シャドウ・チルドレン ~都立"別班高校"出席番号002、浅生蒼一の場合~

 浅生蒼一は少し異常なレベルで”目立ちたく無い”生徒だった。別に暗い性格というわけでもないし、最低限友達もいるが、いざという時その”目立ちたく無い”思いが前に出て、逆に目立つような行動を取ってしまう事がある。
 まさにこの日もそうだった。とある人気ラーメン店。カウンター席に座っていた蒼一は、ちらりと左腕に巻かれた支給品の腕時計を見た。二二分。醤油ラーメンを注文してから二二分。それだけ待っても、蒼一の醤油ラーメンは、一向に運ばれてくる様子が無かった。
 ここは学生やサラリーマンが大挙して訪れるお店だ。しかもお昼時。店員も忙しく、蒼一の注文は忘れられてしまったのだろう。蒼一の両隣の客は、蒼一より遥か後に来たのに、とっくにラーメンを食べ終わり次の客と入れ替わっている。
 こうなった以上、普通、蒼一のような立場の人間は次の様な行動を取るだろう。店長、または店員に声を掛ける。自分のオーダーが通ってないような気がするのだがどうなっているのか確認する。しかし蒼一はしない。そんな事をすれば店内中の視線が自分に集まるし、その後心の中で笑われると思っているからだ。可愛そうな奴。哀れな奴。イタイ奴。実際にそんな事思われるかどうか分からないし、どちらかというと大抵の人はそんな事も思う間もなく、自分の目の前のラーメンに集中しているだろうが……しかし蒼一はそう考えない。代わりにこう考える。
 こうなった以上、もう、ラーメンを食べるのは不可能。
 かくなる上は、自分の”スキル”を活かして店から脱出するしかない。というわけで蒼一は行動を開始。
 羽織っていたブレザーの内ポケットに手を入れると、そのまま周囲からは見えない姿勢を保ったまま、学校支給の模擬弾の入った短銃を取り出し、何の迷いも無く店内入り口のほうにあった店内の電源を管理しているであろうブレーカーに向け銃を発砲。
 パシュッ、と周囲の客がラーメンを啜る音に紛れてしまう程度の音を残し、銃弾が寸分の狂いもなくブレーカーのレバーの一つに着弾。がちゃんっ。その瞬間、重い音を立て、店内の電源が一瞬消える。
「停電!?」
「また”別班高校”の奴らの抜き打ち訓練か!?」
 途端に騒がしくなる店内。昼時なので、停電したとはいえ別に真っ暗になったわけでもないのだが、しかしこのラーメン店にいる客達は常に”ある人間達”を警戒しているので、全員が過剰に反応する。それが蒼一の狙いだった。
(今だ……!)
 蒼一は短く呟くと、着ているブレザーの下に纏っていたパーカーのフードを被り、巻いている腕時計のリューズを素早く回した。次の瞬間――パーカーが一瞬発光し、シュッ――蒼一の姿が、その場から消える。実際には、消えたように周囲に見せかける。
 光学迷彩パーカー。パーカーに無数についた小型カメラで瞬時に周囲の映像を取り込み、それをパーカー型の特殊スクリーンに投影する事によって周囲の光景に溶け込む蒼一作成の【特殊装備】。
 これを使えば、店員に気づかれる事なく店から脱出出来る。食い逃げするわけではない。むしろこの店は食券式なので既にお代は払っている。勿論お腹も減っている。しかしそれ以上に店員にオーダーが通っていない事を打ち明け、周囲に注目されたくない。それならお代を犠牲にしてでも、光学迷彩という大層な特殊装備を使ってでも、初めからそこにいなかった人間の様にその場から静かに立ち去りお茶を濁したい。内気といえば内気だが、極端といえば極端。それが浅生蒼一という青年の性格だった。まぁその性格のせいで、苦労する事もあるのだが……!
 ともかく蒼一は透明になり、ほんの少し薄暗くなった店内からの脱出を開始する。光学迷彩パーカーは激しく動くとスクリーンがシワになり、投影される映像のクオリティが下がってしまうので、恐ろしくゆっくり、カタツムリの様な速度でしか移動は出来ない。それでも店内の混乱に乗じて蒼一は少しづつ歩みを進め、店内出口まであと少しの場所まで到達する。あと少し――まもなく訪れるであろう勝利の瞬間の予感に少しだけ安堵する蒼一。
 しかし蒼一は忘れていた。蒼一が通う学校で、教師達が、蒼一達に口酸っぱく言い続けている教訓を。
 ”任務とは、任務を終え、家に帰って風呂に入るまでが任務!”。
 それまでは、たとえ任務を達成したと思っても絶対に気を抜かない事。蒼一達の世界では、任務達成の瞬間が一番危険度が増す。それを伝える為、教師達は蒼一達の事を思い、常日頃からその教訓をしつこく伝え続けていた。
 しかしそんな教訓の事など忘れていた蒼一は、出口が見えた瞬間、少しだけ……ほんの少しだけ、歩くスピードを上げてしまう。
「おい、そこのガキ! 何やってやがる!?」
 その瞬間だった。店内の照明が突然復旧し、店内に、店員の怒鳴り声が響く。驚いて蒼一が思わず振り向くと、そこには店長以下、ラーメン屋の店員達が皆、モップを構えて見えなくなっていたはずの蒼一に視線を向けている光景があった。
「光学迷彩で食い逃げとはふてぇ野郎だ! こちとら、てめぇらみてぇな”別班の卵”相手に商売やってるんだ! 停電した瞬間、妙な動きをするガキがいねぇか全員で目を皿にして見張ってたんだよ!?」
 かけていた丸いサングラスを少し下にズラしながら威勢良く蒼一に怒鳴るラーメン屋店主。周囲で弟子とおぼしき他の従業員達も鼻息荒く頷いている。
「あ、いや、食い逃げじゃなく……」
 バレてしまった以上仕方ない。こじれると学校に通報されてよりややこしくなる。蒼一は慌ててリューズを巻き戻しその場に姿を現す。ただ注文が通ってなかっただけ。できるだけ波風立てず店から立ち去ろうとしただけ。そう説明しようとしたのだが、
「何か妙な動きしてる奴だと思ってたんだ! 食い終わってるのに中々帰らねぇし!」
「え? いや、食い終わるどころか、まだ一口も……」
「ものども、やっちまえ!」
「おう!」
 その瞬間、蒼一に群がるラーメン屋の店員達。店内でラーメンを食べていた客達は、皆興奮してその光景をスマホのカメラでしっかり映像に収めている。
「いやいやいや! 話聞いて下さい! 僕はどっちかっていうと被害者といえば被害者で……!」
 そんな中蒼一は必死に説明しようとしたが、時既に遅し。
 ラーメン屋店員に取り囲まれた蒼一は、結局その状態で事情を説明するハメになり、さらには紛らわしい事するなと散々絞られるハメになる……!
 少し異常なレベルで”目立ちたく無い”せいで、逆に普通の人より目立ってしまう。
 蒼一が作り上げる、いつも通りの失敗の光景である。

