◇◇◇
春が嫌い。夢見が悪くて寝不足がちになるから。マスクの下であくびを噛み殺す。花粉症だからメイクも崩れるし。
地下鉄って嫌い。いつ乗っても外が暗いせいで、窓に自分の顔がはっきり写るから。近くを通ってる路線はこれだけだから、どこに行くにしても乗るしかないんだけど。
改札から地上に向かう階段も狭くて嫌い。向こうから人が来たら避けなきゃいけないから。そんなこと考えてたらタイミング悪く女の人が降りてきた。肩がぶつからないように、体を細くして横をすり抜ける。
すれ違いざまに横顔を盗み見る。だいたい私とタメくらいかな。眉毛ダサ。アホ毛すご。安っぽい靴。
相手は伏目がちに階段を降りていて、こちらのことなんて全く気にしていないようだった。キャップのつばをぐいっと引き下げて、無意識に強張らせていた表情を緩めた。
地上口に出ると四方八方から人の流れが入り乱れていた。
「すみません、お姉さん……」
壁際に立つ黒いシャツの男が、行き交う女の子に声をかけては連敗している。大人しそうな子はスルーしてるから、ナンパじゃなくてスカウトかな。声をかけられたら面倒だから俯いて歩く。目の前を通る時に一瞬目が合ったけど、男の目はすぐに逸らされた。清楚系に絞ってるのかな。ブリーチで箒みたいにパサパサの長い金髪の毛先をいじる。別にどうでもいいけど。
どうにかこうにか体を柔らかくして、人混みの合間を縫うように歩いた。
ブス、普通、ブス、悪くないけどデブ、元はいいけど垢抜けてない、ブス、変なメイク、服ダサい、ブス。
通りすがる他人に心の中でレッテルを貼る。自分よりも醜い人間を見つけてブスの烙印を押せば、押したぶんだけ気が楽になる気がした。
すれ違う人たちを目で追っていると、人影と人影の隙間のショーウィンドウに写った自分と目が合った。うん、今はもうブスじゃないから大丈夫。わずかに左右に顔を振って、いろんな角度からの写りを確かめる。
鏡で自分をチェックしているのを、背の高い女の人が冷たい目で見ながら通り去って行った。私はまた下を向いて早足になる。
大きな交差点の信号が青に変わると、人だかりが向こう岸へ一斉に流れ出す。渦のような流れに乗って向こう岸に渡って、その先の坂を登って、脇道にそれればだんだん人気が少なくなって。やっと歩くのが楽になった。
「ホントに道、これで合ってんの」
サークルの先輩が教えてくれたサイトを見ながら、半信半疑でナビの言うとおりに道を辿る。薄暗い通りは駅前とは雰囲気が違って、料亭や高級そうな住宅が並び、とてもじゃないが美容整形クリニックが突然現れるとは思えなかった。
『上手な先生だけど、開業したばっかりだからモニター価格で安くやってくれたの。紹介してあげよっか?』
もしかして騙されたのかな、私。星来さん顔は可愛いけど性格悪いからな。
ほとんど諦めかけながらも、地図にある所在地まで到着した。
「いや、あるんかい」
遠くから見ると古い一軒家のような佇まいだが、よく見ると郵便受けの上に「シルバーバイン美容クリニック」と表札がかかっている。さっきは疑ってごめん、星来さん。
「それにしてもボロすぎ……」
あったのはいいけど腕のいい医者がこんなところで開業するかな。不安を抱えたまま敷居を跨いだ。
波模様のガラスが嵌った古臭い引き戸をガラガラと開ける。中は案外病院らしいつくりだった。ただし壁も床もくすんだ色合いで、美容クリニックというよりは、近所のお爺ちゃん先生がやってる内科か小児科みたいな雰囲気だった。
「19時に予約の、岩永真桜です」
受付の女性は手元のパソコンを見て、それから私の顔を見た。美人だけど、狐みたいで嫌な感じ。
「岩永さん。お待ちしておりました」
案内されるまま診察室に入ると、デスクの前に医者らしき男が座っていた。カエルみたいな仏頂面のお爺ちゃんだ。この人に任せて本当に大丈夫なんだろうか。
「美容整形、は始めてですか」
カエルのお爺ちゃん先生は滑舌が悪いうえに独特のイントネーションで小さくボソボソ話した。美容整形も「びょ〜せいけい」と言ったように聞こえる。
「初めてじゃありません」
「すっかり可愛く、なりますから。安心して、くださいね」
まるで今はすっかり可愛くないみたいな言い方。不愉快だったけど、整形中毒星来さんのお墨付きなら大丈夫なはず。こういうタイプに限って手先は器用だったりするんだろう、きっと。
「はい、お疲れ様、でした」
軽く体を揺すられて、意識が覚醒する。
「こんな、感じです。いかがです」
目の前にずいっと差し出された鏡を覗くと、黒猫がいた。
目頭も目尻も鋭角で、満月みたいな黄色くてまんまるの大きな瞳がバッチリ。小さくてひくひくの鼻と口角の上がった口。全身がふわふわで真っ黒だ。
かわい〜。
「にゃ〜ん」
は?
可愛いって言おうとしてもにゃ〜んとしか音が出ない。見上げると遥か彼方の頭上に、化け物みたいにデカいカエルの藪医者がいる。下を向くと自分の両手が冷たい床についているのが見える。黒くて小さくてふわふわの手だ。
「おしまい、です。さぁ、帰っていいですよ」
カエルがぬーっと手を伸ばしてきて私の体を捕まえる。そのまま持ち上げられて玄関から外に出されてしまった。
「お大事に」
待って、何が起きたの?どういうこと?なんで猫になっちゃったの?問いかけは全てにゃんにゃんに変わり辺りに大きく響き渡る。扉に向かって鳴き続けると、迷惑そうな顔のカエルが半分だけ顔を出した。
「猫整形手術です、よかったですね可愛く、なって」
まただ。「びょ〜せいけい」。
医者は手元のパンフレットを私に突きつけ『猫整形』とある部分を指さした。『びょうせいけい』と振り仮名がふってある。愛猫とかのびょう?ダジャレかよ。ありえねー、バカかこいつ。私が頼んだのは鼻唇角形成術───俗に言う猫手術だ。ほうれい線を消すために貴族も同時にやるか迷って、結局猫だけにした。
だけど猫そのものにしてくれと頼んだ覚えはもちろんない。
ふざけんな、訴えてやる。つーかどういう技術だよこれ。
文句をつける前に扉はスパンと勢いよく閉まり、ガラス越しに見えていた院内の光が消えた。ぽつんと取り残された黒猫は、夜の闇とひとつになった。
猫じゃもちろん電車には乗れない。ここからなら一人暮らしのアパートよりも実家の方が近いから、仕方なく実家に向かう。
短い4本足では歩いても歩いても辿り着かない気がした。でも時間の感覚が変わったのか、体のつくりが変わったのか、案外なんとかなった。
今日の授業どうしよう、とか、どうやって元に戻ればいいの、とか思いながらなんとか実家につくころには朝日が昇っていた。
玄関は自力で開けられないから庭に侵入して、ベランダで丸くなる。日差しが暖かくて気持ちいい。
ガラリと音がしてリビングの大きな窓が開いた。
「あらぁ、可愛い猫ちゃんねぇ」
ママの間延びした声が聞こえる。
実家にはしばらく帰っていなかったから、顔を見るのは久しぶりだった。五十を過ぎてる割には若く見える。ぱっちりした目も小さな鼻も、自分の親とは思えない。今の方がこの人に似ている気さえする。
ママは私が逃げ出さないのをいいことに、ふわふわの毛に覆われた頭や背中を撫で回した。
「可愛いねぇ。どこから来たのかなぁ」
ママに可愛いなんて言われたのはいつぶりだろう。私の顔はもう真っ直ぐ見てくれないのに、猫にはそんなに優しいんだね。
こんなことになっちゃって、どうしよう、助けて、話したいことはたくさんあったけどどうせ伝わらないし。そもそもママはこの猫が自分の娘だと、この姿が美容整形の結果だと知ったら助けてくれるのかな。
考え事をしていたらなんだか眠くなってきた。ぬぁ〜んと大きな声を出してあくびをする。
ママは何が嬉しいのか目を細めて「そっかそっか、うふふ」と笑った。
そっかじゃないよ、何を分かったつもりなの。
だけどもう疲れが限界で、抗うこともできずに意識を手放した。
あれから何日経ったかも覚えていない。だけどあの日満開だった庭の桜がまだ散っていないということは、たいした期間ではないのだと思う。
私はすっかり猫としての暮らしに慣れていた。
たまに実家に行ってママからご飯をもらって、あとは昼寝したり散歩したり、水たまりに写る自分を眺めたり、その辺の草とじゃれついたり。とにかく自由だった。
