玲華が学校を休んでから、一ヶ月が経とうとしていた。
相変わらず、玲華からの連絡はない。
最初のうちは、毎日のようにトーク画面を確認していた。通知が来るたびに期待して、画面を見るたびに落胆した。
けど、いつからだろう。
通知が鳴っても、すぐには画面を見なくなった。
玲華じゃない、と心の中で思う癖がついてしまった。
そう思うことに慣れてしまった自分が、少しだけ嫌だった。
担任の先生に尋ねても、詳しいことは教えてもらえなかった。学校として対応を進めている、と。それだけだった。
私は何度も、玲華の家に行こうかと考えた。
けれど、行ったら玲華に迷惑がかかると思い、断念した。
お母さんからの扱いが悪化してしまうとおもったから。
考えれば考えるほど、何もできなかった。
私はまだ、自分では何もできない身だと実感した。
大人に頼ることしか方法がわからなかった。
そんなある日の放課後だった。
ポケットにしまっていたスマホが震えた。
画面には、玲華の名前が表示されていた。
びっくりしてスマホを落としそうになってしまった。
『今日、ちょっと話せる? 駅前のファミレスに来てほしい』
私は慌てて立ち上がった。
行けるに決まってるじゃん。
そう思って、私は『わかった。すぐ向かう』と返した。
すぐに返事が来た。
一ヶ月連絡がつかなかったのが嘘みたいだ。
『一人で来てよ』
当たり前じゃん。
私はスマホをしまい、帰り支度を始めた。
ファミレスに着いた頃には、空がすっかり曇っていた。
朝のニュースで夕方から豪雨になると予想されていたから傘を持ってきていた。
駅前の通りは、足早に人が行き交っている。傘を持っている人もちらほらいた。
自動ドアの前で、私は一度立ち止まった。
ガラス越しに店内を覗く。
奥の席に、玲華と思われる姿が見えた。
少し俯いている。
不意に顔をあげたのが目に入った。
……玲華?
息が止まった。
一ヶ月ぶりに見る玲華は、前よりも心配になる風貌になっていた。。
頬は痩せ、髪も以前ほどきれいに整えられていない。制服ではなく、よれたパーカーを着ていた。
それでも、間違えるはずがなかった。
玲華だ。
やっと会えた。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
ずっと会いたかった。
連絡がほしかった。
元気なのか知りたかった。
ちゃんとご飯を食べているのか、眠れているのか、聞きたいことがたくさんあった。
どうして、私に何も言ってくれなかったんだろう。
何か事情があったに違いない。
それを確かめるために私はドアを押した。
「……未優」
玲華が私に気がついた。
声に覇気がない。
その声をきいて、身体が強張った。
私は恐る恐る席に近づいた。
「玲華……久しぶり。あの、私、ずっと心配してて……」
「座って」
玲華が私の言葉を遮るように短く言った。
その声に、私は口を閉じた。
ごくり、と唾が喉に進んだ。
椅子を引いて座る。
テーブルの上には、手つかずの水が二つ置かれていた。
誰も何も話さない。
耐え難いほどの重い空気が続く。
店内では、ほかの客たちが楽しそうに談笑していた。食器の触れ合う音も、注文を取る店員の声も、どこか違う世界のように思えた。
私たちの席だけ、静かだった。
小さい箱に入れられた気分だ。
「……玲華、今までどこにいたの?」
私から切り出した。
聞きたかったことが、口からこぼれた。
玲華は黙ったままだ。
ただ、静かに私を見ている。
「連絡、ずっと返ってこなかったから……。私、何度も――」
突然、玲華が勢いよく立ち上がった。
パァンッ。
乾いた音が、店内に響いた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
左頬が熱い。
遅れて、じんじんとした痛みが広がっていく。
私は叩かれた頬に恐る恐る手で触れた。
玲華の手が、宙で震えている。
彼女の目には、涙が溜まっていた。
「……なんで言ったの!?」
張り詰めた声だった。
怒鳴っているのに、今にも泣き出しそうな声。
私は何も言えなかった。
「なんで、先生に言ったの!?」
