『鈴木、今日やっと会えるな』
始業式の朝、芹沢からのメッセージで目が覚めた。
画面に浮かんだ芹沢遥人という四文字を見ただけで、布団の中で変な声が出た。
春休み最後の三日間は、塾の春期講習で会えなかった。
たった三日だ。それなのに俺は、もう芹沢が恋しくて仕方なかった。
枕に顔をうずめ、甘酸っぱい幸せを噛み締めながら、しばらくじたばたした。
にやける顔を上げ、芹沢に返信を打つ。
『俺も芹沢に会いたかった』
送ってから、『俺も』にしたのは自意識過剰だったかも、と一瞬怯んだ。けれど、
『鈴木はほんとかわいい。大好き』
すぐに既読がついて、甘い返事が送られてきた。俺は布団の中でもう一回じたばたする。
芹沢は優しくて、明るくて、かっこよくて、誰にも怯まなくて、自分の意見をまっすぐ言えて、俺にも言葉を惜しまない。
そんな芹沢と付き合える日がくるなんて、一年前の俺は想像すらしていなかった。
俺と芹沢が付き合い始めたのは、二年生のときだ。
もともと俺たちは住む世界が違った。
芹沢遥人は、誰もが振り返るイケメンで、いつだって人の輪の中心にいる、いわばクラスの太陽みたいな存在。
かたや俺、鈴木創は、教室の隅でひとり、こっそりBL小説を書いているような地味な生徒だった。接点なんてあるはずもない。
だけど、一冊のノートが俺たちの人生を変えた。
選択授業のとき、俺は自分のBL妄想を書いていたノートを、うっかり芹沢の机に置き忘れてしまったのだ。よりによって、芹沢を攻めのモデルにしていた、あのノートを、だ。
中身は読まれてませんように。そんな俺の祈りは通じることなく、芹沢にばっちり読まれていた。人生終わった、と本気で思った。一年生のとき、BLが好きだと言って、友達と疎遠になってしまった古傷もあって、また同じように軽蔑されるんだと覚悟した。
でも、芹沢は俺をばかにしなかった。それどころか『俺も好きだよ、BL』と笑って、俺の小説の〝読者第一号〟になってくれた。
本当に芹沢はいつもまっすぐだ。
――『どっかの誰かの想像した評価』じゃなくて、俺が鈴木のこと『いいな』って思ってる気持ちをちゃんと受け取ってよ。
なんて、ずるい台詞を平気で言ってのける。
しかも『これは鈴木だけが持ってて』と付け足すものだから、俺はあの言葉を、今も宝物みたいに胸の奥にしまっている。
そうやって何度も気持ちをぶつけられて、わからせられて――気づいたときには、俺も芹沢のことが、どうしようもなく好きになっていた。
奇跡だ。俺が芹沢と仲よくなったことも、俺たちが両想いになれたことも。……そして、芹沢のほうが先に、俺を見つけてくれていたことも。
◇
もう三回目だというのに、昇降口で新しい上履きに履き替えるとき、いつもちょっとだけ緊張する。
踵のゴムは固くて、まだ足になじんでいない。きゅっ、と床を鳴らす感触が、いかにも『新学期』という感じがしてなんだか落ち着かなかった。
「鈴木」
廊下の途中で呼び止められて振り向くと、松野が立っていた。
「あ、おはよう、松野!」
松野は一年生のとき、いちばん仲がよかったクラスメイトだ。
そして、俺がBL好きだと告げたあの日、俺から離れていった友人のひとりでもある。
だけど、去年の文化祭で、松野は俺に謝ってくれた。そのとき、俺は初めて知ったんだ。本当は松野にも大切なものがあって、ずっと隠していたことを。
あの頃の俺は自分のことで精一杯で、松野がどんな思いで黙っていたのか、気づいてあげられなかった。
文化祭の日以来、俺たちはまた普通に話せるようになった。
そんな仲直りのきっかけを作ってくれたのが芹沢だ。……なんて、本人は一度も自分から言わないけれど。
松野とは二年のときからずっと違うクラスのままだけど、こうしてたまに廊下で話をしている。
「……鈴木、ちょっと」
松野は俺の袖を引いて、廊下の端まで移動した。そして、ポケットからスマホを取り出すと、左右をきょろきょろ確認してから、慣れた手つきでケースをぱかっと外す。
中から現れたのは、男性アイドルのトレーディングカードだった。前に見せてもらったのと同じ人で、衣装だけが違う。
「……新しいのゲットしたわ」
「わっ、すごい! 衣装、春っぽくてかわいい……!」
「だろ?」
松野はすぐにケースを閉じたけれど、その口元はちょっとだけゆるんでいた。
「……あとさ、今度のライブ、佐藤たちと行くことになった」
「えっ……も、もしかして、佐藤と中村!?」
思わず声が裏返った。
一年のとき、BLが好きだと言った俺のことを笑っていた、あのふたりだ。
「だ、大丈夫なの、松野?」
「うん。文化祭のあと、俺がめちゃくちゃ時間かけて布教した。……今は、あいつらもけっこう沼ってる」
松野はなんでもないみたいに言ったけれど、声がちょっとだけ弾んでいた。
時間をかけて自分の『好き』を伝え続けた松野は、本当にすごい。
結局、佐藤たちとはあれきりだ。けれど不思議と、胸の奥はざわつかなかった。あのふたりにも、夢中になれるものができたんだ。それなら、きっと今度は誰かの『好き』を笑ったりしないはずだ……たぶん。
「鈴木もさ、大事にしてる? 好きなもの」
「……うん。してるよ」
俺は、にこりと笑ってうなずいた。
「よかった」
松野もちょっとだけ笑った。
「じゃ、またな、鈴木」
「うん、じゃあね、松野」
去年の今頃、俺はこの廊下をひとりで歩いていた。
そして、今。
心臓がうるさいのは、新学期のせいだけじゃない。
歩くたび、鞄のキーホルダーが揺れる。水族館で、芹沢とおそろいで買ったやつだ。
やっと、芹沢に会える。
俺は半分駆けるみたいにして、教室へ向かっていた。
初めての三年一組の教室。おずおずと引き戸を開けた瞬間、クラスメイトの女子たちに声をかけられた。
「すずぴー、おはよう! 三年でもよろしくー!」
「あ、うん。よろしくね」
彼女たちに挨拶をして、奥の席に視線を移す。
賑やかなクラスメイトたちに囲まれ、春の光をぜんぶ自分のものにしているみたいな芹沢が、こっちを見て大きく手を上げた。
「鈴木!」
その声を聞いた瞬間、足が勝手に動き出す。
「芹沢……おはよう!」
「はよー。鈴木のこと待ちきれなくてさ。めずらしくめっちゃ早く起きたわ」
駆け寄った俺の頭を、芹沢がとろけるような笑みを浮かべながら撫でる。その動作ひとつで、朝から少しだけ緊張していた全身がふわりとほどけた。
「あー、よかった……。ほんとに芹沢と同じクラスなんだ……!」
心臓をブレザーの上から押さえていると、
「うちの学校は、三年のクラス替えないからねぇ」
近くの席に座っていた、爽やかイケメンの佐伯が笑った。
「……つーか、鈴木、俺らのこと見えてる?」
その隣の席にいる秀才イケメンの竹内も、竹内の机にもたれている体育会系イケメンの岩崎も、俺を見てにやにやしている。
相変わらず顔面が強い彼らは、直視すると目が痛いくらいだ。
「あっ、ごめんごめん。おはよう、みんな! 今年も同じクラスで、俺、本当に本当に嬉しい……!」
「大げさだから、鈴木は」
岩崎は呆れたように口角を上げていた。
「大げさじゃないって! 三年でもみんなとまた楽しく過ごせますようにって、俺、春休みの間、神社に何回もお参りに行ったんだからね!?」
クラス替えはないとわかっていても、なんだか妙に不安になってしまった。
「へぇ、鈴木はそんなに俺らと一緒にいたいんだ?」
おもしろがるみたいに、岩崎が俺の顔を覗き込む。すぐさま横にいた芹沢が、俺の肩をぎゅっと引き寄せた。
「鈴木が一緒にいたいのは俺だろ。な? 俺だよな? ……俺だって言って?」
「……朝からワガママボーイがすぎんだろ、芹沢」
竹内の冷静な突っ込みに笑いながら、俺は迷わず口を開いた。
「芹沢も佐伯も竹内も岩崎も、みんな大好きだし、最後の一年もみんなと一緒に仲よく過ごしたい。楽しいこと、いっぱいしよう!」
俺がにこにこ笑って言ったあと、なぜかみんな押し黙ってしまった。
「……え、何?」
芹沢も、佐伯も、岩崎も、なんならいつも平然としている竹内も、妙な顔で俺を見ている。
「「「「かわいい~~」」」」
四方向から声が飛んできた。
「だっ、だから、そういうのいいって!」
俺は耳が熱くなるのを感じながら、右手をぶんぶんと振る。
「鈴木って、なんか最初の頃より丸くなったよねぇ。ますますかわいいっていうか」
「は? 俺の鈴木を口説くのやめれる?」
しみじみと言う佐伯に、芹沢がすかさず噛みつく。佐伯は「俺はこはちゃん一筋だし」とマジレスしていた。
丸くなった、と言われてもぴんとこない。……でも、以前は「かわいい」と言われるたびに、ばかにされてるんじゃないかと、まず身構えていた。
今はもう、言葉の裏を探さない。一年間この陽キャ集団に――とくに隣の約一名に甘やかされたせいだ。
ちらっと芹沢を見上げたら、柔く瞳を細めていた。その目がいつも以上に甘くて、慌てて視線を逸らす。
みんなの前で、そういう顔をしないでほしい。
心臓がもたないて、芹沢。
◇
今日は始業式のみで授業はない。式とホームルームが終われば、あとは自由時間だ。
帰りに新しい教科書を山ほど配られたのだけれど、みんなちゃっかり置き勉するらしい。ぜんぶ詰めた俺だけ、鞄がずっしり重かった。
岩崎が両手を上げて伸びをする。
「腹減った。飯行こうぜ、飯」
「さんせーい。新学期一発目の学級会ってことで」
佐伯が言うと、竹内が「議題ないだろ」と突っ込みを入れた。
芹沢は当たり前みたいに俺の肩を抱いてくる。