                 ◆

 浅生蒼一は”反省しない”生徒である。
「はぁ」
 一時間四五分後――ラーメン店の近くにある公園。
「なんであそこで油断したんだよ僕……! あれさえなければ、誰にも注目される事なく、完璧に空気になれたのに……!」
 ベンチに座りながら蒼一は、まるでプロアスリートの様に、今回の自分の失敗を振り返っていた。
「光学迷彩も、まだまだレベル低過ぎるし……! こんなんじゃダメだ僕……!」
  項垂れ、両手で顔を覆う蒼一。その傍らには、コンビニで買ったビニール袋に入ったカップラーメンが置かれていた。
 あの後。ラーメン店に事情は理解してもらえたが、事情を理解してもらえた頃には既にラーメンは完売してしまっており、結局蒼一はラーメン代を返金してもらっただけで昼にラーメンを食べ損ねてしまっていた。
 これも、オーダーが通っていない事に気づいた時、蒼一がすぐに店員に声をかけてさえいれば起こりえなかった問題なのだが……しかし蒼一はそこは反省はしない。
「もっともっと目立たない人間になれるよう成長しないと……! よし……その為に、今日は昼ご飯抜きにして、自分を戒めよう」
 結局そのカップラーメンをリュックに仕舞い込み、食べる事もないまま立ち上がり、公園から歩き出す蒼一。
 自身の判断や性格は反省しないが、自身のスキルのクオリティにかんしては貪欲に反省する。
 人間としては間違っているが、諜報員の卵としてはあながち間違いでもない。
 それが浅生蒼一という人間が持っている、独特のメンタリティーである。

「ば、馬鹿じゃないのあんた……!?」
 が。そんな蒼一をしかし、当然馬鹿呼ばわりする生徒もいた。
「そんな理由で五限間目の【暗号解読学序論】欠席したわけ……!?」
 二時間後。五限目と六限目の間の一○分休憩中にようやく教室に戻った蒼一に唖然と言ったのは、蒼一の後ろに座っている女子、笠原忍だった。
「オーダー通ってない事隠す為、光学迷彩使って捕まるって……どう考えても普通に店員さんに声かけたほうが被害少ないでしょ。コスパって言葉知らないわけ?」
 呆れるように言う忍。気の強そうな眼差しに、セミロングの髪。ちょっとした理由から蒼一が入学前からつるむ、よく話すクラスメートの一人だった。
「う、うるさいな……!」
 憮然とした表情で応える蒼一。
「あと少しだったんだよ。別にいいだろ。僕は将来そういう仕事に就くんだから」
 不満気に反論するが、
「いやそういう仕事ではない」
 蒼一の反論をバッサリ斬って落としたのは、蒼一の右隣の席で、携帯ゲーム機の操作に夢中になっているショートカットの制服姿の少女。宮内紫苑。
「これまでもこれからも、ラーメン屋でオーダー通らなかった時、店員に声をかけず光学迷彩で逃げ出す任務なんてない。それはただの蒼一の暴走。技術の乱用」
「そうそう。メンタル弱過ぎるのよね。そんなチキンハートでこれからどうやって世の中渡っていくつもり?」
「う、うるさいなぁ……ほんと、もういいから、放っといてくれよ」
 蒼一は机に突っ伏して顔を伏しながら、
「いいんだよこれで。僕はチキンハートを極めて世の中渡っていくって、そう決めて、この学校に来たんだから」
 強引に話を打ち切る。そんな蒼一に呆れたように忍と紫苑は顔を見合わせているが、蒼一はそれに気づかないフリをして、自分がこの学校を知った瞬間の事を思い返していた。

 蒼一が小学六年生の時だった。
 蒼一はその日、放課後を図書室で一人過ごしていた。無理もない。蒼一のメンタリティは、この時から既に今とそう変らないものだったから。蒼一はこの頃既に、目立つ事を、集団の中で悪目立ちする事を恐れる少年だった。
 政府職員の父親が、家の中で騒ぐ人間に対し厳しい態度を取る人間だったから。
 小学校の教師の母親が、目立つ事は良くない事だと繰り返し教えたから。
 どれが原因だったのか、判然としなかったが……しかし蒼一は幼少の頃から、日々出来るだけ空気、影、透明人間の様に過ごそうとする、臆病な人間だった。だから当然友達もそれほど出来ず、毎日放課後のほとんどを図書室の中で過ごしていたのである。
 そんな中、その日蒼一は、とある怪しげな都市伝説を扱うような本を偶然手に取り――知ったのだった。
 この世には、公表されていない、”諜報員育成科”が存在する、諜報員――つまりスパイを育成する為の教育機関、”国立諜報高等学校”があり(蒼一が幼い頃流行ったドラマの影響で、一部では通称”別班高校”とも呼ばれているらしい)、その学校を見つけ、一五歳になってから受けられる過酷な入学試験をパスすれば、将来国直属の諜報員……つまりそれこそ”別班員”のような人生が歩めるかもしれないという事を。
 蒼一はその情報に歓喜した。都市伝説かもしれないという事実は気にならなかった。その本に書かれていた諜報員の仕事は、蒼一にとって夢のような仕事だったからだ。
 その本には、諜報員という仕事について、こう書かれていた。
 ・国の平和を守る為に、姿や経歴を変えて、何年も何十年も海外に潜入する事もある。 
 ・怪しい動きをする人間を、相手に気づかれないよう何年も追い続けて目的を突き止めたりする。
 ・非常に重要な仕事だが、地味で、キツくて、決して日の光が当たらない仕事でもある。
「これじゃん、僕が将来やりたい仕事って……!」
 ある種ネガティブな要素ばかりだったのだが、その本を読んだ瞬間、蒼一は雷に打たれたように思ったのだった。
地味で、キツくて、日の光が当たらない仕事。
 そんな仕事があるなら、絶対に、自分は向いている。それどころか……この仕事についたら、こんな自分でも、誰かに誉められたり、認められたり、その結果……友達が出来たりするかもしれない。
 かくして蒼一は、将来の夢をその時に定め、行動を開始。都市伝説かもしれない”別班高校”が存在する事を信じ、学校を探し始める。
 その結果、蒼一は、中学三年の時ついに東京都下の斑別(まだらべ)町と呼ばれる地区に、”東京都立斑別諜報高等学校”を発見。
 周辺の住人にも一切校舎の場所を明かさず、しかし授業外の時間に神出鬼没に街をうろついたり、課外授業と称して妙な騒動ばかり起こす生徒を周辺住人が”別班の卵”呼ばわりされ敵視していたのは誤算だったが、それでも蒼一は受験を決意。
 そこから試験会場で偶然出会った忍、紫苑と協力して、死ぬか生きるかという試験に挑戦し、なんとかギリギリのところで試験に合格。無事斑別高校に入学し、現在良くも悪くも自分の夢に向かって突っ走っているのである。
 しかし――どこの世界もそうかもしれないが、諜報員の世界も甘くはない。
 入学から一年と三ヶ月。
(僕はこのままでいいんだよ。将来、一流のスパイにさえなれれば、問題無いんだから)
 忍や紫苑の言葉に強気にそう反論していた蒼一だったが。
 そうも言ってられないかもしれない事態が、蒼一に迫ろうとしていた。