大学の授業も、整形のために続けていたバイトも、上辺だけの友達付き合いも、もうなんにもしなくていい。
猫になってからもいうもの、道を歩けば通りすがる人たちはみんな私を見た。
人にじろじろ見られるのって好きじゃなかったはずなのに、今は視線を集めるのが気持ちいい。だってみんな突き刺すような目じゃなくて、優しくて興味津々って感じの様子でこっちの動きを見守ってくれる。
「かわいい」はもう聞き慣れたし、急に知らない人がおやつをくれたこともある。もう十分、これ以上に求めるものなんてない。
最初はとんでもない失敗をされたと思ってたけど、結果的にはかなり満足。ヤブ医者とか言ってごめん、と心の中でカエルに謝っておいた。
塀や屋根を伝って移動するようになってから分かったことだが、私の実家は結構大きい。猫になるまで他人の家の大きさなんて考えたこともなかった。
いつものルートで家に戻り、お隣さんの家の塀からベランダへジャンプ。だいたい夕方ごろにここに来れば、いつもママがごはんをくれる。今日は何かな、缶詰のやつがいいいな。
しっぽを揺らして待っていると、家の中からピアノの音が聞こえた。
私がピアノを習い始めたばっかりの頃に練習した、お風呂が沸いたときの曲だ。タイトルはたしか『人形の夢と目覚め』。どうしてママが弾いてるんだろう。
中の様子が気になって窓の前をうろうろしていると、気づいたママは演奏をやめてこっちに近づいてきた。
「あら、今日も来たの~」
窓を開け、猫なで声で私をかわいがる。伸びてきたママの手をするりと躱してリビングに滑り込み、ピアノを真下から見上げた。
「ピアノだよ、分かるかなぁ?」
椅子の上に飛び乗って鍵盤の白黒を見つめた。適当にひっぱたくとジャンジャンと不協和音が鳴り響く。
「そのちっちゃいおててじゃ弾けないよ~」
ママは隣に座って今度こそ私の頭を撫でた。
もう一回弾いてほしいのにいつまでも撫でてきてしつこい。こちらもしつこくジャンジャン音を鳴らしてアピールした。
「こうやるんだよ、ほら、こう」
またお風呂が沸く曲が流れた。しかも結構うまい。もっと続けてていいよ。ママの膝に体を預けて目を閉じた。
「ただいま。お、また弾いてるのか」
スーツ姿のパパが帰ってきた。パパは忙しい人で無口、と思っていたけど、実は愛妻家で愛猫家。これも猫になってから知ったことだ。
「おかえりなさい。だってもったいないじゃない、せっかくあなたが買ってくれたのに。茉央って本当に飽き性なんだから」
たしかに。ピアノも絵画もバレエもスケートも、全部すぐに辞めちゃった。
「まぁまぁ、いいじゃないか。茉央だってそのうちやりたい事を見つけるよ」
「そのうちって、あの子もあと二年で社会人よ。全然こっちに顔も出さないし、今頃どうしてるのやら」
「大学生なんてそんなもんだろ。心配ないって」
パパは励ますようにママの肩に手を置いた。2人は見つめ合って、生暖かい空気を漂わせている。
目の前で実の両親のイチャつきはキツい。音をたてないように抜け出し、網戸を前足でどかして外に脱出した。
私はなんだか懐かしくなって、小学生の頃に通っていたピアノ教室に足を運んだ。どうせ散歩くらいしかすることもないから。
天野ピアノ教室は、実家から自転車で行ける距離にあった。もっと近い所にも何軒かあったけど、ここの先生が有名だとかでママがここに決めてきた。
当時、一緒にレッスンを受けていた女の子が三人いて、それが美香ちゃんと有紗ちゃんと咲耶ちゃんだった。お互いに人見知りする私たちより先に、ママ同士の方が先に仲良くなっていた。
みんなと知り合って最初の秋、それぞれのママも呼んで私の家でハロウィンパーティーをしたことを思い出した。私のママは張り切って家を飾り付けていた。
「茉央ちゃんのドレス、すごいねー!」
有紗ちゃんがキンキンする大声で叫んだ。私は黒猫の耳がついたカチューシャを頭につけて、たくさんスパンコールがついたオーガンジーの黒いドレス、それからふわふわのしっぽをつけていた。ママと一緒に選んで買ってもらった衣装だったから、みんながすごいって言ってくれて嬉しかった。
「美香ちゃんも似合ってるよ」
長い紫のワンピースにとんがり帽子で魔女の格好をしていた美香ちゃんは、褒められると照れくさそうに頭を傾けた。静かで物知りで頭がいいから、ぴったりの仮装だと思った。そういえば美香ちゃん、院進考えてるって言ってたな。あの頃から優等生だったもん、さすが。
美香ちゃんは隣に座る有紗ちゃんを見てクスクス笑った。
「有紗ちゃんは面白いね」
有紗ちゃんは真っ黒な布から白塗りにした顔だけを出して有名なアニメのキャラクターに扮していた。お調子者の有紗ちゃんは、いつも冷静な美香ちゃんに面白いと言われて嬉しそうにひょこひょこ揺れて見せた。有紗ちゃんも今とあまり変わらない。この前「実はぁ~、新しい彼氏ができましたっ!」って報告してきて、嬉しそうにちょっと揺れてたし。
私の隣に座る咲耶ちゃんは、盛り上がるみんなを見てずっとニコニコしていた。
「咲耶ちゃんのは地味だねぇ」
咲耶ちゃんはオバケの顔がプリントされた白いポンチョを着ていた。地味、と私に指摘されて「えへへ」となぜか嬉しそうに笑っている。咲耶ちゃんだけ中学に上がるタイミングで疎遠になってしまったから、今はどうしてるのか知らない。とはいえ三人のなかで一番近所に住んでいたはずだし、会おうと思えばいつでも会えるだろうけど。
「こら、茉央!意地悪言わないの。ごめんね。咲耶ちゃんもかわいいよ」
キッチンで談笑していたママたちがいつのまにかリビングに来ていた。ママは咲耶ちゃんの丸くてサラサラの頭を撫でて、目がなくなるほど嬉しそうに笑った。
そう、咲耶ちゃんはたしか顔が可愛くて、みんなの中で一番ピアノが上手かった。それ以外はよく覚えてない。
記憶の咲耶ちゃんを脳内から追い出すように小さく頭を振って、意識を目の前に戻した。
ピアノ教室の玄関に控えめなサイズのポスターが貼られている。
『鷹羽咲耶 ピアノリサイタル』
写真は乗っていないが、咲耶ちゃんのことだろう。ピアニストになってたんだ。へぇ。
コンサートの当日、会場に来てみた。きっと猫は入れないだろうけど。
役所みたいな四角い建物はの入口には人だかりができていた。こんな大きいところでやるなんて、すごい人になっちゃったんだね。
隣の建物との隙間に忍び込んで、植え込みをガサガサ言わせながら会場の周りを散策する。入り口の真裏は日陰になっていて薄暗く、大きな室外機がゴウンゴウンと音を立ててうるさい。これじゃあ音漏れも期待できないな。
まぁ別に聴けると思って来たわけでもないし、昼寝でもするか、と寛ぎかけたところで耳が物音に反応した。
少し先にツヤツヤのパステルピンクのワンピースを着た女性の後ろ姿が見える。
「あっ、ねこちゃん。かわいいねぇ」
私を見つけたその人は数歩で目の前まで近づいてきて、しゃがみ込んで私の頭を撫でた。ノースリーブから伸びた腕は白くて細くてすべすべしている。
見上げた顔は逆光でよく見えないが、色素の薄いシルエットから後光が差しているような光景に、たぶん咲耶ちゃんだなと思った。
「咲耶!こんなところにいたんだ」
突然呼びかけられて咲耶ちゃんは私に背を向けた。
「あ、一彦くん。ちょっと外の空気が吸いたくなっちゃって」
後ろからやってきた男の人には見覚えがあった。ほっそりしているのに彫りが深い顔、キツい目つきを囲む銀縁のメガネ、狼みたいな雰囲気。一彦くんは、天野ピアノ教室の息子さんだ。
私たちより四つ年上のお兄さんで、教室で一番出来のいい生徒だった。グループレッスンにはいなかったけど時々お手本を聴かせてくれる機会があったし、教室に住んでいるんだから顔を合わせたことは何度もあった。
そういえば、この人のことは苦手だったかも。いつも目を吊り上げて怒っていて、怖かったから。
「顔色が悪いよ。緊張してる?いつも通りやれば、咲耶なら絶対大丈夫」
一彦くんは存外優しげな声色で励ましの言葉をかけた。
「そうかな」
「もっと力を抜いて、いつもみたいに笑ってみて」
「こ、こう?」
こちらからは見えないがきっと咲耶ちゃんは可愛い笑顔を見せているのだろう。
「そうそう、上手。大丈夫だよ」