「……え?」
「とぼけないでよ! 家のこと! お母さんのこと! なんで話したの!?」
「ち、違う、私は……」
「何が違うの!?」
玲華の声が大きくなる。
周囲の席から、ちらりと視線が向けられた。
店員さんが慌ててこちらに駆け寄ってくるのが視界の端に映った。
それでも、玲華は気にせず、続けた。
「私は、玲華を助けたくて……」
なんとか絞り出した言葉だった。
本当に、それしかなかった。
玲華が苦しんでいると知って、何とかしたかった。
私一人では何もできないから、先生に話した。
そう言いたかった。
けれど、玲華はまた私の言葉を遮った。
「あんたのせいで住むところなくなったんだけど」
頭の中が、真っ白になった。
「……え?」
「児相に連絡いって、お母さんと隔離されるしさ。お母さん、学校から連絡きたあと、包丁持って私に襲いかかってきたし、ほんと大変だったんだけど。意味わかんない施設連れてかれて、カウンセリングとかもされるしさ。最悪なんだけど!」
玲華は息を継ぐ間もなく、言葉を吐き出した。
「住むところもなくなったんだけど。バイト、親の承諾書ないとできないから、これ以上増やせないわけ。なんなら学校からコンビニに連絡いって辞めさせられたし。ほんと最悪なんだけど」
現実味のない単語が次々と降り注がれた。
「先輩に泊まらせてもらってるけど、あいつ私の身体触ってくるからキモいし、ほんと最悪なんだけど。どうしてくれんの」
最後の言葉は、震えていた。
玲華の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
私は、何も言えなかった。
住むところがない。
バイトを辞めさせられた。
先輩の家でも、安心して過ごせない。
私が知らなかったことばかりだった。
いや、違う。
知らなかったんじゃない。
私は、想定していなかった。。
先生に話せば、きっと何とかしてくれる。
大人に相談すれば、玲華は救われる。
そう信じていた。
その先で玲華が苦しむことになるかもしれないなんて、私は考えたことがあっただろうか。
玲華がどうしたいのか、本人に聞いただろうか。
全部、私の独りよがりな思いばかりだったの…?
「……ごめん」
ようやく出てきた声は、情けないほど小さかった。
玲華は笑った。
笑ったというより、壊れたように口元を歪めた。
「……いいよね、未優は」
その声には、さっきまでの怒りとは違う何かが混じっていた。
「お母さんもお父さんも仲良くてさ、優しいお兄ちゃんもいて、みんなから愛されてるじゃん。今まで人生で苦労してきたことなんてなかったでしょ」
「……」
「バイトしなくたってお小遣いもらえるもんね。美味しいごはんが用意されてるもんね。可愛い洋服もたくさんあって、メイクとか始めちゃってさ。全力で女子高生満喫してんじゃん」
私は俯いた。
私にとっては、いつもと変わらない日常。
私にとっては、特別でも何でもなかったもの。
でも、玲華は、違ったのかな。
「文句なしの生活でしょ。彼氏だってできそうじゃん。B組の佐藤と仲良さげだもんね」
「……全部、そんなこと、ないよ」
なんとか口から出た言葉だった。
でも、言ってから後悔した。
そんなことはない。
その言葉は、玲華の苦しみを否定するものになってしまう。
私だって悩みがないわけじゃない、と言いたかったのかもしれない。
けれど、今の玲華にそんなことを伝えて、何になるのだろう。
私の悩みなんて玲華からしたら贅沢なものかもしれない。
玲華が、私をまっすぐに見据えた。
その目には、軽蔑と、悲しみと、どうしようもない怒りが写っていた。
「あんたに私の気持ちなんてわかんないよ」
声がかすれていた。
「わかってもらった気になられたら最悪」
私は息を呑んだ。
「……あんたなんか、大っ嫌い」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた気がした。
玲華は、もう私を見ていなかった。
頬を伝う涙を拭うこともなく、ただ俯いていた。
私は何か言わなければならなかった。
謝らなきゃ。
でも、何を?