 蒼一がラーメン屋に捕縛されてから数日後。
 夏も近いというのに、妙に暗い雲の立ちこめる、なんだか季節外れに寒い日の未明の事だった。
 その日蒼一は、珍しく目覚ましが鳴る前に目を覚まし、畳に直接敷いた布団の上でグズグズ寝転がっていた。この家には蒼一以外暮らしていない。都立斑別高校の生徒は、全員親元を離れ、自己管理の訓練も兼ねて斑別町に自力でアパートを借り、そこで一人暮らしする事を強要されていた。
 いきなりの一人暮らしに蒼一も戸惑ったが、次第に慣れ今ではゆっくり一人の暮らしを楽しんでいた。自分でも思っていた以上に、実家での暮らしが窮屈だったのかもしれない。だからこそ、今の状況を楽しむべく、普段は実家で出来なかった事……授業開始時間ギリギリまでゆっくり眠る事……を蒼一は楽しんでいるのだが、その日はまだ眠いにもかかわらず、何故かもう一度眠る事も出来ず、ただただ無為な時間を過ごしていた。
「昨日、ご飯抜いたせいかなぁ……」
 蒼一は仕方なく覚悟を決め、布団から出る。確かにいつもの朝よりお腹が減っている気がした。数日前、ラーメン屋での騒動以来、蒼一はなんとなく外食を控えていて、かといっ自炊も得意ではないので、結局面倒くささに負け前夜の夕食をパスしてしまっていたのだ。
「なんかあったっけ? お菓子の食べ残しとかでも全然いいんだけど……」
 自覚すると、空腹の感覚はどんどん大きくなっていった。まだ眠気が残る中、蒼一はあくびをかみ殺しながら部屋の中をゴソゴソと探り始めるが……!
「あ。あの、もしかして、これ探してます……!?」
 その時だった。蒼一の前方から声。蒼一が寝ぼけ眼でゆっくりそちらに視線を向けると、玄関の前。
 そこに一人、蒼一と同い年くらいの少女が立っていた。
 金髪の少女である。髪を肩まで伸ばした、西洋系の、どこかおっとりした目つきの少女。右手に蒼一がいつも愛用しているリュック、左手に、そこから取り出したと思しきカップラーメンを手にしている。それは、蒼一がすっかり忘れていた、数日前、ラーメン屋でラーメンを食べ損ねた時買っていたカップラーメン。リュックに仕舞ったまま、リュックに入れっぱなしにしていたらしい。
「あ、それがあったか。どうもどうも」
 それがあるなら、それが朝食でいい。過去の自分からの思いがけないプレゼントを、反射的に受け取ろうとする蒼一だが……
「って……誰!?」
 危ないところだった。慌てて横っ飛びに跳んで転がり、少女から距離を取って壁の陰に身を潜めながら蒼一。
 蒼一はようやく自分の置かれている状況に気づく。
 何で一人暮らしの自分の家に……自分にカップラーメンを差し出そうとする女がいる!? 
「う……動くな!」
 というわけで、陰から飛び出し、普段の十倍は大きな声で威嚇の声をあげながら蒼一。泥棒か、下手したら殺し屋か。枕の下に隠してあった学校支給の模擬弾入りの短銃を玄関に容赦なく向ける。
「……って……あれ?」
 が……次の瞬間、蒼一は思わず間抜けな声をあげる。
 陰から飛び出した蒼一。
 その眼前にあったのは、予想外の光景だった。
「ううう……!?」
 蒼一の家の玄関。そこにあったのは、何かが限界を迎えたように、まるで行き倒れの旅人のようにその場に倒れ込み、残念そうに自分の手の中のカップラーメンを見つめている、なんだか哀れでみすぼらしい、そんな少女の姿。
「えっ……」
 困惑する蒼一。そんな蒼一の困惑をよそに少女は言う。
「残念ながら……ここまでのようですね……」
 蒼一の目前。いかにも苦しそうな無念そうな表情で呟く少女。
「イギリスを出てから四日……。まさか、最期が飢え死にとは……。ご、ご迷惑をおかけします、見知らぬ日本の若きサムライ……私の死体は土葬ではなく火葬……に……」
 そして盛大にぐるるる……とお腹が鳴る音を巻き散らかしたかと思うと。パタリ。言うだけ言い残し、少女は完全に沈黙。
「え!? いやいやいやいや、ちょっと、大丈夫ですか!?」
 まさかの状況に慌てて少女に駆け寄る蒼一。しかし、揺すっても呼びかけても少女は反応を示さなかった。まずい。完全に飢餓状態で衰弱しきっている。このままではこの人、本当に死んでしまう……! 何か食べ物を分け与えなければ……!
 逸る気持ちでキッチンを見渡す蒼一。しかしすぐに思い至る。
 この家には今、例のカップラーメンしか食料が無い……!
 何か消化に悪そうだし。こういう状況の人間に差し出すのってカップラーメンでいいのか……!? そんな些細な問題に、思わず一瞬逡巡する蒼一だったが……。
 ぐるるる……! その瞬間。そのフリーズを強制的に打ち破るように少女の腹の音が蒼一の部屋に鳴り響く。
「……………………」
 その音を聞いた蒼一は、嘆息し、動き出す。蒼一は、深く考える事をやめていた。
 そもそも相手は不法侵入者である。これでカップラーメンを食べさせて体調が悪化しても誰に文句を言われる筋合いがあるだろう。しかもこれは蒼一にとってもそれなりに重要な食料。勿論、この状態になって尚、蒼一にカップラーメンを返却するあたり、凶悪な悪人ではないのだろうが……! そこまで気を使ってこの少女を看護する義理は蒼一には存在しなかった。
「……はい」
 というわけで五分後。蒼一は沸かしたお湯で作ったカップラーメンを、少女の眼前の床に雑に置く。完全に力尽きてる様子だし、これで起きなかったらそれはそれで仕方ない。脱力気味にそう考える蒼一だったが……!
「ラー……メン!」
 残念ながらそんな展開はなかった。蒼一がラーメンを床に置いた瞬間。少女はカッ! っと目を見開き、野生動物の様な恐るべき身のこなしで起き上がると、ズゾゾゾゾゾ……! 瞬く間に凄まじい勢いでラーメンをすすり始める。その勢いに圧倒される蒼一。むしろ、あまりに美味そうに食べるので、蒼一の空腹も蘇る。
「あ、あの、実は、僕もけっこうお腹すいてて……」
 蒼一は思わず言うが、ズゾゾゾゾゾ! 爆音でラーメンをすする少女の耳には届かない。諦める蒼一。とりあえず少女が食べ終わるのを待つしか無いらしい……。
 というわけで、ひたすら無言で、見知らぬ少女がカップラーメンを食べ終わるのを待ち続ける蒼一。
 自身も空腹を抱える蒼一にとって、それはまるでスパイが受ける拷問のような、理不尽に不毛な時間になったのだった。

                ◆

 浅生蒼一は運が悪い生徒である。苦労を背負い込むタイプでもある。そして目立ちたく無いという割に、お人好しでもある。
 本人にその自覚は無い。
 だが周囲は違う。
「いや、だから。馬鹿じゃないのあんた……!?」
 四時間後。都立斑別高校、二年ゐ組教室内。授業開始直前のざわざわした教室内で、呆れたように笠原忍が呟いてた。
「それで、結局その正体不明の女泥棒にカップラーメンごちそうして、おまけに寝床も貸してやったの!?」
 朝から疲弊しながら菓子パンを齧っていたところ、問い詰められ、蒼一は忍や紫苑に今朝の状況を話すハメになっていた。
「異常。将来、それほど親しくない友人の借金の保証人とかになってものすごく苦労するタイプ」
 隣の席の、今日はゲームではなく超小型のノートPCをいじっている宮内紫苑も一切同情しないような表情でバッサリ切り捨てている。
「う、うるさいな……」
 散々な言われように、蒼一は机に突っ伏すしかない。
「じゃあどうしろって言うんだよ!? 仕方ないだろ。ラーメン食べたら、死んだみたいに動かなくなったんだから」
 四時間前。仕方なくラーメンを振る舞ってやった蒼一。その後、当然蒼一は少女から事情聴取、もしくは事情も聞かず面倒事はご免とばかりにそのまま問答無用で追い出そうと思っていたのだが、結局そのどちらも蒼一は実行する事が出来ていなかった。
 蒼一の言葉通り。ラーメンを食べた少女は、そのまま、糸が切れた操り人形の様にそのまま壁にもたれかかって爆睡してしまったのである。無論、蒼一もそんな展開許容出来るはずもなく、やはり大声で呼びかけたり、軽く肩をゆすったり、出来る範囲の事はやったのだが……少女の眠りがあまりに深く、なにより少女が異常に疲れた様子だったので、結局それ以上の事は出来ずそのまま自身の寝床に移動させ、少女を置いて、一人学校に来たのだった。
 忍や紫苑はそんな蒼一に、氷水ぶっかけたり、身体に電流流したり色々やれる事があると口にしたが、幾ら諜報員志望とはいえ、そこまでやる気には蒼一は到底なれなかった(そもそも、一応、斑別高校でも拷問は禁止されているし……)。
「だからって、普通、そこまでしてやる……!?」
 しかし、そんな蒼一の苦労や苦悩は忍や紫苑には理解されない。
「なんか下心でもあるんじゃないの? その女に」
「たぶんそう。所詮蒼一も思春期の男性に過ぎないから」
 勝手に散々な事を言われてしまう蒼一。
「勝手に言ってろよ、まったく……」
 目立たないように、事を荒立てないように行動した結果、周囲に散々言われてしまう。
 ある意味、蒼一にとって、いつも通りの光景である。