一彦くんってそういう顔もできるようになったんだ。それとも昔から咲耶ちゃんの前ではそうだったのかな。
短い猫生で二度目、知り合いのイチャつきからの逃走。人間は猫がいてもお構いなしでイチャつくから、そのたびにお暇しなきゃいけない。猫って大変。
実家に着くころには夕方になっていた。ママはまたお風呂が沸きましたの曲を弾いている。
そんなにピアノが好きだったのかな。私もサヤちゃんみたいに上手に弾けたら、ママは今でも私を褒めてくれたのかな。
「また来たのね、さてはママの演奏が気に入ったんでしょう」
ママは得意げに窓を開けてくれた。今日は先に帰ってきてたらしいパパもいた。
「僕だって気に入ってるよ」
「そう?じゃあ今度はもっと難しいのを教わってこようかしら」
「あれ、独学じゃないの?」
「違うわよ。こないだ言ったじゃない。茉央が子供の時に習ってたとこの生徒さんが、プロになって先生してるの。覚えてない?咲耶ちゃん」
「あぁ、覚えてるよ。ママも娘さんもすっごい美人の」
「何?」
ちょっと口元の緩んだパパを、ママが睨みつける。
「いやいや君には劣るけどね、もちろん……」
「冗談よ」
すぐに和やかな雰囲気に戻った。私は心底びっくりした。ママはいまだに咲耶ちゃんに会ってるんだ。パパはほんのちょっとしか関わってないサヤちゃんを覚えてるんだ。
「今日、咲耶ちゃんのコンサートがあってね、招待されたから行ってきたけど、咲耶ちゃんママもいたのよ。なんか羨ましくなっちゃった。茉央も続けてればなぁ」
「無理につづけたって成果がでるとは限らないだろ」
「そうよね。あの子、不器用だし」
「僕としては、茉央が健康でいてくれればそれで充分だよ」
ピアノをすぐに辞めたことを最近は少し申し訳なく思ってたんだけど、どうやら全然期待されてなかったみたい。
「そりゃあ、病気ではないでしょうけど。最近の子にとっては普通なのかもしれないけど。ほら、あの子……ね?お嫁に行けるのかしら」
ママはきっと整形のことを言っている。私が綺麗になるたびに、ママはなんとも言えない表情で気まずそうにして、結局そのことには触れてこない。その空気が居た堪れなくて、あんまり実家に帰らなくなった。
「うーん、今の子の価値観はもう、僕らとは違うからね。それに結婚がすべてじゃないと思うけど」
「男には分かんないのよ。特技の一つでもあればさぁ」
「特技があると、どうなるんだよ」
「咲耶ちゃん、教室の息子さんと付き合ってるんだって。プロのピアニストのカップル。いいなぁ、ロマンチックじゃない。しかもイケメン。茉央も教室に残ってれば、どうなってたか分かんないよ」
ママが悪戯っぽく笑って、パパは苦笑。私は消えたくなった。
あぁやっぱり。もう付き合ってるんだ、あの二人。
今の私は人間の咲耶ちゃんよりずっと可愛いんだから、ピアノさえ弾ければ一彦くんは私のものになってもいいわけでしょ。咲耶ちゃんなんかちょっと元の顔が良いってだけで、地味で貧乏なんだから垢抜けてないに決まってる。
私は走り出していた。あのクリニックに戻って、鍵盤を自由に叩ける長い指を作ってもらおう。人を猫にできるくらいだから、できるでしょ。
「いいですけど変に、なりますよ。指と足だけ長い、猫なんて」
カエルの医者は顔を歪ませて渋った。
ていうか言葉通じんのかよ。それか整形の希望だけ聞き取れる都合のいい耳なのかもしれない。
「いいからやってください。私がそうしたいんです」
「はぁ。わかりました」
黒くてぽってりしていた前足の先は、人間のように細長い五本の指になっていた。なんだか変な感じ。そういえば肉球はどうなっちゃたんだろう。人間大の手のひらを返すと、元のサイズのままのピンクの凹凸が残っている。
「なんか変じゃないですか?」
「変……何が変だと、思うんですか」
手のひらの部分に肉球があって、そこから先の指の腹の部分は手の甲側と同じ黒い毛並みだ。変な感じがするのはこの肉球のせい、きっと。
「ここ、指の部分が余白になっちゃってますよね?肉球も指のところまで伸ばしてください」
「必要でしょうか」
「は?患者が希望してるんだからやってください。これじゃあおかしいです」
「はぁ、わかりました」
肉球は指先まで延長されて、人の手形そっくりに膨れていた。こっちのほうがずっといい。でもピンクの面積が広くなったせいでずいぶん手が大きく見える。顔と体に対してアンバランスな気がしてきた。
「あの、足も長くしてください。そもそもこれじゃ、ペダルに足が届かない」
「ペダル?自転車、にでも乗るんですか」
「ピアノ」
「ピアノを、弾きたいんですか?じゃあ最初から猫に、なんかならず、ピアノの練習をたくさん、すればよかったでしょうに」
コイツにお説教をされる筋合いはない。わざわざ余計な忠告をしてくる醜いカエルが忌々しい。苛つきを隠しもせずに舌打ちをした。
「あ、腕も必要か。腕も長く。元の長さにしてください」
腕も足も、人間だった頃と同じ長さになった。
「よかったらこれ着て、ください」と、カエルが目を逸らしながら病院の入院着を手渡してくる。人間の等身になったから、裸だと気まずいってこと?とんだすけべガエルだな。
仕方なく無機質な水色のワンピースを着た。袖から伸びる細長い腕は黒い毛に覆われてフワフワで、服を着た途端にムダ毛に見えて、咲耶ちゃんの二の腕を思い出した。
「あの、ここって脱毛もやってます?」
「やっては、いますけど」
「それも。全身でお願いします」
「正気ですか?」
全ての毛がなくなってすべすべになった。でもヒゲは残っている。感覚器官だから必要なんだって。黒猫の地肌ってこんな色だったんだ。
鏡を見る。咲耶ちゃんほどじゃないが綺麗な肌、指も腕も足もすらりとしている。うん、いい感じ。
「私が初日に着てきた服、ここにあるんじゃないですか?」
「えぇ、あります。ありますよ」
「返してください。それ着て帰るんで」
久しぶりに人間用の服を着た。パーカーとスウェットに厚底のスニーカー、しっくりくるなぁ。キャップを目深に被って、小顔に見えるように平たいままのマスクをつけようとしたけど、耳が頭の上にあるからどちらも上手くいかない。
「耳も顔の横に戻して」
「ぐふっ、へへへっ」
カエルは突然むせ返って笑い出した。
「何?」
「いいえなんでも、ありません。耳を顔の横にですね」
三角の耳はちょうど人間と同じ位置、顔の左右に移動した。これでキャップも被れるしマスクもつけられる。
髪なんかウィッグで後からどうにでもなるし、目元しか出ていなければ人間に見間違えるんじゃないかな。
鏡に映る黒猫の目は満月みたいに黄色くて瞳孔がまんまるで大きい。カラコンいらずで助かる。
「じゃあ帰ります」
「はいどうも、お大事に」
どういう原理か知らないけど、いつのまにか私はすっかり言葉を話せるようになっていた。これでまた咲耶ちゃんに近づいた。あのカエルは本当に腕がいいのかもしれない。
立ち上がってクリニックの玄関に向かう。久しぶりの視線の高さにちょっとフラついてしまって心配になったけど、廊下の先の扉に着く頃には感覚を取り戻して普通になった。順調じゃん。
この調子でピアノの感覚も思い出せれば、きっとすぐに咲耶ちゃんに追いつける。しかもただのピアニストじゃなくて、猫のピアニスト。きっと私の方が話題になる。売れる。
長い肉球の指を引き戸にかけて、ガラリと勢いよく開けた。外はすっかり夜になっていた。
薄暗い路地に踏み出す。向かいから歩いてくるサラリーマン風の男の人の足音に、つい視線を向けてしまった。
くたびれてでっぷり太ったタヌキみたいなおじさんだ。タイミング悪く彼もこちらを見て、しっかりと目が合ってしまった。
なんか気まずいし、夜道で男の人にジロジロ見られるのって怖い。服を着たせいで人間の感覚が戻りつつあるのかも。
無視して通り過ぎようとしたけれど、タヌキは立ち尽くしてこちらを見ている。変な気でも起こされていたらどうしよう。猫の力じゃ人間に敵わない。
「ひっ、ひっ、ひぃ……っ!」
タヌキは情けなくヒィヒィ言って突然腰を抜かした。どすりと尻もちをつき、青白い顔に脂汗を流して私を見上げる。
「ば、ば、バケモノ……!!」
「は?」
呆気に取られる私から目を逸らさず、タヌキは後退りして走って逃げた。