「あるって。『三年一組、今年も仲よく!』」
俺は「それだぁ!」と嬉しくなって声を上げた。
いつものファミレスは、春休み明けの学生でそこそこ混んでいた。
奥のボックス席に五人でぎゅうぎゅうに詰めて座る。俺の左隣には、もちろん芹沢がいた。
うきうきとして注文タブレットを開く。
春の新作フェアらしい。とろとろのビーフオムライスと、海老のクリームドリア。どっちも写真がおいしそうで選べない。
みんなは早々と注文を決めた。優柔不断な俺がうんうん唸っていると、横から芹沢がひょいと画面を覗き込んでくる。
「どっち?」
「……うーん、待って、ごめん……えー、どうしよう……」
「じゃ、俺がこっち頼むから。半分こしよ」
芹沢はあっさりそう言って、もうタブレットに注文を入力していた。
「えっ、で、でも、芹沢が食べたいの食べてよ……!」
「うん、俺が食べたいの食べる」
注文ボタンを押してしまった芹沢を驚いて見つめる。
「あ、甘やかしすぎだよ、芹沢ぁ……!」
「そうじゃないでしょ、鈴木」
芹沢に促され、ぐっと言葉を呑む。
そりゃあ、正直に言えば……。
「……嬉しい。ありがと、芹沢」
「うん、俺も嬉しい」
まだ顔が熱いままでいると、先にポテトがテーブルに運ばれてきた。
「鈴木、あーん」
横から揚げたてのポテトが差し出される。
あまりに自然だったので、俺は反射的に口を開けてしまった。
「出た、芹沢システム」
佐伯がけらけらと笑う。
芹沢はしれっと「当然だろ」と言い、次のポテトをつまんでいた。
「まだやってんのかよ、それ」
「鈴木が小説書いてる横で、芹沢が飯食わせるシステムね?」
岩崎が呆れると、竹内が横から補足する。
「だってさー、鈴木って、小説のこと考え始めると飲まず食わずになんだもん。去年も四時間ぶっ通しで書いて水も飲んでなかったから。放っといたら死んじゃうって」
「し、死なないから!」
「あのね、鈴木くん。食べないと人は死んじゃうんだよ? だから俺がやんの」
胸を張る芹沢に、岩崎が身を乗り出してきた。
「今は小説書いてねぇだろ」
「そうだぞ、芹沢ー」
「岩崎も佐伯もごちゃごちゃうるせぇな」
「あ? やんのか?」
岩崎がテーブルに手をついて腰を浮かせる。芹沢も同じ速さで立ち上がろうとする。
もちろん本気じゃないってことはわかっている。けれど、体が勝手に動いていた。
両手を思いきり伸ばして、左手で芹沢の手を、右手で岩崎の手を、それぞれぎゅっと掴む。
「さっ、三年一組、今年も仲よく! だよね……!」
笑顔で叫んでから、自分でも何を言っているんだろうと思った。
岩崎は俺に手を握られたまま、どすんと座り直す。その口には堪えきれない笑みが浮かんでいた。
「さすがだねぇ、岩崎のあらぶる戦意も喪失させる男、鈴木」
「やめて、佐伯。……めちゃくちゃ気まずい」
からかう佐伯を睨みつけた、そのときだった。
芹沢が身を乗り出すようにして、俺の右手を岩崎から外して、自分の手のひらの中にぎゅっと収めてしまったのだ。
「はい、そこまで。俺のなんで、この手は」
「おめぇのじゃねぇだろ」
「今年も仲よくだよ、岩崎くん♡」
芹沢はにこにこ笑ったまま、今度は一本ずつ丁寧に指を絡めてくる。
「な、なんで恋人繋ぎ……?」
「仲よくしてる、鈴木と」
「芹沢? あの、右手ふさがってると食べられないんだけど……」
「まかせて、鈴木」
芹沢がポテトをつまんで俺の口元へ運んでくる。
「はい、鈴木。あーん」
「……んー! 芹沢、だるいて!」
口に入れられたポテトを噛みながら文句を言った俺をよそに、佐伯たち三人の笑い声がきれいに重なった。
◇
ファミレスを出たのは、二時すぎだった。
佐伯は「こはちゃんと約束あるから」とにっこにこで彼女のもとへ向かい、岩崎は「午後は部活だから」と走っていき、竹内は「塾」と短く言って駅のほうへ歩いていく。
三人が三方向に散っていくのを見送っていたら、隣に立った芹沢が、すっと俺の顔を覗き込んできた。相変わらず距離が近くて、心臓に悪い。
「鈴木、俺たちはデートしよ」
「デート……!?」
「何、嫌?」
「ぜっ、全然嫌じゃない。けど……、心の準備が……」
「デートに心の準備いんの?」
「いるよ!」
おかしそうに芹沢がけらけら笑う。
「おっけ。心の準備ね。じゃ、三秒あげる。さん、にー、いち」
「早すぎるて、芹沢!」
抗議する俺にはお構いなしで、芹沢はひょいと俺の鞄を取り上げた。教科書がぎっしり詰まった、重い鞄だ。
「これ持って歩き回るとかぜったい無理っしょ。駅のロッカー預けよ」
芹沢は俺の鞄を肩に担いで、さっさと歩いていく。俺は真っ赤な顔で、その隣に追いついた。
俺の彼氏……優しすぎ。無理……ほんと好き。
ロッカーに鞄を預けて、駅前の書店に入った。
新刊コーナーへ向かう途中、ファッション雑誌の棚の前を通りかかった。ずらりと並んだ表紙。男性モデルたちがきれいな顔でこっちを見ている。
「芹沢にはこういうの似合いそう……」
「ん?」
「あ、いや、芹沢はめちゃくちゃかっこいいからさ。モデルとか芸能界とか、合うんじゃないかなって」
「えー、俺? そうかな?」
芹沢は笑って、あっさり棚の前を通り過ぎた。
……ぜったい似合うと思うんだけどな。
「鈴木、こっち。あったよ」
「……あっ、ほんとだ!」
平積みになっている石橋叩割先生の小説。表紙には制服姿の男の子がふたり。攻めが受けの手首を掴んで、至近距離で見つめ合っている。
春休みからずっと、ふたりで待っていた新刊だ。
「やっとだな、鈴木」
「うん……!」
芹沢が二冊取って、一冊を俺に渡してくれる。
「ありがとう、芹沢。読み終わったら、感想言い合おう!」
「もちろん。それまではお互いネタバレ厳禁ってことで」
芹沢とレジに並んでいると、じわじわ嬉しさがこみ上げてくる。
好きな作家の新刊を、恋人と一緒に買いに来られるなんて。
書店を出て、少し歩いたところで、俺は思いきって芹沢の袖を引いた。
「……ちょっとだけ、寄りたいとこがあるんだけど」
「全然いいよ。どこ?」
案内したのは、近くにある小さな神社だった。
石段を上がると、境内には誰もいなかった。薄い桜の花びらが、砂利の上にはらはらと降り積もっていく。とても静かだ。
「もしかして、鈴木が何回もお参りに行った神社?」
「そう」
俺は鈴を鳴らして、手を合わせた。
――三年になっても、みんなと仲よく過ごせますように。
春休みの間、ここで何度もお願いしてきた。まだ一日目だけど、今日のぶんはちゃんと叶った。
本当に本当に、ありがとうございます、神様。
まずはお礼を言い、それから俺は新しい願いごとをひとつ心の中で唱えた。一回じゃ足りなくて、何度も何度も繰り返す。神様に、ちゃんと届くように。
目を開けると、芹沢は笑い出しそうな顔をしていた。
「鈴木、めっちゃ長かったけど、何お願いしたの?」
一瞬、言葉に詰まってしまう。
言ってしまってもいいんだろうか。だって、あまりにも欲が深い気がして。
「なぁ、教えてよ、鈴木」
「……あの、……芹沢と、ずっと一緒にいられますようにって」
言ってしまってから、恥ずかしくて顔を上げられなくなった。
「も、もちろん自分でも努力はするよ!? ていうかほんとは、こんなこと神様に頼むことじゃないってわかってるんだけど……なんていうか、念のためっていうか……決意表明も兼ねてるっていうか」
しばらく、返事がなかった。
恐る恐る顔を上げると、芹沢はじっと俺を見ていた。
「……せ、芹沢?」
「待って。今、無理。かわいすぎて処理が追いついてない」
「え……」
次の瞬間、腕を引かれて、俺は芹沢の胸に抱き込まれていた。
「せ、芹沢! ここ、外……!」
「うん、だな。でも、誰もいないよ、鈴木」
まるで悪びれない声と一緒に、ぎゅう、と腕に力がこもる。
制服越しに芹沢の温もりを感じて、俺はもう何も言えなくなった。頬に押しつけたブレザーからは、いつもの香水の匂いがする。
「……鈴木さ」
頭の上から、声が降ってくる。
「そういうのは、神様じゃなくて、俺に直接言って」
息が、止まりそうになった。
顔を上げると、すぐそこに芹沢の目があった。
もうだめだ。かっこつけた言い方なんて、ひとつも出てこない。
「……えっと、……お、俺と、ずっと一緒にいてください」
「はい」
屈託なく芹沢が笑って、俺の頭に手を置いた。花びらが一枚、はらりと肩に落ちる。
「今年も一年、よろしくな、鈴木」
「……うん。こちらこそ」
石段を下りるとき、芹沢が手をつないできた。
人通りの多い道に出る手前で、俺がきょろきょろし始めると、察したように芹沢のほうから手を離す。
心臓が痛くて苦しい。
俺のためらいごと引き受けるように、芹沢は今日も太陽みたいな笑顔で俺の隣にいてくれる。
◇
新学期が始まって、数日。
時間割も本格的に動き出した、その日の昼休み。所用で担任の宇佐美先生に会いに行ったら、プリントを教室に運ぶ手伝いを頼まれた。
芹沢たちはいつもの空き教室で俺を待っているから、早く戻らないといけない。
そうして両手にプリントの束を抱え、急いで曲がり角を曲がろうとしたとき、俺は思いきり誰かにぶつかった。
「うあっ!?」
よろけた弾みで、プリントをぜんぶ床にぶちまける。顔面蒼白になっていると、視界に大きな影が落ちた。
「すみません。大丈夫ですか?」
「……だ、大丈夫です! ごめんなさい!」
相手はびくともしていない様子だった。どうやら、よろけたのは貧弱な俺だけだったらしい。
恐る恐る見上げると、きれいな顔の男の子が立っていた。