「それで。どんな子なのよ、その女の子ってのは?」
 そして、文句言いつつ、なんだかんだ興味があるらしい。
 忍と紫苑はその日、授業中、隙あらば蒼一に訪ねた。
「どんなって……!」
 体育館で横並びになり、一斉に”縄抜け”の訓練を行うという斑別高校らしい授業を受けながら、蒼一、忍、紫苑は会話する。
「……なんか西洋系の女子だよ。ちょっとスキがあるっていうか……どんくさい感じの」
「他に何か情報は? 名前とか出身地とか。本人の素性を探るきっかけになるような」
 午前中。今度は中東情勢の地政学を学びながら、静かな教室内で指で机を叩くモールス信号で紫苑が蒼一に聞く。
「だから知らないって。イギリスを出て四日とか。僕の事若きサムライとか言ってたけど」
「じゃあイギリス人って事? でもなんで四日も飲まず食わずだったわけ?」
 午後、今度は尾行の訓練で、斑別町に暮らす普通の人々を追いながら忍が聞いてくる。
「さぁ。知らないよ、なんか誰かに追われてるとか……?」
 目の前で追っていたスーパーに買い物に行く風の女性が、ふと立ち止まりちらりと振り返ったので、慌てて路地裏に身を隠しながら蒼一。
「追われてるとは? 誰に?」
 隣で一緒に身を隠した紫苑も聞いてくる。
「わ、分かんないよそんなの……追われてるっていうのも、今思いついて適当に言っただけだし」
 身を隠しながら、紫苑に対し嘆息混じりに蒼一は応えているが、
(でも確かに……追われてるとして、誰に追われてるんだろう……?)
 ふと思う。ここは日本。四日も食事を取れないほど苛烈に人を追うような人間がいる世界とも思えないが……。
「ま、それもこれも放課後三人で行けば分かるって。どんだけ疲れてても、流石にそろそろ起きてるだろうし」
 そんな考え込む蒼一にあっさり言ったのは忍。
「は? ウチ来るって事? 朝は散々そんな女助けるとか異常とか言ってたのに」
「当然でしょ、こんだけ気になる情報聞かせといて」
「それに蒼一の看病だけでは不安」
 紫苑も頷く。
「蒼一の衛生学、栄養学のテストは私達より低いし」
「分かった分かった……」
 仕方なく折れる蒼一。確かに年頃の女子が一人の部屋に自分一人で帰るのは、もし周辺住人に見られたりしたら変に誤解されて目立ったかもしれないしのでありがたくもあったが。部屋は片付けてないしあまり見られたくない物もあったが、こうなったら色々背に腹は替えられない。
「じゃあさっさとこの尾行成功させて、うち行くか」
 視線を前に戻し、尾行を再開しながら蒼一。しかし。
 そんな蒼一達の打ち合わせが全く無意味になるような異変が、数時間後、蒼一達を襲う。

「あ?」
 三人でスーパーに行き、食材などを買った帰り道だった。
 蒼一達は衝撃的な光景を目の当たりにしていた。
「も、燃えてる……!?」
 蒼一のアパートまであと徒歩一分という距離だった。路地の裏のそのまた裏、駅からも遠く、坂も多く、恐ろしく利便性の悪い蒼一の家だったが、一つだけいいのは、高台の端にある、断崖絶壁のような場所に建っている事だった。おかげで、古いせいか妙に広いベランダから見える景色は無駄に良く、逆に遠くからもその家のベランダを視認する事が出来たのだが……。
 蒼一の家まで徒歩一分。距離にして一○○mも無い、蒼一達が今立っている場所から見えたのは、開けっ放しになっている窓から、もうもうと黒煙混じりの炎を吐き出している、蒼一の部屋だった。
 そして蒼一は、一瞬見る、見てしまう。
 その部屋の中に、口元を抑えながら苦しそうによろめいている、今朝自分がカップラーメンを分け与えた、あの金髪の少女があった事を。
「し……紫苑、消防に連絡して! 忍は周囲に不審な人間がいないか確認!」
 それを見た瞬間、蒼一はそう言い残して駆けだす。あの女子が、うっかりガスコンロか何かを触って火事を起こした可能性もあるが、もしかしたら……誰かが、例えば、あの少女を追っていたような人間が、故意に自分の部屋に火をつけた可能性もある。蒼一は今さら自覚する。それくらい、あの少女は、出所不明の謎の少女なのだ。
「あ、ちょっと蒼一!?」
 忍がとめる声を置き去りにして、蒼一は自室に走り、手早く鍵を取り出し扉を開けると、転がるように中に入る。
 最悪に近い視界の中、しかし勝手知ったる自室の中を見渡し蒼一が見たのは、
「居た……!」
 寝室とダイニングキッチンの間。そこに力尽きて床に倒れている、金髪少女の姿だった。それはまるで、蒼一が見た今朝の光景の再現映像。しかし今度は今朝と違い、いよいよ、本当に死んでいるかも知れないくらい、少女はぴくりとも動かない。
「まったく、一日何回うちの床で倒れてるんだよ……!?」
 息を止めて、やけくそのように少女に近づき抱きかかえ、玄関から外に飛び出す蒼一。そのままなんとか火が迫ってきそうにない、野次馬達が集まる安全圏まで移動する。
「だ……大丈夫ですか!?」
 その途端、紫苑が呼んでくれたのか、蒼一に消防と救急の隊員達が駆け寄る。
 そんな光景に安堵し思わずへたり込む蒼一。
 その背後では、あまりに無情に、あまりにあっけなく、蒼一が今朝まで過ごしていたアパートが炎に包まれ崩落を始めている……!
 