「はぁ……」
ため息が出る。
あぁいう貧乏そうな男って、整形女子に抵抗あるもんね。こっちが可愛いからって気後れしてるだけのくせに化け物とか親不孝とか、いちいちうるせーんだよ。
気を取り直してピアノ教室に向かう。まだ十九時だから、きっとレッスン中だろう。タクシーで行けば着く頃には先生も手が空いているはず。
天野ピアノ教室のインターフォンを押すと、返答は男の人の声だった。
「急にすみません、見学希望なんですけど」
「あぁ、ちょうど生徒さんを見送るところなので、ほんの少しだけ待ってもらえますか?」
「わかりました!」
声の主はたぶん、一彦くんだ。
今は先生をやってるのかな。咲耶ちゃんの付き添いをしてたのもそのせいかな。
今なら優しくピアノを教えてもらえるかもしれない。スウェットからはみ出した尻尾がご機嫌に揺れた。
玄関が開くと小さい子供が二人と一彦くんが出てきた。「ありがとうございました」「はい、また来週ね」和やかに別れの挨拶を交わしている。
お仕事の邪魔をしちゃいけないから、門の壁に背をもたれてやり過ごす。子供達が走り去っていくのを俯いてやり過ごした。
「お待たせしました」
声をかけられて、門からひょこりと一彦くんの目の前に飛び出す。それからぺこりと一礼をした。
「岩永真桜です。昔ここでお世話になってたんですけど。あ、母も最近来ているみたいなんですけど。私もまた通いたくて……」
「…………」
返事がなくて、玄関の方を見上げる。一彦くんは固まっていた。目が合ってもうんともすんとも言わない。
「あの……?」
みるみるうちに一彦くんは表情を歪めて、肩で息をした。あんなに変な顔をしても、イケメンはイケメンなんだなと呑気なことを考えてしまう。
「お引き取りください」
「え」
声を震わせてそれだけ言うと、一彦くんは素早く扉を閉め、ガチャンガチャンガチっと鍵とドアロックまでかけられた音がする。それからドタバタと走り去る大きな足音が聞こえてきた。
ぽつんと家の前に立ち尽くす。
きっと、名前を名乗ってしまったせいだ。そうだ、忘れていた。私はここを辞めるとき、レッスンをサボったのを先生に怒られて、癇癪を起こして辞めたんだった。十年以上も前のことだけど、きっと辞め方が悪かったから覚えられていたんだ。
違う、本当は分かっている。今のは私の見た目を気味悪がる人の目だ。慣れっこだから大丈夫、自分が自分を好きでいれば大丈夫。人に褒められるためにこの姿になったわけじゃないから。気にしない。気にしない。
心臓がバクバクと跳ねる。ゆっくり後ずさって、上がる心拍数を誤魔化すように駆け出した。ピアノ教室から逃げるように。
ピアノじゃなくても、バレエでも絵画でもスケートでも何でもいい。頑張ってみればよかった。人間でいればよかった。人間に戻りたい。
人目に付くのが怖くて、なるべく暗い道を選んで走った。真っ暗なうえに、ずっと涙があふれてきて、何も見えない。
もうこの姿じゃ家に上げてもらえるかも分からない。ママは整形が嫌いだから、気持ち悪いって追い出されるかも。
パパはママの味方だからきっと何も言わない。
でもできたら謝りたい。咲耶ちゃんみたいになれなくてごめんねって。これからはなにか、まだ決まってないけど、大学とか就活とか真面目にやって、誰かに愛されるように頑張って、二人を安心させるから。
早く二人に会いたかった。焦る気持ちを原動力に、とにかく早く、獣の速さで坂を駆け降りた。
飛び出した道は広くて明るい。右から走ってきたトラックのヘッドライトがすぐそこにあったからだ。終わった。諦めて宙に浮いた体から力を抜く。
生ぬるい風に桜が舞った。
「岩永さん、お疲れ様でした」
名前を呼ばれて気がつくと、見覚えのある天井だった。
差し出された鏡に写る自分の姿を確認する。あぁそうだ、切開した目頭を蒙古襞形成でちょっと元に戻そうとして、ここに来たんだった。
こんなに長くて縁起の悪い夢を見るなんて本当に、なんだかどっと疲れちゃった。
ほんのちょっと丸みを帯びた目頭に、ほっと息をつく。
「それじゃあ、お世話になりました」
「はい、お大事に」
病院を出て、右足と左足でゆっくり交互に地面を踏む。普通に歩ける。早歩きも全然平気。
一五八センチからの視界も、ストーンがたくさんついたネイルも、帽子もマスクも何にも違和感がない。
正真正銘、人間の私だ。本当に全部夢だったんだ。スキップしそう。
私は、美容整形は悪くない選択だと思う。否定的な意見もまだまだたくさんあるけど、可愛くなろうっていう気持ちでやってるんだからこれも立派な努力のうち。
でもあんな夢を見てしまったせいか、新しい気持ちも芽生えていた。見た目意外の努力もしてみてもいいかもって。
頑張ってみて上手くいかなくても、きっと頑張ったことに意味や価値があるんだろう。
だってせっかく、人間に戻れたんだもん。どうせなら、努力をしてみたい。
なんでもよかったけど、やっぱりピアノかな。ピアノの夢がきっかけで、そういうふうに思えたんだし。
私はちゃんと人間で、咲耶ちゃんと一彦くんがピアノ教室で先生をやってるのも、ただの夢。だから今度は大丈夫。気を取り直して天野ピアノ教室に向かう。今度は昔みたいに投げ出したりしない。
教室に続く坂を上っていると、向こうから女の人が歩いてきた。
「あれっ、茉央ちゃん!?久しぶり!」
「あ、……咲耶ちゃん」
現実の咲耶ちゃんだった。
夢の中では顔が見られなかったから、直視するのは数年ぶりだ。
十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人。
お客さんからよく聞くことわざだ。子どもの頃がすごくても、大人になるにつれてだいたい人並みになるって意味らしい。だから咲耶ちゃんも、今頃ただの人になってると思ってた。
咲耶ちゃんは、天使から女神になっていた。
髪も肌も透けるくらい色素が薄くて、大きな目は長いまつ毛に縁取られている。細くて形のいい鼻のすぐ近くに横長い半月型の口があって、桃色の唇から白くて綺麗な歯並びが少しだけ見えている。
誰だってそんな顔に生まれたらいつでも幸せそうに笑っていられると思う。
あぁ思い出した。この顔は、忘れようとして忘れてたんだった。
私は咲耶ちゃんが大嫌い。目が合うと馬鹿にされてる気分になるから。
「小学校の卒業式以来かな」
「そうかも。じゃあ、六年ぶりだ」
女神様は完璧な笑顔を私に向ける。六年前の姿と今の姿、どっちが本性なのか見定めるように。咲耶ちゃんは女神様に出世したけど、私はどうだろう。この人の目にはどう写るんだろう。冷や汗がこめかみを伝う。
「あの頃から茉央ちゃん、全然変わらなくて安心した」
何も言えなかった。良くて綺麗になった、悪くても雰囲気変わったねくらいは言ってくれると思ってた。私が時間とお金をかけて作ってきたこの顔は、咲耶ちゃんにとって些細なことなんだ。
唇を噛み締めて下を向くと、彼女の靴が目に入った。白いぺたんこの靴には傷ひとつなくて、ピンク色の柔らかそうなワンピースは膨らんだお腹を優しく覆っていた。
斜めにかけたポシェットにはマタニティマークがぶら下がっている。
「昔も二人でよくここを歩いたよね。懐かしいなぁ」
咲耶ちゃんは陶器みたいな白くて細長い左手で口元を隠してくすくす笑った。薬指には銀色のピカピカの指輪が嵌っていて、大粒のダイヤモンドたちが咲耶ちゃんを祝福するように光っている。
「咲耶ちゃんも、変わらないね」
昔からそう、嬉しいことがあるとこうやって控えめに笑う。咲耶ちゃんにとって私は今も昔も変わらない醜い化け物のまま。
それが嬉しいことなんだ。違うか。この子はきっとそんなに邪悪じゃない。私と違って。
あなたも私も、あの頃のまま。
「じゃあ、私こっちだから。ばいばい、咲耶ちゃん」
「うん、またね!」
花が開くようにふわりと微笑んで、ひらひらと手を振って背を向けた。
私はあの春の日を思い出す。咲耶ちゃんを見てると無性に気分が悪くなる。咲耶ちゃんが私を悪者にする。
私の横を通り過ぎて、ゆっくりと坂を下りる彼女に両腕を伸ばす。
指先が背中に届くまであと数センチの隙間を、桜をのせて春風が吹き抜けた。
さよなら咲耶ちゃん、私も幸せになるね。
