いや」
芹沢が何か言いかけて、口をつぐんだ。
「何?」
「……ううん、なんでもねぇわ」
信号待ちの交差点で、俺たちは足を止めた。ここを渡れば、芹沢の家と、俺の家の分かれ道。
信号が青に変わる。
でも、芹沢は動かなかった。
「……芹沢? 青だよ」
「ん」
返事はするのに、芹沢はその場から動こうとしない。
芹沢の指先が、俺の手首のあたりを探った。一度ためらって、それから手のひらに落ち着く。ぎゅっ、と力がこもった。
「せ、芹沢……?」
「……なんか」
芹沢は夕日を背に、ぽつりと言った。
「なんか、帰したくないなって思っただけ」
顔が一気に熱くなる。何も言えないでいる俺の横で、芹沢の唇がもう一度動いた。
「俺と……」
その言葉の続きは出てこなかった。
「……なぁんて。行こ、鈴木」
つないでいた手を、ぱっと離される。今度は俺の背中を押しながら、芹沢が歩き出していた。
俺と、何?
聞き返すタイミングを逃したまま、俺は芹沢に歩幅を合わせることしかできなかった。