「どういう事よ!?」
 一時間後――。斑別町にある、とある病院の一室。
 ベッドに横たわり目を閉じる少女の横で、忍は蒼一に怒鳴り散らしていた。
「そいつ拾ったその日の夕方に、いきなり家燃えるって……どう考えても、そいつのせいでしょ!?」
 少女を指差しながら忍。
「奇跡的に誰も死ななかったから良かったけど……一歩間違えたら、他の住人も、それからあんただって、死んでたかもしれないのよ!?」
 いつもとは次元の違う、本気の怒りの色をにじませながら忍。
「だから言ったじゃない、そんな素性も知れない女を家になんてあげるなって……これ、絶対、学校でもあんたの行動問題になるわよ!?」
 流石に反論出来ず、うなだれるしかない蒼一。忍の言う通りだった。確かに蒼一の行動は、人としても、諜報員の卵としても、あまりに迂闊で無責任だった。
 あの後。蒼一は、意識が無く救急車に乗せられた少女に付き添って病院まで向かったのだが、その道中、少女は意識は無いが息はある事、そして火事は大規模なものになってしまったが、幸い住人は大半が出かけていて死傷者が出なかった事を聞かされていた。火事は何者かによる放火の疑いが高いという事も。
 また、学校にも紫苑が連絡を入れ、その結果、蒼一は電話で担任から厳しい叱責の言葉をもらっていた。内容は忍が言ったのとほぼ同じ、それに加え情報を学校と共有しなかった事を強く非難された。言われれば言われるほどごもっともである。なんせ自分は諜報員になる為の学校の生徒で、ここはそんな人間が暮らす斑別町。なんとなく、本人が見せた人柄から、危険性は無いと判断していたが、本人に万が危険性が無くても、その背後には危険な人物が蠢いているかも知れないと考え、学校と情報を共有すべきだった。蒼一にはまだ、そこまで考えが至らなかった。
「今学校側は、消防や警察と話している」
 言ったのは、同じく病室内に居た紫苑である。PCには、監視カメラ越しのような映像で、病院のロビーで警察と話している蒼一達の担任を含む斑別高校の担任達が映っていた。病院内の監視カメラでもハッキングして見ているのかもしれない。ハッキングは、ある理由で、紫苑の得意技だった。
「それが終わったら、この病室に来るみたい。蒼一への処分もそこで下されると思う」
「そ、そうか……」
「どうすんのよ……!?」
 病室にあったパイプ椅子に力なく座り顔を覆いながら、むしろ、本人より疲れたように言ったのは忍。
「これでもし退学とかになったら……。あんた、今さら、まともな社会でやっていけると思ってんの……!?」
 投げやりな調子で忍。
「うまくいく確率は0%」
 パタンッ、とノートPCを閉じながら、蒼一の代わりに投げやりに答えたのは紫苑。
「地元に帰っても、恐らく社会復帰できず引きこもり生活になる。蒼一にとって諜報員は、かろうじて適正のあった最後の職業。それを失った今、蒼一の未来は、どこまでも暗く狭いものに確定した」
「勝手に人の未来確定しないでくれよ……」
 かろうじて抗議する蒼一だったが、しかしその抗議にも力が無い。蒼一自身も自覚していたからだ。自分のような人間に向いているのは諜報員しかない。
 病室に沈黙が落ちる。いつも軽口を叩いていた二人すら沈黙する状況になって蒼一は改めて痛感する。自分は深刻な判断ミスをやらかした。自分があの時、少女を受け入れたりしなければ……! 朝の自分の判断を悔やむ蒼一だったが……
「……あまり彼を責めないでやって下さい」
 その時だった。病室に、蒼一、忍、紫苑のものではない声が響く。全員がハッと視線を一点に向ける。視線の先。そこには、いかにも重そうに、しかしそれでもゆっくりと身体を起こし三人に笑う、金髪の少女の姿。
「あんた……」
「起きた」
「だ、大丈夫なんですか……!?」
 三者三様の反応を示し、蒼一が慌ててベッドに駆け寄る。
「今、病院の人を……」
 そしてそのまま蒼一はベッド脇のナースコールに手を伸ばし病院の人間を呼ぼうとするが、しかし少女は蒼一の手を自身の手で遮り、蒼一に言う。
「待って下さい。平気です。それより、みなさんにお伝えしておかなければいけない事があります」
 にっこり、やけどだらけの顔で気丈に笑って三人に伝える少女。
「この街は狙われています。私のような怪しい人間が言っても説得力は無いと思いますが……お願いです。一分だけでいい。私の話を聞いてくれませんか?」
 切実な様子で訴えかける少女に、思わず言葉を失う蒼一、忍、紫苑。
 目立ちたく無い、反省しない、しかしお人好しの青年蒼一。そんな蒼一が引き起こした騒動は、蒼一達が予想もしていなかったような、思いがけない事件へと発展していく……!

                 ◆

「ね、狙われてるぅ……!?!?」
 永遠に続くかとも思えた、病室内の沈黙。しかしそれは当然永遠には続かず、実際には数秒も経たず破られた。
 それを破ったのは、少女から一番遠い位置、ドアの付近にいた忍。忍は、少女の言葉を聞くと、カッと頭に血が上った様子で、少女に駆け寄り声を荒げるのだった。
「何言ってんのよあんた……!? あんた……自分が今どういう状況にあるか分かってんの!?!?」
 完全に病院内である事を忘れた、苛立ちを隠そうとしない声で少女に詰め寄りながら忍。
「お、おい忍」
「一回落ち着くべきでは?」
 蒼一と紫苑が声をかけるが、忍は耳に入らない様子で、
「あんた助けようとしたせいで、うちの蒼一は家燃やされるわ、唯一やっていけそうだった高校退学になりそうだわ、散々不利益被ってんのよ!? わけわかんない与太話する前に、まず、それ、謝るべきでしょう!?」
 興奮し、完全に冷静さを失った表情で少女を怒鳴りつけている。
「……確かにそれは私のミスです。思った以上に体力を消耗してしまっていて……申し訳ありませんでした蒼一」
 反対に少女は冷静な様子で蒼一に謝罪。
「出来る事ならそれ相応の補償もしたいのですが……しかし今はあまり時間がありません。なのでどうかまず、私の話を聞いてもらえませんか?」
 その言葉は蒼一に向けられている。忍と紫苑は、とりあえず、決断を蒼一に任せる事にしたのか静観の構えだ。蒼一は嘆息。忍の怒りも分かるし、先ほど叱られたばかりなので、まずは学校に指示を仰ぐべきなのかもしれないが……しかし結局蒼一は、少女の切実な様子から、話を聞く事を選択した。
「分かりました」
 蒼一は軽く頷き、話を促す。
「話して下さい。貴方が巻き込まれているその事件のことを」
「ありがとう蒼一」
 そして始まる少女の話。
 そんな蒼一のお人好しの反応に忍と紫苑は呆れた様子を浮かべていたが、しかし二人ももう止めはしなかった。
 結局、二人も、少女の話が気になっていたのである。

「まず手短に私の事をお伝えします」
 そして少女は三人にそう切り出した。
「私の名前はアナ・ラケル・ウィンター。日本の諜報機関や、イギリスにあるMI6などの、特定の国に帰属する諜報機関等とは違う、ある国際的な超法規的諜報機関に所属していて、その機関の任務でこの国にやってきました」
「あ、ある国際的な超法規的諜報機関んん……!?」
 聞くや否や不満げに声をあげるのは忍。
「あんた……ほんとに自分の立場分かってんの? そんな怪しげな話、信じられるわけないでしょ!?」
「う、うん……」
「ま、まぁ、その怪しげなものの最たる”別班高校”に通ってる僕らが言うのも変な話だけどね」
 やや自虐的に反応する紫苑と蒼一。確かに、蒼一達も、聞く人間によっては恐ろしく怪しげだと感じる高校に通う生徒達だった……。
「これにかんしても信じて下さいと言うしかないですね」
 そんな忍の当然の反応に、自分でも困っている、というような表情で少女――アナ――は返答。
「もう少し踏み込んで話しても良いのですが、これ以上話すと貴方達に無用なリスクが生じる。貴方達も、知り過ぎる事がどれだけ危険かは知ってますね」
 そう言われて、蒼一達もそれ以上追求するわけにはいかなかった。
 確かにスパイの使命は情報収集だが、同時に知り過ぎることもまたリスクになると、学校では口酸っぱく教えられている。重要な情報を持つということは、それを持っていると他者に知られた際、その情報を狙う者たちに目をつけられる危険を伴うからだ。だからこそ、プロの諜報員は、たとえ簡単に手に入る情報であっても、必要のないものには不用意にアクセスしない。その教えを思い出し、蒼一はぐうの音も出なかった。
 そんな蒼一達の反応に、アナは満足げに微笑。
「話を続けても構いませんね」
 まだやや不満げな忍の顔を一度見ながら、しかしそのまま話を続ける。
「その任務というのが、”ある犯罪組織が起こそうとしている”テロ計画の調査でして。長年その計画を追っていた私は、先日、ついにその計画の断片を掴む事に成功しました」
「いやいや、だから、ちょっと待ちなさいよ」
 そんなアナの言葉に、また忍が話の腰を折るようにつっかかる。
「長年って、あんた幾つよ? 今年一七の私らだって、まだ現場出てないのに」
「私も一七です。同い年ですね」
 そんな忍に、アナはけっこう本気で嬉しそうに笑い、
「けれど我々の組織は、特定の国に属していない分、割と良くも悪くもCOMPLIANCEを遵守する精神が強くないので……私は憶えている限り、一一歳の頃には現場に出て任務についていました」
「じゅ、十一歳……!?」
 ガーン、という音が聞こえそうなほど分かりやすくうろたえる忍、紫苑、蒼一。自分達も十代にしてはけっこう過酷な訓練を積んでいる人間のつもりではあったが、世界にはまだまだ上がいたようだ。
「続けても?」
「か、勝手にすれば?」
 なんだか負けたような気分で返す忍。アナはそんな忍に苦笑しつつも、
「私は少なくともその計画を二年は追っていました。そして先日、ついにその計画の断片を掴みました。その計画は”Project:Noah”というコードで組織の中でやりとりされていて……計画の工程の中にはこうありました。”自分達の計画をスムーズに進める為、まずは、世界中の諜報機関を弱体化させる。その第一歩として、組織の中で危険視する声が年々高まっている、日本のとある諜報員の育成機関を襲撃する”と」
「「「日本のとある諜報員の育成機関って……」」」
 思わず声を揃えて呟く蒼一、忍、紫苑。日本には今のところ、諜報員の育成科が存在する学校は”東京都立斑別諜報高等学校”しか無い(大阪と九州では、現在創設が急ピッチで進められているらしいが……)。つまり……。
 それは蒼一達にとって外れて欲しい予感だったが、アナは、そんな蒼一達の願いもむなしく、力強く頷く。
「組織の狙いは班別高校と、それを育む班別町です。この街は狙われています。というわけでお願いです。どうか私をここから逃がして下さい」
 そしてさらに三人を驚愕させるような言葉を口にする。
「日本の諜報機関は日本政府の許可が無いと動けません。恐らく私がここで拘束されると、事情を説明してもそう簡単には動けないでしょう。けどそれでは計画の阻止に間に合わないのです。計画の決行は、今夜の一二時ですから」
 病室内の壁にかかっている時計をちらりと見ながらアナ。そこで示されている時刻は夜の八時過ぎ。
 つまりあと四時間後。四時間後、その謎の犯罪組織が、斑別町を襲うと言っているのである。
「それを終えたら私の事はどうしてくれても構いません。ですが今日日付が変るまでは……どうか私の事を見逃してくれませんか? 私は奴らを止めなければならないのです」
 三人を見ながら必死に訴えるアナ・ラケル・ウィンター。
 いきなり迫られた大きな決断に。三人は言葉も無く黙るしかない。

