猫と紙飛行機。


 わたしには中学一年生の頃、学校に行けなくなった時期がある。
 きっかけは些細なことで、けれどわたしにとってはとても大きなことで、学校という小さな社会が世界の全てだったわたしには、とても生きづらい日々だった。
 最初は何かと心配して気にかけてくれた家族や友達。けれどそのうわべだけの言葉たちに、「わたしの気持ちなんてわからないくせに」と、わたしは余計に心を閉ざした。
 放っておいて欲しいと、向けられた心配や親切を跳ねのけた。わたしのためだとわかっているから、それは罪悪感を伴う行為だったけれど。嬉しくないものを笑顔で受け取れるだけの余裕は、当時のわたしにはなかったのだ。
 そんなわたしの頑なな態度に、彼らはいつしかわたしとの交流を諦めて、わたしは彼らにとって『いてもいなくても変わらない存在』になった。
 それは望んだことだったはずなのに、一人部屋に閉じ籠るわたしは、とても孤独だった。
 そんな中、当時の担任だった三雲先生だけは、変わらずわたしを気にかけてくれた。
「ひさしぶりだな、葉月。元気だったか?」
「……元気に見えますか?」
「いいや、あんまり。だが、葉月基準ではまだましな日かもしれないしなぁ。それなのに俺がダメだと判断して過剰に心配したら、おまえの許容範囲が狭まって余計窮屈だろう」
「……」
 三雲先生はそんな風に笑いながら、度々家に会いに来ては、少しの時間何気ない話をしていく。わたしがどんな態度を取っても、わたしの登校を諦めないでいてくれたのだ。
「いやぁ、今テスト期間でな、採点が終わらない終わらない」
「忙しいなら、わたしなんかに構わなくてもいいのに……」
「なぁに、息抜きだ息抜き。先生だって学校ばっかりじゃ息が詰まるんだよ。それに、葉月の家にはかわいいにゃんこもいるしなぁ。ほら、アニマルセラピーってやつだ」
「……勝手に人の家を猫カフェ代わりにしないでくださいよ」
「ははっ」
 学校に行くことを正解として、しきりに勧めてきた両親とは違うその様子に、わたしはこんな適当な大人もいるのかと驚いた。
「そうだ、葉月もテスト受けてみるか? 問題用紙なら、コピーミスったから死ぬほどあるぞ。日々紙飛行機を量産してもまだ余る」
「いや、テスト用紙で紙飛行機を折らないでくださいよ……」
 いくら跳ねのけても、懲りずに声をかけてくる空気の読めないダメ大人の先生。
 最初は鬱陶しくて、学校を思い出すから嫌でたまらなかった。わざわざ訪ねてくるのも、どうせ先生の評価だとか、世間の目とか、そういうもののためなんだろうと思っていた。
 だけど話しているうちに、三雲先生の言動は大人として大丈夫なのか心配になることも多々あった。
 正解を押し付けてくるだけでなく、大人もわたしと同じようにミスもするし色々悩むこともあって、完璧でなくてもいいのだと、先生のお陰で知ることができた。
「テストだって、わたしは授業を受けてないから、やってもどうせ零点ですよ」
「ははっ、違いない。だが教室でテストに名前を書いたら、出席点として百点だぞ。それで紙飛行機を折れたらさらに十点プラスだ」
「紙飛行機は加点アイテムなんです……? というか、そんなことしたら、贔屓だってみんなに言われますよ」
「紙飛行機はロマンだろ。嫌なもんもみーんな遠くまで飛んでくんだから」
 先生にも嫌なものがあって、遠くに投げ飛ばしてしまいたいのだと思うと、逃げて引きこもっている自分を肯定されたような気持ちにもなる。
 けれど、先生は不意にわたしの机の上にあった自習ノートに手を伸ばすと、パラパラとページをめくる。そしてその紙を紙飛行機にすることなく、わたしの手にそっと握らせた。
「……俺が贔屓するだけで葉月が学校に来てみようって気になるなら、いくらでもしてやるけどな。おまえ、学校の全部が嫌って訳じゃないんだろ?」
「それは……。でも、そんなの……三雲先生まで悪く言われますよ。贔屓とかズルとか」
「はは、いいんだよ、言わせておけば。俺が悪者になれば、いっそ葉月は肩身の狭い思いをしなくて済むだろ」
「先生……」
 最初の頃はあんなにも嫌だったはずなのに、わたしはいつしか、三雲先生の訪問を待ち望むようになった。
 わたしの気持ちを尊重してくれる人がいる、一度逃げた場所で待ってくれている人がいる。三雲先生がいてくれるなら、きっと大丈夫。そう思えるようになった。
「……わたしも、みんなと同じところにいてもいいのかな。また、頑張ってみてもいいのかな」
 わたしが戻れるのを、諦めないでいてくれる人がいる。利用するためでなく、わたしのために働きかけてくれる人がいる。
 そのことに救われたわたしは、二年生の半ばになってから徐々に保健室に登校するようになって、最後は三雲先生に見送られ、無事卒業することが出来たのだ。