春が嫌い。夢見が悪くて寝不足がちになるから。マスクの下であくびを噛み殺す。花粉症だからメイクも崩れるし。
地下鉄って嫌い。いつ乗っても外が暗いせいで、窓に自分の顔がはっきり写るから。近くを通ってる路線はこれだけだから、どこに行くにしても乗るしかないんだけど。
改札から地上に向かう階段も狭くて嫌い。向こうから人が来たら避けなきゃいけないから。そんなこと考えてたらタイミング悪く女の人が降りてきた。肩がぶつからないように、体を細くして横をすり抜ける。
すれ違いざまに横顔を盗み見る。だいたい私とタメくらいかな。眉毛ダサ。アホ毛すご。安っぽい靴。
相手は伏目がちに階段を降りていて、こちらのことなんて全く気にしていないようだった。キャップのつばをぐいっと引き下げて、無意識に強張らせていた表情を緩めた。
地上口に出ると四方八方から人の流れが入り乱れていた。
「すみません、お姉さん……」
壁際に立つ黒いシャツの男が、行き交う女の子に声をかけては連敗している。大人しそうな子はスルーしてるから、ナンパじゃなくてスカウトかな。声をかけられたら面倒だから俯いて歩く。目の前を通る時に一瞬目が合ったけど、男の目はすぐに逸らされた。清楚系に絞ってるのかな。ブリーチで箒みたいにパサパサの長い金髪の毛先をいじる。別にどうでもいいけど。
どうにかこうにか体を柔らかくして、人混みの合間を縫うように歩いた。
ブス、普通、ブス、悪くないけどデブ、元はいいけど垢抜けてない、ブス、変なメイク、服ダサい、ブス。
通りすがる他人に心の中でレッテルを貼る。自分よりも醜い人間を見つけてブスの烙印を押せば、押したぶんだけ気が楽になる気がした。
すれ違う人たちを目で追っていると、人影と人影の隙間のショーウィンドウに写った自分と目が合った。うん、今はもうブスじゃないから大丈夫。わずかに左右に顔を振って、いろんな角度からの写りを確かめる。
鏡で自分をチェックしているのを、背の高い女の人が冷たい目で見ながら通り去って行った。私はまた下を向いて早足になる。
大きな交差点の信号が青に変わると、人だかりが向こう岸へ一斉に流れ出す。渦のような流れに乗って向こう岸に渡って、その先の坂を登って、脇道にそれればだんだん人気が少なくなって。やっと歩くのが楽になった。
「ホントに道、これで合ってんの」
サークルの先輩が教えてくれたサイトを見ながら、半信半疑でナビの言うとおりに道を辿る。薄暗い通りは駅前とは雰囲気が違って、料亭や高級そうな住宅が並び、とてもじゃないが美容整形クリニックが突然現れるとは思えなかった。
『上手な先生だけど、開業したばっかりだからモニター価格で安くやってくれたの。紹介してあげよっか?』
もしかして騙されたのかな、私。星来さん顔は可愛いけど性格悪いからな。
ほとんど諦めかけながらも、地図にある所在地まで到着した。
「いや、あるんかい」
遠くから見ると古い一軒家のような佇まいだが、よく見ると郵便受けの上に「シルバーバイン美容クリニック」と表札がかかっている。さっきは疑ってごめん、星来さん。
「それにしてもボロすぎ……」
あったのはいいけど腕のいい医者がこんなところで開業するかな。不安を抱えたまま敷居を跨いだ。
波模様のガラスが嵌った古臭い引き戸をガラガラと開ける。中は案外病院らしいつくりだった。ただし壁も床もくすんだ色合いで、美容クリニックというよりは、近所のお爺ちゃん先生がやってる内科か小児科みたいな雰囲気だった。
「19時に予約の、岩永真桜です」
受付の女性は手元のパソコンを見て、それから私の顔を見た。美人だけど、狐みたいで嫌な感じ。
「岩永さん。お待ちしておりました」
案内されるまま診察室に入ると、デスクの前に医者らしき男が座っていた。カエルみたいな仏頂面のお爺ちゃんだ。この人に任せて本当に大丈夫なんだろうか。
「美容整形、は始めてですか」
カエルのお爺ちゃん先生は滑舌が悪いうえに独特のイントネーションで小さくボソボソ話した。美容整形も「びょ〜せいけい」と言ったように聞こえる。
「初めてじゃありません」
「すっかり可愛く、なりますから。安心して、くださいね」
まるで今はすっかり可愛くないみたいな言い方。不愉快だったけど、整形中毒星来さんのお墨付きなら大丈夫なはず。こういうタイプに限って手先は器用だったりするんだろう、きっと。
「はい、お疲れ様、でした」
軽く体を揺すられて、意識が覚醒する。
「こんな、感じです。いかがです」
目の前にずいっと差し出された鏡を覗くと、黒猫がいた。
目頭も目尻も鋭角で、満月みたいな黄色くてまんまるの大きな瞳がバッチリ。小さくてひくひくの鼻と口角の上がった口。全身がふわふわで真っ黒だ。
かわい〜。
「にゃ〜ん」
は?
可愛いって言おうとしてもにゃ〜んとしか音が出ない。見上げると遥か彼方の頭上に、化け物みたいにデカいカエルの藪医者がいる。下を向くと自分の両手が冷たい床についているのが見える。黒くて小さくてふわふわの手だ。
「おしまい、です。さぁ、帰っていいですよ」
カエルがぬーっと手を伸ばしてきて私の体を捕まえる。そのまま持ち上げられて玄関から外に出されてしまった。
「お大事に」
待って、何が起きたの?どういうこと?なんで猫になっちゃったの?問いかけは全てにゃんにゃんに変わり辺りに大きく響き渡る。扉に向かって鳴き続けると、迷惑そうな顔のカエルが半分だけ顔を出した。
「猫整形手術です、よかったですね可愛く、なって」
まただ。「びょ〜せいけい」。
医者は手元のパンフレットを私に突きつけ『猫整形』とある部分を指さした。『びょうせいけい』と振り仮名がふってある。愛猫とかのびょう?ダジャレかよ。ありえねー、バカかこいつ。私が頼んだのは鼻唇角形成術───俗に言う猫手術だ。ほうれい線を消すために貴族も同時にやるか迷って、結局猫だけにした。
だけど猫そのものにしてくれと頼んだ覚えはもちろんない。
ふざけんな、訴えてやる。つーかどういう技術だよこれ。
文句をつける前に扉はスパンと勢いよく閉まり、ガラス越しに見えていた院内の光が消えた。ぽつんと取り残された黒猫は、夜の闇とひとつになった。
猫じゃもちろん電車には乗れない。ここからなら一人暮らしのアパートよりも実家の方が近いから、仕方なく実家に向かう。
短い4本足では歩いても歩いても辿り着かない気がした。でも時間の感覚が変わったのか、体のつくりが変わったのか、案外なんとかなった。
今日の授業どうしよう、とか、どうやって元に戻ればいいの、とか思いながらなんとか実家につくころには朝日が昇っていた。
玄関は自力で開けられないから庭に侵入して、ベランダで丸くなる。日差しが暖かくて気持ちいい。
ガラリと音がしてリビングの大きな窓が開いた。
「あらぁ、可愛い猫ちゃんねぇ」
ママの間延びした声が聞こえる。
実家にはしばらく帰っていなかったから、顔を見るのは久しぶりだった。五十を過ぎてる割には若く見える。ぱっちりした目も小さな鼻も、自分の親とは思えない。今の方がこの人に似ている気さえする。
ママは私が逃げ出さないのをいいことに、ふわふわの毛に覆われた頭や背中を撫で回した。
「可愛いねぇ。どこから来たのかなぁ」
ママに可愛いなんて言われたのはいつぶりだろう。私の顔はもう真っ直ぐ見てくれないのに、猫にはそんなに優しいんだね。
こんなことになっちゃって、どうしよう、助けて、話したいことはたくさんあったけどどうせ伝わらないし。そもそもママはこの猫が自分の娘だと、この姿が美容整形の結果だと知ったら助けてくれるのかな。
考え事をしていたらなんだか眠くなってきた。ぬぁ〜んと大きな声を出してあくびをする。
ママは何が嬉しいのか目を細めて「そっかそっか、うふふ」と笑った。
そっかじゃないよ、何を分かったつもりなの。
だけどもう疲れが限界で、抗うこともできずに意識を手放した。
あれから何日経ったかも覚えていない。だけどあの日満開だった庭の桜がまだ散っていないということは、たいした期間ではないのだと思う。
私はすっかり猫としての暮らしに慣れていた。
たまに実家に行ってママからご飯をもらって、あとは昼寝したり散歩したり、水たまりに写る自分を眺めたり、その辺の草とじゃれついたり。とにかく自由だった。