背が高い。だけど、まだあどけなさの残る幼い顔。一年生だ。胸の校章の色でもわかる。
俺はその子の顔をじっと見つめ、すぐさまピンときた。と、年下攻めだ……。しかも自由奔放な受け先輩に振り回されながらも、生意気に攻める後輩。
「……ん? 俺、もしかして、顔になんかついてます……?」
俺が見つめすぎたせいで、その子が不思議そうにしていた。慌てて、「いえいえいえっ!」と頭を横に振った。
いかんいかん、あふれんばかりのBL妄想力が暴走してしまった。初対面の人にすることじゃない。
「プリント、拾いますね」
「あー、全然大丈夫です! お、俺が前を見てなかったのが悪いんで! ほんとにお構いなく!」
「じゃあ、お構いなく拾いますね」
笑いながらしゃがみ、プリントを拾い集めてくれるその手つきはとても丁寧だ。
一枚も折らないように、端をそろえて重ねていく。どこか体育会系の匂いがするし、ずいぶん律儀な子だ。
そのとき、しゃがんだ彼が肩にかけていたトートバッグから、何かが滑り落ちた。
「……あっ」
一年生の顔が、瞬時にこわばる。
俺は落ちてしまったそれに、何気なく手を伸ばした。そして、拾ったものを見つめ、ぴたりと動きを止める。
見覚えのある小説だった。
表紙には、至近距離で見つめ合う制服姿の男の子がふたり。帯には見間違えようのないジャンル表記と石橋叩割先生の文字。
青春BL小説。しかもこの前、芹沢と一緒に買ったばかりの、あの一冊だ。
「……うっわ!」
一年生がものすごい勢いで、顔を赤くした。
「こ、これは違うんです。お、俺のじゃなくて、い、妹の……! あいつのがたぶん間違って入ってたんだと思いますマジで!」
その慌て方。その顔。
俺も、ちょっと前まで同じ顔をしていた。知られたら終わりだ、って。
胸の奥がきゅっとなって、気づいたら微笑んでいた。
一年生の言うことが本当でも、嘘でも、どちらでも構わない。
本のほこりを払って、彼に差し出す。
「妹さんとってもいい趣味してますね。俺もこの先生の小説、大好きなんです」
にこりと笑うと、一年生は目を見開いたまま固まった。
そして次の瞬間、なぜか彼は小説を持つ俺の手首をがしっと握ってくる。
「好きですっ……!」
いきなり顔が近づいてきた。さっきまでの照れはどこへやら、目を輝かせていて、息づかいまでちょっと荒い。体格がいいぶん、迫力がすごかった。
「……え、えっと?」
「俺も大好きです!」
「はいっ!?」
「それ、俺もいちばん好きな作家さんの新刊なんです……! 妹のっていうのは、とっさに言っちゃって……つうか本当は全然、俺のなんですけど……。でも、俺の周りで読んでる人全然いなくて、好きって言ってくれる人と会えたの初めてで……! 小説の話、もっとしたいです!」
「あ、ああ……小説の」
俺は真っ赤な顔のまま、力が抜けるのを感じていた。勘違いしそうになった自分を笑いつつ、こくりとうなずく。
「いいよ、俺でよかったら、いっぱい話そう」
一年生ははっと我に返ったみたいに、握っていた俺の手首を離した。けれど、照れて引っ込むかと思いきや、彼の勢いはそこからが本番だったのだ。
「この作家さんの『はせふか』シリーズは読みましたか? 告白の前にさりげなく手ぇつなぐとこ……俺あそこで完全に死んだんですけど」
「え、わかる! 俺もあそこで一回本閉じた!」
「ですよね!? ほかに何読むんですか。攻め受けの好みとか、めっちゃ気になります」
ぐいぐい来る。さっきまで『妹の』と真っ赤になっていた子と同一人物とは思えない。一度好きなものの話になった途端、距離の詰め方が完全に陽キャイケメンのそれだった。
呆気にとられている俺にさらに近づき、一年生はずいっとスマホを差し出してくる。
「インスタやってます? あ、それかなんでもいいんで連絡先……! 話、もっとしたいんで!」
「れっ、連絡先……?」
初対面の、しかも一年生から連絡先を聞かれるなんて初めてで、思いのほかあたふたしてしまった。でも、冷静に考えてみたら、同じ趣味の人とつながれるのは大歓迎だ。
おずおずとアカウントを交換すると、彼はぱっと顔を輝かせた。
「マジであざす……! 俺、辰之進っていいます。落合辰之進。一年です」
「……お、俺は鈴木。鈴木創、三年、です」
「創先輩」
急に名前を呼ばれて、どきっとした。
「……って呼んでいい?」
「え……、い、いいよ、それはもう好きに……呼んでもらって」
うわ、なんかこそばゆい。
後輩から下の名前で、しかも『先輩』なんて呼ばれたのは生まれて初めてだ。地味な人生を送ってきた俺にはだいぶ刺激が強すぎる。
「ありがとうございます、創先輩。じゃあ俺のことも、『たっちゃん』って呼んでください」
「た、たっちゃん……? えっ、いきなり……!?」
「いきなりだけど、だめ?」
「い、いいよ……わかった、たっちゃん、ね」
「やった」
笑顔がまぶしい。白い歯がまぶしい。ぐいぐい来る年下の圧がまぶしい。
これが俺の大好きな〝人懐っこい年下攻め〟の実物か……と、思わず職業病ならぬ趣味病が顔を出しかけて、慌てて引っ込めた。さっき反省したばかりだろ、俺。
そうやって妄想を押し込めていたそのとき――。
「鈴木」
廊下の向こうから、見慣れた長身が現れた。
「あ、芹沢……!」
「遅いから、迎えに来た。……てか、どちら様?」
芹沢の視線が、俺の横にいたたっちゃんへと向けられる。
「あ、えっと、こちらはたっちゃん……落合辰之進くん。さっきそこでぶつかって、プリント拾ってくれたんだ」
「そっか」
芹沢は爽やかな笑顔を浮かべると、なぜか俺の腰をぐっと抱き寄せる。
「ちょっ……」
「ありがとな、落合。鈴木を助けてくれて」
たっちゃんの目がほんの一瞬だけ、俺の腰に回った芹沢の手を見た気がした。
「あの、遥人先輩……ですよね?」
「俺のこと知ってんの?」
芹沢が尋ねると、たっちゃんは芹沢に負けず劣らずの爽やかな笑みで答える。
「知ってますよ、有名ですから。俊先輩からも、クラスメイトの女子からも聞いてます。『めちゃくちゃかっこいい先輩がいる~』って」
「俊? あー、岩崎か。もしかして、柔道部の後輩?」
「そうです」
「そういえば、ちらっと落合っていうスーパー新人が入るって聞いてたわ」
「……えっ、俊先輩がそんなこと言ってたんすか!? 嬉しいっす、マジで」
さすが芹沢だ。もう芹沢はたっちゃんと打ち解けて、お互いににこにこ話をしている。
芹沢と話す人は、みんな最初の笑顔で惹きつけられてしまう。そういう不思議な引力を、芹沢は持っている。
そんな芹沢が誇らしすぎて、しかもそんな芹沢が自分の恋人だなんていまだに信じられなくて、俺はどこかふわふわした気持ちでふたりを見つめていた。
「……つうか鈴木、その本、なんでずっと持ってんの?」
「え? あっ、こ、これは……」
そういえば、BL小説をたっちゃんに返しそびれていた。
「えっと……」
たっちゃんの趣味を勝手に言うわけにはいかない。芹沢だって、ずっと俺にそうしてくれていた。俺がどう答えるか迷っていた矢先、横から声がした。
「俺のです」
たっちゃんが一歩前に出る。
「俺が落として、創先輩が拾ってくれただけなんで。創先輩のじゃないっす」
その声が、さっきまでとはまるで違って硬かった。
……あ、そうか。
たっちゃんは、庇ってくれているのだ。
この本が誰のものか、はっきりさせないと俺が変な目で見られる。たぶんそう思っている。
さっきまで真っ赤になって『妹の』と言い張っていた子が、俺のために、自ら名乗り出てくれた。
「へぇ、そうなんだ」
芹沢は笑って、あっさりうなずいた。
「めっちゃ趣味いいじゃん。俺も昨日読み終わったばっか」
「…………は?」
たっちゃんが、完全に固まった。
「そんな驚く? 石橋叩割先生は鉄板だろ」
「……えっ、だって、待ってください! 遥人先輩もBL読むんすか!?」
「読むよ。大好き。腐男子だし、俺」
飄々とそう言うと、芹沢は俺の手にあった小説をたっちゃんに渡した。
去年は「ふだんし? 何それ」なんて首を傾げていた人だ。
でも本当は、言葉を知らなかっただけで、一年生の頃からずっとひとりでBLを読み続けていた。俺がそれを知ったのは、両想いになった日だ。
「……マジ、ですか」
たっちゃんが固まる気持ちもわかる。去年の俺だって、同じ顔をしていたはずだ。芹沢みたいな人がBLを読むわけがない、と。でも、見た目だけで自分の『好き』を疑われるのは、俺だったら悲しい。
だから芹沢の『好き』を、もう勝手に決めつけたりしない。
芹沢は自分の好きなものを隠さないし、誰が何を好きでもいつもフラットだ。一年前、俺のノートを見つけたあの日も、笑ったりせずに受け止めてくれた。
……そういうところに、俺は何度だって恋をしてしまう。
人知れず噛み締めていたら、芹沢が足元にまとめてあったプリントをひょいと持ち上げ、もう片方の手で俺の腰を引き寄せた。
「じゃ、そういうことで。またな、落合。鈴木、行こ」
有無を言わさずそのまま連れていかれ、俺は「あっ、うん」と歩き出した。振り返ると、たっちゃんが手を上げている。
「……あの、創先輩、DMしますね!」
「えっと、うん、またね、たっちゃん……!」
芹沢がどんどん足を速める。
教室にプリントを置いてから空き教室には帰らず、どうしてだか芹沢は誰もいない非常階段に進んだ。
そして、壁際に追い込むみたいに立って、俺の頭の横に両手をバンッとつける。
「せ、芹沢……?」
どうして芹沢は両手壁ドンを……?