「ど、どうする……!?」
 まさかの状況に立ち尽くす三人。その時、紫苑が、ハッとして閉じていた自身のノートPCを開き画面を確認した。画面の中には、相変わらず勝手にハッキングした病院内の監視カメラの映像が流れており、そこに映っている担任が、ロビーで話していた医者達に頭を下げ、カメラ手前の方向に向かって移動し始めたのが紫苑に見える。
「ま、まずい。先生がこっちに動き始めた」
「マジ!?」
「ど、どうする!?」
 一層追い詰められ、顔を見合わせる三人。
「いや……でも……やっぱ無しでしょ、この話に乗るだなんて!」
 そんな中、葛藤を無理やり振り切るように、自分に言い聞かせるように叫んだのは忍だった。
「どこまで本当か分からないし! こんな話に乗って、それが嘘だったら、今度は退学どころじゃ済まなくなるかもよ!? 蒼一も、私達も」
 忍の主張は最もである。もしそうなった場合、忍達三人は、拘束できていた素性不明の人間を、自分達の判断で勝手に逃がし、そのまま逃亡されてしまうリスクを激増させる事になる。退学という狭いレベルの処罰に留まらず、それこそ実刑レベルで責任を追及される恐れも十分にあった。
「で、でも……」
 しかしそこで同じく葛藤したように声を上げるのは紫苑。
「もし、この人の話が本当だったら?」
 いつもは感情をあまり表に出さないその顔に、ほんの少しだけ、恐怖や不安の色をにじませ紫苑は言った。
「この人の言う通り。このまま学校に事情を話して身柄を渡した場合、日本の警察や諜報機関はそう簡単には動けない。まず真偽の追求を行うだろうし、それで真偽が分かったとしても、政府による正式な許諾が降りない限り結局誰も派手には動けない」
 そして時計を見て、
「それだと間に合わないかもしれない。その場合、学校やこの街は……」
「で、でも……そうなったとしても、それは私達の責任じゃ無いじゃない!?」
 そんな紫苑の言葉に納得いかないように言い返す忍。
しかし紫苑も迷ったように言い返す。
「それはそう。けど、自分達の責任逃れの為に、救えるはずの命を救わないのは、諜報員の卵として正しい行動?」
 そしてPCに目を落とす。
「今、先生がエレベーターに乗った」
 いつもとは比べものにならないくらい焦燥をにじませた声で紫苑。
「ここは八階だから、恐らく乗ってる時間は数十秒。廊下を歩く時間をあわせても一分以内には先生がここに到達する」
「あと一分……!」
 迫り来るタイムリミットにますます追い詰められる忍、紫苑。
「…………!」
 そんな中、蒼一も、当然、迷い、葛藤していた。そもそも自分が招いたような状況である。出来る事なら自分自身でこの状況にケリをつけたい。しかし今、自分の目の前にある選択は、自分が、十七歳の人間が決断するには、あまりにも重い決断だった。
 正体不明の自称”正義のスパイ”のような少女の言葉を信じ、今起ころうとしているテロを防ぐ為に行動すべきなのか?
 それともここは周囲の判断を仰ぎ、より安全に、より確実に行動すべきなのか? 二つに一つ。
「蒼一」
 そんな蒼一に、アナは言う。
「迷惑をかけたお詫びです。私は、……貴方の決断に従います」
 蒼一をまっすぐ見つめながらアナは言う。
「カップラーメンの借りもありますし。どんな決断を下しても、私は貴方を恨みませんよ」
 そして悪戯っぽく笑いながら、蒼一に委ねるように両手を挙げてみせる。
「カップラーメン……!」
 その瞬間だった。蒼一の脳裏に、少女――アナと初めて遭遇した時の事が蘇った。流石キャリアが長いだけあって、蒼一に気づかれる事もなく、勝手に部屋に入り、勝手に食べようとしていたカップラーメンを食べようとしていたアナ。しかしそれを蒼一に手渡し、そのまま倒れてしまったアナ。今の話がウソだとしたら、あの時間はなんだったのだろう? あんな小芝居をして、アナが自分に近づく理由は?
 そんなものあるわけなかった。
 蒼一は確信する。恐らくアナは、”組織”に追われ、本当に食うに食えない状況でようやく斑別町に辿り着いたのだろう。そして結局力尽き、蒼一の部屋で気絶したり、組織の連中に蒼一の部屋ごと火をつけられ、殺されかけてたりしていた。何の為に? 決まってる。
 全ては斑別町、そして斑別高校を救う為に。
 だとすると蒼一にとって正解はたった一つだった。勿論蒼一は目立ちたくは無い。決まりきった流れに、空気に逆らって、オーダーが通ってない事を口にするような事をするぐらいなら、自分が犠牲になってでも、その場の空気をかき乱さない事のほうが蒼一にとっては重要だし、ラクだ。
 けどこれは違う。自分達の街に縁もゆかりも無い、しかも同じ一七歳のスパイの先輩の少女が、自分達が知らない間に水面下で戦っていて、この街を、自分達を守ろうとしてくれていたのだ。
 どんな動機であれ――たとえただ目立ちたく無いという後ろ向きな動機であっても――自分も一応、一度はスパイを目指した人間である。同じスパイとして、蒼一はその思いに報いたかった。たとえ、その結果、場の空気や常識をかき乱し、自分が色んな意味で悪目立ちしたとしても。
「分かりました」
 蒼一は覚悟を決めて言う。
「行って下さい。どうせ僕は退学かもしれないんだし。こうなった以上、好き勝手やります」
 そして蒼一は振り返り、
「けど僕だけじゃたぶんこの人を逃がす事は出来ない。だから、頼む。……どうか僕に力を貸してくれないか? 忍、紫苑」
 忍と紫苑にただただ直球で依頼。いきなり言われた二人はまさかの要求に一瞬顔をゆがませたものの。次の瞬間、何かを諦めたように、頷いたのだった。