大学の授業も、整形のために続けていたバイトも、上辺だけの友達付き合いも、もうなんにもしなくていい。
猫になってからもいうもの、道を歩けば通りすがる人たちはみんな私を見た。
人にじろじろ見られるのって好きじゃなかったはずなのに、今は視線を集めるのが気持ちいい。だってみんな突き刺すような目じゃなくて、優しくて興味津々って感じの様子でこっちの動きを見守ってくれる。
「かわいい」はもう聞き慣れたし、急に知らない人がおやつをくれたこともある。もう十分、これ以上に求めるものなんてない。
最初はとんでもない失敗をされたと思ってたけど、結果的にはかなり満足。ヤブ医者とか言ってごめん、と心の中でカエルに謝っておいた。
塀や屋根を伝って移動するようになってから分かったことだが、私の実家は結構大きい。猫になるまで他人の家の大きさなんて考えたこともなかった。
いつものルートで家に戻り、お隣さんの家の塀からベランダへジャンプ。だいたい夕方ごろにここに来れば、いつもママがごはんをくれる。今日は何かな、缶詰のやつがいいいな。
しっぽを揺らして待っていると、家の中からピアノの音が聞こえた。
私がピアノを習い始めたばっかりの頃に練習した、お風呂が沸いたときの曲だ。タイトルはたしか『人形の夢と目覚め』。どうしてママが弾いてるんだろう。
中の様子が気になって窓の前をうろうろしていると、気づいたママは演奏をやめてこっちに近づいてきた。
「あら、今日も来たの~」
窓を開け、猫なで声で私をかわいがる。伸びてきたママの手をするりと躱してリビングに滑り込み、ピアノを真下から見上げた。
「ピアノだよ、分かるかなぁ?」
椅子の上に飛び乗って鍵盤の白黒を見つめた。適当にひっぱたくとジャンジャンと不協和音が鳴り響く。
「そのちっちゃいおててじゃ弾けないよ~」
ママは隣に座って今度こそ私の頭を撫でた。
もう一回弾いてほしいのにいつまでも撫でてきてしつこい。こちらもしつこくジャンジャン音を鳴らしてアピールした。
「こうやるんだよ、ほら、こう」
またお風呂が沸く曲が流れた。しかも結構うまい。もっと続けてていいよ。ママの膝に体を預けて目を閉じた。
「ただいま。お、また弾いてるのか」
スーツ姿のパパが帰ってきた。パパは忙しい人で無口、と思っていたけど、実は愛妻家で愛猫家。これも猫になってから知ったことだ。
「おかえりなさい。だってもったいないじゃない、せっかくあなたが買ってくれたのに。茉央って本当に飽き性なんだから」
たしかに。ピアノも絵画もバレエもスケートも、全部すぐに辞めちゃった。
「まぁまぁ、いいじゃないか。茉央だってそのうちやりたい事を見つけるよ」
「そのうちって、あの子もあと二年で社会人よ。全然こっちに顔も出さないし、今頃どうしてるのやら」
「大学生なんてそんなもんだろ。心配ないって」
パパは励ますようにママの肩に手を置いた。2人は見つめ合って、生暖かい空気を漂わせている。
目の前で実の両親のイチャつきはキツい。音をたてないように抜け出し、網戸を前足でどかして外に脱出した。
私はなんだか懐かしくなって、小学生の頃に通っていたピアノ教室に足を運んだ。どうせ散歩くらいしかすることもないから。
天野ピアノ教室は、実家から自転車で行ける距離にあった。もっと近い所にも何軒かあったけど、ここの先生が有名だとかでママがここに決めてきた。
当時、一緒にレッスンを受けていた女の子が三人いて、それが美香ちゃんと有紗ちゃんと咲耶ちゃんだった。お互いに人見知りする私たちより先に、ママ同士の方が先に仲良くなっていた。
みんなと知り合って最初の秋、それぞれのママも呼んで私の家でハロウィンパーティーをしたことを思い出した。私のママは張り切って家を飾り付けていた。
「茉央ちゃんのドレス、すごいねー!」
有紗ちゃんがキンキンする大声で叫んだ。私は黒猫の耳がついたカチューシャを頭につけて、たくさんスパンコールがついたオーガンジーの黒いドレス、それからふわふわのしっぽをつけていた。ママと一緒に選んで買ってもらった衣装だったから、みんながすごいって言ってくれて嬉しかった。
「美香ちゃんも似合ってるよ」
長い紫のワンピースにとんがり帽子で魔女の格好をしていた美香ちゃんは、褒められると照れくさそうに頭を傾けた。静かで物知りで頭がいいから、ぴったりの仮装だと思った。そういえば美香ちゃん、院進考えてるって言ってたな。あの頃から優等生だったもん、さすが。
美香ちゃんは隣に座る有紗ちゃんを見てクスクス笑った。
「有紗ちゃんは面白いね」
有紗ちゃんは真っ黒な布から白塗りにした顔だけを出して有名なアニメのキャラクターに扮していた。お調子者の有紗ちゃんは、いつも冷静な美香ちゃんに面白いと言われて嬉しそうにひょこひょこ揺れて見せた。有紗ちゃんも今とあまり変わらない。この前「実はぁ~、新しい彼氏ができましたっ!」って報告してきて、嬉しそうにちょっと揺れてたし。
私の隣に座る咲耶ちゃんは、盛り上がるみんなを見てずっとニコニコしていた。
「咲耶ちゃんのは地味だねぇ」
咲耶ちゃんはオバケの顔がプリントされた白いポンチョを着ていた。地味、と私に指摘されて「えへへ」となぜか嬉しそうに笑っている。咲耶ちゃんだけ中学に上がるタイミングで疎遠になってしまったから、今はどうしてるのか知らない。とはいえ三人のなかで一番近所に住んでいたはずだし、会おうと思えばいつでも会えるだろうけど。
「こら、茉央!意地悪言わないの。ごめんね。咲耶ちゃんもかわいいよ」
キッチンで談笑していたママたちがいつのまにかリビングに来ていた。ママは咲耶ちゃんの丸くてサラサラの頭を撫でて、目がなくなるほど嬉しそうに笑った。
そう、咲耶ちゃんはたしか顔が可愛くて、みんなの中で一番ピアノが上手かった。それ以外はよく覚えてない。
記憶の咲耶ちゃんを脳内から追い出すように小さく頭を振って、意識を目の前に戻した。
ピアノ教室の玄関に控えめなサイズのポスターが貼られている。
『鷹羽咲耶 ピアノリサイタル』
写真は乗っていないが、咲耶ちゃんのことだろう。ピアニストになってたんだ。へぇ。
コンサートの当日、会場に来てみた。きっと猫は入れないだろうけど。
役所みたいな四角い建物はの入口には人だかりができていた。こんな大きいところでやるなんて、すごい人になっちゃったんだね。
隣の建物との隙間に忍び込んで、植え込みをガサガサ言わせながら会場の周りを散策する。入り口の真裏は日陰になっていて薄暗く、大きな室外機がゴウンゴウンと音を立ててうるさい。これじゃあ音漏れも期待できないな。
まぁ別に聴けると思って来たわけでもないし、昼寝でもするか、と寛ぎかけたところで耳が物音に反応した。
少し先にツヤツヤのパステルピンクのワンピースを着た女性の後ろ姿が見える。
「あっ、ねこちゃん。かわいいねぇ」
私を見つけたその人は数歩で目の前まで近づいてきて、しゃがみ込んで私の頭を撫でた。ノースリーブから伸びた腕は白くて細くてすべすべしている。
見上げた顔は逆光でよく見えないが、色素の薄いシルエットから後光が差しているような光景に、たぶん咲耶ちゃんだなと思った。
「咲耶!こんなところにいたんだ」
突然呼びかけられて咲耶ちゃんは私に背を向けた。
「あ、一彦くん。ちょっと外の空気が吸いたくなっちゃって」
後ろからやってきた男の人には見覚えがあった。ほっそりしているのに彫りが深い顔、キツい目つきを囲む銀縁のメガネ、狼みたいな雰囲気。一彦くんは、天野ピアノ教室の息子さんだ。
私たちより四つ年上のお兄さんで、教室で一番出来のいい生徒だった。グループレッスンにはいなかったけど時々お手本を聴かせてくれる機会があったし、教室に住んでいるんだから顔を合わせたことは何度もあった。
そういえば、この人のことは苦手だったかも。いつも目を吊り上げて怒っていて、怖かったから。
「顔色が悪いよ。緊張してる?いつも通りやれば、咲耶なら絶対大丈夫」
一彦くんは存外優しげな声色で励ましの言葉をかけた。
「そうかな」
「もっと力を抜いて、いつもみたいに笑ってみて」
「こ、こう?」
こちらからは見えないがきっと咲耶ちゃんは可愛い笑顔を見せているのだろう。
「そうそう、上手。大丈夫だよ」