ごめんね。
助けたかったの。
知らなかったの。
そんな言葉を並べたところで、玲華が失ったものは戻ってこない。
私がどれだけ後悔したって、なかったことになんかならない。
それでも、黙っていることもできなかった。
「……私、本当に、玲華のことが心配だったんだよ」
やっとの思いで、それだけを伝えた。
玲華は顔を上げなかった。
返事もなかった。
目の前にいるのに、ひどく遠かった。
中学の頃から、ずっと一緒だった。
同じクラスになって喜んで。
お昼を一緒に食べて。
くだらない話をして、笑い合って。
玲華の好きなものも、苦手なものも、たくさん知っているつもりだった。
なのに。
私は、玲華の本当の気持ちを、何も知らなかった。
「……帰る」
玲華は、椅子を引いて立ち上がる。
私はあとを追うことができなかった。
ただしばらく呆然とその場にいることしかできなかった。
「あの、お客様…」
店員さんが気まずそうに声をかけてきた。
私は我に返って、ごめんなさい、といって店を飛び出した。
ドアを開けると、雨が降っていた。
来たときよりも、ずっと強い雨だった。
傘を持っていたけど私は、そのまま歩き出した。
冷たい雨粒が、髪を濡らしていく。
頬がまだ痛かった。
でも、それ以上に、胸が痛かった。
玲華の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
『あんたに私の気持ちなんてわかんないよ』
『わかってもらった気になられたら最悪』
『あんたなんか、大っ嫌い』
私は、玲華を助けたかった。
本当に、それだけだった。
玲華が苦しんでいるのを知って、何とかしてあげたかった。
でも…玲華が何を望んでいるのか、何を恐れているのか。
どんな助けを求めているのか。
私は、一度でもちゃんと考えたっけ。
雨が目に入った。
視界が滲んだ。
泣いているのか、雨のせいなのか、わからなかった。
私は足を止めた。
このまま歩いていけば、いつもの家に帰れる。
温かいご飯があって、心配してくれる家族がいて、明日も変わらない日常が待っている。
玲華には、それがなかった。
そのことを知っていたのに。
知っていたからこそ、私は助けたかったのに。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
わからなかった。
ただ、雨だけが降り続いていた。
その日以来、玲華とは会っていない。
あとになって、玲華が学校を辞めたと聞いた。
先輩の家に身を寄せていることも、学校には戻らないつもりだということも、全部、人づてに知った。
私は何度もメッセージを打ちかけた。
『ごめんね』
『元気にしてる?』
『一度だけでいいから、話せないかな』
けれど、どの言葉も送信できなかった。
謝ることさえ、私のためなのかもしれないと思った。
玲華に許してほしい。
自分は間違っていなかったと思いたい。
あの頃の二人に戻りたい。
そんな願いを、玲華に押しつけてしまうだけなのかもしれない。
だから、私は何も送らなかった。
何もできなかった。
私は、玲華を助けたかった。
ただ、それだけだったのに。
その言葉を繰り返すたび、胸の奥が鈍く痛んだ。
あの日の私は、正しかったのだろうか。
それとも、間違っていたのだろうか。
どれだけ考えても、答えは見つからなかった。
相変わらず、玲華からの連絡はない。
最初のうちは、毎日のようにトーク画面を確認していた。通知が来るたびに期待して、画面を見るたびに落胆した。
けど、いつからだろう。
通知が鳴っても、すぐには画面を見なくなった。
玲華じゃない、と心の中で思う癖がついてしまった。
そう思うことに慣れてしまった自分が、少しだけ嫌だった。
担任の先生に尋ねても、詳しいことは教えてもらえなかった。学校として対応を進めている、と。それだけだった。
私は何度も、玲華の家に行こうかと考えた。
けれど、行ったら玲華に迷惑がかかると思い、断念した。
お母さんからの扱いが悪化してしまうとおもったから。
考えれば考えるほど、何もできなかった。
私はまだ、自分では何もできない身だと実感した。
大人に頼ることしか方法がわからなかった。
そんなある日の放課後だった。
ポケットにしまっていたスマホが震えた。
画面には、玲華の名前が表示されていた。
びっくりしてスマホを落としそうになってしまった。
『今日、ちょっと話せる? 駅前のファミレスに来てほしい』
私は慌てて立ち上がった。
行けるに決まってるじゃん。
そう思って、私は『わかった。すぐ向かう』と返した。
すぐに返事が来た。
一ヶ月連絡がつかなかったのが嘘みたいだ。
『一人で来てよ』
当たり前じゃん。
私はスマホをしまい、帰り支度を始めた。
ファミレスに着いた頃には、空がすっかり曇っていた。
朝のニュースで夕方から豪雨になると予想されていたから傘を持ってきていた。
駅前の通りは、足早に人が行き交っている。傘を持っている人もちらほらいた。
自動ドアの前で、私は一度立ち止まった。
ガラス越しに店内を覗く。
奥の席に、玲華と思われる姿が見えた。
少し俯いている。
不意に顔をあげたのが目に入った。
……玲華?