「『たっちゃん』ねぇ……」
急にたっちゃんの話になっていて、少しだけ驚いた。
「あの子にそう呼んでって言われて。あ、もしかして、……だめだった?」
「……だめじゃない」
芹沢は穴があきそうなくらいこちらを見つめたあと、はぁ、とどこか諦めたような笑みで息を吐いた。
「あのさぁ、鈴木。君はさ、とってもかわいいのよ」
「え? いや、かわいくはないけど……」
「とにかく俺の鈴木はかわいいの。んで、あいつさぁ、たぶん鈴木のことすげぇ気に入ってたわけ」
「あいつって……たっちゃんのこと? そ、それはあれだって、たっちゃんもBL小説が好きで……同じ小説好きな人に会えたから、嬉しいんだと思う……! それだけだよ!」
「ちっげぇよ」
芹沢はもう一度ため息をついて、今度は俺の頬を両手で包んだ。
大きな手のひらの感触。たっちゃんといたときとは段違いにドキドキし始める。
「鈴木のそういうとこ、俺は好きだけどさ。っていうか好きすぎてやばいんだけど。……でも、ほかのやつに無防備な顔向けんの、マジでやめて」
俺はしばらく考えてから、芹沢をじっと見上げた。
「もし芹沢が嫌なら、俺、あの子と連絡取らないよ?」
たっちゃんには申し訳ないけれど、俺のいちばんは何があろうと芹沢だ。
素直な言葉を吐き出したその瞬間、芹沢の眉がぐっと寄った。
「……は? やだ」
「えっ」
「俺のせいで、鈴木が誰かと仲よくすんのやめるとか、いちばんやだ。超やだ」
「じゃあ、俺はどうすれば……」
「連絡は取っていいけど、あいつの前で無防備なかわいい顔しないで」
な、なるほど……?
つまり、仲よくするのはいいけど、無防備な顔はだめ……?
「わ、わかったよ、芹沢。それで、あの……無防備な顔って……どういう顔?」
こっちは真剣に聞いていたのに、芹沢はぷっと噴き出した。
「ちょっ、芹沢! 笑わないでよ!」
芹沢の親指が、俺を宥めるように頬を撫でる。
「ごめんごめん。俺が鈴木を守るから。この世の魑魅魍魎から」
「ち、ちみもうりょう?」
後輩を妖怪扱いするな、芹沢。
言っていることはよくわからないけれど、この顔なら知っている。
「もしかして芹沢、たっちゃんに、……やきもち、妬いてる?」
おずおずと口にした途端、芹沢は気まずそうにかすかにうなずいた。
「まぁ、正解」
「きょ、今日会ったばっかりの一年生に……?」
「今日会ったばっかで『たっちゃん』なのが問題なんだって」
あだ名ひとつでふてくされる芹沢が、なんだかかわいくて。
こんな風に芹沢が俺だけを見て、俺のことで余裕をなくしてくれる瞬間は、正直ものすごく――嬉しい。情けないくらいに。
呼び方を変えようか、と言いかけてやめた。芹沢はまた『やだ』と答えるに決まってる。
「ごめんね、芹沢」
少しの罪悪感を持ってそう言うと、芹沢はどう受け取ったのか、あっけらかんと口を開く。
「いや、鈴木はまったく悪くねぇから。俺がワガママボーイなだけ」
「……そんなことない」
「あるんだって。鈴木のことになると、ほんと器小せぇ自覚ある」
そう言って芹沢は、俺の額にこつんと自分の額をくっつけた。
至近距離で、芹沢の目が俺を映している。
「なぁ、鈴木。俺ってさ、TPOはわきまえる攻めじゃん?」
「う、うん……? そう、かな……?」
「誰もいないし……ここでキス、してもいい?」
目だけで周りを確かめてから、俺は赤い顔で小さくうなずく。
ゆっくりと芹沢の唇が触れて、すぐに離れていく。たったそれだけで、俺はしばらく動けなくなってしまった。
芹沢は俺の顔を見て、満足げに目を細めている。その顔があんまり幸せそうで、胸が苦しくなった。
去年、両想いになった次の日。ふたりでいつものメンバーに報告すると、佐伯も竹内も岩崎も、『おめでとー』と軽く祝ってくれた。
大げさにからかうでもなく、引くでもなく、ただ受け入れてくれたあの空気を、俺はたぶん一生忘れない。
だけど。
――ほかの人には……お互いの名前は出さないようにしない……?