一彦くんってそういう顔もできるようになったんだ。それとも昔から咲耶ちゃんの前ではそうだったのかな。
短い猫生で二度目、知り合いのイチャつきからの逃走。人間は猫がいてもお構いなしでイチャつくから、そのたびにお暇しなきゃいけない。猫って大変。
実家に着くころには夕方になっていた。ママはまたお風呂が沸きましたの曲を弾いている。
そんなにピアノが好きだったのかな。私もサヤちゃんみたいに上手に弾けたら、ママは今でも私を褒めてくれたのかな。
「また来たのね、さてはママの演奏が気に入ったんでしょう」
ママは得意げに窓を開けてくれた。今日は先に帰ってきてたらしいパパもいた。
「僕だって気に入ってるよ」
「そう?じゃあ今度はもっと難しいのを教わってこようかしら」
「あれ、独学じゃないの?」
「違うわよ。こないだ言ったじゃない。茉央が子供の時に習ってたとこの生徒さんが、プロになって先生してるの。覚えてない?咲耶ちゃん」
「あぁ、覚えてるよ。ママも娘さんもすっごい美人の」
「何?」
ちょっと口元の緩んだパパを、ママが睨みつける。
「いやいや君には劣るけどね、もちろん……」
「冗談よ」
すぐに和やかな雰囲気に戻った。私は心底びっくりした。ママはいまだに咲耶ちゃんに会ってるんだ。パパはほんのちょっとしか関わってないサヤちゃんを覚えてるんだ。
「今日、咲耶ちゃんのコンサートがあってね、招待されたから行ってきたけど、咲耶ちゃんママもいたのよ。なんか羨ましくなっちゃった。茉央も続けてればなぁ」
「無理につづけたって成果がでるとは限らないだろ」
「そうよね。あの子、不器用だし」
「僕としては、茉央が健康でいてくれればそれで充分だよ」
ピアノをすぐに辞めたことを最近は少し申し訳なく思ってたんだけど、どうやら全然期待されてなかったみたい。
「そりゃあ、病気ではないでしょうけど。最近の子にとっては普通なのかもしれないけど。ほら、あの子……ね?お嫁に行けるのかしら」
ママはきっと整形のことを言っている。私が綺麗になるたびに、ママはなんとも言えない表情で気まずそうにして、結局そのことには触れてこない。その空気が居た堪れなくて、あんまり実家に帰らなくなった。
「うーん、今の子の価値観はもう、僕らとは違うからね。それに結婚がすべてじゃないと思うけど」
「男には分かんないのよ。特技の一つでもあればさぁ」
「特技があると、どうなるんだよ」
「咲耶ちゃん、教室の息子さんと付き合ってるんだって。プロのピアニストのカップル。いいなぁ、ロマンチックじゃない。しかもイケメン。茉央も教室に残ってれば、どうなってたか分かんないよ」
ママが悪戯っぽく笑って、パパは苦笑。私は消えたくなった。
あぁやっぱり。もう付き合ってるんだ、あの二人。
今の私は人間の咲耶ちゃんよりずっと可愛いんだから、ピアノさえ弾ければ一彦くんは私のものになってもいいわけでしょ。咲耶ちゃんなんかちょっと元の顔が良いってだけで、地味で貧乏なんだから垢抜けてないに決まってる。
私は走り出していた。あのクリニックに戻って、鍵盤を自由に叩ける長い指を作ってもらおう。人を猫にできるくらいだから、できるでしょ。
「いいですけど変に、なりますよ。指と足だけ長い、猫なんて」
カエルの医者は顔を歪ませて渋った。
ていうか言葉通じんのかよ。それか整形の希望だけ聞き取れる都合のいい耳なのかもしれない。
「いいからやってください。私がそうしたいんです」
「はぁ。わかりました」
黒くてぽってりしていた前足の先は、人間のように細長い五本の指になっていた。なんだか変な感じ。そういえば肉球はどうなっちゃたんだろう。人間大の手のひらを返すと、元のサイズのままのピンクの凹凸が残っている。
「なんか変じゃないですか?」
「変……何が変だと、思うんですか」
手のひらの部分に肉球があって、そこから先の指の腹の部分は手の甲側と同じ黒い毛並みだ。変な感じがするのはこの肉球のせい、きっと。
「ここ、指の部分が余白になっちゃってますよね?肉球も指のところまで伸ばしてください」
「必要でしょうか」
「は?患者が希望してるんだからやってください。これじゃあおかしいです」
「はぁ、わかりました」
肉球は指先まで延長されて、人の手形そっくりに膨れていた。こっちのほうがずっといい。でもピンクの面積が広くなったせいでずいぶん手が大きく見える。顔と体に対してアンバランスな気がしてきた。
「あの、足も長くしてください。そもそもこれじゃ、ペダルに足が届かない」
「ペダル?自転車、にでも乗るんですか」
「ピアノ」
「ピアノを、弾きたいんですか?じゃあ最初から猫に、なんかならず、ピアノの練習をたくさん、すればよかったでしょうに」
コイツにお説教をされる筋合いはない。わざわざ余計な忠告をしてくる醜いカエルが忌々しい。苛つきを隠しもせずに舌打ちをした。
「あ、腕も必要か。腕も長く。元の長さにしてください」
腕も足も、人間だった頃と同じ長さになった。
「よかったらこれ着て、ください」と、カエルが目を逸らしながら病院の入院着を手渡してくる。人間の等身になったから、裸だと気まずいってこと?とんだすけべガエルだな。
仕方なく無機質な水色のワンピースを着た。袖から伸びる細長い腕は黒い毛に覆われてフワフワで、服を着た途端にムダ毛に見えて、咲耶ちゃんの二の腕を思い出した。
「あの、ここって脱毛もやってます?」
「やっては、いますけど」
「それも。全身でお願いします」
「正気ですか?」
全ての毛がなくなってすべすべになった。でもヒゲは残っている。感覚器官だから必要なんだって。黒猫の地肌ってこんな色だったんだ。
鏡を見る。咲耶ちゃんほどじゃないが綺麗な肌、指も腕も足もすらりとしている。うん、いい感じ。
「私が初日に着てきた服、ここにあるんじゃないですか?」
「えぇ、あります。ありますよ」
「返してください。それ着て帰るんで」
久しぶりに人間用の服を着た。パーカーとスウェットに厚底のスニーカー、しっくりくるなぁ。キャップを目深に被って、小顔に見えるように平たいままのマスクをつけようとしたけど、耳が頭の上にあるからどちらも上手くいかない。
「耳も顔の横に戻して」
「ぐふっ、へへへっ」
カエルは突然むせ返って笑い出した。
「何?」
「いいえなんでも、ありません。耳を顔の横にですね」
三角の耳はちょうど人間と同じ位置、顔の左右に移動した。これでキャップも被れるしマスクもつけられる。
髪なんかウィッグで後からどうにでもなるし、目元しか出ていなければ人間に見間違えるんじゃないかな。
鏡に映る黒猫の目は満月みたいに黄色くて瞳孔がまんまるで大きい。カラコンいらずで助かる。
「じゃあ帰ります」
「はいどうも、お大事に」
どういう原理か知らないけど、いつのまにか私はすっかり言葉を話せるようになっていた。これでまた咲耶ちゃんに近づいた。あのカエルは本当に腕がいいのかもしれない。
立ち上がってクリニックの玄関に向かう。久しぶりの視線の高さにちょっとフラついてしまって心配になったけど、廊下の先の扉に着く頃には感覚を取り戻して普通になった。順調じゃん。
この調子でピアノの感覚も思い出せれば、きっとすぐに咲耶ちゃんに追いつける。しかもただのピアニストじゃなくて、猫のピアニスト。きっと私の方が話題になる。売れる。
長い肉球の指を引き戸にかけて、ガラリと勢いよく開けた。外はすっかり夜になっていた。
薄暗い路地に踏み出す。向かいから歩いてくるサラリーマン風の男の人の足音に、つい視線を向けてしまった。
くたびれてでっぷり太ったタヌキみたいなおじさんだ。タイミング悪く彼もこちらを見て、しっかりと目が合ってしまった。
なんか気まずいし、夜道で男の人にジロジロ見られるのって怖い。服を着たせいで人間の感覚が戻りつつあるのかも。
無視して通り過ぎようとしたけれど、タヌキは立ち尽くしてこちらを見ている。変な気でも起こされていたらどうしよう。猫の力じゃ人間に敵わない。
「ひっ、ひっ、ひぃ……っ!」
タヌキは情けなくヒィヒィ言って突然腰を抜かした。どすりと尻もちをつき、青白い顔に脂汗を流して私を見上げる。
「ば、ば、バケモノ……!!」
「は?」
呆気に取られる私から目を逸らさず、タヌキは後退りして走って逃げた。