「いい? 相手はプロの先生。私らが動きを止められるのは一瞬だからね!?」
 数十秒後。病室の入り口付近の壁に張り付きながら忍が言う。アナに肩を貸し立たせていた蒼一は頷き、次いで、病室の椅子に座りノートPCを開いていた紫苑に視線を向ける。紫苑も頷く。
「ルートはこっちで指示する。決して無理しないように」
「分かった。そっちも気をつけてくれ」
「気をつけるに決まってるでしょ!? ったく、もう、なんで私らがこんな目に……!?」
 ぼやくように答える忍。
「こっちは一族の命運がかかってるってのに……! はぁ、もう、私の人生設計どうしてくれんのよ……」
「シノブ……」
 そんな忍に思わずのように声をかけようとするアナ。すると、しかし、忍はキッと目つきを鋭くし、
「言っとくけど、あんたの為じゃないんだからね!?」
 憤慨したようにアナに言い放つ。
「うちの馬鹿がやるって言うから、仕方なく手伝うだけだし。日本の十代のスパイが舐められんのもイヤだから、ちょっと一肌脱いでみるだけよ!」
 アナに目もあわせず忍。
「気にしないで」
 すると即座に紫苑。
「彼女、結局あなたのこと、信じることにしたみたいだから。本当は応援したいけど、それが悔しくて、ああやって怒ってるフリしてるだけだから」
「ちょっと紫苑!? 何勝手に、人を古いタイプのツンデレみたい言ってんのよ!?」
 この状況でもギャアギャアと言い合う二人にアナは一瞬目を丸くするが、すぐに感極まったように微笑み、
「分かりました……。ありがとう、シノブ、それからシオンも。日本の後輩達の信頼に応えられるよう……私も全力で努力します」
 その時だった。コンコンッ、病室の扉がノックされる。視線を一瞬交わらせ、頷く蒼一、忍、紫苑。
 三人の”別班の卵”による無謀な作戦の始まりである。

「浅生君? 笠原さんに宮内さんも。いないのですか? 入りますよ」
 ノックから数秒後。扉の外にいた蒼一達の担任の女性が、三人に断って扉を開き、部屋に入ってくる。
「でぇい!」
 その瞬間だった。忍が懐から取り出した、お手玉くらいの大きさの、布の袋を床に叩きつける。ぼんっ! 途端に、何かが破裂するような音が響き、病室に黒い粉塵による幕が拡散。
「ごほっ、ごほっ、こ、これは……煙幕……!? 今時誰がこんなセコい手を……!」
 途端に病室にこだまする、蒼一達の担任の困惑の声。
(行って)
 それを見て、病室内で、シーツを切って作ったマスクをしていた忍が声を出さずに蒼一とアナに合図。蒼一とアナは頷き、困惑する教師の脇をすり抜け、病室の外の廊下に飛び出し、走り出す!
「待て!」
「どこへ行く君達!?」
 しかし次の瞬間、廊下に響く、二人の行く手を阻む新手の声。どうやら他の病室に詰めていたらしい。斑別高校の他の教師が飛び出し、二人に迫ったのだった。
 だがその刹那――ガチャンッ。
 どこかで、何かのレバーが降りたような音が鳴り、廊下が暗闇に包まれる。
「なんだ!? 停電!?」
《今。エレベーターは使わないで、階段を使って》
 途端、紫苑からの通信が、蒼一が耳につけているインカム越しに響いてくる。蒼一は無言で頷くと、そのまま一瞬蒼一達を見失った教師達の間をすり抜け、エレベーター脇にある階段を、一気に階下に向かって駆け下りる!
「い、今のは……!?」
 そんな中、驚いたように声をあげたのはアナ。
「シノブとシオンが助けてくれたのですか……!?」
「そうです」
 やや誇らしげに蒼一。
「忍は、煙玉を使った煙幕。紫苑は、ハッキングを駆使したセキュリティへの侵入が得意ですから。そのスキルを使って助けてもらいました」
「い、いや、それにしても……」
 それでも驚きが治まらない様子でアナ。
「あの煙幕の性能、手際も見事だったし……ハッキングも、この規模の病院のセキュリティへのハッキングは、そう簡単ではないのでは……!?」
「勿論です」
 即答する蒼一。
「けど忍は、滋賀県に実在する本物の忍者一家の末裔だし、紫苑は、ネット上で元々《魔法使い》って呼ばれていた有名な伝説的ハッカーでもあるんです。問題に問われるかもしれないんで、ふだんは使ってませんけど。入試の時とか、いざという時、密かに使って助けてもらったんです」
 蒼一にとって忍と紫苑は、普段は口うるさいだけの、たまたま受験で一緒に班を組む事になり、たまたま一緒に合格し、たまたま今も一緒に行動している、なんとなく、腐れ縁のような、そんな付き合いの存在だが……。同時に蒼一が今のところ学内で一番信頼しているのも、結局あの二人だった。
「さぁ、じゃあ、これを着て」
 そして階段を一階まで駆け下りた蒼一は、肩を貸していたアナから離れ、リュックから出した、一着の衣装と時計をアナに手渡す。
「自作の光学迷彩です。これも、普段の学校の授業では使わないし、結局ラーメン屋でもちゃんと使えなかったけど……あの後改良したので、多少動いても周囲の映像をリアルタイムで投影して、消えた状態をキープできるます。もちろん、多少危険性はあるし、信用できないようでしたら他の作戦考えますけど……」
 最後に蒼一は、ちょっと気弱な台詞を吐いてしまうが、
「これは……」
 アナはそんな蒼一の気弱な台詞などほとんど聞いていなかった。それどころか、光学迷彩を渡された瞬間、妙に感動したように、言葉を失っていた。
「……ありがとう蒼一。ありがたく借ります。でも信用できないようでしたら、なんて言わないで下さい。私が知る限り、今の日本で、この光学迷彩ほど高性能なものはありません」
 そして蒼一を励ますように、蒼一が予想もしていなかったような事を言う。
「え?」
「だって、私は貴方の事を知っているんです、蒼一。あなたが”あのラーメン屋の透明人間”だったんですね」
 そこまで言うと、アナは、紫苑から渡されていた連絡用のスマホを懐から取り出し、蒼一にある動画を見せる。
 そこにあったのは――顔にモザイクこそかかっているが、間違いなく、先日、蒼一がラーメン屋から光学迷彩を纏って脱出しようとしたが結局失敗した顛末を採っていた動画……。
「え、ええ!?」
 驚愕する蒼一。
「日本に来た時、ネットで偶然これを見たんです」
 そんな蒼一にあっさり言うアナ。蒼一は絶句する。確かにあの時、自分の失態をスマホで撮っている輩が沢山いたが……まさか普通にネットにアップされていたとは。アナは苦笑。
「この動画を見た時、私は心底驚きました。少なくとも私の組織では、このレベルの光学迷彩はまだ実装されていない。この動画では、なんだか笑い話として公開されてますが、それはあのラーメン屋……そしてこの斑別町がおかしいだけで、この光学迷彩は、プロの装備としても十分過ぎる性能なんです」
 さらにそう続け、
「だから私は、斑別町で任務に挑む前、できるだけあのラーメン屋から近い場所に潜伏する事を決めたのです。もしかしたら、これを作った人間が近くにいて、会えるかもしれないと思って……!
 結局あの日は追手に追われてるうちに半死半生となって、それは叶わなかったと思っていたんですが……そうですか。私は、結局、貴方に辿り着いていたんですね……!」
「そ、そうだったんですね……!?」
 衝撃を受ける蒼一。まさか、あの時の失態の動画がきっかけで、自分とアナが既に繋がっていたとは。世の中、何がどう転ぶか分からないものである。
「ま、まぁいいです。それじゃ。これは……その僕が作った、世界一目立たない諜報部員になる為の、超高性能光学迷彩です!」
 そして、蒼一はやけくそのように、自画自賛気味に自分の発言を訂正する。
「だから、絶対見つかりません。病院ででも、そのテロ組織の犯行現場ででも、好きなように使って、とっとと斑別町救って下さい。僕は一緒には行きませんよ。それまだ一着しかありませんし。僕は今この瞬間、まだ学生ですから」
 自信満々にどっちかといえば情けない事を言う蒼一。しかし仕方なかった。蒼一は理解していた。自分はまだまだアマチュア。一一歳から修羅場を潜ってきたアナと違い、本物の銃や本物の殺意が飛び交う”本物の現場”では何の役にも立たないどころか足手まといだろう。
 だから言う。
「僕が出来るのはここまでです。いつか……一緒に戦いたいですけど。今はサポートが限界です。でも……いつか絶対追いついてみせます。たとえ退学になっても。僕は一流の諜報員になってみせます」
 力強くアナに宣言する蒼一。
「だから待ってて下さい。それまで……その光学迷彩は預けておきますから」
「分かりました……!」
 アナは光学迷彩を握りしめると、蒼一の手を軽く握り、
「待ってます。あなたより一歩先の諜報員の世界で。でも出来るだけ早く来て下さいね。世界は今、貴方達のような人材を、かつてないほど必要としているのですから」
 そう囁くと、アナは蒼一から手を離し、蒼一から手渡された時計のリューズを操作。蒼一からも、もう見抜けないくらい周囲の景色に溶け込み透明になると、そのまま病院の階段を飛び出し、慌ただしく人が行き交う病院のロビーへ消えていく。
 どこか心残りのある表情でそれを見送るしかない蒼一。
 こうして蒼一にとって慌ただしかった一日は幕を閉じたのだった――!