そうお願いしたのは俺だ。芹沢は恋人を隠したがるタイプじゃない。むしろ逆だ。
――なんで? 俺は鈴木と付き合ってんの、めちゃくちゃ誇らしいんだけど。ほんとは学校中に言いふらしたいくらいだし。
でも、俺はいつだって想像してしまうのだ。
芹沢の恋人ってどんな人だろうって、わくわくして聞いてきた女の子が、その答えを知ったときの顔を。
『え……この人?』って。
芹沢は、俺の太陽だ。みんなの真ん中で、誰よりもまぶしく笑う。
その太陽の隣に、俺がいる。
――鈴木がそうしたいなら、それでいいよ。俺は鈴木のペースに合わせるって決めてるから。
芹沢のその言葉に、俺がどれだけ甘えているか。自覚はちゃんとある。
黙り込んでいた俺の頭を、目の前の芹沢がぽんと撫でた。
「鈴木の隣は、俺のだから」
俺はにやついた赤い顔で「うん」と小さくうなずいた。
さっきのキスの余韻が、まだ唇に残っている。
こんなに幸せで、こんなに近くにいるのに。それでも俺は、この幸せを世界に向かって叫べないでいる。
でも、好きなものを言うか言わないかは自分で決めていいことだ。
それに、俺と芹沢は仲よしで、毎日一緒に帰っていて、休みの日もよく会っている。
相変わらず芹沢はワガママボーイで、俺はそのたびに振り回されているけど、それも含めて愛おしい日々だった。
しかも、本当に驚いたことに、俺たち五人の志望校はみんな同じだった。
竹内は経済学部がお目当てで、岩崎は柔道部が強いからという理由でスポーツ推薦を狙っているらしい。
佐伯は国際学部で『キャンパスがおしゃれだったから決めた~』なんて、いかにも佐伯らしいことを言っていた。
俺はというと、図書館がとにかく広いから決めた。二年のときに行ったオープンキャンパスで、図書館に足を踏み入れた瞬間、見上げるほどの本棚に圧倒された。ここに住みたいと本気で思った。しかも文学部には、小説の創作ゼミまである。
芹沢は竹内と同じ経済学部で、学科だけ違うみたいだ。
――大学まで一緒って……俺ら、仲よすぎでしょ。
本気でドン引きしていた佐伯を思い出して、ひとりで笑ってしまう。
陽キャ集団と大学でも一緒なんて、まるで運命みたいだな、と思う。そんなことを言ったら、芹沢にも、みんなにも笑われそうだけど。
「何笑ってんの? 鈴木」
「なんでもない」
志望校は学力的に少しだけ背伸びが必要なところで、俺はこの一年、めちゃくちゃ勉強するつもりでいる。
卒業しても、芹沢と、みんなと、この先もずっと一緒にいられる。
そう思うと、三年生という最後の一年が、怖いくらい幸せな予感で満ちていた。
始業式の朝、芹沢からのメッセージで目が覚めた。
画面に浮かんだ芹沢遥人という四文字を見ただけで、布団の中で変な声が出た。
春休み最後の三日間は、塾の春期講習で会えなかった。
たった三日だ。それなのに俺は、もう芹沢が恋しくて仕方なかった。
枕に顔をうずめ、甘酸っぱい幸せを噛み締めながら、しばらくじたばたした。
にやける顔を上げ、芹沢に返信を打つ。
『俺も芹沢に会いたかった』
送ってから、『俺も』にしたのは自意識過剰だったかも、と一瞬怯んだ。けれど、
『鈴木はほんとかわいい。大好き』
すぐに既読がついて、甘い返事が送られてきた。俺は布団の中でもう一回じたばたする。
芹沢は優しくて、明るくて、かっこよくて、誰にも怯まなくて、自分の意見をまっすぐ言えて、俺にも言葉を惜しまない。
そんな芹沢と付き合える日がくるなんて、一年前の俺は想像すらしていなかった。
俺と芹沢が付き合い始めたのは、二年生のときだ。
もともと俺たちは住む世界が違った。
芹沢遥人は、誰もが振り返るイケメンで、いつだって人の輪の中心にいる、いわばクラスの太陽みたいな存在。
かたや俺、鈴木創は、教室の隅でひとり、こっそりBL小説を書いているような地味な生徒だった。接点なんてあるはずもない。
だけど、一冊のノートが俺たちの人生を変えた。
選択授業のとき、俺は自分のBL妄想を書いていたノートを、うっかり芹沢の机に置き忘れてしまったのだ。よりによって、芹沢を攻めのモデルにしていた、あのノートを、だ。
中身は読まれてませんように。そんな俺の祈りは通じることなく、芹沢にばっちり読まれていた。人生終わった、と本気で思った。一年生のとき、BLが好きだと言って、友達と疎遠になってしまった古傷もあって、また同じように軽蔑されるんだと覚悟した。
でも、芹沢は俺をばかにしなかった。それどころか『俺も好きだよ、BL』と笑って、俺の小説の〝読者第一号〟になってくれた。
本当に芹沢はいつもまっすぐだ。
――『どっかの誰かの想像した評価』じゃなくて、俺が鈴木のこと『いいな』って思ってる気持ちをちゃんと受け取ってよ。
なんて、ずるい台詞を平気で言ってのける。
しかも『これは鈴木だけが持ってて』と付け足すものだから、俺はあの言葉を、今も宝物みたいに胸の奥にしまっている。
そうやって何度も気持ちをぶつけられて、わからせられて――気づいたときには、俺も芹沢のことが、どうしようもなく好きになっていた。
奇跡だ。俺が芹沢と仲よくなったことも、俺たちが両想いになれたことも。……そして、芹沢のほうが先に、俺を見つけてくれていたことも。
◇
もう三回目だというのに、昇降口で新しい上履きに履き替えるとき、いつもちょっとだけ緊張する。
踵のゴムは固くて、まだ足になじんでいない。きゅっ、と床を鳴らす感触が、いかにも『新学期』という感じがしてなんだか落ち着かなかった。
「鈴木」
廊下の途中で呼び止められて振り向くと、松野が立っていた。
「あ、おはよう、松野!」
松野は一年生のとき、いちばん仲がよかったクラスメイトだ。
そして、俺がBL好きだと告げたあの日、俺から離れていった友人のひとりでもある。
だけど、去年の文化祭で、松野は俺に謝ってくれた。そのとき、俺は初めて知ったんだ。本当は松野にも大切なものがあって、ずっと隠していたことを。
あの頃の俺は自分のことで精一杯で、松野がどんな思いで黙っていたのか、気づいてあげられなかった。
文化祭の日以来、俺たちはまた普通に話せるようになった。
そんな仲直りのきっかけを作ってくれたのが芹沢だ。……なんて、本人は一度も自分から言わないけれど。
松野とは二年のときからずっと違うクラスのままだけど、こうしてたまに廊下で話をしている。
「……鈴木、ちょっと」
松野は俺の袖を引いて、廊下の端まで移動した。そして、ポケットからスマホを取り出すと、左右をきょろきょろ確認してから、慣れた手つきでケースをぱかっと外す。
中から現れたのは、男性アイドルのトレーディングカードだった。前に見せてもらったのと同じ人で、衣装だけが違う。
「……新しいのゲットしたわ」
「わっ、すごい! 衣装、春っぽくてかわいい……!」
「だろ?」
松野はすぐにケースを閉じたけれど、その口元はちょっとだけゆるんでいた。
「……あとさ、今度のライブ、佐藤たちと行くことになった」
「えっ……も、もしかして、佐藤と中村!?」
思わず声が裏返った。
一年のとき、BLが好きだと言った俺のことを笑っていた、あのふたりだ。
「だ、大丈夫なの、松野?」
「うん。文化祭のあと、俺がめちゃくちゃ時間かけて布教した。……今は、あいつらもけっこう沼ってる」
松野はなんでもないみたいに言ったけれど、声がちょっとだけ弾んでいた。
時間をかけて自分の『好き』を伝え続けた松野は、本当にすごい。
結局、佐藤たちとはあれきりだ。けれど不思議と、胸の奥はざわつかなかった。あのふたりにも、夢中になれるものができたんだ。それなら、きっと今度は誰かの『好き』を笑ったりしないはずだ……たぶん。
「鈴木もさ、大事にしてる? 好きなもの」
「……うん。してるよ」
俺は、にこりと笑ってうなずいた。
「よかった」
松野もちょっとだけ笑った。
「じゃ、またな、鈴木」
「うん、じゃあね、松野」
去年の今頃、俺はこの廊下をひとりで歩いていた。
そして、今。
心臓がうるさいのは、新学期のせいだけじゃない。
歩くたび、鞄のキーホルダーが揺れる。水族館で、芹沢とおそろいで買ったやつだ。
やっと、芹沢に会える。
俺は半分駆けるみたいにして、教室へ向かっていた。
初めての三年一組の教室。おずおずと引き戸を開けた瞬間、クラスメイトの女子たちに声をかけられた。
「すずぴー、おはよう! 三年でもよろしくー!」
「あ、うん。よろしくね」
彼女たちに挨拶をして、奥の席に視線を移す。
賑やかなクラスメイトたちに囲まれ、春の光をぜんぶ自分のものにしているみたいな芹沢が、こっちを見て大きく手を上げた。
「鈴木!」
その声を聞いた瞬間、足が勝手に動き出す。
「芹沢……おはよう!」
「はよー。鈴木のこと待ちきれなくてさ。めずらしくめっちゃ早く起きたわ」
駆け寄った俺の頭を、芹沢がとろけるような笑みを浮かべながら撫でる。その動作ひとつで、朝から少しだけ緊張していた全身がふわりとほどけた。
「あー、よかった……。ほんとに芹沢と同じクラスなんだ……!」
心臓をブレザーの上から押さえていると、
「うちの学校は、三年のクラス替えないからねぇ」
近くの席に座っていた、爽やかイケメンの佐伯が笑った。
「……つーか、鈴木、俺らのこと見えてる?」
その隣の席にいる秀才イケメンの竹内も、竹内の机にもたれている体育会系イケメンの岩崎も、俺を見てにやにやしている。
相変わらず顔面が強い彼らは、直視すると目が痛いくらいだ。
「あっ、ごめんごめん。おはよう、みんな! 今年も同じクラスで、俺、本当に本当に嬉しい……!」
「大げさだから、鈴木は」
岩崎は呆れたように口角を上げていた。
「大げさじゃないって! 三年でもみんなとまた楽しく過ごせますようにって、俺、春休みの間、神社に何回もお参りに行ったんだからね!?」
クラス替えはないとわかっていても、なんだか妙に不安になってしまった。
「へぇ、鈴木はそんなに俺らと一緒にいたいんだ?」
おもしろがるみたいに、岩崎が俺の顔を覗き込む。すぐさま横にいた芹沢が、俺の肩をぎゅっと引き寄せた。
「鈴木が一緒にいたいのは俺だろ。な? 俺だよな? ……俺だって言って?」
「……朝からワガママボーイがすぎんだろ、芹沢」
竹内の冷静な突っ込みに笑いながら、俺は迷わず口を開いた。
「芹沢も佐伯も竹内も岩崎も、みんな大好きだし、最後の一年もみんなと一緒に仲よく過ごしたい。楽しいこと、いっぱいしよう!」