「はぁ……」
ため息が出る。
あぁいう貧乏そうな男って、整形女子に抵抗あるもんね。こっちが可愛いからって気後れしてるだけのくせに化け物とか親不孝とか、いちいちうるせーんだよ。
気を取り直してピアノ教室に向かう。まだ十九時だから、きっとレッスン中だろう。タクシーで行けば着く頃には先生も手が空いているはず。
天野ピアノ教室のインターフォンを押すと、返答は男の人の声だった。
「急にすみません、見学希望なんですけど」
「あぁ、ちょうど生徒さんを見送るところなので、ほんの少しだけ待ってもらえますか?」
「わかりました!」
声の主はたぶん、一彦くんだ。
今は先生をやってるのかな。咲耶ちゃんの付き添いをしてたのもそのせいかな。
今なら優しくピアノを教えてもらえるかもしれない。スウェットからはみ出した尻尾がご機嫌に揺れた。
玄関が開くと小さい子供が二人と一彦くんが出てきた。「ありがとうございました」「はい、また来週ね」和やかに別れの挨拶を交わしている。
お仕事の邪魔をしちゃいけないから、門の壁に背をもたれてやり過ごす。子供達が走り去っていくのを俯いてやり過ごした。
「お待たせしました」
声をかけられて、門からひょこりと一彦くんの目の前に飛び出す。それからぺこりと一礼をした。
「岩永真桜です。昔ここでお世話になってたんですけど。あ、母も最近来ているみたいなんですけど。私もまた通いたくて……」
「…………」
返事がなくて、玄関の方を見上げる。一彦くんは固まっていた。目が合ってもうんともすんとも言わない。
「あの……?」
みるみるうちに一彦くんは表情を歪めて、肩で息をした。あんなに変な顔をしても、イケメンはイケメンなんだなと呑気なことを考えてしまう。
「お引き取りください」
「え」
声を震わせてそれだけ言うと、一彦くんは素早く扉を閉め、ガチャンガチャンガチっと鍵とドアロックまでかけられた音がする。それからドタバタと走り去る大きな足音が聞こえてきた。
ぽつんと家の前に立ち尽くす。
きっと、名前を名乗ってしまったせいだ。そうだ、忘れていた。私はここを辞めるとき、レッスンをサボったのを先生に怒られて、癇癪を起こして辞めたんだった。十年以上も前のことだけど、きっと辞め方が悪かったから覚えられていたんだ。
違う、本当は分かっている。今のは私の見た目を気味悪がる人の目だ。慣れっこだから大丈夫、自分が自分を好きでいれば大丈夫。人に褒められるためにこの姿になったわけじゃないから。気にしない。気にしない。
心臓がバクバクと跳ねる。ゆっくり後ずさって、上がる心拍数を誤魔化すように駆け出した。ピアノ教室から逃げるように。
ピアノじゃなくても、バレエでも絵画でもスケートでも何でもいい。頑張ってみればよかった。人間でいればよかった。人間に戻りたい。
人目に付くのが怖くて、なるべく暗い道を選んで走った。真っ暗なうえに、ずっと涙があふれてきて、何も見えない。
もうこの姿じゃ家に上げてもらえるかも分からない。ママは整形が嫌いだから、気持ち悪いって追い出されるかも。
パパはママの味方だからきっと何も言わない。
でもできたら謝りたい。咲耶ちゃんみたいになれなくてごめんねって。これからはなにか、まだ決まってないけど、大学とか就活とか真面目にやって、誰かに愛されるように頑張って、二人を安心させるから。
早く二人に会いたかった。焦る気持ちを原動力に、とにかく早く、獣の速さで坂を駆け降りた。
飛び出した道は広くて明るい。右から走ってきたトラックのヘッドライトがすぐそこにあったからだ。終わった。諦めて宙に浮いた体から力を抜く。
生ぬるい風に桜が舞った。
「岩永さん、お疲れ様でした」
名前を呼ばれて気がつくと、見覚えのある天井だった。
差し出された鏡に写る自分の姿を確認する。あぁそうだ、切開した目頭を蒙古襞形成でちょっと元に戻そうとして、ここに来たんだった。
こんなに長くて縁起の悪い夢を見るなんて本当に、なんだかどっと疲れちゃった。
ほんのちょっと丸みを帯びた目頭に、ほっと息をつく。
「それじゃあ、お世話になりました」
「はい、お大事に」
病院を出て、右足と左足でゆっくり交互に地面を踏む。普通に歩ける。早歩きも全然平気。
一五八センチからの視界も、ストーンがたくさんついたネイルも、帽子もマスクも何にも違和感がない。
正真正銘、人間の私だ。本当に全部夢だったんだ。スキップしそう。
私は、美容整形は悪くない選択だと思う。否定的な意見もまだまだたくさんあるけど、可愛くなろうっていう気持ちでやってるんだからこれも立派な努力のうち。
でもあんな夢を見てしまったせいか、新しい気持ちも芽生えていた。見た目意外の努力もしてみてもいいかもって。
頑張ってみて上手くいかなくても、きっと頑張ったことに意味や価値があるんだろう。
だってせっかく、人間に戻れたんだもん。どうせなら、努力をしてみたい。
なんでもよかったけど、やっぱりピアノかな。ピアノの夢がきっかけで、そういうふうに思えたんだし。
私はちゃんと人間で、咲耶ちゃんと一彦くんがピアノ教室で先生をやってるのも、ただの夢。だから今度は大丈夫。気を取り直して天野ピアノ教室に向かう。今度は昔みたいに投げ出したりしない。
教室に続く坂を上っていると、向こうから女の人が歩いてきた。
「あれっ、茉央ちゃん!?久しぶり!」
「あ、……咲耶ちゃん」
現実の咲耶ちゃんだった。
夢の中では顔が見られなかったから、直視するのは数年ぶりだ。
十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人。
お客さんからよく聞くことわざだ。子どもの頃がすごくても、大人になるにつれてだいたい人並みになるって意味らしい。だから咲耶ちゃんも、今頃ただの人になってると思ってた。
咲耶ちゃんは、天使から女神になっていた。
髪も肌も透けるくらい色素が薄くて、大きな目は長いまつ毛に縁取られている。細くて形のいい鼻のすぐ近くに横長い半月型の口があって、桃色の唇から白くて綺麗な歯並びが少しだけ見えている。
誰だってそんな顔に生まれたらいつでも幸せそうに笑っていられると思う。
あぁ思い出した。この顔は、忘れようとして忘れてたんだった。
私は咲耶ちゃんが大嫌い。目が合うと馬鹿にされてる気分になるから。
「小学校の卒業式以来かな」
「そうかも。じゃあ、六年ぶりだ」
女神様は完璧な笑顔を私に向ける。六年前の姿と今の姿、どっちが本性なのか見定めるように。咲耶ちゃんは女神様に出世したけど、私はどうだろう。この人の目にはどう写るんだろう。冷や汗がこめかみを伝う。
「あの頃から茉央ちゃん、全然変わらなくて安心した」
何も言えなかった。良くて綺麗になった、悪くても雰囲気変わったねくらいは言ってくれると思ってた。私が時間とお金をかけて作ってきたこの顔は、咲耶ちゃんにとって些細なことなんだ。
唇を噛み締めて下を向くと、彼女の靴が目に入った。白いぺたんこの靴には傷ひとつなくて、ピンク色の柔らかそうなワンピースは膨らんだお腹を優しく覆っていた。
斜めにかけたポシェットにはマタニティマークがぶら下がっている。
「昔も二人でよくここを歩いたよね。懐かしいなぁ」
咲耶ちゃんは陶器みたいな白くて細長い左手で口元を隠してくすくす笑った。薬指には銀色のピカピカの指輪が嵌っていて、大粒のダイヤモンドたちが咲耶ちゃんを祝福するように光っている。
「咲耶ちゃんも、変わらないね」
昔からそう、嬉しいことがあるとこうやって控えめに笑う。咲耶ちゃんにとって私は今も昔も変わらない醜い化け物のまま。
それが嬉しいことなんだ。違うか。この子はきっとそんなに邪悪じゃない。私と違って。
あなたも私も、あの頃のまま。
「じゃあ、私こっちだから。ばいばい、咲耶ちゃん」
「うん、またね!」
花が開くようにふわりと微笑んで、ひらひらと手を振って背を向けた。
私はあの春の日を思い出す。咲耶ちゃんを見てると無性に気分が悪くなる。咲耶ちゃんが私を悪者にする。
私の横を通り過ぎて、ゆっくりと坂を下りる彼女に両腕を伸ばす。
指先が背中に届くまであと数センチの隙間を、桜をのせて春風が吹き抜けた。
さよなら咲耶ちゃん、私も幸せになるね。