                  ◆

 浅生蒼一は、かつて”少し異常なレベルで目立ちたく無い”生徒だった。実は今でもそれは変っていない。だがしかし、その行動に、少しだけ変化が見られていた。
「あ、あの……」
 蒼一が声をあげる。ここは、斑別町の、それなりに人気のラーメン店。
「僕、この”シビ辛二○○倍ラーメン”じゃなく、”昔ながらの中華そば”頼んだと思うんですけど……」
「!? 失礼しました! ただ今作り直します!」
 慌ただしく厨房内で動き始める店員達。それを見て蒼一はホッと安堵の溜息を漏らす。相変わらず三……いや、四回に一度ぐらいだが、こういう時蒼一は声を上げられるようになっていた。それでも普通の人よりは、やはり引っ込み思案と言わざるを得なかったが。
「ていうか、なんでそんなしょっちゅうオーダー飛ばされたり間違えられたりすんのよ!? 一人だけラーメン来んのも遅っそいし」
 そんな蒼一を見て、呆れたように怒っているのは、隣でとっくに到着していたシビ辛四○○倍ラーメンにんにくマシマシトッピングを食べていた笠原忍。
「しっかりしなさいよ。あれから本腰入れてプロの諜報員目指す事にしたんでしょ?」
「ほんとそれ」
 その隣。忍の奥に座り、やはり先に冷やし中華をすすっていた宮内紫苑も容赦なく言う。
「今回の件で正式に私達の班のリーダーになったんだから。もう少しカリスマ性とか存在感、出すべき時は出すべき」
「う、うるさいな……そんなもん、自分の意思で出し入れできたら苦労しないよ」
 げんなりした気分で応え、ようやくやってきた昔ながらの中華そばをずるずるすすりながら蒼一。
 しかし、そうなのである。一部で『国家反逆罪級』とすら呼ばれている勝手な行動をやらかし問題になった蒼一達だったが。終わってみれば、退学を免れたどころか、蒼一達の学内での立場は少し向上する結果になっていた。
 一番大きかったのは、あの日の深夜。学校側に引っ捕らえられた蒼一達三人が、尋問の為学校内に連行された際、思いがけない景色が広がっていたのが要因だった。
 そこには、学校側も存在を認知していなかった拘束された十数名のテロリストの身柄、テロリスト達がその夜引き起こそうとしていたテロ計画の全容が入ったUSBメモリ、そして今回の騒動を引き起こした事を詫びるアナ直筆の手紙。蒼一達に責任が無い事を説明する、長い長い文章が書かれていた。
 とはいえ、当然、その事態に学校側の議論は紛糾した。結果的に蒼一達の行動は一つのテロ計画を未然に防いだが、学校の判断を仰がなかった事は問題だし、日本国内で、日本政府が監督していない他国? の怪しげな諜報組織の活動を支援した事も相当問題視される要因となった。
 しかし結果として、それらの問題は蒼一達の進退に決定的な影響を及ぼさなかった。
 詳しい事情は蒼一達も知らない。アナが所属している”組織”と日本政府との間に何らかの密約が交わされたからだという説もあったし、自分達の街でのテロ計画を防げなかった斑別高校がこれ以上騒動が広がるのを恐れ大事にしなかったという説もあったし、アナからもたらされたUSBメモリに、今回の件以上に大きなテロ計画の情報があり、それを追うのに忙しく蒼一達どころではなくなったという説もあった。学内にはそんな、様々な噂が一人歩きしていた。
 ただ、一説には、アナ直筆の手紙の中に、蒼一達の能力……蒼一達が普段は隠していた、蒼一の技術力、忍の忍者としてのスキル、紫苑のハッカーとしてのスキル……の有用性が書かれていて、それを学校側が認め、結果として学校に残さざるを得なかった、という説もあり、今のところそれが一番真相に近いのでは? と言われていた。何故ならあの後、蒼一達は実際学校側に呼び出され、自分達に何か隠しているスキルは無いかと聴取され、その後、今後はそれらのスキルを積極的に使っていくように、と半ば叱られるような形で他の生徒の前でお墨付きを貰っていたからだ。
 というわけで、結局どれが決定打になったのか分からないままではあったが――蒼一達はなんとか首の皮一枚残して学校に残っていた。それどころか一応、今回の騒動で『現場』を経験した扱いになり、指揮を執ったという形で蒼一には一つ特殊単位が与えられ、新居も提供。学内で少しだけ注目される存在になってしまっていたのだった。

「ほんとは注目されたくないんだけどなぁ……」
 二人より少し遅れて来たラーメンを食べ終え、最後にコップに入った水を飲み干しながら、自分の置かれたそんな状況の事を思い返していた蒼一はぼんやりと呻く。
「けどなぁ……」
 ぼんやりと、空になったラーメン鉢を見下ろしながら蒼一。
「約束しちゃったからな……アナと」
 いつか自分の一流の諜報員になって、アナに預けた光学迷彩を受け取りに行く。
 次こそは、ただ見てるだけでなく、アナと一緒に現場に出れるような諜報員になる。
 その約束が、いつも後ろ向きだった蒼一の考え方を少しだけ前向きなものにしていた。
 まぁその結果、回り回って蒼一はこの後、”世界の危機”を巡る騒動に巻き込まれてしまう事になるのだが……それは、まだまだ、先の話。
 この時の蒼一は、自身の将来にそんなど派手な未来が待っている事など一ミリも想像していなかった。
 だから言う。
「よし行くか。将来一流の諜報員になる為に」
 飲み干したコップを机に置き、カウンターから立ち上がりながら蒼一。
 世界一目立たない諜報員を目指していた青年、浅生蒼一。
 彼の奮闘は、まだまだこれからも続いていく――。