俺がにこにこ笑って言ったあと、なぜかみんな押し黙ってしまった。
「……え、何?」
芹沢も、佐伯も、岩崎も、なんならいつも平然としている竹内も、妙な顔で俺を見ている。
「「「「かわいい~~」」」」
四方向から声が飛んできた。
「だっ、だから、そういうのいいって!」
俺は耳が熱くなるのを感じながら、右手をぶんぶんと振る。
「鈴木って、なんか最初の頃より丸くなったよねぇ。ますますかわいいっていうか」
「は? 俺の鈴木を口説くのやめれる?」
しみじみと言う佐伯に、芹沢がすかさず噛みつく。佐伯は「俺はこはちゃん一筋だし」とマジレスしていた。
丸くなった、と言われてもぴんとこない。……でも、以前は「かわいい」と言われるたびに、ばかにされてるんじゃないかと、まず身構えていた。
今はもう、言葉の裏を探さない。一年間この陽キャ集団に――とくに隣の約一名に甘やかされたせいだ。
ちらっと芹沢を見上げたら、柔く瞳を細めていた。その目がいつも以上に甘くて、慌てて視線を逸らす。
みんなの前で、そういう顔をしないでほしい。
心臓がもたないて、芹沢。
◇
今日は始業式のみで授業はない。式とホームルームが終われば、あとは自由時間だ。
帰りに新しい教科書を山ほど配られたのだけれど、みんなちゃっかり置き勉するらしい。ぜんぶ詰めた俺だけ、鞄がずっしり重かった。
岩崎が両手を上げて伸びをする。
「腹減った。飯行こうぜ、飯」
「さんせーい。新学期一発目の学級会ってことで」
佐伯が言うと、竹内が「議題ないだろ」と突っ込みを入れた。
芹沢は当たり前みたいに俺の肩を抱いてくる。
「あるって。『三年一組、今年も仲よく!』」
俺は「それだぁ!」と嬉しくなって声を上げた。
いつものファミレスは、春休み明けの学生でそこそこ混んでいた。
奥のボックス席に五人でぎゅうぎゅうに詰めて座る。俺の左隣には、もちろん芹沢がいた。
うきうきとして注文タブレットを開く。
春の新作フェアらしい。とろとろのビーフオムライスと、海老のクリームドリア。どっちも写真がおいしそうで選べない。
みんなは早々と注文を決めた。優柔不断な俺がうんうん唸っていると、横から芹沢がひょいと画面を覗き込んでくる。
「どっち?」
「……うーん、待って、ごめん……えー、どうしよう……」
「じゃ、俺がこっち頼むから。半分こしよ」
芹沢はあっさりそう言って、もうタブレットに注文を入力していた。
「えっ、で、でも、芹沢が食べたいの食べてよ……!」
「うん、俺が食べたいの食べる」
注文ボタンを押してしまった芹沢を驚いて見つめる。
「あ、甘やかしすぎだよ、芹沢ぁ……!」
「そうじゃないでしょ、鈴木」
芹沢に促され、ぐっと言葉を呑む。
そりゃあ、正直に言えば……。
「……嬉しい。ありがと、芹沢」
「うん、俺も嬉しい」
まだ顔が熱いままでいると、先にポテトがテーブルに運ばれてきた。
「鈴木、あーん」
横から揚げたてのポテトが差し出される。
あまりに自然だったので、俺は反射的に口を開けてしまった。
「出た、芹沢システム」
佐伯がけらけらと笑う。
芹沢はしれっと「当然だろ」と言い、次のポテトをつまんでいた。
「まだやってんのかよ、それ」
「鈴木が小説書いてる横で、芹沢が飯食わせるシステムね?」
岩崎が呆れると、竹内が横から補足する。
「だってさー、鈴木って、小説のこと考え始めると飲まず食わずになんだもん。去年も四時間ぶっ通しで書いて水も飲んでなかったから。放っといたら死んじゃうって」
「し、死なないから!」
「あのね、鈴木くん。食べないと人は死んじゃうんだよ? だから俺がやんの」
胸を張る芹沢に、岩崎が身を乗り出してきた。
「今は小説書いてねぇだろ」
「そうだぞ、芹沢ー」
「岩崎も佐伯もごちゃごちゃうるせぇな」
「あ? やんのか?」
岩崎がテーブルに手をついて腰を浮かせる。芹沢も同じ速さで立ち上がろうとする。
もちろん本気じゃないってことはわかっている。けれど、体が勝手に動いていた。
両手を思いきり伸ばして、左手で芹沢の手を、右手で岩崎の手を、それぞれぎゅっと掴む。
「さっ、三年一組、今年も仲よく! だよね……!」
笑顔で叫んでから、自分でも何を言っているんだろうと思った。
岩崎は俺に手を握られたまま、どすんと座り直す。その口には堪えきれない笑みが浮かんでいた。
「さすがだねぇ、岩崎のあらぶる戦意も喪失させる男、鈴木」
「やめて、佐伯。……めちゃくちゃ気まずい」
からかう佐伯を睨みつけた、そのときだった。
芹沢が身を乗り出すようにして、俺の右手を岩崎から外して、自分の手のひらの中にぎゅっと収めてしまったのだ。
「はい、そこまで。俺のなんで、この手は」
「おめぇのじゃねぇだろ」
「今年も仲よくだよ、岩崎くん♡」
芹沢はにこにこ笑ったまま、今度は一本ずつ丁寧に指を絡めてくる。
「な、なんで恋人繋ぎ……?」
「仲よくしてる、鈴木と」
「芹沢? あの、右手ふさがってると食べられないんだけど……」
「まかせて、鈴木」
芹沢がポテトをつまんで俺の口元へ運んでくる。
「はい、鈴木。あーん」
「……んー! 芹沢、だるいて!」
口に入れられたポテトを噛みながら文句を言った俺をよそに、佐伯たち三人の笑い声がきれいに重なった。
◇
ファミレスを出たのは、二時すぎだった。
佐伯は「こはちゃんと約束あるから」とにっこにこで彼女のもとへ向かい、岩崎は「午後は部活だから」と走っていき、竹内は「塾」と短く言って駅のほうへ歩いていく。
三人が三方向に散っていくのを見送っていたら、隣に立った芹沢が、すっと俺の顔を覗き込んできた。相変わらず距離が近くて、心臓に悪い。
「鈴木、俺たちはデートしよ」
「デート……!?」
「何、嫌?」
「ぜっ、全然嫌じゃない。けど……、心の準備が……」
「デートに心の準備いんの?」
「いるよ!」
おかしそうに芹沢がけらけら笑う。
「おっけ。心の準備ね。じゃ、三秒あげる。さん、にー、いち」
「早すぎるて、芹沢!」
抗議する俺にはお構いなしで、芹沢はひょいと俺の鞄を取り上げた。教科書がぎっしり詰まった、重い鞄だ。
「これ持って歩き回るとかぜったい無理っしょ。駅のロッカー預けよ」
芹沢は俺の鞄を肩に担いで、さっさと歩いていく。俺は真っ赤な顔で、その隣に追いついた。
俺の彼氏……優しすぎ。無理……ほんと好き。
ロッカーに鞄を預けて、駅前の書店に入った。
新刊コーナーへ向かう途中、ファッション雑誌の棚の前を通りかかった。ずらりと並んだ表紙。男性モデルたちがきれいな顔でこっちを見ている。
「芹沢にはこういうの似合いそう……」
「ん?」
「あ、いや、芹沢はめちゃくちゃかっこいいからさ。モデルとか芸能界とか、合うんじゃないかなって」
「えー、俺? そうかな?」
芹沢は笑って、あっさり棚の前を通り過ぎた。
……ぜったい似合うと思うんだけどな。
「鈴木、こっち。あったよ」
「……あっ、ほんとだ!」
平積みになっている石橋叩割先生の小説。表紙には制服姿の男の子がふたり。攻めが受けの手首を掴んで、至近距離で見つめ合っている。
春休みからずっと、ふたりで待っていた新刊だ。
「やっとだな、鈴木」
「うん……!」
芹沢が二冊取って、一冊を俺に渡してくれる。
「ありがとう、芹沢。読み終わったら、感想言い合おう!」
「もちろん。それまではお互いネタバレ厳禁ってことで」
芹沢とレジに並んでいると、じわじわ嬉しさがこみ上げてくる。
好きな作家の新刊を、恋人と一緒に買いに来られるなんて。
書店を出て、少し歩いたところで、俺は思いきって芹沢の袖を引いた。
「……ちょっとだけ、寄りたいとこがあるんだけど」
「全然いいよ。どこ?」
案内したのは、近くにある小さな神社だった。
石段を上がると、境内には誰もいなかった。薄い桜の花びらが、砂利の上にはらはらと降り積もっていく。とても静かだ。
「もしかして、鈴木が何回もお参りに行った神社?」
「そう」
俺は鈴を鳴らして、手を合わせた。
――三年になっても、みんなと仲よく過ごせますように。
春休みの間、ここで何度もお願いしてきた。まだ一日目だけど、今日のぶんはちゃんと叶った。
本当に本当に、ありがとうございます、神様。
まずはお礼を言い、それから俺は新しい願いごとをひとつ心の中で唱えた。一回じゃ足りなくて、何度も何度も繰り返す。神様に、ちゃんと届くように。
目を開けると、芹沢は笑い出しそうな顔をしていた。
「鈴木、めっちゃ長かったけど、何お願いしたの?」
一瞬、言葉に詰まってしまう。
言ってしまってもいいんだろうか。だって、あまりにも欲が深い気がして。
「なぁ、教えてよ、鈴木」
「……あの、……芹沢と、ずっと一緒にいられますようにって」
言ってしまってから、恥ずかしくて顔を上げられなくなった。
「も、もちろん自分でも努力はするよ!? ていうかほんとは、こんなこと神様に頼むことじゃないってわかってるんだけど……なんていうか、念のためっていうか……決意表明も兼ねてるっていうか」
しばらく、返事がなかった。
恐る恐る顔を上げると、芹沢はじっと俺を見ていた。
「……せ、芹沢?」
「待って。今、無理。かわいすぎて処理が追いついてない」
「え……」
次の瞬間、腕を引かれて、俺は芹沢の胸に抱き込まれていた。
「せ、芹沢! ここ、外……!」
「うん、だな。でも、誰もいないよ、鈴木」
まるで悪びれない声と一緒に、ぎゅう、と腕に力がこもる。
制服越しに芹沢の温もりを感じて、俺はもう何も言えなくなった。頬に押しつけたブレザーからは、いつもの香水の匂いがする。
「……鈴木さ」
頭の上から、声が降ってくる。
「そういうのは、神様じゃなくて、俺に直接言って」
息が、止まりそうになった。
顔を上げると、すぐそこに芹沢の目があった。
もうだめだ。かっこつけた言い方なんて、ひとつも出てこない。
「……えっと、……お、俺と、ずっと一緒にいてください」
「はい」
屈託なく芹沢が笑って、俺の頭に手を置いた。花びらが一枚、はらりと肩に落ちる。
「今年も一年、よろしくな、鈴木」
「……うん。こちらこそ」
石段を下りるとき、芹沢が手をつないできた。
人通りの多い道に出る手前で、俺がきょろきょろし始めると、察したように芹沢のほうから手を離す。
心臓が痛くて苦しい。