息が止まった。
一ヶ月ぶりに見る玲華は、前よりも心配になる風貌になっていた。。
頬は痩せ、髪も以前ほどきれいに整えられていない。制服ではなく、よれたパーカーを着ていた。
それでも、間違えるはずがなかった。
玲華だ。
やっと会えた。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
ずっと会いたかった。
連絡がほしかった。
元気なのか知りたかった。
ちゃんとご飯を食べているのか、眠れているのか、聞きたいことがたくさんあった。
どうして、私に何も言ってくれなかったんだろう。
何か事情があったに違いない。
それを確かめるために私はドアを押した。
「……未優」
玲華が私に気がついた。
声に覇気がない。
その声をきいて、身体が強張った。
私は恐る恐る席に近づいた。
「玲華……久しぶり。あの、私、ずっと心配してて……」
「座って」
玲華が私の言葉を遮るように短く言った。
その声に、私は口を閉じた。
ごくり、と唾が喉に進んだ。
椅子を引いて座る。
テーブルの上には、手つかずの水が二つ置かれていた。
誰も何も話さない。
耐え難いほどの重い空気が続く。
店内では、ほかの客たちが楽しそうに談笑していた。食器の触れ合う音も、注文を取る店員の声も、どこか違う世界のように思えた。
私たちの席だけ、静かだった。
小さい箱に入れられた気分だ。
「……玲華、今までどこにいたの?」
私から切り出した。
聞きたかったことが、口からこぼれた。
玲華は黙ったままだ。
ただ、静かに私を見ている。
「連絡、ずっと返ってこなかったから……。私、何度も――」
突然、玲華が勢いよく立ち上がった。
パァンッ。
乾いた音が、店内に響いた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
左頬が熱い。
遅れて、じんじんとした痛みが広がっていく。
私は叩かれた頬に恐る恐る手で触れた。
玲華の手が、宙で震えている。
彼女の目には、涙が溜まっていた。
「……なんで言ったの!?」
張り詰めた声だった。
怒鳴っているのに、今にも泣き出しそうな声。
私は何も言えなかった。
「なんで、先生に言ったの!?」
「……え?」
「とぼけないでよ! 家のこと! お母さんのこと! なんで話したの!?」
「ち、違う、私は……」
「何が違うの!?」
玲華の声が大きくなる。
周囲の席から、ちらりと視線が向けられた。
店員さんが慌ててこちらに駆け寄ってくるのが視界の端に映った。
それでも、玲華は気にせず、続けた。
「私は、玲華を助けたくて……」
なんとか絞り出した言葉だった。
本当に、それしかなかった。
玲華が苦しんでいると知って、何とかしたかった。
私一人では何もできないから、先生に話した。
そう言いたかった。
けれど、玲華はまた私の言葉を遮った。
「あんたのせいで住むところなくなったんだけど」
頭の中が、真っ白になった。
「……え?」
「児相に連絡いって、お母さんと隔離されるしさ。お母さん、学校から連絡きたあと、包丁持って私に襲いかかってきたし、ほんと大変だったんだけど。意味わかんない施設連れてかれて、カウンセリングとかもされるしさ。最悪なんだけど!」
玲華は息を継ぐ間もなく、言葉を吐き出した。
「住むところもなくなったんだけど。バイト、親の承諾書ないとできないから、これ以上増やせないわけ。なんなら学校からコンビニに連絡いって辞めさせられたし。ほんと最悪なんだけど」
現実味のない単語が次々と降り注がれた。
「先輩に泊まらせてもらってるけど、あいつ私の身体触ってくるからキモいし、ほんと最悪なんだけど。どうしてくれんの」
最後の言葉は、震えていた。
玲華の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
私は、何も言えなかった。
住むところがない。
バイトを辞めさせられた。
先輩の家でも、安心して過ごせない。
私が知らなかったことばかりだった。
いや、違う。
知らなかったんじゃない。
私は、想定していなかった。。
先生に話せば、きっと何とかしてくれる。
大人に相談すれば、玲華は救われる。
そう信じていた。
その先で玲華が苦しむことになるかもしれないなんて、私は考えたことがあっただろうか。
玲華がどうしたいのか、本人に聞いただろうか。
全部、私の独りよがりな思いばかりだったの…?