俺のためらいごと引き受けるように、芹沢は今日も太陽みたいな笑顔で俺の隣にいてくれる。
◇
新学期が始まって、数日。
時間割も本格的に動き出した、その日の昼休み。所用で担任の宇佐美先生に会いに行ったら、プリントを教室に運ぶ手伝いを頼まれた。
芹沢たちはいつもの空き教室で俺を待っているから、早く戻らないといけない。
そうして両手にプリントの束を抱え、急いで曲がり角を曲がろうとしたとき、俺は思いきり誰かにぶつかった。
「うあっ!?」
よろけた弾みで、プリントをぜんぶ床にぶちまける。顔面蒼白になっていると、視界に大きな影が落ちた。
「すみません。大丈夫ですか?」
「……だ、大丈夫です! ごめんなさい!」
相手はびくともしていない様子だった。どうやら、よろけたのは貧弱な俺だけだったらしい。
恐る恐る見上げると、きれいな顔の男の子が立っていた。
背が高い。だけど、まだあどけなさの残る幼い顔。一年生だ。胸の校章の色でもわかる。
俺はその子の顔をじっと見つめ、すぐさまピンときた。と、年下攻めだ……。しかも自由奔放な受け先輩に振り回されながらも、生意気に攻める後輩。
「……ん? 俺、もしかして、顔になんかついてます……?」
俺が見つめすぎたせいで、その子が不思議そうにしていた。慌てて、「いえいえいえっ!」と頭を横に振った。
いかんいかん、あふれんばかりのBL妄想力が暴走してしまった。初対面の人にすることじゃない。
「プリント、拾いますね」
「あー、全然大丈夫です! お、俺が前を見てなかったのが悪いんで! ほんとにお構いなく!」
「じゃあ、お構いなく拾いますね」
笑いながらしゃがみ、プリントを拾い集めてくれるその手つきはとても丁寧だ。
一枚も折らないように、端をそろえて重ねていく。どこか体育会系の匂いがするし、ずいぶん律儀な子だ。
そのとき、しゃがんだ彼が肩にかけていたトートバッグから、何かが滑り落ちた。
「……あっ」
一年生の顔が、瞬時にこわばる。
俺は落ちてしまったそれに、何気なく手を伸ばした。そして、拾ったものを見つめ、ぴたりと動きを止める。
見覚えのある小説だった。
表紙には、至近距離で見つめ合う制服姿の男の子がふたり。帯には見間違えようのないジャンル表記と石橋叩割先生の文字。
青春BL小説。しかもこの前、芹沢と一緒に買ったばかりの、あの一冊だ。
「……うっわ!」
一年生がものすごい勢いで、顔を赤くした。
「こ、これは違うんです。お、俺のじゃなくて、い、妹の……! あいつのがたぶん間違って入ってたんだと思いますマジで!」
その慌て方。その顔。
俺も、ちょっと前まで同じ顔をしていた。知られたら終わりだ、って。
胸の奥がきゅっとなって、気づいたら微笑んでいた。
一年生の言うことが本当でも、嘘でも、どちらでも構わない。
本のほこりを払って、彼に差し出す。
「妹さんとってもいい趣味してますね。俺もこの先生の小説、大好きなんです」
にこりと笑うと、一年生は目を見開いたまま固まった。
そして次の瞬間、なぜか彼は小説を持つ俺の手首をがしっと握ってくる。
「好きですっ……!」
いきなり顔が近づいてきた。さっきまでの照れはどこへやら、目を輝かせていて、息づかいまでちょっと荒い。体格がいいぶん、迫力がすごかった。
「……え、えっと?」
「俺も大好きです!」
「はいっ!?」
「それ、俺もいちばん好きな作家さんの新刊なんです……! 妹のっていうのは、とっさに言っちゃって……つうか本当は全然、俺のなんですけど……。でも、俺の周りで読んでる人全然いなくて、好きって言ってくれる人と会えたの初めてで……! 小説の話、もっとしたいです!」
「あ、ああ……小説の」
俺は真っ赤な顔のまま、力が抜けるのを感じていた。勘違いしそうになった自分を笑いつつ、こくりとうなずく。
「いいよ、俺でよかったら、いっぱい話そう」
一年生ははっと我に返ったみたいに、握っていた俺の手首を離した。けれど、照れて引っ込むかと思いきや、彼の勢いはそこからが本番だったのだ。
「この作家さんの『はせふか』シリーズは読みましたか? 告白の前にさりげなく手ぇつなぐとこ……俺あそこで完全に死んだんですけど」
「え、わかる! 俺もあそこで一回本閉じた!」
「ですよね!? ほかに何読むんですか。攻め受けの好みとか、めっちゃ気になります」
ぐいぐい来る。さっきまで『妹の』と真っ赤になっていた子と同一人物とは思えない。一度好きなものの話になった途端、距離の詰め方が完全に陽キャイケメンのそれだった。
呆気にとられている俺にさらに近づき、一年生はずいっとスマホを差し出してくる。
「インスタやってます? あ、それかなんでもいいんで連絡先……! 話、もっとしたいんで!」
「れっ、連絡先……?」
初対面の、しかも一年生から連絡先を聞かれるなんて初めてで、思いのほかあたふたしてしまった。でも、冷静に考えてみたら、同じ趣味の人とつながれるのは大歓迎だ。
おずおずとアカウントを交換すると、彼はぱっと顔を輝かせた。
「マジであざす……! 俺、辰之進っていいます。落合辰之進。一年です」
「……お、俺は鈴木。鈴木創、三年、です」
「創先輩」
急に名前を呼ばれて、どきっとした。
「……って呼んでいい?」
「え……、い、いいよ、それはもう好きに……呼んでもらって」
うわ、なんかこそばゆい。
後輩から下の名前で、しかも『先輩』なんて呼ばれたのは生まれて初めてだ。地味な人生を送ってきた俺にはだいぶ刺激が強すぎる。
「ありがとうございます、創先輩。じゃあ俺のことも、『たっちゃん』って呼んでください」
「た、たっちゃん……? えっ、いきなり……!?」
「いきなりだけど、だめ?」
「い、いいよ……わかった、たっちゃん、ね」
「やった」
笑顔がまぶしい。白い歯がまぶしい。ぐいぐい来る年下の圧がまぶしい。
これが俺の大好きな〝人懐っこい年下攻め〟の実物か……と、思わず職業病ならぬ趣味病が顔を出しかけて、慌てて引っ込めた。さっき反省したばかりだろ、俺。
そうやって妄想を押し込めていたそのとき――。
「鈴木」
廊下の向こうから、見慣れた長身が現れた。
「あ、芹沢……!」
「遅いから、迎えに来た。……てか、どちら様?」
芹沢の視線が、俺の横にいたたっちゃんへと向けられる。
「あ、えっと、こちらはたっちゃん……落合辰之進くん。さっきそこでぶつかって、プリント拾ってくれたんだ」
「そっか」
芹沢は爽やかな笑顔を浮かべると、なぜか俺の腰をぐっと抱き寄せる。
「ちょっ……」
「ありがとな、落合。鈴木を助けてくれて」
たっちゃんの目がほんの一瞬だけ、俺の腰に回った芹沢の手を見た気がした。
「あの、遥人先輩……ですよね?」
「俺のこと知ってんの?」
芹沢が尋ねると、たっちゃんは芹沢に負けず劣らずの爽やかな笑みで答える。
「知ってますよ、有名ですから。俊先輩からも、クラスメイトの女子からも聞いてます。『めちゃくちゃかっこいい先輩がいる~』って」
「俊? あー、岩崎か。もしかして、柔道部の後輩?」
「そうです」
「そういえば、ちらっと落合っていうスーパー新人が入るって聞いてたわ」
「……えっ、俊先輩がそんなこと言ってたんすか!? 嬉しいっす、マジで」
さすが芹沢だ。もう芹沢はたっちゃんと打ち解けて、お互いににこにこ話をしている。
芹沢と話す人は、みんな最初の笑顔で惹きつけられてしまう。そういう不思議な引力を、芹沢は持っている。
そんな芹沢が誇らしすぎて、しかもそんな芹沢が自分の恋人だなんていまだに信じられなくて、俺はどこかふわふわした気持ちでふたりを見つめていた。
「……つうか鈴木、その本、なんでずっと持ってんの?」
「え? あっ、こ、これは……」
そういえば、BL小説をたっちゃんに返しそびれていた。
「えっと……」
たっちゃんの趣味を勝手に言うわけにはいかない。芹沢だって、ずっと俺にそうしてくれていた。俺がどう答えるか迷っていた矢先、横から声がした。
「俺のです」
たっちゃんが一歩前に出る。
「俺が落として、創先輩が拾ってくれただけなんで。創先輩のじゃないっす」
その声が、さっきまでとはまるで違って硬かった。
……あ、そうか。
たっちゃんは、庇ってくれているのだ。
この本が誰のものか、はっきりさせないと俺が変な目で見られる。たぶんそう思っている。
さっきまで真っ赤になって『妹の』と言い張っていた子が、俺のために、自ら名乗り出てくれた。
「へぇ、そうなんだ」
芹沢は笑って、あっさりうなずいた。
「めっちゃ趣味いいじゃん。俺も昨日読み終わったばっか」
「…………は?」
たっちゃんが、完全に固まった。
「そんな驚く? 石橋叩割先生は鉄板だろ」
「……えっ、だって、待ってください! 遥人先輩もBL読むんすか!?」
「読むよ。大好き。腐男子だし、俺」
飄々とそう言うと、芹沢は俺の手にあった小説をたっちゃんに渡した。
去年は「ふだんし? 何それ」なんて首を傾げていた人だ。
でも本当は、言葉を知らなかっただけで、一年生の頃からずっとひとりでBLを読み続けていた。俺がそれを知ったのは、両想いになった日だ。
「……マジ、ですか」
たっちゃんが固まる気持ちもわかる。去年の俺だって、同じ顔をしていたはずだ。芹沢みたいな人がBLを読むわけがない、と。でも、見た目だけで自分の『好き』を疑われるのは、俺だったら悲しい。
だから芹沢の『好き』を、もう勝手に決めつけたりしない。
芹沢は自分の好きなものを隠さないし、誰が何を好きでもいつもフラットだ。一年前、俺のノートを見つけたあの日も、笑ったりせずに受け止めてくれた。
……そういうところに、俺は何度だって恋をしてしまう。
人知れず噛み締めていたら、芹沢が足元にまとめてあったプリントをひょいと持ち上げ、もう片方の手で俺の腰を引き寄せた。
「じゃ、そういうことで。またな、落合。鈴木、行こ」
有無を言わさずそのまま連れていかれ、俺は「あっ、うん」と歩き出した。振り返ると、たっちゃんが手を上げている。
「……あの、創先輩、DMしますね!」
「えっと、うん、またね、たっちゃん……!」
芹沢がどんどん足を速める。
教室にプリントを置いてから空き教室には帰らず、どうしてだか芹沢は誰もいない非常階段に進んだ。
そして、壁際に追い込むみたいに立って、俺の頭の横に両手をバンッとつける。
「せ、芹沢……?」
どうして芹沢は両手壁ドンを……?