「……ごめん」
ようやく出てきた声は、情けないほど小さかった。
玲華は笑った。
笑ったというより、壊れたように口元を歪めた。
「……いいよね、未優は」
その声には、さっきまでの怒りとは違う何かが混じっていた。
「お母さんもお父さんも仲良くてさ、優しいお兄ちゃんもいて、みんなから愛されてるじゃん。今まで人生で苦労してきたことなんてなかったでしょ」
「……」
「バイトしなくたってお小遣いもらえるもんね。美味しいごはんが用意されてるもんね。可愛い洋服もたくさんあって、メイクとか始めちゃってさ。全力で女子高生満喫してんじゃん」
私は俯いた。
私にとっては、いつもと変わらない日常。
私にとっては、特別でも何でもなかったもの。
でも、玲華は、違ったのかな。
「文句なしの生活でしょ。彼氏だってできそうじゃん。B組の佐藤と仲良さげだもんね」
「……全部、そんなこと、ないよ」
なんとか口から出た言葉だった。
でも、言ってから後悔した。
そんなことはない。
その言葉は、玲華の苦しみを否定するものになってしまう。
私だって悩みがないわけじゃない、と言いたかったのかもしれない。
けれど、今の玲華にそんなことを伝えて、何になるのだろう。
私の悩みなんて玲華からしたら贅沢なものかもしれない。
玲華が、私をまっすぐに見据えた。
その目には、軽蔑と、悲しみと、どうしようもない怒りが写っていた。
「あんたに私の気持ちなんてわかんないよ」
声がかすれていた。
「わかってもらった気になられたら最悪」
私は息を呑んだ。
「……あんたなんか、大っ嫌い」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた気がした。
玲華は、もう私を見ていなかった。
頬を伝う涙を拭うこともなく、ただ俯いていた。
私は何か言わなければならなかった。
謝らなきゃ。
でも、何を?
ごめんね。
助けたかったの。
知らなかったの。
そんな言葉を並べたところで、玲華が失ったものは戻ってこない。
私がどれだけ後悔したって、なかったことになんかならない。
それでも、黙っていることもできなかった。
「……私、本当に、玲華のことが心配だったんだよ」
やっとの思いで、それだけを伝えた。
玲華は顔を上げなかった。
返事もなかった。
目の前にいるのに、ひどく遠かった。
中学の頃から、ずっと一緒だった。
同じクラスになって喜んで。
お昼を一緒に食べて。
くだらない話をして、笑い合って。
玲華の好きなものも、苦手なものも、たくさん知っているつもりだった。
なのに。
私は、玲華の本当の気持ちを、何も知らなかった。
「……帰る」
玲華は、椅子を引いて立ち上がる。
私はあとを追うことができなかった。
ただしばらく呆然とその場にいることしかできなかった。
「あの、お客様…」
店員さんが気まずそうに声をかけてきた。
私は我に返って、ごめんなさい、といって店を飛び出した。
ドアを開けると、雨が降っていた。
来たときよりも、ずっと強い雨だった。
傘を持っていたけど私は、そのまま歩き出した。
冷たい雨粒が、髪を濡らしていく。
頬がまだ痛かった。
でも、それ以上に、胸が痛かった。
玲華の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
『あんたに私の気持ちなんてわかんないよ』
『わかってもらった気になられたら最悪』
『あんたなんか、大っ嫌い』
私は、玲華を助けたかった。
本当に、それだけだった。
玲華が苦しんでいるのを知って、何とかしてあげたかった。
でも…玲華が何を望んでいるのか、何を恐れているのか。
どんな助けを求めているのか。
私は、一度でもちゃんと考えたっけ。
雨が目に入った。
視界が滲んだ。
泣いているのか、雨のせいなのか、わからなかった。
私は足を止めた。
このまま歩いていけば、いつもの家に帰れる。
温かいご飯があって、心配してくれる家族がいて、明日も変わらない日常が待っている。
玲華には、それがなかった。
そのことを知っていたのに。
知っていたからこそ、私は助けたかったのに。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
わからなかった。
ただ、雨だけが降り続いていた。
その日以来、玲華とは会っていない。
あとになって、玲華が学校を辞めたと聞いた。
先輩の家に身を寄せていることも、学校には戻らないつもりだということも、全部、人づてに知った。
私は何度もメッセージを打ちかけた。
『ごめんね』
『元気にしてる?』
『一度だけでいいから、話せないかな』
けれど、どの言葉も送信できなかった。
謝ることさえ、私のためなのかもしれないと思った。
玲華に許してほしい。
自分は間違っていなかったと思いたい。
あの頃の二人に戻りたい。
そんな願いを、玲華に押しつけてしまうだけなのかもしれない。
だから、私は何も送らなかった。
何もできなかった。
私は、玲華を助けたかった。
ただ、それだけだったのに。
その言葉を繰り返すたび、胸の奥が鈍く痛んだ。
あの日の私は、正しかったのだろうか。
それとも、間違っていたのだろうか。
どれだけ考えても、答えは見つからなかった。