「『たっちゃん』ねぇ……」
急にたっちゃんの話になっていて、少しだけ驚いた。
「あの子にそう呼んでって言われて。あ、もしかして、……だめだった?」
「……だめじゃない」
芹沢は穴があきそうなくらいこちらを見つめたあと、はぁ、とどこか諦めたような笑みで息を吐いた。
「あのさぁ、鈴木。君はさ、とってもかわいいのよ」
「え? いや、かわいくはないけど……」
「とにかく俺の鈴木はかわいいの。んで、あいつさぁ、たぶん鈴木のことすげぇ気に入ってたわけ」
「あいつって……たっちゃんのこと? そ、それはあれだって、たっちゃんもBL小説が好きで……同じ小説好きな人に会えたから、嬉しいんだと思う……! それだけだよ!」
「ちっげぇよ」
芹沢はもう一度ため息をついて、今度は俺の頬を両手で包んだ。
大きな手のひらの感触。たっちゃんといたときとは段違いにドキドキし始める。
「鈴木のそういうとこ、俺は好きだけどさ。っていうか好きすぎてやばいんだけど。……でも、ほかのやつに無防備な顔向けんの、マジでやめて」
俺はしばらく考えてから、芹沢をじっと見上げた。
「もし芹沢が嫌なら、俺、あの子と連絡取らないよ?」
たっちゃんには申し訳ないけれど、俺のいちばんは何があろうと芹沢だ。
素直な言葉を吐き出したその瞬間、芹沢の眉がぐっと寄った。
「……は? やだ」
「えっ」
「俺のせいで、鈴木が誰かと仲よくすんのやめるとか、いちばんやだ。超やだ」
「じゃあ、俺はどうすれば……」
「連絡は取っていいけど、あいつの前で無防備なかわいい顔しないで」
な、なるほど……?
つまり、仲よくするのはいいけど、無防備な顔はだめ……?
「わ、わかったよ、芹沢。それで、あの……無防備な顔って……どういう顔?」
こっちは真剣に聞いていたのに、芹沢はぷっと噴き出した。
「ちょっ、芹沢! 笑わないでよ!」
芹沢の親指が、俺を宥めるように頬を撫でる。
「ごめんごめん。俺が鈴木を守るから。この世の魑魅魍魎から」
「ち、ちみもうりょう?」
後輩を妖怪扱いするな、芹沢。
言っていることはよくわからないけれど、この顔なら知っている。
「もしかして芹沢、たっちゃんに、……やきもち、妬いてる?」
おずおずと口にした途端、芹沢は気まずそうにかすかにうなずいた。
「まぁ、正解」
「きょ、今日会ったばっかりの一年生に……?」
「今日会ったばっかで『たっちゃん』なのが問題なんだって」
あだ名ひとつでふてくされる芹沢が、なんだかかわいくて。
こんな風に芹沢が俺だけを見て、俺のことで余裕をなくしてくれる瞬間は、正直ものすごく――嬉しい。情けないくらいに。
呼び方を変えようか、と言いかけてやめた。芹沢はまた『やだ』と答えるに決まってる。
「ごめんね、芹沢」
少しの罪悪感を持ってそう言うと、芹沢はどう受け取ったのか、あっけらかんと口を開く。
「いや、鈴木はまったく悪くねぇから。俺がワガママボーイなだけ」
「……そんなことない」
「あるんだって。鈴木のことになると、ほんと器小せぇ自覚ある」
そう言って芹沢は、俺の額にこつんと自分の額をくっつけた。
至近距離で、芹沢の目が俺を映している。
「なぁ、鈴木。俺ってさ、TPOはわきまえる攻めじゃん?」
「う、うん……? そう、かな……?」
「誰もいないし……ここでキス、してもいい?」
目だけで周りを確かめてから、俺は赤い顔で小さくうなずく。
ゆっくりと芹沢の唇が触れて、すぐに離れていく。たったそれだけで、俺はしばらく動けなくなってしまった。
芹沢は俺の顔を見て、満足げに目を細めている。その顔があんまり幸せそうで、胸が苦しくなった。
去年、両想いになった次の日。ふたりでいつものメンバーに報告すると、佐伯も竹内も岩崎も、『おめでとー』と軽く祝ってくれた。
大げさにからかうでもなく、引くでもなく、ただ受け入れてくれたあの空気を、俺はたぶん一生忘れない。
だけど。
――ほかの人には……お互いの名前は出さないようにしない……?
そうお願いしたのは俺だ。芹沢は恋人を隠したがるタイプじゃない。むしろ逆だ。
――なんで? 俺は鈴木と付き合ってんの、めちゃくちゃ誇らしいんだけど。ほんとは学校中に言いふらしたいくらいだし。
でも、俺はいつだって想像してしまうのだ。
芹沢の恋人ってどんな人だろうって、わくわくして聞いてきた女の子が、その答えを知ったときの顔を。
『え……この人?』って。
芹沢は、俺の太陽だ。みんなの真ん中で、誰よりもまぶしく笑う。
その太陽の隣に、俺がいる。
――鈴木がそうしたいなら、それでいいよ。俺は鈴木のペースに合わせるって決めてるから。
芹沢のその言葉に、俺がどれだけ甘えているか。自覚はちゃんとある。
黙り込んでいた俺の頭を、目の前の芹沢がぽんと撫でた。
「鈴木の隣は、俺のだから」
俺はにやついた赤い顔で「うん」と小さくうなずいた。
さっきのキスの余韻が、まだ唇に残っている。
こんなに幸せで、こんなに近くにいるのに。それでも俺は、この幸せを世界に向かって叫べないでいる。
でも、好きなものを言うか言わないかは自分で決めていいことだ。
それに、俺と芹沢は仲よしで、毎日一緒に帰っていて、休みの日もよく会っている。
相変わらず芹沢はワガママボーイで、俺はそのたびに振り回されているけど、それも含めて愛おしい日々だった。
しかも、本当に驚いたことに、俺たち五人の志望校はみんな同じだった。
竹内は経済学部がお目当てで、岩崎は柔道部が強いからという理由でスポーツ推薦を狙っているらしい。
佐伯は国際学部で『キャンパスがおしゃれだったから決めた~』なんて、いかにも佐伯らしいことを言っていた。
俺はというと、図書館がとにかく広いから決めた。二年のときに行ったオープンキャンパスで、図書館に足を踏み入れた瞬間、見上げるほどの本棚に圧倒された。ここに住みたいと本気で思った。しかも文学部には、小説の創作ゼミまである。
芹沢は竹内と同じ経済学部で、学科だけ違うみたいだ。
――大学まで一緒って……俺ら、仲よすぎでしょ。
本気でドン引きしていた佐伯を思い出して、ひとりで笑ってしまう。
陽キャ集団と大学でも一緒なんて、まるで運命みたいだな、と思う。そんなことを言ったら、芹沢にも、みんなにも笑われそうだけど。
「何笑ってんの? 鈴木」
「なんでもない」
志望校は学力的に少しだけ背伸びが必要なところで、俺はこの一年、めちゃくちゃ勉強するつもりでいる。
卒業しても、芹沢と、みんなと、この先もずっと一緒にいられる。
そう思うと、三年生という最後の一年が、怖いくらい幸せな予感で満ちていた。



